投稿者 隣人 日時 2010 年 2 月 16 日 03:54:28: vTRc6NquZFvI6
(回答先: クリスチャンへの質問 投稿者 なぞの精神科医 日時 2010 年 2 月 09 日 01:11:17)
5、神様の愛
Q:どうして神様の方を向き、神様の門をたたかないと、神様は助けてくれないのでしょうか?
あらゆることは順風満帆に進むことは少なく、大きな試練があって、落ち込んで、「もうだめかもしれない」と思った
時に、初めて救いの手が差し伸べられる気がします。
これに関して、ご意見をお聞かせください。
A:確かに聖書には「どこにも主の目は注がれ、善人をも悪人をも見ておられる。」(箴言 15章3節)とあり、また「主は
助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される。」(詩編 34編18節)ともあります。
しかし、神が人間のまわりにいつもバリヤーのようなものを張って保護をしてくれ、物事もすべて順風満帆に行くよ
うに取り計らってくれるとしたら、それが本当に神の愛といえるでしょうか。わたしはむしろ障害といえるものを神が
すべて取り除いてくださるより、その障害を乗り越える力が与えられるほうが良いと思います。試練に遭い忍耐す
ることにより何かを学んだり、成長する面もありますからね。(ヤコブ1章2-4節)。
イエス自身もそうした経験から学ばれたことがありました。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみに
よって従順を学ばれました。」(ヘブライ 5章8節)
6、 聖書について
Q:旧約聖書と新約聖書の論理的な矛盾、および旧約聖書で描かれている極めて人間的な神の姿を考えれば、
「旧約聖書の内容を言葉通りに鵜呑みにしてはいけない」ということは自明だと思います。しかし、そのことを
福音派のクリスチャンに話しても、全く受け入れてもらえません。
A:わたし自身は、聖書を学び研究するに連れて当初は矛盾と思えた事柄も解消していきました。
Q:黙示録も、聖書に入れるかどうかで激しい神学論争があったと聞いております。
グノーシス派などキリスト教異端派の教えも切り捨てられ、当時のカトリック教会が教えやすい(人民を統治し
やすい)部分だけを聖書に残したと聞いております。
A:聖書が数千年の時を経て今日まで伝えられてきたこと、そして地上の90%以上の人々が自国語で聖書を読
めるまでに普及していることは、単に偶然や人間の努力だけではなく神慮といえるものの働きもあったので
はと考えます。写本の際の聖書の書き換えや誤写がなかったわけではありませんが、数千点にのぼる聖書
写本の比較研究により誤りは訂正されてきています。
(カトリック教会が行なったことは改ざんや編集よりも、人々から聖書を取り上げることです。ステンドグラスや
彫像、フレスコ画が発達したのは聖書の代用とするためでもありました。)
Q:私は、「聖書(黙示録)に書かれているように、未来が決まっている」などということは、全くあり得ないと思い
ます。私は、未来はある程度(80%くらい?)決まっているかもしれませんが、人間の意志の力でいくらでも
変えて行けます。
A:黙示録には、将来サタンが完全に砕かれること。新しい地上に楽園が回復されることが記されています。
この大まかな将来は変わることはありませんが、個人個人の未来に関しては事細かに決められているわけ
ではありません。神は人間を自由意志を持つものとして創造し、それを尊重されてもいますからね。
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