36. 2015年2月21日 13:37:21
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坂本竜馬が言った「日本を洗濯したい」について↓のような考察もあるんですね。 >加治将一氏によると、英語では、何か「よくないこと」を「よ くする」ことを「掃除」とはいわず、「洗濯」という単語をよく 使うのです。 詳しくはこちらに書いてあります。
mixiコミュニティ http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=5535913&id=61834456 ●イルミナティの犬の犬 坂本竜馬 2011年04月25日 05:19
つぎはぎの動画のみが残り、全部は見れませんが、
↓これも1と3が削除されています。 http://vision.ameba.jp/watch.do?movie=558512 (削除) (★ソースは消えていますが、紹介の動画3本は健在です) ●動画の番組の中にも出てくる倒幕の際に幕府側に側近として付いていた西周が 記録が残っている中では、最初の日本人フリーメーソンです。
●(WIKIPEDIAに書かれても数日すれば消されています。 証拠がオランダに確かに残されて、こうして番組になっているにも関わらずです。) ●なぜCIAからPODAMのコードネームをもらって活動していた正力松太郎がイルミナティの後ろ盾で立てた ●NHKが〇〇学会員の福山を使って、TPPのタイミングで開国を徹底賞賛する為に日本を売国した坂本竜馬に扮したドラマを作って流したのか?
●イルミナティの犬にすらなれなかった犬の犬の竜馬を、 ●日本人は徹底的にメディアによって美化させられているのです。 以下抜粋 NHKの大河ドラマ『龍馬伝』を見ておられるでしょうか。私 は内容のいかんに関わらず、習慣としてNHKの大河ドラマは必 ず見ることにしています。もちろん今回も一度も欠かさず、見て いますが、見れば見るほど坂本龍馬という人間がよくわからなく なるのです。今回の『龍馬伝』はいささかおかしいのではないで しょうか。
別に歴史を忠実に描けというつもりはないのです。ドラマなの ですから、いろいろな脚色があってよいし、何よりも面白いこと が一番ですが、それほど面白いわけでもないのです。何よりも問 題なのは、坂本龍馬という人間を意図的にある特定のイメージに 変質させて伝えようとしている──そんな気がするのです。 私が今回EJのテーマとして、「坂本龍馬」を取り上げる気に なったのは、まだ猛暑が続く8月のある日に、浜松町のdan文 教堂で次の本を発見して購入してからです。 ――――――――――――――――――――――――――――― 榊原英資著 『龍馬伝説の虚実/勝者が書いた維新の歴史』 朝日新聞出版刊 ――――――――――――――――――――――――――――― 著者を見て一瞬間違えではないかと思ったのです。しかし、著 者は紛れもなく、経済学者で「ミスター円」の異名を持つ榊原英 資氏に間違いないのです。榊原氏は本の「はじめに」で次のよう に述べています。 ――――――――――――――――――――――――――――― 現在の国際経済、そのなかの日本経済を理解する上でも、歴史 特に世界のなかの日本の歴史を理解することはきわめて重要で す。なかでも明治維新から第二次世界大戦に至る時代がどのよ うな時期だったかについては、かなりの誤解があるようです。 そしてその誤解には龍馬伝説が深く絡んでいると思われます。 筆者は、龍馬をめぐる誤解を正すことによって明治という時代 を再評価し、それを「戦後」を考える一つのよすがにしてみた いと考えています。 ──榊原英資著/朝日新聞出版刊 『龍馬伝説の虚実/勝者が書いた維新の歴史』 ――――――――――――――――――――――――――――― 歴史は勝者が書くのが通常ですが、榊原氏は坂本龍馬を司馬遼 太郎のように勝者である薩長の側から見るのではなく、幕府の側 つまり、横井小楠や勝海舟の側から見ると、かなり違った光景が 見えてくるといっています。 司馬遼太郎は、そのベストセラー『竜馬がゆく』において龍馬 を薩長同盟を成立させ、幕藩体制を倒して、素晴らしい明治をつ くった革命児として描いています。しかし、本当に、そうなので しょうか。 『竜馬がゆく』は、司馬遼太郎が昭和37年(1962年)〜 41年(1966年)に産経新聞に連載され、その連載完結の2 年後にはNHKの大河ドラマ『竜馬がゆく』が、演出・和田勉、 主演・北大路欣也で放映されています。 