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(回答先: モダニズムとは優れてイデオロギーであることについて -何故,東アジア共同体なのか? 投稿者 影の闇 日時 2009 年 9 月 11 日 23:38:17)
一体<文化>とは何か? 類似の意味である<文明>が、先程言った様に、都市に纏わる概念だとすると、<文化>cultureは耕作とか栽培、即ち農業に纏わるものであると言えます。 農業、言い換えれば、自然とどのように関わっているのかということで、自然との関係から見られなければならない。 そうして、自然との関係・関わり方は何において表れるか?というと、それは<身体>において、ということが出来ます。
つまり、こういうことです。
仮に共同体を第二の自然とすると、第一の自然、第二の自然における様々な関わり方若しくは関係の在り様というのは、慣習とか伝統、物腰や所作・仕草及び(立ち)振る舞い等、身体において表れる、従って文化とは、畢竟、身体である、と言えるのではないか。 また、そういう意味で、<身体>とは、単なる物理的な肉体ではなく、受肉した(有機的な)関係態と理解すべきではないでしょうか。
ーこのように見てくると、<近代化>とは、かかる<身体>を、欧米の都市民をモデルに改造することであったと言っていい。 つまり、自然との関わりを切断し、都市中心のスタイルに変えていくー言うまでも無く、その際の装置となったのが学校であり、軍隊でした。
だから、最初の問いに戻せば、モダンorポスト・モダンというのは、かかる<身体>において考察されなければならない。
とすると、問題は明らかでしょう。
装置の面でいうと、先ず軍隊がダメになり、続いて60年代の大学(学園紛争)、70年代の高校(三無主義、落ちこぼれ、校内暴力)、80年代の中学校(いじめ、不登校)、90年代の小学校(学級崩壊)。 ほぼ10年毎に、大学→高校→中学→小学と、教育のピラミッドの頂点から底辺まで機能不全が拡大、深刻化していってる。
また、それらとパラレルに「オタク」「引き籠り」「地域コミュニティの崩壊」
ーこういったことは全て、モダンの魅力や吸引力が無くなり、又改造されたモダンマンがそれに相応しい関係の形成に失敗している、ということを示しているのだから。
第一、当の震源地であったアメリカにおける「人種のルツボ」から「人種のサラダボール」へのへの変化は、そういった<画一化>の機能が彼の地においてさえも衰弱していることを示すものです。
貴女はどうやらポスト・モダンがモダンより一歩進んだ段階と想ってるようだけど、それは誤り、精々モダンへの幻想が失せた、幻滅したーそれには積極的な要素もあれば消極的な要素もあるー程度に考えるべきです。
ところで、<画一化>の力が衰えてるが故に、事態はよりましな方向に進むのでは?と思われるでしょうか? 逆です。
元々成り立ち、即ち出発点からイデオロギーであったが故に、そのイデオロギー的侵犯力の衰えはその存在理由そのものを脅かすーそれ故に、疑うことを許さぬ信仰のように対象に強い、自らもそう振舞う。 モダニズムであれ市場主義であれ、それが宗教的熱狂(原理主義)を帯びてくる必然です。 イラン革命と新自由主義が殆ど同時に登場してくるのは決して偶然ではない、と見るべきなのです。
何故<文化>か? 何故その為に「東アジア共同体」なのか?
これまで読まれたら解ると思います。 これは我々の<身体>的状況への危機から言っております。
<文化>の再生とは<身体>の再生であり、何よりそれは農業の問題と深く結び付いているのです。