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(回答先: 視野狭窄!2<近代>再考 米軍=原発 −隠蔽としての戦後 投稿者 影の闇 日時 2012 年 8 月 06 日 20:59:13)
<近代>modernは、一般的には、《合理》や《自由》といった概念で説明されておりますが、しかしながらそこには、これまであまり議論されて来なかった(そういう意味では自明とされてきた)もう一つの問題が在ります。
そもそも<近代化(modernization、modernize)>とは何か?
それは、それ迄の伝統や慣習に従う態度や行動を否定し(又それ以外の要素を劣位に置いて)、模型(model)を基準とし、只管そのmodelに倣うことを強いるーそういった在り方が優勢及び優性になることを意味します。
従って、モダニズムという時、或いは近現代を考察する場合、常に、モデルの(適否の)問題は憑いてまわることを心得ておくべきです。
元より、1300年前の「文明開化」も同様、このモデルに倣う(学ぶー真似ぶ)事自体、<文明化>に伴う現象として、通有の問題と言えますが、文明の強度というか、持ってる力(パワー)という点からすれば他と比較にならない程強い.
特にアメリカが主導権を握った前世紀以降、それは度外れたものになって来ている。 その理由はお分かりでしょう。
伝統とか慣習等<自由><合理>を掣肘する要素が強い「旧世界」=ヨーロッパと異なり、「自立した個人」なり「個人の自立」という理念(擬制)を前面に押し立て、主導動機とし、それらを制御する機能を出来るだけ低めようとする国家や社会においては、理念の強度が並外れたものになる。 理念には限度は無いからです。
米(ソ)という理念型国家によって主導された20世紀が「極端な世紀」(E.ボブスボウム)※となるのは必然でした。
考えてみれば、「度外れたor極端な」という意味を持つスーパー (super)=「超」程アメリカに似つかわしい言葉はありません。
”スーパーパワー”「超大国」、”摩天楼”「超高層ビル」、”スーパーマーケット”「超市場」、”スーパーマン”「超人」
ー何れも「度外れた、規格外の」の物事を指し示すこれらの事象がアメリカから現れたというところに、自らの出自であるヨーロッパを模範とし、それを模倣しながらも、その規範の逸脱に自らの存在理由を求めるアメリカならではーということでしょう。
してみれば、度外れた破壊力を持つ、超兵器としての核爆弾も又、アメリカに生まれるべくして生まれたのかも知れない。
そうして、大戦後、世界は斯かるアメリカを模倣することによって、又アメリカは模倣されることにおいて、名実ともに、世界に君臨したわけです。
※この書物自体は如何にもアングロ流のマヤカシとスリ替えによって描かれたシロモノです。 丁度、アジアにおける「帝国主義」、「侵略」と「植民地主義」を、主犯であるイギリス等の西欧列強は問われず、「戦争責任」と絡めて、事実上、日本の問題として論じられてることと似ています。 ソ連は独自現象なのではなく、あくまで付随現象であり、理念型国家アメリカの世界への登極(イギリスからアメリカへの覇権交代)に対応して、大陸に創り出された理念型国家及び社会だったのですから。 そうして、この点から観ても、左翼の錯誤は明らかでしょう。 アメリカという光源乃至熱源の反照である(しかない)ソ連を光源乃至熱源と見做していたのですから。 言うならば、左翼の過ちは、月でしかなかったソ連を太陽と誤認したことにあったのです。
日本の場合も又、明治以降、「文明開化」westernization=西欧列強をモデルとし、それを模倣することを中心に置いて、国家や社会を改変して来たことはご存知の通り、そしてその指針というべきものが「脱亜入欧」、スローガンが「富国強兵」というものでした。 戦後は、アメリカをモデルにすることにより、「強兵」を除いて、更にこの傾向が度外れになったことは丸山真男も指摘する通りでしょう。
「富国」というのが「殖産興業」、工業を中心とする産業近代化であり、電力が19世紀後半以降の産業近代化の中核であったことを考えれば※、それは殆ど<近代化>即ち文明化Civilized=都市化と同義であった、言い換えれば電化は「文明」或いは「富国」の指標であった、と言えます。
※「共産主義とはソヴィエト+電化」と言ったのはレーニンでしたが、これ程見事に、「共産主義」若しくはML主義思想とは<近代化>の内での権力問題である(に過ぎない)ことを言い表してる発言はありません。
また、「強兵」というのが、それまでの300の藩兵に別れて在ることを止め、中央集権化に伴う軍制(徴兵制)により、統一された、強力な軍事力を創り出す。 そしてその事によって、幕府崩壊の主因であった「攘夷を実現する」ということ。
ーだとすると、ヒロシマは(この強力な軍事力を以って「攘夷を実現する」とした)「強兵」策の破綻を象徴していることは明らかでしょう。
そうだとすれば、フクシマは、上で述べた意味で、「富国」策の破綻を明示的に示していると言えるのではないか?
