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(回答先: <統治>(官僚)vs<代表>(政治家)は韓国と同じ外勢派(李明博政権)vs民族派(盧武鉉政権) 投稿者 影の闇 日時 2009 年 11 月 20 日 22:15:52)
影の闇さんへ、
概ねのところ、標題で示された一聯の歴史考察に基づく現状認識を首肯したく思います。
しかし、それとは裏腹に人類のサバイバルのベクトルには自己限定意識を主たる動機とするような自己選別化[Self-elimination]→自己奴隷化[Self-subordination]乃至は自己家畜化[Self-domestication]と云った経路が伏在していると想われ、これにもやはり松浦さんが説かれていた構造論的物象化の原理が貫徹していることを免れ得ないのではないか、然もこの行程に最も馴化し易いのが日本の一般国民の習性ではないだろうか、脳裡に去来するそんな想いを消し去ることができずにいます。
>こうした流れの方向付けとして、アドバルーンを揚げたのが「国を愛して何故悪い」の息子阿川尚之による「51番目の州となって何故悪い」との文
>その後直ぐ、この男は駐米公使になってることでも明らかなように、外務省の意向を受けてのもの、と見做さざるを得ない。この後更に中国派(チャイナスクール)やロシア派(ロシアスクール)を粛清・追放し、アメリカ以外は選択肢のない外交(?これって外交?)に一元化。
><統治>官僚の側はここまで来ているのです。
>今回の「政権交代」が、このような官僚の有り様への、国民の漠然とした不満や不安がその底流に在るのは間違いの無いところでしょう。問題は、そうした潮流への疑問や批判が大きな意思として、表現されていないことです。やはり近代化=脱亜入欧化を徹底して批判する視座を、依然として持ち得ていない、ということの現れなのでしょう。だから、今回の「政権交代」も両義性の間をさ迷うしかない。<統治>に対して<代表>がどれだけの事が出来るのか?−それはどのような思想において行われるのか?ー我々は80年前の思想さえ克服していないし、それに替わる思想も持ち合わせていないのです。
>戦前と戦後が、天皇を媒介として、スムーズに順接されたのも、全体として、明治以降の<脱亜入欧路線>に在ったからであり、殆ど臨界点に達した感のある現在、権力の由来である明治維新自体を徹底的に批判し、新しい思想を創れない限り、この流れは断ち切ることは出来ない、と考える所以です。
かかる運命に抗うためにも、あるいは“権力の由来である明治維新自体を徹底的に批判する”ためにも、例えば立憲主義憲法における権力の制限規範性に関する認識が重要になるでしょう。しかしながら、我々日本(人)が戦後憲法下であっても自らの権力行使の正当性について言挙げすることがないのは、おそらく社会変革の体験の広汎な共有化がなされなかったことに起因していると想われるのですが、それについては影の闇さんも<正統性>に纏わる少し前のスレッドで触れられてもいましたし、また少なからずそれは松浦さんの問題意識にも重なり合うものがあるように感じています。
日本の首相は基本的に政治家ではありますが、権力関係的には行政府の長、すなわち官僚の親玉ですし、最高裁判所長官も権能的な性格を別にすれば天皇が任命権者であることにおいて形式上は同等の立場にあります。また、戦後の政治体制は憲法の構造上は戦前のものと本質的には変わっていませんし、それを保守することに高いコミットメントを示して来たのが官僚たちであることは間違いないでしょう。
そうした官僚による支配体制の功罪について徹底的に精査すべき時が到来していると思いますし、私自身は次に想定されるべき政体としては大統領制(共和制)に類似したものになるのではないか、先ずはそれを自ら準備するところに日本(人)にとって歴史から学んだことの成果が反映されてこそ<正統性>の形成へと繋がっていくのではないかと考えるのですが、ただしこれはあくまでも私の希望的観測の域を出るものではありません。
Auf Wiedersehen.