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一面の芝の庭が、裏山を背景にして、烈(はげ)しい夏の日にかがやいている。
「今日は朝から郭公(かっこう)が鳴いておりました。」
とまだ若い御附弟が言った。
芝のはずれに楓を主とした庭木があり、裏山へみちびく枝折戸(しおりど)も見える。夏というのに紅葉している楓もあって、青葉のなかに炎を点じている。庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際に花咲いた撫子(なでしこ)がつつましい。左方の一角に古い車井戸が見え、又、見るからに日に熱して、腰かければ肌を灼(や)きそうな青緑の陶(すえ)のとうが、芝生の中程に据えられている。そして、裏山の頂きの青空には、夏雲がまばゆい肩を聳(そび)やかしている。
これと云って奇功のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠(じゅず)を繰るような蝉(せみ)の声がここを領している。
そのほかには何一つ音とてなく、寂莫(じゃくまく)を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。・・・・・
『豊穣の海』完。
昭和四十五年十一月二十五日
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(三島由紀夫『天人五衰』(新潮文庫第46刷)341〜342ページより)
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(この文章の末尾に書き込まれた日付けに御注目ください。)
私は、あの日(1970年11月25日)の事を鮮烈に覚えて居ます。
当時、私は、中学生でした。最初の知らせを聞いたのは、放課後、友達と遊んで帰ろうとした時でした。その時、最初は、何かの間違いではないか?と耳を疑った事を覚えて居ます。しかし、それが事実であると知った時、私は、彼(三島由紀夫)の行為に、強烈な嫌悪感を抱きました。
その嫌悪感は、永く私を支配し続けました。そして、その結果、私は、永い間、憲法を改正する事自体が、彼の自決と同じ様な過激で危険な事の様に思ひ続けました。真実を言へば、憲法9条こそが危険なのに、憲法9条を改正するなど、「三島由紀夫と同じ発想だ」と言った先入観が、これ以上強烈な形は無い形で、若い私の精神に刷り込まれたのです。
逆に言へば、あんな事(三島由紀夫の自決)が無ければ、私は、憲法を改正する事を冷静に考えただろうし、もっと早くに憲法改正論者に成って居ただろうと、思ふのです。
私だけではありません。若い人たちは、この事を分かって居ない気がするので言ひたいと思ひます。あの日、あの事件を自分の人生の一日として体験した日本人の大部分は、三島由紀夫のあの自決を見て、護憲派に成ったのです。あの日、三島由紀夫の共感した日本人は、ほんの極く一握りの人々でしかありませんでした。私を含めた十代の若者も、家庭の主婦も、サラリーマンも、皆、あのバルコニーの下で三島由紀夫に罵声を浴びせた自衛官たちと同様、彼の行為を嫌悪したのです。つまり、あの時、バルコニーの下で三島由紀をを罵倒した自衛官たちこそは、当時の日本国民の声を代弁して居たのです。今日、皆さんがそれをどう考えるかは別として。
事件後、日本社会はこの事件の話で持ちきりに成りました。本当に、あらゆる人が、この事件について語って居ましたが、私の周囲の大人たちも、私の中学の同級生も、誰ひとり、彼の行動に共感などして居ませんでした。マスコミももちろんそうでしたが、これは、今日、朝日新聞と日本人の世論が大きく解離して居るのとは違い、マスコミは、大多数の日本人の声を正しく反映して居たのです。当時のマスコミは、国民の声を正しく反映する形で、三島由紀夫の行為を狂気と見なしたのです。
事件直後、当時の佐藤首相が、「三島氏は、気が狂ったのではないか?」と発言しましたが、これは、圧倒的大部分の日本人の気持ちを代弁した言葉です。今日の様に、三島由紀夫の自決を美化する声は、事件当時は全くの少数派で、大多数の日本人は、私と同様、彼の自決に嫌悪感を持ったのです。若い人は、この点をどうか錯覚しないで欲しいと思ひます。私の様に、当時既に物心ついて居た日本人の大多数は、彼の行為に共感などしなかったのです。あの日(1970年11月25日)を自分の人生の一日として目撃した者の多くは、そう言ふ気持ちで彼の死を見たのです。
あの年(1970年)にまだ生まれて居なかった人たちは、この事を分かって居ない気がします。三島由紀夫が市ヶ谷で割腹自殺をした時、日本を包んだのは、彼の行為に対する嫌悪感であって、共感する者は、極く少数だったのです。
そして、その結果、多くの日本人は、三島が叫んだ憲法改正と言ふ目標自体が、三島の行動と同等の危険な物だと思ひ込んでしまったのです。
即ち、皮肉な事に、三島由紀夫の自決こそは、多くの日本人に、憲法改正は危険な道であると言ふ誤解を抱かせたのです。憲法を改正したら、日本はどう成るか分からないと言ふ不安を当時の日本人は、抱いたのです。当時の反応を実体験として記憶する人間として、私は、その事を証言しておきます。
以前、櫻井よしこさんが、憲法についてお書きに成った自著の中で、戦後、日本で憲法改正が実現しなかった理由の一つに、日本の「右翼」を挙げておられるのを読んだ事が有ります。即ち、軍服まがいの格好をして、普通の日本人が共感を感じられない行動様式を取る「右翼」の人々の存在こそが、普通の日本人をして、「あの人たちと一緒は嫌だ」と言ふ気持ちを抱く心理的状況を生み、国民の大多数を護憲派にしてしまった、と言ふ皮肉の指摘です。
私は、小説家としては天才であり、そして、見解の全てには同意しませんが、一人の法哲学者でもあった三島由紀夫を「右翼」と呼びたくはありません。実際、町で見かける言はゆる「右翼」と三島由紀夫を一緒にする気は無いのですが、「右翼」こそが日本の国民を護憲派にして来たと言ふ櫻井よしこさんの指摘は、全くその通りだと思ひますし、「右翼」と呼ぼうと呼ぶまいと、三島由紀夫の自決事件こそは、日本の国民を護憲派に追ひやった戦後最大の事件であったと、あの日を実体験した者として、言はずには居られません。
憲法改正は、実務であって、文学ではありません。三島由紀夫個人にとって、あの死が何であったかとは全く別に、彼の自決こそは、反日勢力に格好の宣伝材料を与え、憲法改正をここまで困難な物にしてしまった事を、私は指摘しておきます。三島由紀夫の自決を美化する人々は、この事の意味を熟考するべきです。
平成22年(西暦2010年)11月26日(金)
西岡昌紀(内科医)
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