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(回答先: なぜ、八百万(やおよろず)の神々は11月に出雲大社に集まるのか? (気軽にではなく重たい気持ちで書く掲示板) 投稿者 五月晴郎 日時 2010 年 11 月 23 日 00:33:01)
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「気軽にではなく重たい気持ちで書く掲示板」の[ワード検索:邪馬台国]より
『[1445] 邪馬台国の謎を解く(その1) 岡田英弘氏が描く古代日本』
『[1446] 邪馬台国の謎を解く(その2) 卑弥呼がつかえた鬼道とは五斗米道のことである 』
『[1450] 邪馬台国の謎を解く(その3) 五斗米道が日本にもたらしたもの』
『[1452] 邪馬台国の謎を解く(その4) 秦人(はたびと)が作った国が邪馬台国である 』
を、下記に転載投稿します。
=転載@開始=
今年(といってもあと数時間ですが)《投稿者記2009年》、奈良県の桜井市で纒向(まきむく)遺跡という大型建物跡が見つかりました。すぐ近くに女王卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳があるため、一気に、「邪馬台国が近畿地方にあったことがはっきりした」というふうに新聞がかき立てています。
ここからわかるように、邪馬台国に示す日本人の興味は異常なものがあります。しかし、その場所を書いてある三国志の東夷伝(魏志倭人伝)の記述がはっきりしないために、未だにその場所を特定できません。
ここでは、岡田英弘氏の「日本史の誕生」および「倭国とその時代」の2つの本と、副島先生が以前書いたぼやき340「聖徳太子は蘇我入鹿と同一人物である」を参考に、私の考えもいれて、この邪馬台国とはいったいどういう国であったのかというのを、数回にわけて解説してみたいと思います。
<岡田英弘氏による「倭国」>
岡田英弘氏という人は、アルタイ学を専門とする歴史学者です。5年前くらいはこのサイトで頻繁(ひんぱん)に取り上げられました。最近はあまり話題にならないので、新しい会員の方はご存じないかもしれません。
岡田英弘氏は専門のモンゴルに関する本(『世界史の誕生』)とあわせ、日本の古代史に関していくつかの本を書いています。(『日本史の誕生』『倭国』『倭国の時代』)。その特徴は、中国、韓国、日本のあらゆる古代の文献を読み込むことにより、古代の日本の姿を明らかにしようとしたことです。つまり、古代日本史を中国史から明らかにしていったということです。ほとんどの日本の古代史研究者が、「日本書紀」や「古事記」を中心として古代史を明らかにしようとしているのとは、一線を画します。
実際、岡田英弘氏はすらすらと実感を持って、これらの古文書を読めるようです。「倭国の時代」「日本史の誕生」を読むと、「この漢字はこう解釈されているがそれは間違いである」という記述がたくさんあります。
副島先生も、アメリカ政治の権力構造を理解することにより、そのカンターパートである日本政治のしくみを次々と明らかにしています。学問的なアプローチとして同じと考えていいでしょう。
さて、この岡田氏の日本古代史を一言で、述べればつぎのようになります。「紀元667年に日本が誕生する前にあった「倭国」とは、様々な華僑(overseas Chinese)がつくった連合国のことである」。ちなみに、ここで言う華僑とは、漢字を使って商売・交易をした商業者のことを意味します。
副島先生が、岡田説を正確に要約した文章があるので引用します。
<引用開始>
ここで古代の華僑とはどういう人々であったかについて、岡田説に従って簡単に説明する。
