★阿修羅♪ > 議論30 > 185.html ★阿修羅♪ |
|
内ゲバをどう乗り越えていくのかの議論をしませんか? http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/185.html
議論を行うに当たって津村洋氏の文章を転載しておきます。 http://www.ngy.1st.ne.jp/~ieg/ieg/inter/vol5-4/tmr1.htm 問題提起:「内ゲバ」を一掃するために Ver.2 【以下は、『共産主義運動年誌』第3号への原稿として執筆したものです。その発行・出版が10月にずれこんだため、ここに先に転載することにしました。 津村】 二〇〇二年七月三一日 津村 洋(『国際主義』編集会議IEG)
日本の新左翼諸党派を中心とするいわゆる「内ゲバ」の歴史は、一九六○年代初頭から始まり、六○年代後半から激化の一途をたどってきました。主として革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)、革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)、革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)の間で多大な死傷者を生み出した「内ゲバ」は、日本の社会主義・共産主義運動、革命を求め社会変革を希求する左翼運動への幻滅を促し、さまざまな大衆運動に甚大な打撃を与え続けてきました。 「内ゲバ」とは、政治的な路線・方針の異なる組織内のメンバーや対立する組織のメンバーにたいして暴力的に襲撃し、負傷・死を強制するテロルです。 直接に手を下さないまでも、留守宅に忍び込んでバールをおいておいたり、動物の死骸(の一部)を送りつけたり、あの手この手の嫌がらせ、脅迫行為もまた「内ゲバ」の一環として横行しました。 労働者=無産者、抑圧され・差別された民の人間的な解放を求めた左翼が、かかる「内ゲバ」的な非人間的テロルに専念し、酔いしれた惨状は徹底的に総括され、克服されるべき負の歴史的遺産です。 この間「内ゲバ」は、それを実行してきた組織自体の腐敗・混迷・衰退により下火になってきていますが、ここ数年のタームでは、分裂した解放派相互の間で、まるでやくざまがいの殺し合いが展開されてきました。 「内ゲバ」はけして過去のものではありません。 また、中核派は、中核派の元政治局員である白井朗さんにたいする反革命宣言に続き、本年三月四日の週刊『前進』(2043号)において、「反軍闘争に敵対し反階級的転向分子に転落した小西誠」を公表し、反戦自衛官・小西誠さんにたいする「反階級的転向分子」、つまり反革命規定をなし、粉砕の対象として宣言しています。 このようにいまだ新左翼世界に「内ゲバ」的テロルが生々しく余命を保っており、情勢いかんではいつでも再度激化しえます。 したがって、まっとうに社会・政治変革を求め、左翼的・革命運動の再興をめざすものにとって、「内ゲバ」的な思想・路線・体質を批判し、一掃するためのラディカルな闘いが必要不可欠です。 昨年一一月、社会批評社から『検証 内ゲバ 日本社会運動史の負の教訓』(いいだもも、生田あい、栗木安延・来栖宗孝・小西誠共著)が刊行され、これにたいする賛否両面が『かけはし』グループや「赤色もぐら新聞」第三号などから提出されています。 さらに、『国際主義』四三号には、「革共同中央による『小西=反革命』規定糾弾!! こころある中核派活動家諸君に訴える 二〇〇二年三月二日 熊谷 直実」が投稿されています。 「内ゲバ」の克服をめぐる論戦が活発になることを願い、なによりも「内ゲバ」という病巣を断固として一掃していくために、初発の問題提起を概略的に記します。
