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(回答先: Re: なかなか、考えさせられるご意見です。感謝しておきます。m(__)m 投稿者 キルケゴール 日時 2009 年 1 月 16 日 23:31:52)
執着ではなく祝着
辿り着くべきところはまだ先にある
目指すべき境地というものは
そんな生半可な気構えで辿り着けるものである訳がないだろう
中途半端なご意見は獄牢さまである
自分に甘い人間は人にもただ甘いものを手渡すだけである
それは何故かと言えば
人を思うより思われる事において
自らに都合がいいからだ
さて
原則として生命はその本質において皆平等である
上も下もなく
赦す赦さないの立場もない
しかし本来人が何の為にこの地で生まれ育っているかと言えば
そう「育つ為」である
「地」は「生」を育むのだ
そしてここは学び舎である
さまざまな学校に我々は身を置いているだろう
楽に卒業させるところもあれば
なかなか卒業出来ない所もある
優秀な人間の集まる学校は
それだけ厳しい試練をくぐり抜けなければならない
我々はよりよい学びを得たいと願うものなのだ
楽して生きるという事はあり得ない
しかし「苦労は買ってでもしろ」というように
苦労無くして学びはない
人とは向上心を以て良しとするのだ
「理想」とは「向上する心」の中にのみ見れるものなのだ
人ひとりが己の安息なる日々を求めんが為に
周囲の平和を望むというものでなどある筈がない
これは個人の我欲を満たすもの以外のなにものでもない
故に「理想」という字義字面のみに溺れ
「向上心」ないものだけが嘆くのである
類い希なる向上心を持つものが
叶えられぬような理想を実現なし得るものである
根本にあるのは周囲に喜びを齎さんとする「愛」が為
それが他のものを連れて
さらなる上の舞台へとひきあげていく力となる
その連鎖が希望なのであれば
自身を含めて世の不実を嘆く事など実に愚かしい事だ
希望とはそれを信じて疑わず邁進するもの以外
誰の手にも託されていないのだ
下に落ちていくものあれば手を引っ張り
上に上がるものを讃え祝福するのである
そこに博愛や慈悲の心があるのである
それを「実践」するならば
けして自分に楽な環境など与えられる筈はない
逆に自分の上にいくものの足を引っ張り
下に落ちていくものの手を踏んでは蔑み
また自身では三昧から抜け出そうとせず
その名ばかりの理想をかかげる
理想を実現すると言うならば
自我を棄てる事は辞さない筈なのだ
何も持たず今がマイナスであっても
その十分すぎる程の試練に大いなる境地を見出し
困難な事態に突き当たろうとも
苦労も成長の為の学びと感謝で堪え
心では嘆くことせず
信念を持って己を清め続け
必ず昇る清き日と融け合う時を待つ
それが人の学びであり
人たらしめる姿である
真の理想とは真の人間性の完成である
人ならぬ逞しさ
自己への厳しさ
他人への慈悲と
自身を保つ賢さ
がそれが伴ってはじめて
人が完成に向かうのだ
自身を高みに引き上げていく努力と
なみなみならぬ決意
向上心なくして何も始まらないのだ
故に熱く柔らかいうちに鉄は叩かなくてはならない
それには絶えず日々自身を見つめ
反省し
感謝し
無心となり
人とは何かを己に問い
清め続ける事である
足許の難所を越えずして
登頂に至る道は無い
ありのままの清き存在として無心で
ありのままの清き存在の前に感謝体を曝け出す
そうして新たな一歩を踏み出せば
知らぬまに思いがけずして
いつのまにか視界は晴れわたるものなのだ
「理想」と「博愛」を
「自己実現」と「自己表現」の道具に取り違えた
実にうぬぼれた自画自賛の人間が
シロップに浸かった希望観測を立て前にばらまき
またその上で嘆き憐れみし
ありもしない峠を上り下りして
疲れ臥している有様を人前に表現しているもの
それは同じような人間を続発させて
多くの人間性を低い位置に留まらせるのである
受け容れ難きを受け容れずして生命は成り立たぬ
受け容れ難きもの
受け容れざるを得ぬもの
それは「死」だけではない
およそ試練と覚えるものすべて
人は学びの為に産まれてくるのであって
学びを修める為に生きていくのである
学びの必要がない人間など居ない
むしろ進んで学びに「執着」し
相容れぬものに飛び込んでいく事は「良い」のである
またそうした事態に直面する事は
学びが確かに修得しえたものかを実践するよい機会なのである
足りぬものが自分にあればそこで学ぶことになる
そしてそれを正解で乗り越えていく都度
人はより大きな学びと共に大きな祝福を身の内に得るのだから
一朝一夕でいかないことだからこそ
その先に目指すべき境地をしっかりと見定めなくてはならない