華僑たちは、中国と周辺の国々の間で交易を繰り返すうちに現地の良港に居留するようになり、やがて現地人の女と結婚して子供をつくる。ところがこの混血の二世たちは、中国人としての強烈な誇りを失わず、自分のことを中国人だと思い続ける。たとえ何代続いても自分たちを中国人だと規定し、現地人に同化しない。文化習俗もそのまま中国式である。ところが現地で生活する以上、話し言葉だけは現地語化していき、しだいに中国語ができなくなってくる。しかしそれでも現地語には文字や文献はないので、もっぱら中国文(漢文)の書物を読み、中国語を書く。
岡田説によれば、紀元前一世紀頃から日本に来るようになった華僑たちは、瀬戸内海沿岸に自分たちの「国」をたくさん建設した。この国というのは文字どおり口の形をしており、周囲をインディアン砦のように板や丸太で囲んで防御壁とし、自分たちはその中に居住した。現地人はそこに作物や産物を持って押し寄せ、交易を行ない、やがて華僑の砦を中心に現地人の村が生まれる。「魏志倭人伝」に記された倭国の二十九カ国はすべて、華僑との交易のために生まれたこうした集落である。邪馬台国の女王・卑弥呼が「三十余国を従え」というのは、私たちが思い込んでいるような西欧的な武力による支配服属のことではなく、中国船と交易をする際の倭人側の代表として大きな権限をもっていた代表者のことであって、周りの小国は、この邪馬台国に友好商社代表として交易の仲介をしてもらうことで恩恵をこうむっていた、という意味である。
私たちは東アジアの古代史を考える際に、西欧のイメージで武力制圧ばかりを想像してはいけない。人間が生きていくうえでは、商業(交易)=経済こそが重要だ。政治的な統治支配の形態よりもまず、どのようにその王国は経済活動を営んでいたか、を見なければならない。だから、当時の中華帝国から見れば、倭王を含めた周辺属国の国王たちは「三井物産タイ支店長」 のような立場の人々であったのだ、と岡田教授は言う。
(ぼやき320より引用)
<引用終了>
この文章を、さらに現実感をもって書いたところが『倭国の時代』の中にもあります。紀元400年頃(仁徳天皇のころ)の難波(なにわ)の町がどんな様子であったかを想像して描いた文章です。以下に引用します。
<引用開始>
そして難波の湊は、堀江も湖も水面は船でぎっしりと蔽(おお)われ、波止場、傭兵として任那(にんな)に出稼ぎにいく倭人(わじん)たちや、縁故をたよって倭国へ働きに来た秦人(はたびと)の移民や、江南から山東半島・百済経由で仕入れた中国製品を運び込む漢人(あやひと)の商人でごった返す。難波京の大道では、おりしも奥地の王宮から到着した倭国大王とその護衛兵の一行が、隊列組んで高津宮の門をくぐり、それを倭人のお上りさんたちが、人垣をつくり口をあんぐり開いて眺めている。さらに難波京の南門を出ると、そこは柵に囲まれた広大な広場で、中国人や倭人が、それぞれ反物や、金属製品や、穀物や、果物や、山菜や、猪肉、鹿肉、魚などを足の踏み場もないほど地面にひろげ、声をからして客を呼び、食べ物を売る屋台店では、ほろ酔い機嫌の倭人の将校が、売り子の中国娘と軽口をたたき合う。まずそう言った、今日の東南アジアの都市ならどこでも見られる風景だった。
<引用終了>
上にでてくる秦人(はたびと)というのが、辰韓・弁辰という韓半島から移ってきた古い華僑、一方、漢人(あやひと)というのが帯方郡(たいほうぐん)から逃げてきた当時としては新しいタイプの華僑です。
我々が想像する倭人または原日本人とは、農耕を営み、神社にお参りする、素朴に神道を信じる人たちです。ところが、ここには、それとまったく違う日本人が描かれているわけです。
当然、日本人のアイデンティーを日本書紀・古事記に求めている日本の歴史学者には受け入れられません。
以下続く。
=転載@終了=
=転載A開始=
皆様、新年明けましておめでとうございます。昨日のつづきです。
<女王卑弥呼と鬼道>
前回、倭国における華僑の重要さを指摘しました。じつは邪馬台国の卑弥呼も、この華僑のネットワークが大きな役割を演じています。
『日本史の誕生』から引用します。
<引用開始>