1「内ゲバ」テロルを肯定・推進する黒田寛一の思想・路線 「内ゲバ」を奨励・実行する理論的責任は、まずもって革共同、六二〜三年に中核派と革マル派とに分裂した後は革マル派の指導者である黒田寛一にあります。 第一に、黒田寛一『革命的マルクス主義とは何か?』(こぶし書房)における政治の非合理性の積極的肯定が問題です。 彼はそこでトロツキーには「理論的正当性」があったが、「政治的実践においては敗北」したとし、したがって「政治運動のメカニズムの非合理的側面を決して忘れてはならない」と強調しています。 これは、トロツキーの敗北を理論的に解明せずに理論に実践を対置する反スタ主体性論の極地です。 それは、スターリン主義に対抗して、それを上回る政治の非合理的実践を貫徹するという宣言といえます。 ここから組織を維持し勢力拡大するためには、どんな戦術でも主観的に合理化され、他党派に対するテロルが肯定されるのです。 第二に、革マル派の政治の非合理性を積極肯定する思想から、権力関係とは別個に、あるいは権力を利用して(革命的権力利用主義!)他党派を解体するための運動組織論・統一戦線戦術が体系化されていったことが問題です。 これは、対立党派を破産していると規定すれば、「組織性」と「目的意識性」がありさえすれば、暴力的党派闘争によって解体していいんだという独善に帰結しています。 第三に、自らの党組織を未来社会=共産主義社会の母胎たる「永遠の今」として左翼カルト的に自己規定する革マル派式の党物神崇拝が、他党派解体の「内ゲバ」的テロルを積極的に肯定する根拠となっています。 党組織だけが現実の社会から遊離して、まるでそこだけが離れ小島のように隔離されて未来社会の母胎になるはずもないのに、そのように思いこみ、自らの優位性を観念することから、そうでない他党派を解体してよしとする発想が生み出されます。 未来社会の萌芽や母胎に着目するのであれば、社会総体の中から見いだすべきです。 2「内ゲバ」を促進した学生戦線、新左翼各派 新左翼における「内ゲバ」は、学生戦線における主導権争いとして、各派活動家間の殴り合い、小競り合い、集団的ぶつかり合いから意図的なテロ・リンチ・殺害へとエスカレートしてきました。 そこには大学自治会の排他的独占によって自治会費を掌握していくという経済的権益争いも深刻にからんでいたといえます。 一九六○年の安保ブント(共産主義者同盟)の分裂・崩壊後の六一年全学連第一七回大会では、(後に中核派・革マル派に分裂した)革共同は、全学連の排他的・独裁的支配を強行するために新左翼系内部で初めて角材によって対立する勢力(いわゆる「つるや連合」=ブント系、革共同関西派=第四インター系、社会主義青年同盟系)にテロルを行使し、「内ゲバ」を持ちこみました。 この「内ゲバ」にたいして最大の責任を有しているのは、当時の革共同政治局員・学生組織委員会議長で、現在の中核派議長、他ならぬ清水丈夫でしょう。 六○年代後半から末にかけては、六七年十月七日、革共同中核派政治局による解放派にたいするテロ・リンチの行使を決定的なメルクマールとして、三派全学連の分裂から新左翼諸党派間の内ゲバが一挙に加速されていきました。 また、今日公安調査庁のスパイとしてすっかり本性をさらけ出した宮崎学(『キツネ目のスパイ宮崎学』社会批評社 参照)が当時のことを書き記しているように、日本共産党・民主青年同盟もまたヘルメット・鉄パイプで「武装」して新左翼にたいする内ゲバを実行していました。 六九年には、中央大学で、ブント・社学同(社会主義学生同盟)の分裂抗争のただ中で同志社大学の望月上史が殺害され、ブントの分派闘争が激化する過程で赤軍派、そして戦旗派による襲撃、テロルが加速されました。 また、中核派の埼玉大学生・滝沢紀昭が芝浦工業大学大宮の二階から突き落とされ、殺害されました。 この時期、中核派による中核派にたいする内ゲバの事実を暴露し批判せざるを得ませんが、この点はまた別途事実関係を明らかにしたいと思います。 七○年になると、中核派による革マル派学生・海老原俊夫拉致・リンチ・殺害がなされ、革マル派はこの件について沈黙する中核派にたいしてせん滅戦を宣言しました。 