05. 2015年1月22日 02:43:30
: mfBOJgsv26
2ちゃんねるノビー「武士道を信じてるバカが多いが、アレは新渡戸の作り話」 これにはネトウヨ怒りのハラキリ実演w 1 : かかと落とし(やわらか銀行)@\(^o^)/:2014/06/05(木) 21:18:05.67 ID:bPwgx5gC0.net http://agora-web.jp/archives/1597708.html
武士道という言葉は、いまだに誤解されている。 三島由紀夫から『国家の品格』に至るまで、これを 日本の伝統に仕立てて「グローバリズム」を批判する 通俗的な話はあとを絶たないが、 武士道という言葉は江戸時代にはほとんど使われていない。 それは明治時代に、新渡戸稲造が西洋人むけに 日本人の倫理を説明するために捏造した概念である。 本書も基本的にはこの事実を認めた上で、 数少ない「武士道」という言葉の含まれるテキストをあげ、 その共通点をさがす。 そこに見られるのは、三島などの賞賛した「死の美学」とは逆の哲学だ。 (中略) その共通点は、後代の誤解とは逆に、「忠義」とか「道理」などの 絶対的な価値に殉じるのではなく、 なるべく余計な戦いをしないで「犬死」を避ける技術である。 このような特徴は、現代の日本にも受け継がれている。 日本の裁判所も警察も「正義」には関心がなく、 なるべく和解や謝罪で「争いを避ける」ことを好む。 それは武士道と逆のようにみえるが、実は武士道も戦いを 抑止して犠牲を最小限にする技術だったのだ。 ==================================== 日々のたわむれ 劇場精神としての「武士道」
2005-05-13 11:17:36 | 民俗・歴史 http://blog.goo.ne.jp/gelt/e/f929c4329a314016b0c8ad84b20b4e51 (おもしろいので全文転載) 武士道。今月(6月号)の文芸春秋に、経団連会長の奥田碩氏の論説「日本はサムライ精神にかえれ」が載っている。 言っていることは割合マトモである。「日本の武士道的精神、サムライ精神の中には、そういう人(補:現地人の意)と平等に付き合い、思いやりをもって接するという価値観が昔からあったのです・・・アメリカの中では「俺は強くて正しい。だから俺の言う事を聞け(略)」という考え方が垣間見えている・・・こういうときこそ、日本は「惻隠の情」という武士道的価値観を世界に広げるために努力すべきでしょう」 ただ突っ込んで見ると、色々疑問が起きてくる。奥田氏はこの「武士道精神」の思想を李登輝氏の著作から借りており、李氏はさらに自分の考えを新渡戸稲造の著作「武士道」から採っている。だが「武士道」はかなり新渡戸の主観や創造が入っており、江戸期やそれ以前の武士の思想と必ずしも一致していない。 武士道が仏教と儒教の良い所だけを採ったとする新渡戸の主張も怪しげなら、「合戦において身分の低い人や非力の者は傷つけない」などという「事実」も歴史学者らから批判されている。(佐伯真一「戦場の精神史」、津田左右吉「武士道の淵源について」) 新渡戸は歴史学者でも哲学者でもなく、専門は農政学である。しかもこの本は36歳の時、病気療養先のカリフォルニア・モントレーで書かれたものである。海外旅行先に膨大な資料を持ち込み根気精力を込めて著述に励んだ、とも考えがたい。むしろ、これは彼のエッセー、随筆にあたるものと考えるのが自然だろう。 そのような創作とでも言うべき著作に寄りかかった主張を、「日本人が昔から持っていた価値観」と呼ぶのには無理があるように思われる。 時代によって変わるサムライ精神 歴史学の示す所によれば、「サムライ精神」は時代時代によって異なった色相を持つものである。中世のサムライ精神とは、「名を惜しむ」ものであった。名とは名誉のことで、敵に打って掛かる勇気、強さを誇ったのである。味方は裏切らず、上の命令には絶対に従う。そういう潔癖さの反面、敵は裏切っても騙し討ちにしても構わない、という側面があった。 新渡戸的によれば、サムライ精神はフェアプレイを尊び、卑怯な行いをしないものである。しかし、実際には当時の武士たちは詭弁・甘言をもって敵を殺傷し、しかもそれについて良心の呵責を感じなかったようである。 このような敵には厳しく、味方に甘い精神構造を色濃く残しているのは「ヤクザ」である、と歴史学者・佐伯真一は言う。ヤクザもまた、強さを誇り、卑怯を蔑むが、敵への策略、姦計はむしろ賞讃するというメンタリティを持っているからである。 ただ私権だが、このことはヤクザが武士の正当な後継者というより、両者とも同じ「くいつめ者」の戦闘集団としての出自を持つ事に由来しているのだろう。 戦国時代に入ると、策略性はさらにエスカレートしていく。