投稿者 地には平和を 日時 2010 年 3 月 14 日 15:59:03: inzCOfyMQ6IpM
(回答先: 新左翼内ゲバ事件 投稿者 地には平和を 日時 2010 年 3 月 14 日 15:11:52)
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4年遅れの『検証内ゲバ』 投稿者:マルチポスト 投稿日:2007年10月27日(土)08時34分2秒 通報
一、
東大闘争や街頭闘争を回避した革マル派は「他党派解体の暴力行使の権利」を主張し、キャンパスの暴力支配を始めた。これを大衆的に打倒する闘争の発展をめざした73年早稲田解放闘争は、革マル派の反革マル活動家への個人テロの前に敗北した。中核派は、これを軍事的な不徹底による敗北と総括し、個人テロ路線へ向かう。そして、それは必然的な動力で加速していった。
中核派・本多氏は、「防御−対峙―総反攻」という段階戦略をとった。「本多書記長は何年もやるつもりはなかった」という指摘もあるが、そうだったのだろう。武装自衛の「防御」が73年9・21までの2年弱、「対峙」も、早稲田解放闘争後から約1年。「総反攻」で早急に決着をつけて(革マルが個人テロを止めるとこまで追い込んで)、収拾できるという考えではなかったかと思われる。ところが、その当人が75年に殺される。革マル派は、敵対党派中枢のテロによる抹殺という方針で対抗した。他方中核派は、これに対し、それ以降、清水氏らが、先制的内戦戦略で本多暴力論を軍事路線化、以後、15年のテロ合戦が続くことになる。
中核派・田川和夫氏は「労働運動路線」派であったが、革マル派のテロにあい、また、初期の段階で対革マル戦にも反対して脱落している。「革マル打倒闘争を武装自衛と大衆闘争でたたかう」というコースが生き残っていく道は、現実には極めて厳しかったと思われる。
二、
元解放派労対派の「高原駿」が、『沈黙と軌跡』という本を書いている。ボルシェビズムを批判し、対革マル戦を大衆運動・労働運動と結合してたたかうことを目指した解放派が、中核派と同じ「対革マル戦争」に純化する経緯がよく解る。74〜76年、解放派は、革マルの党派中枢のテロによる抹殺という戦術により、最高幹部が次々テロを受け、ついに中原氏を失う。そこから、「今は軍事報復しかない」という狭間氏らの路線が台頭していった。そして、それは、狭間派と労対派の分裂、狭間派内の凄惨な内々ゲバへと向かっていく。
三、
ブントは、70年闘争の過程での自派内の内ゲバと路線的分解によって、(特に首都圏では)革マル派と対抗するような勢力ではなくなっていた。
第四インターは、関西派問題で70年闘争に乗り遅れ、「新左翼の極小派」であり、「芝浦工大での革マル追放の教訓」も、「反革マル闘争のモデルケース」というよりは、エピソードに留まった。ただ、中核派とのブロックを解消した後も、83年までは中核派と「同じ集会場」内には留まっていた。
84年の中核派の第四インターへのテロは、大きな誤りであった。
当時の中核派は、三里塚青年行動隊の独自行動を、条件派の策動と見ていた。実際、条件派の策動はあったと思われるが、青行の基本的な意志は、党派が支配する運動からの脱却であったのだと考えられる。中核派がその総体を「脱落派」と見なしたところに大きな誤りがあった。さらに、それを事実確認なしに、「第四インターが首謀者」とした。現場的な衝突はあったにせよ、党派闘争に目的意識的暴力を行使したわけではない第四インターに対し、中核派の側から積極的にテロを持ち込んだことは、許されることではなかった。テロの報復をしなかった第四インター等がそれ以降、中核派と解放派・狭間派を運動から排除する方針をとったのは、必然的であった。
ただし、それ以前から、すべての党派が党派相互には敵対的だった。運動に参加した当時は誰もそれをおかしいと思うのだが、次第に、「他党派に敵対的であることが、自派に忠実であることの証」という意識に染まっていく。中核派には、「第四インターは対革マル戦から逃げ出した」という意識が強くあった。
四、
「対革マル戦を武装自衛と大衆闘争の発展でたたかうべきであった」というのは正論
ではあるが、現実には難しいものがあったと思われる。
また、それ以前の問題として、「唯一前衛党論」の問題があり、「他党派は敵」という認識はすべての党派に共通の政治土壌だった。
さらに、上記の点について、トロツキー「スターリン批判」のうち「世界革命の放棄」という論理のみ学び、「官僚主義批判」を欠落させた、という批判が出ている。しかし、西欧の党派が、民主主義をトロツキーからだけ学んだかと言えばそうではなく、ドイツの評議会派やローザ、イタリアのグラムシなど、膨大な理論的運動的蓄積と社会的土壌があったのだと考えられる。
逆に、黒田哲学は、日本の新左翼運動に非常に大きい悪影響を与えた。50年代の時代背景があったのであろう。「他党派解体のための統一行動」は革共同3次分裂以前からのマル学同の論理であり、中核派はそれを総括・自己批判することなく、全学連三派共闘を組み、破産させた。レーニン組織論を批判した解放派も、特異な観念論(初期マルクスの解釈)が基調にあり、黒田哲学への対抗のようなものが感じられる。
これらすべてが、一旦、総括されなければならない。
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