このとき革マル派は、中核派によるリンチの無原則性ならびに政治組織としての目的意識性の欠如を非難し、革マル派は組織的かつ目的意識的に暴力を行使するからと正当化したのです。 かくして革マル派は、自分達が行使するテロルを「向自的党派闘争」として正当化し陰惨化させ、スターリン主義を越える他党派解体路線、つまり、権力にではなく他党派に暴力を向ける実践を中核派殺害へと純化させていきました。 革マル派は、七二年一一月には早稲田大学の中核派系学生・川口大三郎を拉致・監禁し、自己批判を強要し、テロ・リンチして虐殺しました。 彼らは、その責任を「一部の未熟な部分」に転化して居直り、内ゲバ路線をさらに継続していきました。 3 社会革命なき権力闘争と反革命の粗製濫造 日本での「内ゲバ」的テロルの激化にもっとも責任を有するのは、革マル派とその指導者の黒田寛一の思想・路線です。 しかし、革マル派の「内ゲバ」的テロルに対抗した中核派や解放派もまた、他組織や大衆運動にたいして「内ゲバ」を行使してきた責任から免れようがありません。 とりわけ、一九八四年における中核派の第四インターナショナル日本支部メンバーにたいするテロルは、三里塚反対同盟の一坪再共有化運動を脅迫し、つぶしにかかる許しがたい行為でした。 中核派や解放派の「内ゲバ」の論理は、革マル派と通底するものがありますが、また独自な性格を有しています。 この両派とも、一九六○年代末の安保闘争以来、事実上革命的情勢が継続し、権力闘争が日程に上っていると捉え、困難で後退的な局面と対面できない虚偽の認識のもとにずっと路線を維持し続けています。 中核派は、毛沢東の持久的人民戦争論からちゃっかり拝借して、七三年九月「戦略的防御段階」から「革命的対峙段階へ突入」と宣言し、七四年八月には「戦略的総反攻」の方針を打ち出しました。 七五年の革マル派による本多書記長暗殺によって、中核派はさらに決定的に革マル派との「内ゲバ戦争」に専念していきました。 七五年十月には、清水丈夫による「先制的内戦戦略」を打ち出し、中核派は、三十年ほどにわたって「革命情勢過渡期の成熟」「前革命情勢の成熟」とか朝鮮侵略戦争前夜などのアジテーションを繰り返していきました。 中核派は、国際的な社会主義・共産主義・革命勢力にとってほとんど誰も信用しない、いやそれどころか言語としての概念の共通性すらない「内戦」「武装」「軍」なる空文句に酔いしれ続けてきたのです。 したがって、労働者民衆の感覚とかけ離れたところで、主観的に思い描いた革命に対立する反革命規定を粗製濫造、乱発することが可能だったといえます。 さらにいえば、六○年代末の全共闘運動、反戦青年委員会、新左翼による権力との闘いの昂揚と挫折は、同時にまた社会革命のエネルギーを促進し解き放ちました。 在日朝鮮・韓国、中国、アジア人、女性、部落民、「障害者」などによる反差別解放闘争の高揚は、新左翼の弱点をえぐりだし、権力闘争に一面化され、その裏で保守的な社会関係が温存されている路線的矛盾を告発するものでした。 党にのみ社会「革命」の論理を適応させる革マル派は論外として、七○年代前半における中核派の内ゲバ路線への全面的のめりこみは、社会革命の要求によって突きつけられた自らの矛盾を、「内ゲバ戦争」の「軍事」の論理によってむりやり解消させ、開き直る性格をも有していたといえます。 その意味で、「内ゲバ」は自覚を高めた活動家、大衆の社会革命の要求を制動し、抑圧する役割を果たしたといえます。
