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雑談板なので適当なこと書かせてもらいます。
勘違い、或いは知識不足、或いは誤字脱字が有ったとしても
当方は一切関知しないのでそのつもりで・・。
少し前に考えていた事の書きなぐりです。私は論理的思考や、緻密な思考が
苦手ですのでかなり感情的な文章です。悪しからず。
一昔前か二昔前、「腕白でもいい、たくましく育って欲しい」なんて何処かのハムの
コマーシャルがあったと記憶している。遠い記憶になっているのではっきりしないが、
その頃は勉強は出来なくてもいいんだ、勉強が全てではない。スポーツでも音楽でも
自分の好きなことに熱中すればいいんだ、なんて価値観が盛んに吹聴されていた時代で
はなかったか。そんな時代背景から出てきたこの言葉ではなかったろうか
しかし、このもっともらしい、誰でも納得しそうなこのような安易な価値観というか、
物言いに何か居心地の悪いものを感じるのだ。
もちろん勉強の出来る子がいるし、スポーツの得意な子もいる、音楽の得意な子もいる。
だが、全ての子供にこの言葉を送っていいものか。大多数の子どもにとって、
人より取分け優れている所があるわけではないし、殆どの子供は評価という物差しで
計測されれば、普通か、それ以下であろう。更に才能も何も無いだけではなく、
腕白でもなく、たくましくもない、おとなしい繊細な子も数多くいるだろう。
マズゴミや社会は何か目立つ子どもに対しては殊更スポットライトを当ててちやほやするが、
この大多数を占める目立たない平均、或いはそれ以下の子供達に向かって社会やマズゴミが何か
発信してやった事があるのだろうか。
時たま、昔の暴走族や不良が「真面目になって出ています」とテレビで脚光を浴びることがあるが、
これも何か歪んだマズゴミ好みのテーマだと思う。勉強、スポーツ、音楽、で目立つのも、
暴走族で目立つのも同じだ。しかし、殆どの子供は才能にもそれ程恵まれているわけでもないし、
それ程グレもしないのだろう。
私の言いたいのは、このごく平凡な目立ちもしない子供達に価値はないのか、と言うことだ。
大人社会でも全く同じだ。注目を浴びる極少数の人々がいる一方、殆どは一般、庶民、
大衆で片づけられる人々だ。この人々に価値はないのか。
マズゴミはヒーローを追う。記事にしやすいし、誰からも認められるヒーローなら
持ち上げておけば誰からも批判されない、お気楽だ。
しかし、神話の英雄伝説が意識の発達段階の物語であるように、社会的ヒーローの本当の
意味は子供の自我の発達段階で必要とされるものでないだろうか。だから、マズゴミの
用意するヒーローに、いい大人が一喜一憂する姿は滑稽であるし、自我を形成しきれて
いない大人の姿と映ってしまうと思うのだが。
それを知るや知らずやマズゴミはヒーロー作りとその賛美に明け暮れる。
そのうち日本はお子ちゃま大国になってしまうのではないか。
第1回のWBCで王監督の日本が優勝した時の事、NHKの番組で王と松中を呼んで話を聞いた
事が有った。日本のスタジオからこの二人に話しかける内容は「イチローの活躍が・・・」
「イチローの素晴らしさ・・・」「イチロー・・・」「イチロー・・・」ばっか。
イチローの話がしたければイチローを直接呼べばいいだろうに。
何のためにこの二人を呼んだのか、この二人に対しても失礼だし、イチローだけで野球を
やったわけではあるまいと私など思ってしまったが。
このように、いったんヒーローを作ってしまうと年がら年中そればかり話題にすれば事足りる
と思い込むマズゴミの安易な姿勢は本当に呆れるばかり。一事が万事、こんな姿勢で物事の
本質など報道できるわけがない。
子どもがイチローに憧れるのはちっとも構わないし当然だと思う。
しかし、テレビでいい大人のアナウンサーがイチロー、イチローと持ち上げすぎるのは
やはりどこか狂っているに違いない。
大人に、もはやヒーローはいらない。
自分の歯で噛み砕いて消化吸収していれば、哺乳瓶が要らないのと同じだ。
(もしかしたら哺乳瓶を何時までも離せない大人とはマズゴミ関係者ではないだろうか)
人間には生まれつきの能力の差が確かにある。
だから20の能力を持つ者と10の能力しか無い者が存在するのは仕方がない。