卑弥呼は単なる倭人の女シャマンなどではなく、中国商人が日本列島に持ち込んだ秘密結社組織の祭司だったのであり、倭人の諸国の市場を横に連ねる華僑のネットワークのうえに乗っていたからこそ、中国皇帝の後ろ盾なしでも何とか秩序を保てたのだ。しかしそれは、倭人の酋長たちのあいだに、他を圧倒する実力者が誰もいなかっただけの話で卑弥呼自身には政治力はなかった。
(『日本史の誕生』より引用)
<引用終了>
つまり、いわゆる「倭国大乱」のあったときに、それを治めるため、華僑のネットワークが持ち込んだのが卑弥呼という調停役の司祭だったということになります。
さて、三国志の東夷魏志倭人伝の卑弥呼の紹介のところに次のような文章があります。
<引用開始>
其の国、もと亦(また)男子を以て王となす。住(とど)まること七八十年、倭国乱れ、相攻伐すること年を歴(へ)たり。乃(すなわ)ち一女子を共立して王となし、名づけて卑弥呼と曰う。鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす。年已(すで)に長大なるも、夫婿(ふせい)無し。
<引用終了>
この中に「鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす。」ということばがあります。女王卑弥呼が鬼道をつかったということですが、日本の歴史書では、この鬼道というのは呪術であり、卑弥呼がシャーマンであったというふうに解説されています。
しかし、実は、この鬼道とは五斗米道(five pecks of rice movement)のことです。岡田英弘氏がはっきり指摘しています。上の文章の「秘密結社組織」のことです。
岡田英弘氏も、『倭国』という本では「鬼道とは五斗米道のように思える」と書いていました。ところが、『日本史の誕生』でははっきりと「鬼道とは五斗米道である」と言い切っています。『倭国』を書いたあとにさらに文献を読み込んで、この当時、陳寿(ちんじゅ、魏志倭人伝の作者)が「鬼道」と記したなら、それは五斗米道のことしかないと確信したのでしょう。
五斗米道とは、181年に張陵(ちょうりょう)が四川省および陝西省あたりで広がった道教の元祖です。後に天師道、正一教と名前を変えています。
この「鬼道とは五斗米道のことである」という事実の重大さは、実は副島先生がしつこいくらい何度も指摘していることです。以下ぼやき340より引用します。
<引用開始>
このように邪馬台国は、華僑が大きな経済的・文化的影響をもっていた社会であった。卑弥呼が「鬼道に仕え、よく衆を惑わし」たというのは、べつに神秘的な妖術や魔法で国を支配したという意味ではなくて、三国時代の魏で流行し「五斗米道」(ごとべいどう)という宗教を奉じていた、ということである。この五斗米道は、道教と仏教が混ざって土俗化した宗教だったようだ。のちの中世の陰陽道(陰陽五行説、易学)もこれに類似していることから、この五斗米道がその後、日本の神道になっていったと考えたほうが理屈に合う。日本人の民間信仰の多くも、この五斗米道起源であろう。
平安から室町まで公式に栄えたのは仏教だが、一歩裏に回ると、陰陽道(おんみょうどう。風水 ふうすい )のほうが民衆だけでなく武家や貴族たちにさえ信じられていたようだ。これは江戸時代まで続き、たとえば東京浅草の浅草寺(せんそうじ)というのは、徳川家が京都から招来した公式には天台宗の密教寺院だが、表面のつくりは民衆がお参りする陰陽寺に変質している。
(ぼやき340より引用)
<引用終了>
つまり、五斗米道こそが神道の源流であり、さらに日本では陰陽道として発展していったということになります。
よく、道教由来の日本の行事がとりあげられます。お守り、山開き、還暦、七草がゆ、みそぎ、七夕、端午の節句、地鎮祭、これらはみんな道教由来です。しかし、どうやって、いつ入ってきたのかという説明はありません。仏教とかキリスト教は、きちんと日本に入ってきたプロセスが明らかになっているのに、道教はわからないのです。
上にはこれについての答えがはっきりと書いてあります。つまり、邪馬台国の頃、卑弥呼とそれをサポートする華僑が持ち込んだということです。