1 三派全学連を分裂させた中核派への反発と絶望 小野田襄二は後に、公安調査庁のスパイ紹介・手配師として三島弁護士や宮崎学などのスパイ・リンク網形成の要となったが、そのことをもって彼の過去まで色眼鏡で眺めるのは正しくないでしょう。 彼は六○年代後半当時は、革共同中核派指導部の本多延嘉書記長や清水丈夫の他党派潰しの「内ゲバ」路線に反発し、三派全学連の大衆闘争の維持・発展に腐心し、そこに展望を託していました。(『キツネ目のスパイ宮崎学』社会批評社 参照) 小野田襄二「実践の体型としての政治論(一)」(『劫カルパ』五号一九七九年六月)は、次のような目次になっています。(以下、この雑誌の当該部分をページで示しておきます) 第一部 体験的政治論―革共同との訣れについての考察― 序 一九六七年一○月二五日 第一章 政治局内での確執の九ヶ月 第二章 最後の一ヶ月 第三章 革共同の政治資質と本多書記長 第四章 安保ブントの崩壊と本多書記長 この著者の小野田襄二は、共産主義者同盟(ブント)が創設された五八年一二月の直前、その年の一一月に革共同(黒田派=探求派)に参加しました。 それからほぼ九年、一九六七年七月に革共同中核派の学対部長を辞め、その年十月には(六五年十月以来の)政治局員を辞め、中核派を離脱して「マルクス的コミュニズム思想および革命的マルクス主義(黒田思想)に否定的断を下した」p.11人です。 彼にとっては「六四年から感じはじめに(た)革共同への懐疑は、六六年に到って、深刻さを増した」p.64そうですが、「革共同を離れた直接の理由は、三派全学連という世代的運動のその中心を担って創り上げてきた革共同が、赤子の手をひねるように潰したからだ」p.8 2 指導権争いのための他党派追い落とし政治にたいする批判 小野田襄二が革共同中核派政治局の路線・政策と対立したのは、六六年から六七年にかけての明治大学での学費闘争の高揚、そこにおける明大ブントの大学当局との(二月二日の大衆団交を手打ち式と化した)妥協工作の発覚にたいする中核派指導部の対応をめぐってでした。 この時、中核派は、首都圏の学生を根こそぎ明大闘争支援に動員し、ブントの斉藤全学連委員長を罷免し、中核派の秋山書記長を委員長に昇格させることを最大の目標としました。 しかし、「清水政治局員自身が、明大の学費闘争自体について何一つ語りえず、ひたすら、斉藤一派の裏切り、全学連防衛のスローガンを唱えるしかできない有様」p.19、こうした政治局の大衆闘争の発展と無縁な指導権争い・他党派追い落とし政治への専念にたいし、中核派学生指導部、活動家から疑問、批判が沸き起こったのです。 かくして「六七年二月から四月にかけて、中核は、結成以来、最大の危機に見舞われた。 中核の中央指導部は完全に自信喪失に陥り、全くの解体状況を迎え、大学の指導部からは中央指導部への批判が相ついで行われ、そして政治局への異和感は昂り、大混乱の状況を呈したのである。」p.18 その批判の先頭にたっていたのが小野田襄二であり、彼は「ある程度の組織の混乱と混迷を怖れず、数年のプランをもって、中核の指導部の政治体質を変えることに着手しはじめ」、「政治局(本多書記長と清水政治局員)と一戦まじえる」p.20覚悟をしたのでした。 彼は、都知事選に際しての革共同中核派の社共革新系の美濃部支持の路線、そこに体現された「大衆の状況にいとも簡単に迎合しやすい体質」を「危険な兆候」p.21と捉えています。 その危機感は、六七年の五月〜六月の政治局会議にて、「政治局としては、ブントが参院選の立候補を見送るような状況をなんとかしてつくり出すべきだと考えた。 そのためには、三派全学連の内部でブントを追いつめ、ブントが一年後の参院選に組織として取り組めないようにもっていく策を講ずることにした。」p.5ところで決定的になっています。 中核派にもまた革マル派同様の他党派潰しのための組織戦術がまざまざと息づいていたのです。 3 解放派にたいする中核派政治局のテロ・リンチ指導 ブントが明大学費闘争での妥協工作で権威を失墜させ、中核派がセクト主義丸だしの指導で活動力が衰退し危機に陥った中で、二月十九日の全学連中央委員会での討論の主導権は解放派に完全に移行し、当時、解放派が学生運動の中心的担い手として躍進する状況にありました。 中核派の拠点校・法政大学における九月からの学園闘争において解放派が中核派の弱点をついて活動家の中で無視し得ぬ存在となっていました。 