それから約半世紀にわたり、龍馬に関しては、学術的なものか ら小説のたぐいまで、膨大な書籍で取り上げられ、映画、演劇、 TVドラマ、マンガ、ゲームなど、とても数え切れない大変な数 に達していると思います。 司馬遼太郎が『竜馬がゆく』を書く以前、というより戦前の日 本では、坂本龍馬の人気は大したことではなかったのです。ちな みに戦前においては、東京帝国大学の学生新聞が毎年行っていた 「尊敬する人物」のベスト4は次のようになっているのです。 ――――――――――――――――――――――――――――― 1.楠木正成 2.吉田松陰 3.西郷隆盛 4.乃木希典 ――――――――――――――――――――――――――――― もし、現在であれば、おそらく坂本龍馬はダントツで第1位に 輝くはずです。しかし、現在幅広く伝えられている龍馬像は実際 の龍馬とはかなり違うものではないかと思うのです。 EJでは、そこを追求したいと思います。しかし、とくに今回 に限らず、今まで何回にもわたるNHKの大河ドラマの伝える龍 馬像は相当インパクトが強いですから、そのイメージを崩すのは 容易ではありませんが、あえて挑戦したいと考えています。ポイ ントは次の2点です。 ――――――――――――――――――――――――――――― 1.今までとは異なる視点から坂本龍馬を探る 2.フリーメーソンと龍馬の接点を探ってみる ――――――――――――――――――――――――――――― 1はともかくとして、なぜここにフリーメーソンが出てくるの でしょうか。 それは、世の中を一変させるような大革命の裏では、フリーメ ーソンは、必ず活躍しているからです。代表的なものを上げると アメリカの独立戦争、そしてフランス革命があります。これらは いずれもフリーメーソンと密接な関係があるのです。 そうであるとすると、日本における最大の政変である明治維新 においても何らかのかたちでフリーメーソンがからんでいると考 えるのは、それほど不思議なことではないのです。 今までの坂本龍馬に関するドラマなどでは、それがフリーメー ソンとの関係で演出されることはないでしょう。しかし、明治維 新でもフリーメーソンは裏でからんでいるのです。EJではその 観点からも坂本龍馬にスポットを当てていくつもりです。 ――――――――――――――――――――――――――――― 『新しい視点から読み解く坂本龍馬論』 ─ 龍馬は真の姿を明らかにする ─ ――――――――――――――――――――――――――――― ─── [新視点からの龍馬論/01] ≪画像および関連情報≫ ●山田雅稔のブログより/榊原英資氏の龍馬論 ――――――――――――――――――――――――――― 『龍馬伝説の虚実』(榊原英資著 朝日新聞出版刊)を読み ました。『第一章 龍馬伝説は明治一六年に始まった』の中 の「忘れられていた竜馬」の項から抜粋し、番号を付けて紹 介します。『?明治維新の直前、1867年11月15日に 坂本龍馬は暗殺されますが、維新後しばらく龍馬は忘れられ た存在でした。龍馬がはじめて注目されるのは、1883年 (明治16年)。土佐の自由民権運動の新聞、土陽新聞にお いてです。?歴史家・加来耕三はその経緯を次のように記し ています。「作者は自由民権運動家で文筆家の坂崎紫瀾(し らん)であった。(中略)幾度か単行本としても刊行された が、人気の高かったことから、後世の人々は、この物語をす べて、事実であるかのごとく記憶してしまった。 http://masatoshiyamada.blog108.fc2.com/blog-entry-687.html ―――――――――――――――――――――――――――
以下抜粋
●「西周が将軍の側近に抜擢される」(EJ第2961号) 西周と津田真道──2人は幕府の蕃書調所で一緒に働き、2人 一緒にオランダに留学しているのです。津田がフリーメーソンに 入会したのは1864年(文久4年)11月のことです。西の入 会が10月ですから、1ヵ月遅れの入会ということになります。 津田真道は津山藩(岡山県)の出身ですが、嘉永3年(185 0年)に江戸に遊学して、箕作阮甫、伊東玄朴らに蘭学を、また 佐久間象山に兵学を学んでいます。藩籍を脱して苦学しましたが 1857年に幕府の蕃書調所に採用され、西と一緒に仕事をする ようになったのです。彼らはれっきとした幕府の人間です。 西と津田がオランダに留学した前後の出来事を時系列にメモし ておくことにします。 ――――――――――――――――――――――――――――― 1862年 西周と津田真道がオランダに留学 1863年 長州藩、伊藤博文、井上馨ら5名がイギリス留学 1864年 西周(10月)、津田真道(11月)がフリーメ ーソンに入会。 竜馬行方不明(10月〜65年4月) 1865年 薩摩藩、五代友厚、森有礼、寺島宗則など17名 がイギリス留学、西と津田が帰国 1866年 薩長同盟 (徳川慶喜将軍に就任/12月) 1867年 津田真道『泰西国法論』発表、船中八策、大政奉 還、竜馬暗殺 1868年 明治維新 ──加治将一著 『石の扉/フリーメーソンで読み解く歴史』/新潮社刊 ――――――――――――――――――――――――――――― 上記メモでわかるように、西と津田がオランダにいたとき、五 代友厚、寺島宗則は英国にいたことがわかります。そしてもうひ とつ上記のメモに書き加えるべきことは、1866年の徳川慶喜 の将軍就任です。( )でメモしておきます。 1865年(慶応元年)に西と津田は帰国しますが、幕府から 開成所の教授に任命されます。勤務地は江戸です。開成所は幕府 が創設した洋学教育機関です。 1865年9月のことですが、西は徳川慶喜の重要ブレーンと して抜擢されます。西の役割は、徳川慶喜に西欧の事情を詳しく レクチャーすることにあったようです。 ここで重要なことは、フリーメーソンが徳川慶喜の側近として 張り付いている事実です。これは大変なことであるといえます。 何か大きな力が働かないと、こういう人事は実現しないのです。 前回述べたように、記録は残っていないものの、西とグラバー とは接点があると思われます。仲介者はライデン大学のフィッセ リング教授です。西も津田もこの教授の説得によってフリーメー ソンに入会しているのです。 ここで注目すべき人物はまたしても五代友厚なのです。五代は グラバーから最も信頼されていた人物であり、さまざまな指令を グラバーから受けているはずです。グラバーにとっては、幕府の 要人である西と津田は、日本で革命を起こすさいの重要な手駒に なるはずです。 当然グラバーとしては、自分の腹心である五代と西と津田に会 わせたいと考えても不思議はないのです。まして、五代、西、津 山はいずれもフリーメーソンであり、彼らが会って話したとして も他に漏れることはあり得なかったのです。 この話は少し置き、五代友厚についてもう少し述べることにし ます。五代は薩摩藩士ですが、倒幕の志士としての五代友厚の知 名度はきわめて低いのです。鹿児島の出身ですが、鹿児島に墓は なく、大阪にあるのです。 鹿児島市の歴史資料館においても、西郷隆盛の人気が突出して おり、島津斉彬、大久保利道などがそれに続いて五代友厚は完全 に脇役に位置づけられているのです。 しかし、明治新政府になって五代は初代の大阪商工会議所会頭 を務めており、大阪実業界のトップに君臨しています。ちなみに 当時の大阪は日本一の商業都市であり、東京よりも数段上であり 一時日本の首都を大阪にすることが検討されたほど、大阪は大都 市だったのです。造幣局なども大阪に設置されているのです。 しかし、故郷の鹿児島での五代の評判は今ひとつパッとしない のです。それは「五代友厚は裏切り者。外国のスパイだ」という 風評があるからと考えられます。 ここまで述べてきたことでもわかるように、五代友厚は闇の部 分を持つ志士であったことは明らかです。そういう身辺の暗さが 五代の評判を落としていると考えられるのです。 ここにひとつの論文があります。国会図書館で加治将一氏が発 見したものです。 ――――――――――――――――――――――――――――― 『パリのめぐり合い』──神戸大学法学部蓮沼啓介教授論文 『神戸法学雑誌』第32巻第2号(1982年9月) ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊 ――――――――――――――――――――――――――――― 『パリのめぐり合い』とは、まるで映画の題名です。この論文 について、加治将一氏は次のようにいっています。 ――――――――――――――――――――――――――――― なぜこの資料が20年以上も国会図書館に埋もれていたのかは 不思議だが、これは、歴史を塗り替えるほどのものと言ってい い。闇に葬られていた事実が、とつぜん目の前に現われ、ざわ りと鳥肌が立った。幕府と倒幕側に、極秘ルートが存在してい たのである。