フクシマが劇的に示したものは「富国」の内実、即ちそれが(農村を犠牲にする)都市化でありーそれを(地方を蔑ろにする)中央集権化によって実現したもの、それを裏返せば、中央に集まって来る富のお零れで地方や農村は持っている※、ということでしょう。
※「公共事業」という名の「富のお零れ」の減少につれて農村や地方の状況悪化は一段と進んでおりますが、原発立地地域、所謂”原発村”は、斯かる都会と農村、中央と地方の関係を、端的に、極めて分かり易く見せつけたものでしょう。
つまり、ヒロシマとフクシマの二つが意味しているのは明治の「文明開化」以来の歩みがハッキリと限界を露呈したこと、その意味で文明のcritical point臨界点に達してる、ということなのです。
そうして、言うならば文明の臨界点として<核>を捉える時、近代化(modernization、modernize)の前提として在るmodelモデルの問題も又、同時に、陰画の様に、浮び上がって来ているーと見なければならない。
いわゆる”ポスト・モダン”の真に問題とされるべきものは”モダン”の内実、冒頭で示した<モデル思考>と<モデルの適否>の問題です。 即ち、模型(model)を基準とし、ひたすらそのmodelに倣うことを強いる在り方の正否と、そのモデル自体が適してるか否か?の問題。
我々が最早明治以前の関係に戻れないと言うのであれば、尚更この問題は焦眉の急のはずです。
勿論この問題に早急に白黒を即けることはそれ程容易いことではないでしょうが、少なくとも「モデルの適否」の問題は決着を即ける段階に来ているーその意味で、フクシマはその指標たり得るーと思うのです。
極めてタイムリーでもあった「フクシマ」論を提示した開沼博氏の着眼が優れているのは、フクシマを、”ポスト・コロニアル”な視点で「国内植民地」として捉えると共に、(対米戦での)日本の敗北に重ね合わせた所に在ります。 「民族自決」(米)や「民族解放」(ソ)の流れの中で一端解消したかに見えた近代における「植民地問題」は、終ったのではなく転位しているのであり、その限りで、見えなくなっているに過ぎないということ、しかも戦後過程がそれを見えなくしている、ということです。
そうして、まさしくこの意味で、「普天間基地」を巡る「在日米軍」の問題と全く同一の(論理)構造であることが解るでしょう。 両者はしばしば重なる。 「原発」を積極的に肯定する者は「在日米軍」についても丸で同じ主張をしているし、止むを得ない、「必要悪」とする者はどちらもそのように論じる、そうしてそのくせ、必要(悪)にも拘らず、自分の処に持って来るのは嫌だという点でも! 更に又、その被害者にならない限り、その実体や正体は分からないし、見えて来ないという点においても!
P.ヴィリリオが言ってる様に、「事件」や「事故」とは、そうした見えなくなってる実体や正体が顕わになることでもあります。
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