このとき政治局は中核派の学生たちを「解放ナンセンス」でセクト的に懲り固めることに腐心し、「全く明大闘争の指導の時の二の舞」p.31となったのです。 十月に入って、中核派と解放派の活動家同士の偶発的な小競り合い、殴り合いが頻発するようになり、六日には早稲田大学の解放派が法政大学の中核派にたいして殴り込みをかけました。 その翌日、全学連書記局会議に出席するために法政大学を訪れた解放派の代表三人にたいして、清水政治局員、本多書記長が彼らにたいする報復のテロ・リンチを指導したのでした。 この政治局の意志としてのテロ・リンチが小野田襄二が中核派を離脱する最終的な決定打となったようです。 かの有名な十・八羽田闘争における角材での「武装」がもともと内ゲバ対策であり、結果的にそれが機動隊に向けられたものであった事実は周知のことでしょう。 また、十・八闘争以降は、早稲田大学や東大などで今度は中核派にたいする解放派の報復の内ゲバがなされました。 その当時、小野田襄二は内ゲバの停止のために尽力しています。 けっきょくのところ十月七日の解放派にたいするテロ・リンチ指導について、政治局では誰一人疑問をさしはさむもの、批判するものはいませんでした。 それどころか、十月二五日の政治局会議で、清水丈夫は「革マル派との党派闘争に勝利したのは、革マル派を三派全学連の運動の流れに入れず、イビリにイビリ抜いたからだ。 解放も徹底して追い打ちをかければ片がつく」p.8とアジテーションしたとのことです。 4 「内ゲバ」路線と対決できない革共同内「反対派」 彼の著作を読めば、小野田襄二が優秀な活動家であったろうことは推測できるし、六○年代後半の革共同中核派政治局に属しながら、路線的対立を自覚し、葛藤し、精神的に大変な思いをしていたことも理解しえます。 明治大学学費闘争にたいする他党派追い落とし・全学連委員長獲得にのみ拘泥した中核派指導に反対し、美濃部支持をプラグマティックに採用した選挙戦への全力投入を批判し、解放派にたいする政治局としての意志によるテロ・リンチに激しく憤り、三派全学連の分裂を阻止し、その維持・発展を目指そうとした小野田襄二。 これらはいずれも革共同中核派の路線をめぐる重大な分岐・対立であり、本来なら活発な路線討議・論争をもって決着つけられるべきものでした。 また、六七年当時、中核派学生指導部や活動家たちが中央指導部、政治局をきっぱりと批判するだけの活力、健全さが存在していたこともわかります。 小野田襄二が政治局員でありながら、本多書記長、清水政治局員らにたいするより積極的な「反対派」として対抗しようとしていたわけです。 しかし、問題はその先にあります。 なぜ小野田襄二は中核派が三派全学連を分裂させ、他党派潰しの「内ゲバ」路線にのめり込んでいくことをストップできなかったか、という疑問です。 彼自身が、自ら政治局会議で自説を展開し、主張すれば阻めたことを繰り返し述べているにもかかわらず、なぜ沈黙したり、指導放棄したり、一時的に行方をくらましたり、自殺を決意したりしたのか?それが問題です。 最大の問題は、本多書記長に政治的な弱点、欠陥があると直感しながら、彼こそ党であり、唯一無二の指導者であるという党首絶対視の呪縛に小野田襄二が囚われており、そこから自由ではないことです。 小野田襄二は、革共同においては政治局が党であるといった実態、さらに本多書記長を頂点として常に下方に向かって方針が下りていく日本共産党型の党ヒエラルヒー、党内支配型の党体系を維持していること、その欠陥を自覚し、指摘しながら、なおその枠に囚われているのです。 これが黒田寛一、革マル派的な主観主義哲学をひきずっている恐いところです。 中核派は、六二〜三年の革共同分裂以来、革マル派との血みどろの「内ゲバ戦争」にのめり込んでいく中でも、敵対する革マル派の黒田哲学を全面的に総括・批判する作業を一貫してなしえず、したがって黒田哲学を隠然と継承していると言えます。 反スタ主体性論は、個々の組織メンバーの自主的・自律的判断を疎外し、政治的路線とは切断された当為として、不可侵の指導者、党首なるものに判断を委ねる論理構造を有しています。 したがって、路線対立を自覚し、批判意識を高めてもなお、政治的に対等な討議・論争を回避して、自己の弱さや未熟さ年齢的な若さ、器や資質を卑下するところに自分で自分を追いやってしまいます。 小野田襄二ほど批判意識を高めた人物でもまたそうなのです。
