★阿修羅♪ > 雑談専用35 > 641.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: smacさん 初めまして 私の拙い文章にコメントをいただきまして光栄です。 投稿者 ワヤクチャ 日時 2009 年 2 月 22 日 15:43:04)
ども、ワヤクチャさん、お返事ありがとうございます。
自分で自分の書いた事を否定するようですが、私は「統合的全体」を、それほど希求していません。
社会とは、もっと多層的で混沌としたものだろう…という感覚を持っています。
ただ「社会性の喪失」と言うことが言いたくて、ちょっと「ファシズム擁護」的な文意になってしまったことは反省しています。
私は今年の正月に、ここ雑談板への投稿を開始したのですが、その記念すべき初投稿のタイトルは「不公平の奨め」です。
「公平な社会を」と言えば、いかにも高尚で理想的な理念に聞こえますが、それを裏返せば「誰も、自分の利益しか考えず、他人の事には無関心だから、社会がシステムとして公平を維持しなければならない」という「人間不信」が基礎となっていることに気付きます。
私は逆説的に「社会が不公平だからこそ、思いやりや援助など、人との絆を重視する心が芽生える」んじゃないかと思ってみたりします。
実際は「不公平」なのに「社会は法で公平を保証しているのだから、そこで不幸になる奴は自己責任だ」などと言う人は、「公平な社会」を口実にして、他の人を救おうという気持ちや、他の人と連帯協力して行こうとする「人間関係」を否定しています。
もちろん、だからと言って政治が貧困救済に動く必要などない…と言うつもりじゃありませんよ。
ただ「公平な社会」と言う、極めて実現困難なビジョンを描きつつ、政治による貧困解消を求めていけば、大切なことを見落としてしまうことにならないか…と考えているのです。
資本主義という経済システムは、理論上もっとも「公平な経済システム」です。
正月に書いたことを繰り返しますが、その理論上もっとも公平なはずのシステムが、なぜ極端な格差を生み出し、深刻な社会不安を招いたのか?…ということを考えなければなりません。
私は、そのことをあれこれ考えた末、「公平な社会」とは「人と人が横の関係を築かずとも生きていける社会」なのではないか…そして、それが「社会性の喪失」、さらには「人間性の喪失」に繋がったのではと思いつきました。
現実問題として、完全に公平な社会と言うのは実現不可能です。
しかし、それにも拘らず人々が「公平」という幻想を追い続けることで、人間関係が希薄となり、伝統的コミュニティの崩壊に至ったんだと考えるわけです。
「貧困救済」を「不公平の解消」だと捉えてしまうと、「それこそ逆差別だ」「『助けてもらえるのが当たり前』という甘えを助長する」なんて反論に出くわします。
ちなみに、公平論では昔から「機会の公平」と「結果の公平」と言う永遠の議題がよく持ち上がります。
しかし、それらの議論で抜け落ちているのは「困っている人が居れば、助けるのが人として当然のことじゃないのか?」という極めて倫理的な観点です。
海で溺れている人を助けようとするのに「不公平の是正」なんて理念は関係ありませんよね。
私は「日本のあるべき社会システム」として福祉国家を提唱していますが、これも「形だけの福祉国家で、内情は不満だらけ」なら意味ありません。
「仏造って魂入れず」の社会システム議論は、雲の上から人々を幸福に導こうと言う神々の議論です。
私は、地上に住む人間として、同じ立場に居る他の人々と共に「どうしたら幸福になれるか」と考えた時、大切なのは社会の「あるべき形」ではなく、良好な人間関係が築き上げる、様々な形を持った社会なのだろう…と思うのです。
>貴方の事を詮索しないようにしたいとは思いますが、
>あっしらさんと同様に尊敬します。
ちょっと褒め過ぎですよ。
私はまだ、あっしらさんほど確立した理論を持っていません。
あと、素性に関しては隠すつもりもありませんので、カミングアウトしておきます。
2ちゃん「少年犯罪」板、その他の掲示板で「神戸事件冤罪説」を展開していた「須磨厚久」なる人物は私です。
また、ヤフー掲示板で「bonno216」という女性名を使い投稿していたのも私です。
smacの投稿名では、ここ以外でも色々と書いていますが、変わったところでは、木村愛二さんの「憎まれ愚痴」や、今は閉鎖になりました松江警察署少年課課長さん主宰の「少年犯罪を考える」掲示板などに、メール投稿していたことがあります。
あと、お気づきの方もおられると思いますが、「スパンキング界、伝説のパイオニア」として知られる「smac博士」も同一人物です。
こちらは1995年、「性的マイノリティのカタルシス共有コミュニティを作ろう」と呼びかけたホームページ「SPフォーラム」(現在は閉鎖)の主宰者名でもあります。
私が体罰、教育問題に詳しいのは、アカデミックな探究心ではなく「変態の好奇心」に由来していることも、この際、カミングアウトしておきましょう。
そんなわけですので、変態世界じゃ私のことを「師匠」と呼ぶ人も多く居ますが、迂闊に私を「お師匠はん」と呼べば、ワヤクチャさんまで「変態」と看做されるかも知れませんのでご注意下さい(笑)。
ではでは、本日はこのへんで。
本記事に対するお返事は別段、希望しません。