仮にこの二人が9の仕事をしなければならないとすると、同じ仕事に対して
一方は45%の力でこなすことができる。他方は90%の力を出さなければならない。
片方は余裕を持って処理し、片方は殆ど全力を傾けて処理しなければならない。
外的結果は同じ9の仕事であるが、内的、心的結果は非常な違いが出るのではないか
と思っている。日本の文化はこの努力による内的変化を非常に重んじた文化ではなかったか。
日本の文化は本来、結果もさることながら、同じくらい努力という行為も重んじた文化だと思う。
ところが、現在はどうか。
一時、「勝ち組、負け組み」と言う言葉が流行ったが
これなど結果だけの評価であり、途中の経過など全く眼中に無いようだ。
結果が全ての社会など、誰が日本に持ち込んできたのか。
結果が人間を左右する、結果が人間否定をしかねない、
荒むに決まっている、そんな社会。
私は何かもう一度人間本来の価値を見直す必要があるのではないかと思う。
山高きが故に尊からず、人間は才有るが故には尊からず。
最近、思うのだ。本当の偉人というのは、名も知られず、意外に私たちの
そばでひっそり生きている人の中にいるのではないかと。
ゲーテが
「支配したり服従したりしないで、それでいて、何者かでありうる人間だけが、
本当に幸福であり偉大なのだ」と言ったとか。
私はこれを
「傲慢でもなく、卑屈でもなく、それでいて自己に生きる人、その様な人間こそが
真に偉大なのだ」と解釈している。
そこには、才能も金も何もいらない自己そのものの尊厳が輝くのであって
何も修飾語のないその人自身が大いなる存在で有り続けるのではないだろうか。
テレビなどでは無意味な修飾語の羅列だ。
例えば、小沢征爾などは「世界の小沢」(西松の小沢ではないよ)
北野武が外国で映画賞を取るとすぐ「世界の北野」などとはやし立てる。
日本のマズゴミは「世界」なる修飾語が大好きだが
しかし、このような言い回しの意味する所は、他国との比較でしか日本を確認していないわけで
日本を称揚しているようにみえて、実は日本の卑屈さ、自信のなさの別表現ではないだろうか。
昔、世界の一等国の仲間入りなんて言葉が有ったようだ。
現在は先進国というのか?
日本が世界より進んでいようが遅れていようがそんなことは意味が無い。
進んでいれば幸福で、遅れていれば不幸か?そんなことはあるまい。
他国との比較より、そこに住んでいる人々が安心して暮らせることが一番だ。
世界一が、先進性がそれ程大事なら自殺の先進国で有ることを世界に向けて高らかに
誇れば良い。硫化水素の自殺を思いつくなど世界広しと言えども、
先進性に於いて第一等、抜群だ。しかし、これが安心して生活している人々の姿か?
他との比較でしか自分を確認できない人生は落着きがないばかりではなく、時に傲慢、
時に卑屈だ。しかし、比較すべき社会的な価値観を剥ぎ取ってみると、傲慢や卑屈に
なる理由など如何ほどあるのか。
修飾語のない人間が現実に輝いているではないか。
それに何故メッキを塗りたくってわざわざ傲慢や卑屈になる必要があるのか。
有名人と隣のおじちゃん、おばちゃんの命とどちらが尊いか。
波乱万丈の人生とおじちゃん、おばちゃんのごく普通の人生とどちらが尊いか。
そんな比較は無意味だ。
自分自身を自分自身として生きていく人生こそ尊いのだと思う。
釈迦が「生まれによってバラモンになるのではなく、行為によってバラモンになる」
と言ったとか。これも同じ様な消息ではなかろうか。
私達に、もはやマズゴミ御用達のヒーローは要らない。
「報道すべき事を報道しない、天の声しか聞こうとしない」そんなマズゴミも要らない。
ヒーローを神かと見紛うほど持ち上げ、小悪人を叩きに叩いて極悪人に仕上げるマズゴミに
人間の平等や対等という視点など微塵もないのだろう。
彼らに取って平等、対等とは記者クラブの機会均等のことかもしれない。
権力(ヒーロー)に諂い、弱者(普通の人々)に傲慢なマズゴミは卑しき者と呼ばねばならない。
碧巌録という禅宗で読まれる本の中に、黄檗を頌した部分に「凛々たる孤風、自ら誇らず」とある。
毀誉褒貶に関わらず、ただ静かに流れ吹いていく。
欲する人には涼風にもなり、風車をも回す。
その様な風・人こそ真に偉大な人ではなかろうか。