1 中核派=ボルシェヴィキ以上にボルシェビキ的だって!? たとえば小野田襄二はこう断言しています。 「政治局員が究極に帰属すべき集団は、労働者組織、学生組織、編集部であってはならず、政治局であった。 革共同政治局は、黒田寛一との分裂の教訓として、この組織原理を噛みしめてきたが、それはボルシェビキ以上にボルシェビキ的であった。」p.42と。 しかも、中核派から離脱してから十年以上たったこの時点でも、どうやらこの組織原理が正しいと考えています。 これは、百年近く前のツアリー専制下で非合法に追いやられていたロシアの革命運動において、党大会や中央委員会などのロシア社会民主党(ボルシェビキ)の活動が、議事録や論争の公開などなどの点で、中核派はもちろんどの新左翼諸党派よりもはるかに民主的に展開されていた事実を理解しないものです。 政治局の路線対立に沈黙し、論争を展開できず、メンバーにも伝えられず、意見書も討議もされず眠ったままで、ましてや公開もされない中核派とボルシェビキの活動には雲泥の差があります。 中核派はボルシェビキ以下の非・反ボルシェビキ的活動に専念していたことを自覚すべきなのです。 小野田襄二は、政治局だけが党といういびつさ、中核派の職革(職業革命家)が本多書記長に威圧され、萎縮している実態、政治局における議論なしの討論という方法、政治局員ですら本多書記長の顔色をうかがってしか発言しない政治的奴隷であり、政治局が一種の翼賛会議と化していることを繰り返し生々しく指摘しています。 ロシアの革命運動、ボルシェビキにおいてレーニンが思想的・政治的権威を有していたとはいえ、レーニンにたいする批判、論争も対等に展開され、対立する分派も形成されたことと比べれば中核派の党=政治局の組織原理との乖離は深淵で隔てられています。 小野田襄二は、彼が心底党を仮託した絶対的な存在としての本多書記長像が自己の心象風景として崩れ去った時、指導者の気質的欠陥が露呈し革共同という組織をめちゃくちゃにしたと絶望していますが、そもそも彼が信奉する組織原理そのものが指導者であれ誰であれ誤りを犯し、弱点・欠陥を露呈する現実を点検し、是正するすべを無くしているのです。 中核派の組織原理は、レーニンやボルシェビキの実践とはなはだしく乖離し、はるかにスターリン主義的実践に親和的だといえます。 その意味で、彼らのスターリン主義批判、反スターリン主義なる立場は羊頭狗肉に近いとても不徹底なものです。 2 左翼カルト的組織原理はテロルを促進する 小野田襄二には、政治局員に感性、感受性の同一を求める強烈な志向、つまり黒田寛一・革マル派的な「永遠の今」的な共同性に自己同一化させようとする位置ベクトルを感じます。 そうであれば、政治路線的な対立をいくら強烈に自覚しても、論争・対立を自制・制動し、自分が党首にとって代われなければ、自己同一化できない自らの未熟さに苦悶し、左翼カルト化に埋没するか、離脱するかの選択肢しか残されなくなります。 こうした悲劇は、けして革共同(革マル派、中核派)だけのことではありません。 ブント系諸党派においても、第二次ブント崩壊の過程での七○年代以来の戦旗派およびその諸分派に引き継がれているといえます。 それは、とりわけ戦旗・共産主義者同盟(荒派=日向派)に露骨に体現されています。 旧戦旗・共産主義者同盟は、ソ連・東欧の既存体制崩壊以降、九○年代に全組織的に共産主義・マルクス主義を捨て去り、それまで旧共産主義労働者党・プロレタリア青年同盟や旧第四インターナショナル日本支部への左からの批判の総括も何もなく、それに反対する路線闘争も分派も登場しないまま、雪崩を打って左翼をやめてしまいました。 