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(回答先: ファシズムの定義 (再掲)『社会と権力、何が実体なのか? 選挙で反ファシズム戦線?』 投稿者 ni-na 日時 2009 年 11 月 08 日 06:30:50)
これは本来松浦氏に向けられるのかも知れませんが、御本人が既に阿修羅を去られてる以上、氏の所説を独鈷にとってギロンしてる積りの諸氏にその矛先を向けたいと思います。
またこれは、その他のあらゆるファシズム論への疑問や批判も兼ねており、松浦氏の所説に止まるものとは考えておりません。
何故なら、ファシズム論(理解)それ自体がアメリカの世界への登極と不可分の戦争(後)神話に属するものだから、です。 言い換えれば、ソ連をジュニアパートナーとする、戦後支配体制及びアメリカの指導権創出の為のプロパガンダ以上のモノではなかった、ということです。
例えば「民主主義対ファシズム」とした第二次大戦の性格付け自体、その後敵対したソ連を「全体主義」と名指したことで逆に説得力を失っているし、又「全体主義論」の白眉とされるH.アーレントの論考にしても、「強制収容所の存在を必須とする」という定義そのものが、全ヨーロッパからユダヤ人を狩り集めたように、全アメリカ(南米・中米を含む)から狩り集めた「日本人強制収容所」の存在という冷厳な事実によって否定されております。
それでは松浦氏の定義はどうか?
「ファシズムとは、人間社会から見れば本来的に外的な存在である権力に、社会が同化する事を意味する概念」
では、この事態は、権力の側から見れば、収奪の対象たる社会からの権力なり権限の委譲又は移譲の要求、ということではないのか? −とすると、権力の側からも、出来ればこの事態は避けたいはずではないのか?ーだとすると、これは権力の側にとっても敗北なのではないか?
更に松浦氏は日露戦争講和後の日比谷暴動をファシズム化の例証に挙げていますが、これには大いに疑問在りです。 何故なら、「反政府暴動」は日本ばかりではなく相手の露西亜にもあり(”血の日曜日事件”を嚆矢として)、期せずして日露両国に現れたこの現象はむしろ<大衆の登場>という文脈で観るべきものーロシアにおいてはやがてロシア革命へ、そして日本においては普通選挙へと繋がって行くものーだからです。 そうしてこれらは、デモクラシー=大衆の国であるアメリカの世界におけるプレゼンス(存在感、比重)の飛躍的増大と同位の現象として観るべき、と思うからです。 つまりは<大衆の時代>がやって来たーということなのです。
従って、下記に松浦氏の示すものも、ファシズムではなく、大衆社会の特徴と観るべきでしょう。
>刹那的で倫理が希薄なので、それに伴って知性も低く、先の結果を知る事ができない
また松浦氏は、功利主義的社会は経済成長が止まればファシズム化すると言いますが、ではーと問わなければならない。 ファシズムの本場(?)であったヨーロッパは再びファッショ化するのか?−と。 ファシズムが国民国家の枠内での現象であるとするなら、EUをどのように位置付けるのか? 即ち、宮台真司が『情況』(11月号)で指摘している、より上位の国家連合(EU)への「主権移譲の原則」をどのように理解すれば良いのか?
加えてもう一つ、それではアメリカはファショ化するのか?ーと。
これには二つの視点が在ります。
一つは上で宮台が言う「主権移譲の原則」ーこの間(特にポスト・冷戦から目立って)、日本の官僚達の取っているアメリカの位置付けこそ、国家(官僚)で解決出来ない時のより上位の存在ー即ち「主権移譲」の対象ーと見做している、と思えるからです。
従って、アメリカがファッショ化するなら日本もファッショ化すると、一応言えます。 事実、佐藤優氏等、少なくない論者がその事(オバマはファシズムを目指す)を予告しておりますが、松浦氏と同じ問題意識、同じ視点に立っている事を示しているのでしょう。
果たして、アメリカは所謂「ファッショ化」するのか? ー私は、大いに、疑問有りなのです。
何故なら、その時、アメリカはアメリカであることを已めるからです。 アメリカはそのアイディンティティである<自由>を棄て去ることが出来るのか?−と問うてみればいい。
>健全な社会は、本源的に暴力を起源とする権力と対立し、制限する意思を発揮し続ける。
更にもう一つ、松浦氏がファッショ化の防波堤として上記の在り様を想定する時、その強い共和主義への志向の遍在といい、所謂”リバータリアン”の強大な存在といい、或いは人民の(政府への)武装(抵抗)権を保障した合衆国憲法修正第2条を持つことといい、皮肉なことに、アメリカこそが理想とは言わないまでも、そのモデルに一番近いように思えます。
とすると、この点からも、アメリカの所謂「ファッショ化」は想定し難いのではないか?
ーそうだとすると、「功利主義的社会は経済成長が止まればファシズム化する」という命題は必ずしも当て嵌まらないことになるか、それともファッショ化の防波堤とする社会の見立てが正鵠を得てないのか? 即ち、どちらかが正しければどちらかが間違ってる?若しくはどちらも正しくはないのか? −この何れかになるはずです。
加えて、国民国家の衰弱過程に在ると思える現在、果たして社会がその国家権力に同化するというような現象が起こり得るのか?といえば、それは有り得ないというしかない。
そうして、仮に日本で有り得るとしたら、(より上位の)アメリカへの一体化でしょうが、そうであれば小沢氏が主役になることは有り得ません。 更に又、100歩いや1000歩譲って、仮にそのようなファッショ化するとしたら、主役となるのは、小沢氏ではなく、女性でしょう。
やはり何処かで、ファシズム論なりその理解について、考え方を変えるべきと思います。