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(回答先: 縄文ビトさん、ワヤクチャさん、おひさしぶりです。 投稿者 竹中半兵衛 日時 2009 年 7 月 21 日 06:11:46)
まず、どこから書いていいのか考えてみました。私の書いた新貨幣論、今までに多くの人達が貨幣論を書いてきました。やはり過去の経済学者、哲学者も貨幣に多くの疑問を抱いていたからだといえます。
そこで「新」という題名をつけた以上、今までの貨幣論とは違う理論でなくてはならないわけです。本が発行されたとき最初に考えたことは専門家(経済学者)の意見が聞きたかったわけですが、何せ素人が書いた本、どのような方法で意見を聞くかということから考えついたのは、本の宣伝文として送られてきたビラ100部を、インターネットから全国の大学の経済学部をさぐり出し(リクルートにある)封筒の表紙に新経済論という見出しを印刷し、各大学の経済学部宛に発送いたしました。その後で出版社から苦情がくるのではないかとビクビクしていましたが、しばらく経過しても来ないため、こちらから出版社に電話を入れ聞いてみました。苦情は一通もないそうでした。これだけの題名を付け、経済学者が読んでいるにもかかわらずクレームがないということは、ある意味「新」を付けても問題がないと受け取られたのではないでしょうか。ただ自分なりに新しい理論だと考えますので、評価されるのは時間がかかると考えています。そこからローマは一日にして成らず、という自分なりに解釈しているわけです。
できたなら自分が生きているうちに社会が変わることを、書いているときには想像していましたが、そんなに簡単なものではないと思い直しています。
現在のところ批判も無い一方、批評すらされないというのが現状です。
>政権交代への強い思いが、どう「貨幣論」とつながるのか、今ひとつ統一的にとらえることができません。
確かにおっしゃることは解ります。ただ現在の自公政権を失脚させることが未来に対し一歩前進させることになるのではないでしょうか。国民主権というかたちでは、人々が選挙に行き政治に関与していくことが重大な要素だと考えます。
また別の書き込みにも入れましたが、その後で現在の社民党政権を二大政党制の中で育てていくことだと考えます。少しずつ少しずつ政治経済を変えていく、それしか方法が無いようです。そのためには企業献金から個人献金にしていくことだと考えます。
そして私が書いた理論(貨幣のあり方を通した未来社会)に近づいていければ私の望むところです。ここでなぜ共産党を考えないのかということにもなりますが、私が見たところでは自己の党しか考えてないようにみえてしまいます。違うのでしょうか?
現在の、また過去における不況は貨幣を理解していないがために、一部の欲の張った人間に多数の人々が利用されてしまったためです。
貨幣を理解する、それは自分が書いた本を売るためではなく、多くの人に貨幣とは何かを理解してもらい。そして貨幣を労働と労働の交換のみに使ったとき、失業も無く人々の労働が他の人々との労働と交換され、絶える事無く永久に続いていくものだからです。
そのことから貨幣は交換機能のみに絞り、保存機能から発した、金に金を生ませる行為を廃止することが、当たり前の行為として通用する社会にならなくてはならないと考えます。
>若い頃に勉強したルソー、特に「人間不平等起源論」さにさかのぼるもんだべさ、と言うことに引き寄せながら、そすて学生時代に体験したマルクス主義的な立場をなんとか頭の片隅にちらつかせながら、ブログを読ませていただきますた。若いうちにルソーをやるとめっちゃ急進的になります。
確かに私も二十代の時にルソーの人間不平等起源論に感銘を受けた方です。ただ、どういう訳かマルクスには惹かれませんでした(サルトルのように実存主義であったためかも知れませんが)ただマルクス理論が無かったなら労働運動も起きなく、現代という時代さえあり得ないのではないかと思います。マルクス理論があったため現代の民主主義社会があると考えます。
そして私自身の考えとして縄文時代に回帰するつもりはありません。ただ旧石器時代は平等の社会であった。いやそれ以前の社会も人間は平等であったと考えています。平等とは、いうまでもなく全ての人間が同じ立場だということだと言えます。そして農耕が始まった時代から、旧石器時代にあった精神性を一部の人間が欲望のためにかなぐり捨て、不平等な社会を作り出しその後遺症が現代まで続いているわけです。
ルソーは不平等起源論の中でこの土地は俺のものだと言ったときから、不平等が始まったと書いていたと思いますが、なにぶんにも半世紀前に読んだ本ですから不確かな部分もあると思いますが。