http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/615.html
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(回答先: 「宗教」とは根源的な世界畏怖、怖れ畏む気持ちこそが原点ではないかと思うー鎌田東二 投稿者 藪素人 日時 2012 年 11 月 04 日 21:22:02)
(第一部追加)
≪魔と霊性≫
鈴木大拙『霊性的日本の建設』の巻頭には「戦争礼賛(魔王の宣言)」という奇怪な一文が置かれている。その一文は、「自分は世に隠れもない魔王である。折さえあれば人間世界を混乱の極みに導いて、人類を滅亡せんとするのが自分の使命だ。今度もどうやら世界はまた自分の手中に収められたようである」という「魔王の宣言」から始まる。興味深いのは、鈴木大拙が「魔王」に成り代わって、あえて「霊性的日本の建設」を妨げるものの実態を明らかにしようとしている点だ。
その魔王は人間の「無意識」を「大御坐」とする。人間がみずからの「自由意志」で行動していると思っている心の奥底からマインド・コントロールし操作するわけだ。そしていつか知らず「狂信」の渦中にはまってゆく。魔王はまた「うその創造者」である。「力」を本性とする魔王は、「うそ」という「分別」を駆使し、ありとあらゆる「深い隠陰」と「遠い虚誕(事実無根のことを大げさに言う)」を弄して、「人類相互の殺し合い」をはかるのである。
それではこの魔王がもっとも怖れ嫌うものは何か。それは「大地の懐から太陽の光を仰いで出てくる不思議な力、此力はわしの力よりも強いのだ。これは魔性のものではない。力以上の力だ。不思議にわしの力を無力にしてしまう」ものであり、これこそ「霊性」である。
こうして、鈴木大拙は「霊性的自覚」に基づいて「魔王の力」を解体し、「霊性日本の建設」に敢然と立ち向かおうと宣言するのである。
魔性と霊性を共に弁え知ることなしにオウム事件に表れ出た「暴力」と「狂信」を乗り越える道はない、と私は考える。
(参考)
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/610.html
佐々木中〔生への侮蔑、「死の物語」の反復〜この小説は文学的に間違っている〕
>確認します。新左翼崩壊以後出現したカルト教団に共通の、特にオウム真理教において典型的な形で出てくる言説がある。…オウム真理教的な終末論は自分が生きている間に終末が来ることを望む。彼らの論理の底流としてあるのは「どうせ死ぬのだから今死にたい。そして自分の死とこの世界全体の絶対的な死すなわち滅亡を一致させたい」という奇妙な欲望です。
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