03. まず自分で定義し証明しなさい 2010年9月22日 12:19:15: WQOBFhCF6/y9A
: uMbTlWO7H6
深入りするつもりはなかったが粘着君が現れので少し議論に参加してみる気になった。これは粘着君の狙い目であったようだが、しかたない。 >無邪気なホロコースト・リビジョニスト http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/jew3.htm >。ヨナチ『ガス室』はなかった」の筆者・西岡昌紀とは何物なのか? >どこまでも西岡氏は「いいひと」だった。そしてたぶんこうした無邪気な「善人」を、多くの日本人は決して嫌いはしないだろう。罪の自覚を欠いたその無邪気さは、私たち自身の中にも間違いなくある。
>延々と「アウシュビッツには"ガス室"など存在せず、その故に"ガス室"で殺されたユダヤ人は一人もいなかった」という主張がつづられている。一読して、欧米のホロコースト・リビジョニストのプロパガンダの無批判な受け売りとわかるものだった。 無批判な受け売りはいけませんよ! > まず切実さがない。むろん苦悩もない。売名や商業的成功を狙っている気配もない。ただただ、愉しみのための愉しみとして、現代史の「謎解き」ごっこに熱中しているオタク−−そんな像がおぼろげながら浮かんでくる気がしたのである。 オタクだったの? >。ヨ理解できないもの」を前にしてなお「理解」しようとし、震えながら立ちつくすなどというとは一切やめてしまう。そのかわりにポケットからメジャーとフラスコを取り出して、「聖地」を計測し、サンプルを採取し、その「データ」を母国へ持ち帰って「科学的な検証の結果、ガス室はなかった」と言い出すことだ。自称エンジニアのフレッド・ロイヒターという男がしたことは、そういうことだった。 このフレッド・ロイヒターという男がそのそもの発端だったのか? >彼は「ガス室は存在しなかった」という自説に都合のよい論拠や証拠のみを無批判につまみぐいして拾い集め、そうした証拠の真偽についての個別の検証をまったく省き、他方、自説を揺るがす証拠・論拠は一切無視している、ということだ。 西岡に限らずこの阿修羅にはこの手の人間が多いね。 > 話を聞きながら不思議な気分にとらわれた。西岡氏は記事の中で、乱暴に要約すれば (1)ホロコースト=ガス室と一般に理解されている。 (2)しかしガス室はなかった。 (3)したがってホロコーストもあったとはいえない−−という強引な三段論法を展開している。ホロコーストという言葉は大虐殺、より正確に定義すれば平時と戦時とを問わずなんら法的根拠をもたない殺戮、という意味だ。西岡氏が言う通り、その罪の重さは規模の大小にも、そして用いた手段にも関係ない。 >極論を述べるならば、ガスか銃弾かは問題ではない。「定説」の600万人という犠牲者数が仮に10分の1の60万人−−阪神大震災の死者の約100倍−−だったとしても、その罪は決して軽減されない。だが、西岡氏はそれを「ナチスによる迫害」という微温的表現にとどめ、しかもホロコーストがなかったと主張するその文章を「露と消えたユダヤ人の霊前に捧げたい」としめくくっている。これを無神経、という言葉以外にどう表現していいのか、私は知らない。 >ホロコーストはイスラエルの政治的立場を有利にするために仕組まれた巧妙な嘘であり、イスラエルはナチス・ドイツ以上に悪辣なのだ、などと決め付ける主張が混ざり込むと、困ったことにそこには一定の奇妙なもっともらしさが生じてしまう。 それはひどい! 木村愛二氏とのガス室論争 http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/holocaust/holocaust.htm 指摘された内容を理解する意志も能力もなく、ただひたすら自分の思い込みを繰り返すことしかできない西岡氏は、ホロコースト否定論を主張する人々の程度と実態を誰の目にも明らかにしてくれたという意味で、木村氏以上に優れた反面教師だったと言えるでしょう。 >優れた反面教師だった! >ホロコースト否定論の起源はフランスやドイツの極右勢力に求めることができるが、現在その中心はカルト的言論に対する規制が緩い北米に移っており、特にカリフォルニアに本拠を置く疑似アカデミー組織IHR(The Institute for HistoricalReview)がその総本山的役割を果たしている。代表的論者としてはロベール・フォリソン、マーク・ウィーバー、ブラドレー・スミスなどがいる。彼らの主張と比較してみると、日本の否定論者は欧米の言説を直訳輸入しているに過ぎないことがよく分かる。 「ガス室の嘘」 http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/holocaust/lets23.htm >私のような素人がホロコースト否定論の「プロ」に対抗できたこと自体、NizkorやTHHPの方針の正しさを示していると言える。謬論に対する反撃をその場限りのもので終わらせてしまうのではなく、他の心ある人々が再利用できる形で記録や資料を公開し、できる限り広く情報を提供していくこと、そのようにして次々と理性的な反論の輪を広げていくことが、例えば日本版否定論に対する反撃手段についても貴重なヒントを与えてくれているのではないか、これが今回の論争を終えての私の実感である。
|