敵への姦計はさらに推奨され、さらには下克上や主代えも非難されなくなる。常に合戦を覚悟した「非常時」に自らを置き、日々克己勉励に励むという習慣が作られた。また禅宗をベースとし、死の中に活路を見出すというメンタリティが生まれたのもこの時期であろう。 この時期の「武士道」は、新渡戸の武士道とは全く異なるものだった。それは粗野で野蛮で、しかも残忍なものだった。例えば「かぶきもの」といって奇抜な服装をし、眼があっただけで斬り合うという武士もいたし、合戦では武士だけでなく農民の略奪、殺人、強姦は日常茶飯事であった。世をはかなんで集団自殺した人々もいたくらいだ。 新渡戸のような潔癖で正義感のある武士道に近くなるのは、江戸時代に武士が支配層として社会倫理「士道」を作り上げてからである。また独自に思索を深めた「葉隠」の影響も見逃せない。これらの諸武士道・士道が、明治後期から昭和初期にかけて合流し、近代「武士道」として流布された、というのが歴史的経緯である。 これから分かるように、「古来から一貫した大和民族の精神的支柱としての武士道」というものは存在しなかった。実際に存在したのは、その時代時代に沿って開花した、戦闘集団の倫理観だけである。むろん、その中から細い糸のような、「一貫した精神」を選び出すことも不可能ではないだろう。しかし、それよりも「時代の要請」に応えて、過去の武士道の様々な特質の中から必要なものが選ばれ、それに時代精神が付け加えられて、その時代時代の「武士道」が作られた、と考えるのが自然ではないだろうか。 近代の武士道は、欧米の精神的侵略に対して創作された。その特徴として、フェアプレイ、忠義、滅私奉公、死生観などが挙げられる。既に述べたように、実際にはこれらの概念は歴史的な武士道の中には無かったか、あっても不十分であった場合が多い。フェアプレイは中世のサムライには省みられてなかったし、忠義は戦国代の武士にはさほど重視されなかった。江戸時代においても、滅私奉公は必ずしも絶対的正義ではなかった。家来による主君の強制退位劇「押し込め」が江戸期を通して見られたが、これはその事を如実に示している。 フェアプレイ 江戸期、フェアプレイが尊ばれたという明白な記録はない。残された記録からは、むしろ逆の方向な印象さえある。宮本武蔵の一乗寺下り松、巌流島、ともに騙し討ち的な果し合いであるが、それについて江戸人の非難がましい声も聞かない。忠臣蔵に至っては集団押し込みによる老人虐殺であるが、このどこにフェアプレイが見られるのか、不思議にさえ思う。 そのようなフェアプレイ精神が武士道に持ち込まれたのは、おそらく西洋の騎士道の影響だろう。西洋にフェアプレイがあるが日本にはないだろう、だから日本人は不誠実なのだ、と渡米先で嘲笑された新渡戸が、「いや日本にもあるゾ」と持ち出してきたものではないか。 もちろん、新渡戸といえどもゼロから武士道を作り出したわけではないだろうから、それまでにもフェアプレイを尊ぶ精神が、例えば道場の作法としてあったのかもしれない。しかしそれは確証がなく、想像を逞しうして言えば、儒教、特に朱子学の潔癖とも言える正義感が江戸期に移入された結果、武士にそういう観念が紹介された事があった。その観念は江戸時代の武士には根付かなかったようだが、維新時になって社会が「復古」した際、その正義感が抽出され蒸留されて時代精神になったのではないだろうか。 それが新渡戸らによって西洋のフェアプレイ精神に対するものとして、表舞台に引き出された。ただ、それは本来、日本に根付いていたものではなかったため、明治大正を過ぎて時代の熱度が下がると形骸化していき、「敵は騙しても構わない」(真珠湾攻撃)、「敵は女子供でも殺して構わない」(日中戦争)という結末となったのだろう。 もっともそれは日本人が古来残虐であった、というより、戦争が継続した結果、日本人の精神構造がyakuza-likeなものになったという事だろう。つまり、平和時の精神が後退し、荒々しい、好戦的で野蛮な精神が表に出てしまった、という事である。 人間の中には、普遍的にそのような交代が可能な部分がある。そう考えれば、なぜホロコーストやキリングフィールド、ルワンダ大虐殺のような事件が後を断たないか、説明がつくように思う。 忠義 それはさておき、忠義もまた、江戸時代とそれ以後で大きく意味が転換した概念である。忠義は主君に尽くす心であるが、その枠組みが明治政府に流用されて、主君=天皇=国家として際構築されていった。さらに昭和になると国家への忠誠がデフォルメされ、最後になると天皇さえ守れれば国民はどうなってもいい、とまで「純粋化」されるようになった。 しかし、江戸期における忠義とは決してそのような純粋な愛君精神ではなかったようである。藩の運営に大きな支障をきたすような主君を押し込める事は、幕府によっても公認されていた。