続く
=転載A終了=
=転載B開始=
前回、卑弥呼のつかえた鬼道とは五斗米道のことであり、それは神道と陰陽道の源流だろうということを書きました。
そこでさらに、五斗米道が日本にもたらしたものを見てみたいと思います。
「老子想爾注」(ろうしそうじちゅう)という、五斗米道で実際に使われた老子の解釈テキストがあります。このテキストは20世紀に敦煌で発見されたものです。
日本語訳は出版されていないようですが、一部を解説した本(『道教の経典を読む』)があるのでそこから引用します。
<引用開始>
それと同時に複雑なことには、道を具象化することに「想爾注」は強く反対する。例えば、老子十四章の本文「それらは状(すがた)なき状(すがた)、ものとは見えない象(かたち)と呼ばれる」に、次のように解釈する。
『道は非常に尊いものである。微かであり、よく隠れる。道には状貌(じょうぼう)や形象(けいしょう)はないのである。ただ道の誡(いまし)めに従えばよいのであって、道を目で見て知ろうとしてはならない。今の俗世において、ことさらに他とは異なった宗教技法を主張しようとするものは、ある形をさして、これが道であると名前をつけて、服装の色や本名と字(あざな)顔の形、背丈の大小などを作り上げているが、そうしたものを間違っている。どこもよこしまな作り事にすぎない。』
この記述だけでは歴史的にどんな宗派が批判対称とされているのかを特定するのは実は困難だが、道を視覚化する技法への批判が見られる。そうした技法よりも、道の誡めに従って、道の規範に則した行動を取って欲しいという主張が繰りかえされる。このように、道の規範に従って人や社会を変えようという考え方から著述された内容が「想爾注」には一貫して多く見られる。
(道教の経典を読むp55)
<引用終了>
ここから、五斗米道の解釈した「道」とは、我々日本人が「道」とか「天道」とか呼んでいるものに、非常に近いことがはっきりわかります。
また、この五斗米道の根本思想というべきものが「気(qi)」です。昔、副島先生が指摘していましたが、日本というのは「気の国」です。陽気、陰気、空気、天気、気分、殺気、気が狂う、気が晴れる、気に入る・・・と、「気」が入ったことばが無数にあります。これが、多分、小室直樹氏がいうニューマ(空気)が支配する日本につながっているのでしょう。
つまり、ここから文天祥(ぶんてんしょう)の『正気の歌』(せいきのうた)につなげることができれば、日本の思想を一本の線(丸山正男のささら型)で描くことが出来ます。
さらに、五斗米道がもたらしたのは思想だけではありません。
例えば、日頃我々が用いている春分、秋分、夏至、冬至。これらは実は24あり、合わせて二十四節気(にじゅうしせっき)と呼びます。当時これらの呼び名をつかっていたかわかりませんが、五斗米道は1年を24に分けていました。これは事実上の太陽暦の導入です。(通常は太陽太陰暦と呼ばれる)
農作物をつくるには、この暦が欠かせなかったはずです。
この二十四節気を正確に見積もるためには天体観測が必須です。太陽がでている日中は明るすぎて見えませんが、実際は太陽の背景には星があるわけです。そして、太陽は1年かけて星図の中を一周するのですが(これを黄道といいます)、この星図の中の太陽の位置を知ることで、二十四節気がわかります。
つまり暦(こよみ)を知ることは正確な天体観測が必要なわけです。ここには陰陽道の天文博士の萌芽があります。
また、後述しますが、五斗米道として持ち込んだらしい植物があります。例えば、子安の木(こやすのき)という木がありますが、これは中国と播磨地方にしかない木で、どうみても華僑がもたらしたものです。文字通り、この木の幹の皮を煎じて飲むと安産になるという言い伝えのある木です。
ここからみると、どうやら、五斗米道は漢方や薬学、すなわち当時の最先端医学も日本にもたらしたのではないかと考えられます。
続く
=転載B終了=
=転載C開始=
さて、前回まで、五斗米道(ごとべいどう)が日本に持ち込まれたと書きました。
