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福祉の限界と「良い社会造り」を考えてみる。(理想の社会とは?)
http://www.asyura2.com/09/idletalk35/msg/412.html
投稿者 考察者K 日時 2009 年 2 月 07 日 09:34:11: JjkI8nWTpj0po
 

社会というのは「みんなで創る」というのが基本である。
ここで、あえて「創る」という字を使ったのは「創造」という意味で、「無」から作り上げる場合ということを意識している。

現実には、現代は「すでに既存の社会システムが稼働」しているのであるが、「基本」を考えた場合には「すでにある既存のシステム社会は雑音」と考えている。

「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に」
これは、むかし話に良く出てくるシーンというイメージであるが、最小の分担であり、おじいさんとおばあさんというところが、家族というより「世俗の欲に枯れた人」の共同生活とも考えられる。

人という字は支え合って字を成している。つまり、「個」では生きにくい生物と考えられる。

そこで、5家族の社会というのをモデルとして考えてみよう。
5家族という構成でついて回るのは、5組の夫婦と10人の子供10人の老人である。
少し想像してみれば、5組の夫婦が先に有って、今の5組の夫婦ができるのであり、5組の子供がいなければ次世代の夫婦も育たないので、社会をサイクルさせる「理論構成上」は、この構成は妥当だろうと思う。

この構成だと、10人の若手夫婦で、30人の集団を養うということで「社会が構築できる」ということになる。

仮に、男2人が山に狩りに行き、男2人が畑を耕し、最後の1人が魚釣りに行ったとして、女2人が10人の子供の世話、女1人で老人の世話、女2人で30人分の洗濯という作業が、人数配分の比率はともかくとして「役割分担」として発生するのだろうと思う。

あなたなら、どの仕事を選択するだろう?
魚釣り?多分、30人分の魚を確保するのは容易なことではないだろう。

適材適所で、その能力が他人より優れている者がその役割を担って、その上で、本当に真剣に取り組まなければ、この5組の家族の共生社会は瓦解してしまうのだろう。

多くの人が誤解していると思うが、社会で暮らすよりは、「個」で暮らした方が生活は楽なのであろう。
「子供の養育」と「老人の介護」という2つの要素が切り離せないのなら、集団では3人分の食い扶持を工面する必要性が求められる。
それは「働かざる者食うべからず」ではなく「3人分を働かざる者は社会の恩恵を得る資格なし」ということになると考えられるからだ。

その上で、自分の食い扶持分の分業も何ともできない者をどのように扱うのか?
仮に、5組の家族の共同社会であるなら、その家族6人には「この集団で養うことはできないから、どこか別の集団に行って下さいね」という形でないと、集団の維持ができないということになるのだろう。

集団構成を維持させるのなら、働けない夫婦さらには子供を作らない夫婦も「集団としては問題」とするしかないのだろう。子供については「世代」という視点によってのことである。

集団主義というと、すぐに国家主義とか「反戦・反政府」というイデオロギー的なイメージに結びつけて考える人もいると思うが、そうではなく、「集団生活に入れてもらうためには集団のルール」を作り、遵守するという姿勢になることが必要不可欠なのだろう。

「良い社会造り」は必ずしも「良い私の暮らし造り」とは両立はせず、そこでは「自由の制限と、義務と責任の発生、ルールを破った者への罰」という権利の拘束も仕方がないことなのだろう。
そもそも、権利というのは、集団によって与えられる物であり、無人島で自由気ままに暮らす個ならば「権利」という概念すらなく、弱肉強食の自然界で暮らすのなら「周りにいるのは、人権侵害をしようとする敵ばかり」だろう。

「人権とか権利」とか主張する者は、その時点で「時代に甘えているだけ」という見方もできるのだろうと思う。

その上で、人間が「集団」という社会の中で、様々な文化を発達させ、科学と英知は、人間に余暇を生み出したのも事実である。
昭和の時代から日本でも冷蔵庫、洗濯機・テレビと3種の神器が普及しだし、自動車とか飛行機も大衆が利用できるようになった。

実は、大衆が文化を満喫できるようになってから、まだ100年、つまり一世紀は経っていないのである。

Kが子供の頃には、テレビは白黒、父の話では一般家庭で持てるのはバイクから軽自動車が精々かなというような感覚だったのである。
Kはまだ、50歳前であるが、Kが生まれた頃には、パソコンなどというものは無く、洗濯機も掃除機も一般家庭にはほとんど無かったのではないだろうか?

南こうせつさんが昔かくや姫というグループで神田川という歌を歌っているが、その頃の電気は「裸電球」だったのである。

急激に発達した文化が、人間に錯覚を与えているのであろうが、福祉の限界は錯覚によって過大に期待されているような気もする。
老人介護も綺麗事では済みはしないし、体罰した方を「罰する」などというエセ人権主義も綺麗事であり、貧困層救済も綺麗事を言っていても仕方がないのだろう。

少なくとも怠惰や乞食を育てるような綺麗事では「良い社会は築けない」だろうと思う。  

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