そこで優先されている倫理は「藩・家来・人民」の総合体の方を「主」よりも優先させるというものである。従って天皇を国民よりも優先させた日本型ナショナリズムの在り方は、実は伝統的なものでなく、むしろ「近代的」なものだったと言えよう。 現在、日本でも同等な議論が進行しているように思われる。流石に天皇>国民という露骨な意見はまだ出てきてないが、国家>国民という議論は普遍的に出てきている。そこでの「国家」には、国民の影が見えない。「日本の伝統、国益、アイデンティティ」という言葉が独り歩きし、後はそれを国民が承諾すれば良いのだ、という倒錯した議論が出てきているが、そのように個人を超えた「義」に個人を服属させることは、歴史的に見ればむしろ「異端」な考えなのである。 むろん、新渡戸武士道やそのベースの一つとなったと思われる儒学にもそのような考えはない訳ではない。ただ儒学は一人の人間に盲目的に尽くすものでも、一個の国家に滅私奉公するものでもなかった。確かに江戸幕府はそのような効用を儒学(朱子学)に期待したのだが、実際の儒教はもっと普遍的かつ力動的なもので、悪い天子を退位させたり征伐することは「正義」とされた(易姓革命論)。その背後にあるのは、「天」「人民」という思想で、人民の意志は天の声として君主を抑制した。君主は人民を支配するのだから、ここに循環式の権力コントロール装置を見ることができる。 それは近代の三権分立ほど精巧なものではないが、この装置のおかげで中華世界が4000年間もの間崩壊しなくて済んだ、とも言えるのではないだろうか。暴君が民を圧迫すれば、民は暴動や反乱という形で報復する。君がそれを受け入れて改革すればよし、さもなければ革命が起きる、という自浄作用である。 ところがその「天」や「民」の観点が、どうも現在日本のナショナリズムからは抜けているように見える。議論は常に日本国から始まり、そこに終わる。「天下」という世界全体を見る眼、天という国家を超越したものへの畏怖、民という国家を抑制する存在、それらがない議論はどこか危うい。 劇場精神としての「武士道」 以前から、「武士道」「サムライ精神」なるものに、どこか歪で異様なものを感じていたが、佐伯真一氏の「戦場の精神史」によってその疑問が大分融けた思いだ。 現代日本人が持っている武士のイメージは例えば「子連れ狼」「大河ドラマ」などの時代劇漫画やドラマに如実に表現されていよう。そこでは天下について大言壮語する志の大きな所と、鞘がぶつかっただけで斬り合いになるセコイ面が、一個の人間に棲み付くという不思議な現象が繰り広げられている。 仏を念じて平和を唱えるかと思えば、面子を潰されたというだけで女子供まで惨殺する(子連れ狼・渡り徒士)という矛盾。正々堂々の果し合いを絶対視するかと思えば、敵を姦計を持って討ち取っても賞讃される(忠臣蔵)という不思議。 その上この矛盾を解決するというより、矛盾のまま「楽しむ」という姿勢さえ、対立を包容する禅宗の助力を受けて肯定される。 しかし醒めた人間であれば、そのような矛盾を放置しておくことは難しいのではないか。少なくとも、社会を統治する階級が、そのような矛盾を包摂したまま、人民を従えて行くことはできないのではないか、という疑問が自分の中には漠然とあった。 佐伯氏によれば、江戸期の士道はもっとマトモなもので、にくい、と思えば斬殺に及ぶという野卑なものではなかったという。実際、忠臣蔵が事件と成ったのは、そのような徒党事件がほとんど無かった事を示している。武士らはむしろ「忠臣」たちには冷ややかで、結果として彼らは法律を犯した罪で処刑されている。 代わりに賞讃したのは庶民である。彼らが賞讃したのはそれが戯作本であったり、劇であったりしたからである。対等の人間として彼らに感動した訳ではなく、非日常的な昂揚感を求めて彼らにエールを送ったのだ。 その意味で、同じ忠臣蔵が賞讃され、ナショナリズムが鼓舞された昭和初期という時代は、劇場社会であったと言えよう。 政治家から国民、知識人から軍人までが、劇中人物であり、観客であり、無意識的にそれを自覚していた。そのため言動は大げさなものになり、飛躍を含んだものとなり、その結末が真珠湾攻撃となってしまう。 ただ、劇には登場人物は逆らえない。自己の中の観客に応えるためにも、舞踏は激しく、さらに過激に成らざるを得ない。 当時を知る人々は、一様に「国全体が浮かれていた」「戦争に反対するなど思いつきもしなかった」というが、これはその当時の劇場的熱気を言い当てているもののように思う。そして、その劇的歪さが、私が「サムライ精神」について感じた異様さの原因であったようにも思う。
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