いったいこんなことがあっていいのか? ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊 ――――――――――――――――――――――――――――― 『パリのめぐり合い』には、一体どのようなことが書かれてい るのでしょうか。この内容については、来週に詳しく述べること にします。 ――――― [新視点からの龍馬論/52] ≪画像および関連情報≫ ●五代友厚について ――――――――――――――――――――――――――― 薩摩藩儒者の家に生まれる。通称は徳助、才助。十三歳のと き藩主島津斉彬から世界地図を模写するよういわれて2枚模 写し、1枚は斉彬に献上、もう1枚は自分の部屋に飾って毎 日のように眺めた。23歳で長崎の海軍伝習所に学び、2年 後、長州の高杉晋作とともに上海に渡航、ドイツ汽船を購入 して帰国する。留学生の欧州派遣を建議、英国商人グラバー の斡旋で計18人で渡欧。帰国後は藩の通商貿易に貢献し、 長崎で龍馬と出会った。大洲薄から海援隊へチャーターした いろは丸が、紀伊藩の明光丸と衝突・沈没すると、紀伊藩の 依頼で事件を仲裁、龍馬らの主張を認めた。維新後は外国官 判事をつとめ、実業界に転じた。 ──山本 大著 『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社 ―――――――――――――――――――――――――――
以下抜粋 ●「幕府にもいたフリーメーソン」(EJ第2960号) 「日本をもう一度洗濯したい・・・」──坂本龍馬が姉の乙女 へ宛てた手紙の中の有名な言葉です。加治将一氏はこの言葉に注 目します。幕末の日本語表現は限定的なのです。よく「悪いこと を一掃したい」といいますが、ここでいう「一掃する」というの は「掃除してきれいにする」という意味です。したがって、「日 本を掃除したい」という表現ならばまだわかりますが、「洗濯し たい」という表現は、あまり使わないのです。 ● 加治将一氏によると、英語では、何か「よくないこと」を「よ くする」ことを「掃除」とはいわず、「洗濯」という単語をよく 使うのです。 ●「マネーロンダリング」という言葉があります。脱税した裏金 を表金に変えるときに使う言葉です。「現金を洗濯する」という 意味です。何かを退治するとき、「ロンダリング/洗濯」という 言葉をよく使うのです。 龍馬がそういう言葉を知っていたとは思えず、そこに外国人で あるグラバーの影響を強く感じるのです。つまり、こういう言葉 が自然に出てくるということは、龍馬はグラバーとの間に相当い ろいろなやり取りがあったと感じさせられるのです。 ● 加治将一氏はもうひとつ取り上げています。それは薩長同盟で の取り決めを記した木戸孝允の書状に龍馬が朱筆で裏書きした次 の文章です。 ――――――――――――――――――――――――――――― 表に御記入しなされ候六条は小・西両氏および老兄龍等も御同 席にて談合せし所にて、毛も相違これなく候。従来といえども 決して変わり候事はこれなきは神明の知る所に御座候。 ≪加治将一氏の口語訳≫ 表にある六ケ条は、薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛、長州藩の桂 小五郎、そして竜馬が談判して決めたことに少しも相違ありま せん。この六ケ条が変わらないのは、神の知るところです。 ──加治将一著 『石の扉/フリーメーソンで読み解く歴史』/新潮社刊 ――――――――――――――――――――――――――――― ●加治氏は龍馬の裏書きの「神の知るところ」という部分に着目 するのです。この当時の武士はこういう表現で「神」という言葉 は使わないものです。もし、それをいうならば、「天の知るとこ ろ」というようになるのではないかというわけです。加治氏は次 のように述べています。 ――――――――――――――――――――――――――――― (裏書きの「神」について)私はグラバーを指している、と推 測しているのです。当然小松、西郷、桂ともに大スポンサーで あるグラバーと直結しており、「神」の単なる「名代」として 龍馬が保証人におさまった、と考えているのです。 ──加治将一著の前掲書より ――――――――――――――――――――――――――――― グラバーは、一貫して長州藩や薩摩藩などの雄藩を支援し、倒 幕の動きを加速させていたように思えます。しかし、グラバーは 幕府にも手を伸ばしていたのです。