党首が転換すればみなそれに従う、不満・反発するものは人知れずフェード・アウトするカルト的集団の面目躍如といえばいいのでしょうか。 しかも、自らに敵対するとみなした個人にたいしては組織的にテロルを行使するという旧新左翼的な「内ゲバ」主義だけはしっかりと継承している実態は、新宿ロフト・プラス・ワンなどでの暴力行使の繰り返しで歴然としています。 内ゲバ路線は革マル派や中核派だけでなく、今日の脱左翼のSENKI派にもまた継承され続けているのです。 3 レーニン『なにをなすべきか?』から継承すべき観点 これまで日本の新左翼諸組織によって、レーニン『なにをなすべきか?』の意義は切り縮められ、一面化されてきました。 私たちは、そこで何よりも強調された全階級・階層の相互関係の唯物論的認識に積極的に拘ってきました。 それは、革命組織の官僚主義・閉鎖性打破の課題を、「組織内」の問題・視点ではなく、無産者の主体形成(階級形成)の視点から捉えなければならないことを意味します。 革命組織の党内論争公開(大会議事、その他論争などの公開)、少数見解の公表などを、ただ単に権利とするだけでなく、革命組織の画一的ではない統一のために相違・論点を隠蔽・温存しないための、とりわけ組織内外の労働者大衆にたいする義務とするものです。 (組織内外を問わず)労働者大衆全体が、革命・階級闘争に対する理解を明瞭にし、成長していくことを目指して。 この点で、中核派やSENKI派などの「党のための闘い」「党としての闘い」といったたぐいの二元論、党的な内的確認が外部と寸断される閉塞構造を根底的に打破すべきなのです。 党首なるものや指導部のふるまいがごく少数のものの間でしか知られない閉鎖系からは、主観的で独善的なカルト的妄想や内ゲバ路線のような腐敗が生み出されるのは不可避でしょう。 逆に、大衆的な無産者の自覚に依拠し、労働者・市民からの批判・点検にさらされることで党やその指導部の誤りを是正することができるのです。 さらに私たちは、上部構造における二つの領域での活動・闘い、つまり、「政治」(=「政治的上部構造」)と「社会」(=「法的上部構造」)のそれぞれの独自性や相互関係を把握することによって、党組織が、この両面を包摂・反映する必要があること、そこから、党組織が、組織としての戦闘性と、組織内外を問わない広い結合、公開制などとを必要とする根拠をつかみ取ってきました。 レーニンが『なにをなすべきか?』、とりわけその第三章で強調した「広い政治意識」が、こうした「政治」「社会」をめぐる意識性を押し出したものであると捉えてきました。 私たちは、政治革命と社会革命双方との関係で、革命組織の要件として、「政治」または「社会」への任務の一元化がもたらす組織性格の一面性(政治行使の技術に傾斜し狭い「集中」に陥ることや、社会運動全般に直接対応するための分散に陥ったり、反対に、社会運動を直接推進しようとすることから来る引き回し、党の君臨などの弊害に陥ることなど)からの克服を目指してきました。 政治革命に一面化されない社会革命の自覚的推進者であれば、内ゲバ的なテロルに心酔する腐敗は防げるはずです。
専修大学において開催された二・三『検証 内ゲバ』出版記念シンポジウムの場で「『検証 内ゲバ』に寄せて 日本の大衆運動を破壊した『内ゲバ戦争』の主体的要因は解明されたか」(高島義一「かけはし」2002年2月4日号4、5面)が配布され、また高島さん自身が会場フロアから発言にたちました。 「かけはし」グループが「内ゲバ」一掃をめぐる論戦に積極的に打って出ていることに敬意を表します。 そのことを踏まえ、高島論文への疑問を提示しておきます。 高島論文は、「なぜ日本でだけ」という問題意識、つまり「内ゲバ」が日本でだけ激化した根拠を問題にし、その対比でヨーロッパをはじめ世界ではトロツキストが左派の支柱となっているから「内ゲバ」とならなかったと述べています。 ようするに日本でトロツキストがしっかりしていれば「内ゲバ」を防止できたという主張に帰着します。