ところが、話を混ぜっ返すようですが、日本でこの五斗米道があること自体は実に不思議なことです。なぜなら、五斗米道は、中国の沿岸ではなく、四川省、陝西(せんせい)省など、中国のきわめて内陸部で栄えた宗教だからです。陝西省とは西安があるところですから、日本からは2000kmぐらいあります。
だから、日本に五斗米道があるというのは、ちょうどチベットの山奥にいったら日本の神社があったようなものなのです。
したがって、これは、四川省、陝西省出身の華僑が日本に移住して、そのまま持ち込んできたとしか考えられません。卑弥呼が五斗米道を持ち込むというのは、聖パトリックがアイルランドにキリスト教を持ち込んだようなものです。
すると日本に、五斗米道を持ち込んだのは秦人(はたびと)と呼ばれる陝西省あたりの中国語を話していた華僑と考えられます。実際、『日本史の誕生』では岡田英弘氏は、隋の煬帝(ようだい)の使者の裴世清が「途中、秦王国があった」と言い残している場所(下関付近)を邪馬台国と特定しています。この秦王国とは、陝西省の中国語を話していた華僑が多数住んでいた国のことです。
最近、『謎の渡来人 秦氏 』(文春新書 水谷 千秋著)という本がでました。どのあたりに、この秦人と呼ばれる人たちが住んでいたかが書いてありますが、全国いたるところにいたようです。
<日本における秦人>
さて、ふじむら掲示板に最近書きましたが、私の住んでいる兵庫県の播磨(姫路、赤穂)から岡山にかけては、秦人が住んでいたところです。例えば、秦氏で有名な秦河勝の墓があります。また、その秦河勝と縁の深い大避(おおさけ)神社がいたるところにあります。
そこで、地元の利を生かして、秦人が日本で何をしていたのかを想像してみましょう。
ちなみに、ここ播磨・備前は陰陽道のメッカです。ちかくに佐用町というところがありますが、ここには安倍晴明を祭った清明塚、芦屋道満を祭った道満塚があります。このあたりで天体観測をしていたようです。また、ちょっと行った岡山にも、天体観測していた様子が残っています。五斗米道が陰陽道の源流であるという副島先生の指摘がありますが、そういう意味では整合性がとれているわけです。
@さて、まず、秦人は、大きな川沿いに町または国を作っていたようです。播磨には、千種川、揖保川、加古川などの大きな川がありますが、そこに沿ってたくさんの古墳があります。日本でいちばん古墳があるのは確か兵庫県で、大阪府や奈良県ではありません。ただし、みんな小型で、前方後円墳はほとんどありません。
これは、瀬戸内海をメイン航路として、川をつたって荷をつんだ船を入港させ貿易や商売をしていたことを意味します。ただ大きな船は入れませんので、多分、瀬戸内海の港で荷をつみかえていたと思います。それらが、室津、牛窓、家島などの古い漁港ではないかと推察しています。
A前述しましたが、秦人は薬草または薬木を持ち込んできたあとがあります。前回述べた子安の木です。
また、ここにはシリブカガシという木が群生しています。群生しているのは珍しいらしいのですが、調べると、この木の群生地の近くが、秦人が住んでいたところのようです。秦人あるいは秦氏の本拠地は京都の太秦(うずまさ)と言われていますが、その近く(保津峡)にも群生しています。
シリブカガシのどんぐりは苦みがないので食べられるそうです。すると、これを非常食として育成したのではないかと考えられます。
これらから推察すると、当時の最先端医学だけでなく、農学または農業技術をも持ち込んできたことがと考えられます。
Bさらに、秦人は金(きん)や砂金を探していたことがわかります。地元の人にきいたら、このあたりは、昔は金がよくでていたそうです。「昔と言っても、すっと大昔ですよ」といっていました。
この金(きん)をどうしたかというと、ローマ帝国やペルシャ帝国(アケメネス朝)まで運んでいたのではないかと思います。とんでも説とかいわれるかもしれませんが、まじめです。
