【日本よ】石原慎太郎 日本は、立ち上がれるか
2010.4.5 03:11 私くらいの年齢になると誰しも自分の死について考えるのは人の常だが、この頃はそれに重ねて、その頃この日本は一体どんなことになってしまってるのだろうかと考えさせられる。同世代の人間たちにそんな心象について打ち明けると、誰しもが同じことをいう。
スポーツクラブなどで知己のメンバーたちとの挨拶(あいさつ)にも時候の挨拶などではなしに、「一体この国はこれからどうなるんでしょうかな」という言葉が頻繁に聞かれる。ある年齢以上の仲間同志のことだが、そうした共通の感慨の内にあるものは今日の政治がもたらした世相世情の混迷と、さらにそれに拍車をかける無能に近い現政権の低迷への、最早絶望感に近い国民の投げやりな心情があるといえそうだ。
歴史は繰り返すというが、今この国の有りさまを眺めるとある古い歌を思い出す。
昭和七年の五・一五クーデタ事件の首謀者の一人海軍士官の三上卓が作った『昭和維新の歌』の名文句、
『権門上に傲(おご)れども、国を憂うる誠なし、財閥富を誇れども、社稷(しゃしょく)を思う心なし。ああ人栄え国滅ぶ、盲(めしい)たる民世に踊る、治乱興亡夢に似て、世は一局の碁なりけり』
今や、確かにその通りだ。
政治家はただただ選挙での保身に明け暮れしてい、政治は国家感を欠くまま大計を持ち得ず、路頭に飢え迷う人々もいるが他の国民の多くは目先の欲望の成就だけを願い、増税を含めていかなる負担責任をも拒み、政治もそれにおもねる。権力を誇るメディアは国民の浅薄な好奇心を煽(あお)りたてるだけでことの本質を疎外しつづける。
同胞の日本人について私にとっての心外、というか理解出来なかったことの一つは、自民党政権時代、自分の余生を左右しかねない年金の荒廃挫折が明らかになった渦中で、党派やイデオロギーを超えて、誰が主唱してもしなくてもその責任を問うての抗議の大デモが一種の国民運動としてよくもなぜ起こることがなかったのだろうかということだ。
あれがイギリスやフランスで露呈したとしたなら、政府を倒しかねぬ暴動に近いデモが自然発生したろうに。これは従順な国民性などということではすまされぬ問題だ。
あるいはまた、先のトヨタ自動車の不具合リコール問題についての、卑劣なトリックまで講じてのアメリカにおける強いバッシングの折、日本のシンボルに近い代表的な企業であるトヨタのために日本政府が政治家なり政府高官をかの地に派遣し、陰に陽にバックアップするということなどついぞありはしなかった。
こうした現象は国民性としての他力本願、権威への盲信、ことなかれではすまぬ致命的な問題を理解して捉え、怒ることも出来ぬ日本人の幼稚さということなのだろうか。しかしそうした姿勢の滞積はやがては自嘲(じちょう)ではすまぬ決定的な破綻(はたん)を招くに違いない。
トインビーは著書『歴史の研究』の中で、いかなる巨大な国家、優れたとされる民族もやがては衰微し崩壊滅亡もする。その最大の要因は、自分で自分のことが決められなくなってしまうことだといっているが、その歴史の公理が今の日本ほど当てはまる存在は他になさそうだ。
私が死ぬ時、頭だけはぼけてはおらず、この国が今のままの衰運をたどっていきはて、かつては敬意を抱き憧れもしていた外国からも哀れとされ軽蔑(けいべつ)さえされているありさまを見届けながら、胸に去来する思いとはまさにあの歌の文句の通りに違いない。しかし一局の碁としてはとてもすまされぬ、まさに死んでも死にきれぬ心境に違いない。
ナチス・ドイツが台頭しヨーロッパを非人間的な全体主義で隷従させようとしやがては崩壊した頃のヨーロッパに生きたハイエクは、『人間は予期しなかった害悪の事態が目の前に生じた時、それに疎かった自己を非難せずに他を非難する』と記しているが、それは歴史の変化に対する人間心理の公理には違いない。しかしそれで何がどう良く解決されるものでは決してない。
ヨーロッパのように平たい地つづきの国々の間で、前の世界大戦でどの国も疲弊しもう戦はこりごりという心象の中でヒトラーだけが国民の屈辱に火をつけ、陸軍の再整備を強引に進めそれをかざして相手国の厭戦(えんせん)気分につけこんで武力の行使なしにたちまち幾つかの領土を併合し、揚げ句は第二次大戦とあいなった。
日本という国がこれからたどるに違いない衰亡への道のりは、当時のドイツの周辺国家の心象に、ネガとポジとの違いはあるが実は酷似している。
戦後アメリカの保護の元にあてがわれた憲法によって培われた厭戦気分に通じる脳天気な危機意識の喪失、起伏もありはしたがなんとか確かな成長の波に乗ってのし上がった経済への盲信、そしてそれが育んだ物欲優先の生活感覚、欲望追求が至上の価値体系。政治はそれをかなえ保証することでのみ国民から評価されてきた。
その揚げ句、至上理念の象徴である福祉は高度に実施されはしてもそれを支える財政は無視され、『高福祉低負担』なる、中学生にもわかる不可能な財政運営が道理として強制されつづけてきた。
その一方文明の進展に沿って世界は時間的空間的に狭小になり、経済という人間の根源的な欲望を満たすための方法は国境や民族といった較差を超えてその規模も作用も変質してしまった。そしてこの日本はそうした経済の本質的な変化に鈍感なままにきてその地位からすべり落ちつつある。
経済に関する時間空間の狭小化を体得出来ぬ官僚が支配しつづけてきたこの国では、経済の国際交流の最大の障害である企業への税金が世界一高いまま世界中からそっぽを向かれているのに未だに改修の兆しもない。
そして物欲至上の生活感は世代を超えた連帯を疎外してしまい、親子三代で暮らす家庭は激減し、祖先や子孫に対する意識は希薄となって、人間の存在を背景にした精神の高揚は衰微し人間連帯の感情はせいぜいが親子二代という侘(わ)びしいものにしかなりえなくなってしまった。
かくして、私たち年代の者たちにとっての日本という憧れは、その人生の終焉(しゅうえん)と平行して、懐かしい共同幻想として消滅しつつあるのだろうか。
それを食い止める唯一の術(すべ)はこれからやってくる夏の国政選挙で、転落していく石を止めるための確固たる第三極を、転落の歴史への拒否として造りだして置くことしかあるまい。