こういう総括ではどうもすっきりしません。 第一に、一九五○年代後半に形成された日本の新左翼運動が、主要には、トロツキーの敗北、第四インターナショナルの弱点・限界を捉え、その克服を志向しながら、その克服の方向が誤っていたとはいえ、展開されていったこと、この事実を踏まえることが大切でしょう。 ブントや革共同が「トロツキーと第四インターナショナルの闘い全体に学び継承しようとすることなく」とか、「いわゆる『裏切り史観』として、トロツキズムの一部だけを受け入れ」といった高島さんの批判では、トロツキーの敗北を越えようとした積極的志向に響くものはないでしょう。 第二に、一九六○年代末の闘いに挫折した新左翼諸党派の衰退過程の中で、七○年代に第四インターナショナル日本支部=トロツキストは少数派から多数派に急速に勢力を拡大しましたが、それは同時に、革マル派・中核派・解放派の「内ゲバ」が最も激しさを増した時期でした。 したがって、トロツキストがしっかりしていれば「内ゲバ」を防止できたという論調には説得力がありません。 第三に、高島さんは、「われわれの闘いの不十分性について」の項で、この七○年代の時期を反省的に振り返っていますが、その時期、「内ゲバ」を激化させていた中核派や解放派は三里塚闘争など大衆運動での共闘対象だったわけです。 八三年の三里塚反対同盟の分裂的事態を経て中核派が第四インターナショナル日本支部への「内ゲバ」テロルを行使した八四年以降、第四インターナショナル日本支部はあらゆる大衆運動からの「内ゲバ主義」の一掃へと転換しました。 これは政治評価の転換では? 七○年代においても「内ゲバ主義」一掃で大衆運動を分解すべきだったという総括にいたっているのでしょうか? また、蝉丸さんが「二つの『反内ゲバ声明』を比較・検討する」で「東北大『内ゲバ事件』についての私見」を述べていますが、この七○年代における東北大学での解放派と第四インターナショナル日本支部との「内ゲバ」はどう総括されているのでしょうか? 補2 『検証 内ゲバ』の総括方法について(メモ) いいだもも・生田あい・栗木安延・来栖宗孝・小西誠『検証 内ゲバ 日本社会運動史の負の教訓』(社会批評社2001年11月)は、「内ゲバ」の実態、歴史、及ぼした影響を整理し、その克服を投げかけ、論争の扉を開いた意味で積極的意義を有しています。 実際、この本にたいして、「かけはし」グループだけでなく、「赤色もぐら新聞」第三号、書評『検証 内ゲバ 日本社会運動史の負の教訓』(橋本 剛 季刊『コム・ネット』三号に転載)など、いろいろな評価が提出されています。 しかしながら、この本では「内ゲバ」を克服・一掃していくための総括視座はかなり単純化されていると思います。 第一に、「内ゲバ」の根元が、もっぱらスターリン主義の唯一前衛党論に還元されている点が一面的すぎます。 第二に、いいだももさんによる第四章では、スパイに潰された戦前の共産党という主旋律が奏でられ、路線全体の限界や弱点が後景化されています。 第三に、生田あいさんによる第二章では、第二次ブントの分派闘争の過程での、自らが所属した組織の「内ゲバ」についての主体的な路線的総括は見えてきません。 また、明治大学での赫旗派にたいする解放派からのテロ宣言への対処をどう総括しているのでしょうか? これでは「内ゲバ」的対立を越えるはずだった統合路線の破産、分裂の繰り返しについても総括されようもないでしょう。
IEGホームページに戻る
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/
since 1995
▲このページのTOPへ
★阿修羅♪ > 議論30掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。 すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。 |