投稿者 影の闇 日時 2010 年 3 月 14 日 16:41:25: HiXvZf/FmwPNU
欧米の所謂「エコロジスト」なる奴らは何故クジラやイルカを環境保護のシンボルにするのか?−これは案外重要な問題を含んでいるのではないだろうか。 私見によれば、ここにこそ、”文明の衝突”や”グローバリズム”同様、「環境」という冷戦以降の主要なアジェンダ(問題設定)における西欧、殊に米英等アングロ勢力の狙い(覇権戦略)及びその思考の典型が透けて見えるのである。
考えてもみよ、鯨やイルカを1頭たりとも殺すなという一方で、牛や豚、鶏を「強制収容」して「大量屠殺(!)」することに何とも思わない−矛盾すら感じない−その思考こそ彼等の「環境思想」のイデオロギー的特徴(その原型)を示すものではないか。
牛や豚とクジラやイルカとの違いは前者は家畜、後者は野生動物、そうして前者は食料に過ぎず、後者は文明と自然と分けた時の自然に属するーこれは<遊牧・牧畜>を原型とするヨーロッパの思想である。 言うなれば彼らの「環境」とは「遊牧・牧畜型の環境」なのである。 そうして、文明と自然を対立(概念)として捉え、これまでの制圧(支配)の対象としてきたのを、「共生」(?)への姿勢転換を偽装するシンボル装置としてクジラやイルカが使われているのである。 では何故、他の動物ではなく、クジラやイルカだったのか? それは野生動物の中でも「人間に近い」と彼らが観ているからである。 そうして、「人間に近い」とするその理由が「知能が高い」とか「人間と会話出来る」といったものである。 後者の「人間と会話出来る」から「言語ゲームを共有出来る」=仲間として、又前者の「知能が高い」というのが、反対に動物を<知>によって差別化し、その事によって、それに関わる民族や文化への差別や偏見をもたらすものになるのは明らかである。
ここで我々は、植民地主義や人種差別をもたらした西欧近代の特殊な人間観を想起しておくべきだろう。 即ち「神中心の中世」から「人間中心の近代」という時、神に取って替わったその人間とはー『コギト』(我思う)によって権利付けられたー<理性的存在>として捉えられたものである。
そしてこの<理性>が強調される時(啓蒙主義)、その対極に在る<狂気>の監禁(M.フーコー)がなされ、また知的に劣るとされた存在が<人間>として劣位に在り、従ってその権利に与れないとされるのである。
ジェファーソンが「権利章典」から有色人種を除いたのも、ルソーが”野蛮人は苦脳を知らない”(自我が無いから!)というのも、かかるイデオロギー的<人間観>によるものなのだし、この「<狂気>の監禁」の延長線上に「”テロリスト”の強制収容所」グアンタナモ基地が在るのだ。
つまり、<近代的主体>が−<知>によって担保された−<コギト的主体>であるが故に、西欧ヒューマニズムは<知>による差別を創り出すのである。 従って、逆に言えば、他方このヒューマニズム(=人間中心主義)はその適用範囲ー(『コギト』(我思う)によって権利付けられた)自己中心のゲームが出来る範囲ーを定めたものであり、同時に、それ以外への差別を宣告したものでもあるのだ。
非西欧世界にとって、”ヒューマニズム”がエゴセントリズム(自己中心主義)の別名であり、”人権”が差別や偏見しかもたらさない理由がここに在る。
本来ならば、危機的な環境破壊を招いた直接の原因であるはずの、所謂大量生産=大量消費の”アメリカンウエイ・オブ・ライフ”こそがその狙上に登らなければならなかったはずである(当然の事ながら、イルカやクジラはそれには関係ない)。 それなのに敢えて「環境保護」を「動物愛護」にすりかえ、しかもその頂点に(知能の高い!?)イルカやクジラをシンボルとして据える時、その運動は<西欧近代的価値規範>の擁護に過ぎなくなるのは見易い道筋であろう。
キリスト教の布教活動が欧米の植民地支配に果たした役割を考えるなら、装いを変えた布教活動とも言えるその「運動」は、結果として、欧米支配の延命をもたらすものにしかなり得ないのは自明である。
近年、徳川時代における悪法の代名詞であるあの”生類憐みの令”が、実は、戦国時代以来の「尚武の気風」を削ぎ、それと共に大量に出回っていた鉄砲等の回収を狙う−そのことによって幕府権力の強化を目論んだもの−とする注目すべき説が出ているが、その運動は、さながら現代版”生類憐み”と言えるであろう。
それどころか、かってクジラをエネルギー資源とのみ捉え、大量捕獲=殺戮(!)を繰り返してきたその張本人どもが(一体、幕末の、彼等の開国要求の目的は何だったか!)今度は素知らぬ顔をしてその保護にまわる、そのグロテスクな転向に介在している論理が”他の動物とは知能の程度が違う”とするーナチスの「アーリア人優越思想」さながらの!ー動物に優劣の序列をつくり上げる差別思想に他ならないとすれば、彼等の運動は、異文化の抹殺を必然化するーその意味で、白人文化(遊牧・牧畜型※に淵源する)優越の思考を「環境」に投影したに過ぎない!ー環境優生思想(エコナチズム)と呼んで差し支えないであろう。
本来の環境問題とは何の関係も無い、かかるホワイト・ナチズムをこそ批判の対象に据えるべきではないのか?
欧米の口調をオウムする、日本の「エコロジスト」諸君に是非とも尋ねたいところである。
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