それも徳川慶喜の側近に手を 打っていたのです。それは西周(にしあまね)という人物です。 西周は、江戸の蕃書調所の教授をやっていたのです。蕃書調所 というのは、安政3年(1856年)に発足した江戸幕府直轄の 洋学教育研究機関です。開成所の前身で、東京大学の源流諸機関 のひとつであり、現代でいうと、西は東京大学の教授といったと ころです。 西は文久3年(1862年)に幕府の研修生としてオランダに 留学しています。留学先はライデン大学です。学んだのは、自然 科学、国際法、国内法、政治学および統計学です。 その西周は、ライデン大学から近くにある「ラ・ベルトゥ・ロ ッジ ナンバー7」に加盟し、フリーメーソンになっています。 現在記録に残っているという意味では、日本人最初のフリーメー ソンということになります。同ロッジに残されている入会記録は 次のようになっています。 ――――――――――――――――――――――――――――― 1864年、10月20日。第一階級として入会。日本国、津 和野生まれ、35歳、日本国官吏としてライデンに在住の西周 助(本名)署名・ ──加治将一著の前掲書より ――――――――――――――――――――――――――――− この西周とグラバーとの接点を示す記録は何もありませんが、 何らかの交流があった可能性があるのです。というのは、このラ イデン大学には、若きグラバーの写真が残されているからです。 ということは、ライデン大学とグラバーとは何らかのつながりが あったことを示しています。この大学の日本学科には今でも多く の学生が在籍し、日本語研究にかけては、ヨーロッパでもトップ クラスの力の入れようなのです。当時日本のことを熟知していた グラバーと関わりがあっても不思議はないのです。 おそらく西はグラバーと面識があったと思われます。蘭学を志 していた西が、長崎のオランダ人を通じて西と知り合う可能性は 高いと思われるからです。 推測ですが、事前にグラバーは西と会い、フリーメーソンの基 礎知識を教えたのではないかと考えられます。そして、グラバー は、ライデン大学のフィッセリング教授を紹介したと思われるの です。まフィッセリング教授はもちろんグラバーとフリーメーソ ン仲間なのです。 グラバーとしては、幕府の中枢にいる前途有望な若手スタッフ が同じフリーメーソン仲間になけば、何かと気脈を通じやすくな るので、フリーメーソンに入会することは歓迎なのです。 それからもう一人西よりも一ヵ月遅れてフリーメーソンに入会 した幕臣がいたのです。津田真道がそうです。西と同じロッジに 入会したのです。このあたりのことはほとんど知られていない出 来事です。 ――――― [新視点からの龍馬論/51] ≪画像および関連情報≫ ●西周とは何者か ――――――――――――――――――――――――――― 文政12年(1829年)2月3日石見国津和野藩医の子に 生まれる。旧名周助。藩校養老館で儒学を学んだ後、嘉永6 年(1853年)に江戸に出て蘭学を学ぶ。翌7年脱藩して 蘭学修業に専念し、手塚律蔵の門に入る。安政4年(185 7年)手塚の推薦で蕃書調所教授手伝並に任命され、文久2 年(1862年)には幕府オランダ留学生のひとりとして渡 欧した。オランダでは、津田真道とともに、ライデン大学の フィセリング教授から法理学・国際公法学・国法学・経済学 ・統計学を学んだ。慶応元年帰国し、翌2年には幕臣にとり 立てられ、開成所教授となった。徳川慶喜の諮問に応え、大 政奉還後の政権構想として「議題草案」を起草した。 http://daigikan.daa.jp/nisi.html
より抜粋 http://electronic-journal.seesaa.net/article/173699919.html _____________________________________ 竜馬を賛美する司馬遼太郎とは何者なのか?について述べてあります。 虚空と君の間に http://www.mkmogura.com/blog/tag/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E こっちは本当ですかね?! 2ちゃんねる http://nhk.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1423398644/
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