秦人というのは、新羅という国もつくった民族です。実際、魏志倭人伝のころは新羅は「秦韓」とも呼ばれていました。そして、この新羅はローマ帝国と強いつながりがあります。『ローマ文化王国‐新羅 』 (由水 常雄著)という本がでています。内容はきわめてまともです。
どうやって金をヨーロッパまで運んだかというと、シルクロードではなく、川を利用することができます。地球儀をみてください。日本からウラジオストックに行き、そこからハンカ湖まで歩くと、アムール川(黒龍川)にでます。ここをのぼりケルレン川に行くとウランバートルにでますが、そこから、バイカル湖まで行けます。さらに、ハンガラ川・エニセイ川・オビ川・ウラル川とのりかえていくと、カスピ海、黒海です。
これは岡田英弘氏が別の歴史本で指摘した行路で、ここを使えば、一万キロのほとんどの行程を船でいくことができます。また地図上では遠回りに感じますが、地球儀上では、ほぼ最短の距離であることもわかります。
ちなみに、この行路沿いには、日本人に似た人がたくさんいます。
C秦人のつくった都市というのは北緯35度に集中しています。列挙すると、咸陽(秦の首都)−泰山−釜山−西播磨−京都−名古屋−静岡−三島−副島先生の熱海の仕事場、となります。
この北緯35度になにがあるかと言えば、なにもありませんが、この北緯35度からは北斗七星の剣先星といわれる先端の星が地平線すれすれに見え、沈みません。今では沈んでしまうのですが、当時はぎりぎり沈まなかったと思います。今でも北緯40度のところなら沈みません。
伊勢神宮の宮中行事で神嘗祭(かんなめさい)というのがあります。この行事をする旧暦9月の中旬の真夜中0時に、剣先星が真北で地平線にタッチダウンします。
なんらかのマニフェストデスティニー(Manifest Destiny)があったのかもしれません。
<出自を消した秦人(はたびと)たち>
この秦人は胡散霧消していなくなってしまいました。というよりは、自分の過去を消したというとほうが正しいでしょう。それは紀元670年の頃の日本の国際情勢が緊迫したものだったからです。
ぼやき340より引用します。
<引用開始>
岡田説によれば、それまで瀬戸内海各地の主要な良港やその終点である難波に華僑(代表地が今の四天王寺。ここは、飛鳥の法隆寺と並んで蘇我氏の生活拠点である)として居住していた中国人たちが、この経済的・軍事的危機に際して、自らの権益と安全を守るために、天智天皇という倭人(土着日本人)を頭に戴いて日本という国を建国させた。
そして自らは官僚・技術者・商人群として天皇に服従し、自分たちの素性である中国人性を意図的に消滅させて、建国の秘密を歴史の闇に葬ったのである。
(ぼやき340より引用)
<引用終了>
この「自分たちの素性である中国人性を意図的に消滅させ」た時にできたのが『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』と『古事記』です。
『倭国の時代』から引用します。
<引用開始>
秦人・新羅人は、新しい日本政府の実権を握る漢人・百済人の圧迫を避けるために、倭人の社会・文化に同化しようと必死になり、宮廷につてのある連中は、それぞれ架空の天皇の後裔(こうえい)と自称して、いわゆる皇別の氏族になっていく。
(倭国の時代355ページ)
<引用終了>
つまり秦人・新羅人は昔から住む倭人の貴族ということになったわけです。
副島先生が中国旅行の報告で、第二次世界大戦後にたくさんの日本人が中国に残り、今でもそういう人たちがたくさんいる町があると書いていました。それと、まったく同じ環境で、彼らは自分の出自を変え、天皇などの貴族直系の人たちであると偽装したわけです。
だから邪馬台国の場所がなぜわからなくなったかと言えば、このことが大きな影響をおよぼしているわけです。日本に多くあった秦人の都市は、このとき書き換えられ、由緒正しい伝統の町となってしまったからです。
終わり
=転載C終了=
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