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ムラ社会の構造的問題とは http://www.asyura2.com/09/nametoroku5/msg/784.html
見落とされているのは、政権交代と政治とカネの追求の関連である。昨春の西松献金事件は、「国策捜査」とも言われ、政権交代から国民の関心を政治とカネにすり替える、政治テロの役割を果たした。民主党は、企業団体献金の全面禁止を提案し、小沢代表は政権交代を優先して辞任し、鳩山内閣が発足した。 ところが政権交代の反動で、その主役二人に、野党・マスコミの政治攻撃が加えられている。検察官僚・野党・マスコミの小沢・鳩山タタキは、政治的なイジメ、国民主権・民主主義への攻撃に他ならない。小沢は、民主党大会で東京地検の手法を、民主主義への攻撃と指摘した。 米調査分析会社、ユーラシア・グループは、今年注目すべき世界の指導者10人を公表。民主党の小沢一郎幹事長は中国の温家宝首相、米国のバラク・オバマ大統領に次ぐ3位で、世界的にも注目されている。日本の世論と違うのは何故か。 この政治とカネ事件は、検察の偶発的・恣意的な対応としても、それを容認するマスコミなど、社会のあり方が問われている。世論調査などで、小沢への不信が流布されるのは、国民が、世紀的な不況の危機を捉え切れず、戦前からの集権支配の下で、政治的に未熟だからだ。 そして政治とカネでは、法を守る検察への”暗黙の信頼”がある。それは、お上依存と表裏で、戦前からの集権体制に根源がある。小沢攻撃は、国民主権に向けられている。官僚の裁量行政は、検察だけではない。戦前の統帥権を抱えた政治体制は、敗戦に当たって誰も戦争の責任を取らず、歴史問題を現在に残している。足利事件など、えん罪事件も同じ課題だ。 国会やマスコミの論議も、法の解釈を裁量している。予算には決算・会計検査の検証があるが、立法後の政令を始めとする行政は、裁量に任されているのだ。調書を取るのは、警察・検察に限らない。税務署・労働基準監督署など多岐に亘っている。 官僚主導とは、裁量行政を主権者国民の上に置くものだ。教育基本法と文科省の指導要領を思い起こす。現職の首相、立法府議員の鳩山が、検察に「上申書」を書き、不自然と思う人は少ないのではないか。根は深く、国会に、法と裁量行政を検証する仕組みが必要だ。取り調べの可視化も、弁護士の同席義務化も対症療法に過ぎない。 この官僚主導体制を、どうチェンジするのか。政治は、国の舵取りだ。政治の説明責任は、政治とカネに矮小化してはならない。先日の朝日新聞で、山口二郎は、司法の場ではなく、政治の場の闘いを求めていた。国会で、この問題の論点と解決策を示すべきではないだろうか。 天皇と習近平中国副主席の会見では、羽毛田信吾宮内庁長官の発言を、小沢民主党幹事長が批判した。これに野党とマスコミは、憲法解釈を含め、天皇の国事行為から政治利用として反論を加えた。 憲法の条文は、その成立の歴史からも国民に身近なものではない。だが自然に一読し条文の流れから全体を捉えれば、象徴天皇と国民主権は政治体制そのものである。この象徴天皇制に、羽毛田長官が、非政治性、中立性・公平性という抽象的な政治概念を組み入れることこそ、恣意的な政治利用、官僚の政治介入なのだ。 政権交代は、日本再生の転機と捉えたい。聖徳太子の十七条憲法、天正少年使節が西欧に開いた中世安土桃山文化、坂本龍馬の船中八策が描く近代日本、石橋湛山の小国主義、周恩来と冷戦終結会談、小沢一郎の政権交代実現という歴史の流れだ。 議会制民主主義下の政治と法律、行政・立法・司法は、三権分立に加え三位一体で結ばれ、立法が最上位にある。国権の最高機関は、議会であり、議員を選ぶ国民の主権が基礎にあるのだ。政治主導は、官僚の裁量行政に対し優位に立たねばならない。 42歳の知り合いの女性は、テレビで小沢に接し、人間としての生き方に学び励まされ、健康な様子に安心すると言う。81歳の無党派の私も、支持者を前に「毎度お騒がせしています」と語る、小沢の笑顔に日本の再生を託している。 小沢一郎の笑顔は、日本の未来を照らしている。鳩山首相は、戦後の政治家には珍しく誠実に対応し、戦前の井戸塀議員のように清廉さが伺える。宇宙人鳩山の粘り腰は、国民の活力を発揮させるだろう。
阿修羅のコメント欄に民主党を支持する人たちの怒涛のような小沢擁護論が投稿されるのを見て、かつての自民党を支持していた?ネトウヨと呼ばれる人たちの行動との類似性を感じてる人が結構存在するのではないだろうか? 中には理路整然と主張し、おいら自身もなるほどと納得させられる投稿も多少は認められるが、大半は誹謗中傷や差別発言、そして印象操作であると感じる。これらには己の主張も、反論する相手の問題点の指摘もなく、ただただ、相手を否定し、あるいは身内を庇う短い文章ばかりである。 これは何故なんだろうか?結論から言えば、これはムラ社会という日本の隅々にまで浸透している構造にあるのではないだろうかと考える。政治家には政治家のムラ社会、官僚には官僚のムラ社会、経営者には経営者のムラ社会・・・があり、排他的な行動原理が支配している。 今回の小沢問題でも、民主党(支持)というムラ社会が自浄作用を働かすこともなく、組織防衛に走ったのではないだろうかと感じられるのである。これは何も民主党に限ったことではない。 自民党不祥事が起こるたびに証人喚問を要求する野党に対し、与党は本人が決めるべき問題だとかわし、挙句、武士の情けとか惻隠の情などと言いながら身内をかばってきた。そこには論理はない、甘えの構造があるだけである。勢い、政治もムラ社会同士のぶつかり合いと化し、政策ではなく政局の諍いに堕している。 さらに問題なのは、甘えの構造ゆえの脇の甘さが、身内同士ならまだしも、外部にも、国際社会にも出てしまう、危機管理能力のなさであろう。官僚の無駄遣いや不祥事も、経営者の隠ぺい体質も政治屋の脇の甘さも自身の所属する組織への甘えと、かばい合い、排他性というムラ社会特有の性質がもたらしたものとはいえないだろうか。 無論、常に緊張を強いられたら人間おかしくなってしまうから、安らげる場が必要であることは言うまでもないが、それは公私が混在したムラ社会ではない。公と私これをすみ分けた社会を作る必要があるのではないかと考える。
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