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三日程待ちましたが反応が無いようですので、今回にて終わります。 実は貴女を標的にしたのは、小沢氏や山崎拓氏への視線に窺われるそのピューリタンさながらのメンタリティを俎上に載せることによって、市民派リベラルの不毛性や不能性を論おうと思ったんですがね。(笑) ネット市民と想ってた仁王像さんが村民だったので、こちらは混じりっけなしの市民(笑)と見て、慌てて照準を変えたわけでして、、、
俗に”水清ければ魚棲まず”って言いますが、貴女のようなメンタリティの遍在と創造性もリーダーシップも持ち合わせていない政治家達の輩出は深い処で繋がっている、というのが小生の見立てでして、貴女の意識の有様を解剖することによって、その辺を明らかにしてみたかったのですが、まぁその辺は別の機会にしましょう。(笑) ただね、私をして言わしむれば、戦後最大の創造性もリーダーシップも持ち合わせていた政治家と言える田中角栄氏の粛清cleanupが「金権」(「田中角栄研究」)とスキャンダル(「淋しき越山会の女王」)によって行われたのは象徴的なんですな。
以後、「山拓」やら「酒井法子事件」やら、「スキャンダル」が国家(官僚)の武器になってる事態が続いているわけです。 貴女は純粋なスキャンダル(山拓変態)と想い込んでいるのかもしれないが、玄人から見たら、北朝鮮と独自のコネクションを持つ、数少ないアジア派である山崎拓氏の追放は、ロシアとの独自のコネクションを持つ鈴木宗男氏の追放と殆ど同じ意味を持っていたのですよ。
ゾンバルト的な見方に立つと、スターリニズムとはロシア化したピューリタニズムじゃないか?と言えますが、それからすれば、70年代に顕在化したかかる「市民規範」は日本化したピューリタニズムと言えるのでは?と思いますが、まぁこういったことは別の機会に話すことにして、前回までに言ってなかった残りを、今回補足しておきます。
>都市ばっかにされてもパトリ(愛郷心)が傷ついてしまいます。
何寝呆けたことを (笑)
もうとっくに、パトリ(愛郷心)は日本から消失しているのですよ。
正確な数字は覚えてないけど、日本の都市人口は、実質的には、既に90数%になっており、しかも「高齢化」や「限界集落」等の問題を考え合わせると、冗談じゃなく、農村という言葉自体が早晩消えてなくなると思いますね。
どうしてそうなったのかの背景は既に言いました。 <都市民>をモデルにする限り必然の道行だったということ。 100年前の神社統廃合でパトリ(愛郷心)は致命傷を受けたのであり(これにより国家神道の司祭する愛国心へのコンバートが決定的になった)、無謀な対米戦争へと駆り立てたものの根底に在ったのが故郷喪失によるルサンチマン(怨念)だったのです。
そうして、客観的に見たら、殆ど集団自殺にも思えるこの行動は、近代化=都市民化にとって桎梏となる、農村的なものを蕩尽(棄却)することであったのかも知れない、と思います。 戦後の「農地改革」と「高度成長」はそれ故に可能だったのであり、「列島改造」というのは、農村(消失)の替わりに都市化すること、こうして形成された「大都市国家日本」(堺屋太一=列島改造論作成時のメンバー)の作法ー「公正」とは都市民の作法又は態度に過ぎないーをアメリカナイズするというのが「日本改造論」、モダナイズの必然の結論である、と。
問題は、だから<都市化>の後にあるもの、その先に何が在るのか?ということ。
農業を東アジアの生態系で考えるのは<近代化>を選ぶ限り、同じ道行になるだろうー日本であれ中国であれーと思うからです。
>オバマ氏の登場をどのように観ているのかな?
>「トランスモダンへの、小さな一歩」、です。李明博もそうですね。
もし「トランスモダン」を普通言われる様な<差異共生型>と規定するのならそのようにも見えますが、これまで見てきたことで分るように、成り立ちからしてイデオロギー(理念型)国家であるアメリカはモダン以外は成立しない。 従って「トランスモダン」も「ポスト・モダン」もアメリカと距離を取れるかどうかです。 EUは(ネオコンのR.ケーガンも認めてるように)ポスト・モダンと言って良い。
>李明博もそうですね。
李明博政権は仏サルコジ政権と同じです。 <差異共生型>というなら金大中・盧武鉉政権の方が遥かに相応しいーでしょ?(笑)
>ポストフォーディズム
ポストフォーディズムはポスト・モダンのパラレルな現象として、又貴女の描いてる図式「製造業→情報、ソフト」も、『第三の波』(A.トフラー)とか『知価革命』(堺屋太一)等、80年代から在りますし「情報化時代」はその文脈で語られていたはずです。
まぁ「物からソフトへ」という図式ー<近代化=都市化>が不断の脱自然化でもあるのだから、貴女が次のステップと想うのは解ります。 ただ僕は、それを必然とは思っても、「進んだ」とは見ないだけです。 丁度それは「我思う故に我在り」の<我>の根拠(固有性)が、結局、<脳>の問題に成って来ているー逆に言えばそれ以外の身体の要素は(物として)棄却するー即ち<身体性>を廃棄するー状況と見合っている、と思ってるだけ。
>私は苫米地英人のような「資本主義は終わる」論には与しません
これは「仮想帝国」乃至<メディアクラシー>の問題として、別の機会に論じましょう。