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(回答先: 平和を説き乍ら鬪爭だと云ふ矛盾を何の疑問を抱かず平氣で宣つたり永久革命などと云ふ狂つた論理を展開する革命道徳とは一體何か 投稿者 石工の都仙臺市 日時 2009 年 12 月 01 日 22:57:19)
ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/Dostoevski.htm#owari
5、おわりに−ドストエフスキーとチェルヌイシェフスキー、レーニン
彼の未完・第二部のかわりに、「現代」の革命運動が激化し、彼が洞察した四重底、五重底をもった革命と大量の革命思想殺人事件が“歴史の原稿用紙”に書きこまれた。『悪霊』と『大審問官』伝説の世界が、現実のものとして巨大な姿を現した。ドストエフスキーが3作品で探求した無神論革命思想殺人事件は、数十万倍の規模となって炸裂し、ロシア全土を覆った。
1880年の『大審問官』というドストエフスキーの洞察から37年が経った。スイス亡命革命家レーニンは、ドイツ軍部が仕立てた「封印列車」でフィンランド駅に帰国した。それからわずか7カ月後、1917年11月7日、レーニンは、臨時政府権力とソヴィエト権力という二重権力双方にたいする単独武装蜂起・単独権力奪取クーデター手法により、赤色テロル型一党独裁・党治国家の最高権力者になった。
ソ連崩壊後、現在までに、「レーニン秘密資料」6000点や膨大なアルヒーフ(公文書)、秘密文書が、続々と発掘・公開された。それらが暴露したことは、最高権力を行使した5年2カ月間において、レーニンがしたことは、まさに、『大審問官』的政治そのものだった。
私は、別ファイル多数で、その政治・政策内容、および、レーニンの殺人思想用語、具体的な大量殺害指令用語を詳述した。私の推計によれば、レーニンは、ボリシェヴィキ党独裁・党治国家に抵抗・反対・批判する反乱農民、ストライキ労働者、反乱兵士・水兵、「反ソヴィエト=共産党に協力しない」知識人、聖職者・信徒など、最低でも数十万人の異論者を殺害・強制収容所送り・追放した。1991年のソ連崩壊と彼による大量殺人データ発掘・公表までは、とても信じられなかったことであるが、レーニンはついに現世に誕生した『大異端審問官』だった。
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』
『「スターリンは悪いが、レーニンは正しい」説の検証−レーニン神話と真実』ファイル多数
ドストエフスキーは、イワンに「神や魂の不死はない、つまり、すべては許される」と語らせた。スメルジャコフは、それを「殺人も許される」と受け止めて、父親殺しをした。1880年当時、ナロードニキら革命派が掲げたのは、「戦闘的無神論」だった。ドストエフスキーは、そのイワン発言を通じて、ロシア型「戦闘的無神論」が内包する革命倫理の行きつく先を予言した。
彼は、“ロシアにおける社会主義革命という目的・理想があれば、その一党独裁党派「われわれ」による「異端者」の大量殺人・追放という手段はすべて許される”=“社会主義目的は大量殺人手段を正当化する”という権力システムが誕生することを予言した。
ソ連崩壊後の「レーニン秘密資料」6000点などで、初めて明らかにされたことの一部は、以下である。レーニンは、権力奪取と同時に、「神はいない、つまり、すべては許される」をさらに発展させたボリシェヴィキ型「戦闘的無神論」=人民の敵は殺せという赤色テロル信念を実行に移した。彼は、1922年前半、その「戦闘的無神論」に基づいて、教会破壊・教会財産没収だけでなく、ロシア正教聖職者数万人を銃殺し、信徒も数万人殺害した。
そして、1922年後半は、旧ロシア・ソ連文化人・知識人たちに「反ソヴィエト」というレッテルを貼りつけた。彼は、旧ロシア・ソ連文化人=共産党員でなく、共産党に協力しない知識人の国外大量追放を「作戦」と名付けた。その実行を、秘密政治警察チェーカーに指令し、自らも多数の追放リストを作成した。彼は、数万人の知識人を、(1)国外追放、(2)国内流刑、(3)強制収容所送りにし、それにより旧ロシア・ソ連文化の人的絶滅作戦を遂行した。この詳細なデータは、『聖職者』ファイル、および『知識人』ファイルに載せてある。
『聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理』レーニン・スターリンで約70万人殺害
『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』
哲学者ベルジャーエフも、その一人として国外追放された。彼は、追放前の1918年に、はやくも、レーニンのロシア革命を根源的に批判するとともに、「ドストエフスキーは、ロシア革命の予言者」とした。彼の1918年論文『ロシア革命の精神』は、『深き渕より--ロシア革命批判論文集2』(現代企画室、1992年)にある。そして、次のように分析した。
「ロシア革命はドストエフスキーが洞察し、天才的に鋭く見破ったまさにあの原理によって育まれたのである。ドストエフスキーにはロシアの革命思想の弁証法をとことん暴き出し、そこから最終的な結論を引き出す眼力があった」。「ドストエフスキーはロシア社会主義の果実がいかに苦いものとなるか予見したのである。彼は西欧のそれとは似ても似つかない、完全に独自なロシア的ニヒリズムとロシア的無神論の根源的な力を暴き出した」(P.66)。
ベルジャーエフは、レーニンの人格についても、1922年国外追放までのレーニン直接体験に基づいて、次のように規定した。「レーニンとは、権力だけのための権力者である」。
レーニン、スターリンらが強行した強制収容所送り、追放、収容所内死亡、銃殺者は約4000万人とされている。『悪霊』にあるような、革命党派内部での裏切者殺人としてのソ連共産党員と除名された元共産党員の銃殺、獄死は約200万人という、ロイ・メドヴェージェフによる推計もある。治安機関によって反革命罪で裁かれ、死刑となった者の年度別長期統計が、ソ連崩壊後に公表された。それによれば、1921年から23年、レーニン生存中の反革命処刑=革命思想殺人事件は、12、077件で、その後1924年から53年では787、378件にのぼった。
レーニンの兄アレクサンドルは、皇帝アレクサンドル三世暗殺未遂事件で絞首刑になる前、ナロードニキ哲学者・作家チェルヌイシェフスキーの小説『何をなすべきか』を愛読していた。
レーニンも、兄の影響により、その小説のストーリーを暗記するほど熟読し、自分の著作に同じ題名『なにをなすべきか』を付けた。それだけでなく、彼は、革命の名を掲げた明白な殺人事件の殺人犯人ネチャーエフを全面的に擁護し、かつ、『何をなすべきか』に描かれた革命ユートピア水晶宮を、『地下室の手記』において痛烈に批判したドストエフスキーの作品にたいし、次のように発言した(1943年、雑誌「三十日間」に掲載)。「『悪霊』のような反動的な小説を読む時間は私にはない。この小説によってネチャーエフのような人の存在がおとしめられている。ネチャーエフのような人はわれわれにとって必要だったんだ」。
兄アレクサンドルは、ツアーリ暗殺未遂だった。当時17歳の弟レーニンは、裁判にかけ、兄を絞首刑にしたツアーリと帝政をどう思ったのか。その事件については、弟レーニン自身、妻クループスカヤ、妹マリアらも完璧な沈黙をしている。その沈黙は、それに関する怨念の深さを物語っていないのか。歴史は、ツアーリを銃殺したのが、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』未完第2部小説上のアリョーシャやコーリャでなく、兄を殺害された、現存する『大異端審問官』レーニンだったことを示した。
1918年7月16〜17日、レーニンは、スヴェルドロフ、トロツキーら3人だけで協議の末、皇帝ニコライ二世の処刑を指令した。そして、7月16〜17日夜、ウラル州ソヴィエト幹部会は、レーニン・スヴェルドロフらによる秘密指令に基づく決定で、エカチェリンブルグにおいて、一家全員の「裁判なし射殺」をした。翌7月18日、全ロシア中央執行委員会幹部会は、ニコライ・ロマーノフ銃殺のウラル州ソヴィエト幹部会決定・執行の事後承認をした。ウラルで殺されたロマーノフ一家は15人だった(稲子恒夫『ロシアの20世紀』P.124)。