★阿修羅♪ > 文化2 > 614.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
「宗教」とは根源的な世界畏怖、怖れ畏む気持ちこそが原点ではないかと思うー鎌田東二
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/614.html
投稿者 藪素人 日時 2012 年 11 月 04 日 21:22:02: BhHpEHNtX5sU2
 

序章 宗教と霊性
 宗教とは何か。
 私自身は、「宗教」の語源説としてはオットー説(古典学者:「その原義を“根源的な畏怖心”ととらえた」)に賛成である。「宗教」とは根源的な世界畏怖、怖れ畏む気持ちこそが「宗教」の原点ではないかと思うからだ。祝詞の末尾に必ずあげられる「畏み畏み申す」というときの怖れ畏こむ気持ちこそが「宗教」の原点ではないかと思うのだ。その心情は、西行法師の有名な和歌、
なにごとのおわしますかは知らねども
  かたじけなさに涙こぼるる
 の心情と通じるものがある。世界畏怖は、同時に世界(神や霊や祖先んや万物を含めて)感謝の心情でもある。畏怖とは恐怖ではない。怖れ畏みつつ感謝するということだ。それが、「宗教」、いや「宗教心」の根幹にあるものではないか。
 このように、「宗教」とは世界畏怖に発するものであると思われるが、同時に「霊性」を開発するものでもある。「宗教心」や「宗教性」は「霊性」ないし「霊性の目覚め」として現れると私は思う。
 ここで問題としたいのは、鈴木大拙が「魔王」の特性として、@力、A無意識、B狂信、C嘘、D恨み・驕りの五つを挙げている点だ。戦力も権力も金力も超能力も、力を頼みとするところに「魔王」の本性が顔を出す。
 その「魔王」がもっとも嫌うものが「霊性」である、というのが鈴木大拙の「霊性」論の眼目である。
 私自身はあるとき「魔」を体験して以来、「魔王」の五つの特性を突破するものは、@感謝、A智慧(叡智)、B聖なる静けさ、Cまこと、D愛・慈愛・敬い・慎みの五つであると思ってきた。そしてさらには、朗らかな笑いと美。力や狂信を無化するものは、感謝と愛と聖なる静けさであるとつくづく思う。そしてそれこそが「霊性」としての「宗教」の根幹であると。

第一部 もう一つの日本精神史
 日本の神は「八百万の神」といわれるほど数が多い。日本人の神観念はきわめて曖昧で多様にみえる。人も自然も動物も、多種多様なものが神と呼ばれ、祀られている。
 このような、ほとんど無定見にみえるほどの神の増殖のうちには、それを支える直観と論理があるのであって、けっして無定見なのではない。古語では「神」にかかる枕詞を「ちはやぶる」という(古事記では「道速振る」)。記紀万葉集の用例の多くは、「ちはやぶる神」を「山河の荒ぶる神」などの威力ある自然神や動物神に対して用いている。それは抽象的な言い方をすれば、根源的な世界畏怖への名づけである。畏怖すべきものを怖れ畏む感情、それが日本人の神観念やそれを中核として成立した神道の根底にある。

【出所】鎌田東二「宗教と霊性」角川選書 H7年  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
01. 2012年11月04日 21:44:14 : HNPlrBDYLM

これが本来の神概念


アイヌとカムイ

アイヌ民族の伝統的な世界観では、カムイは動植物や自然現象、あるいは人工物など、あらゆるものにカムイが宿っているとされる。一般にカムイと呼ばれる条件としては、「ある固有の能力を有しているもの」、特に人間のできない事を行い様々な恩恵や災厄をもたらすものである事が挙げられる。そして、そういった能力の保持者或いは付与者としてそのものに内在する霊的知性体がカムイであると考えられている。

カムイは、本来神々の世界であるカムイ・モシリ (kamuy mosir) に所属しており、その本来の姿は人間と同じだという。例えば下記のアペ・フチ・カムイ (ape huci kamuy, 火の老婆のカムイ) なら赤い小袖を着たおばあさんなど、そのものを連想させる姿と考えられている。そしてある一定の使命を帯びて人間の世界であるアイヌ・モシリ (aynu mosir) にやってくる際、その使命に応じた衣服を身にまとうという。例えばキムン・カムイ (kim un kamuy, 山にいるカムイ)が人間の世界にやってくる時にはヒグマの衣服(肉体)をまとってくる。言い換えれば我々が目にするヒグマはすべて、人間の世界におけるカムイの仮の姿ということになる。

名称ではキムン・カムイ、コタン・コロ・カムイ (kotan kor kamuy, 集落を護るカムイ、シマフクロウ) 、レプン・カムイ (rep un kamuy, 沖にいるカムイ、シャチ) のように、「ーカムイ」などのように用いられる。

また、カムイの有する「固有の能力」は人間に都合の良い物ばかりとは限らない。例えば熱病をもたらす疫病神なども、人智の及ばぬ力を振るう存在としてカムイと呼ばれる。このように、人間に災厄をもたらすカムイはウェン・カムイ (wen kamuy, 悪しきカムイ) と呼ばれ、人間に恩恵をもたらすピリカ・カムイ (pirka kamuy, 善きカムイ) と同様に畏怖される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%82%A4


02. 中川隆 2012年11月04日 23:52:06 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

崇拝

遥かな古代、まだ人々が神について考える事すらなかった時代、その頃から人間は、なんらかの魔法を行っていました。我々の知る最古の魔法は、ネアンデルタール人の時代、つまり現在から7〜8万年前の狩猟成就の儀式です。彼等は、くまの頭蓋骨を並べ、より多くの獲物が得られるよう祈ったのです。4万年程前のクロマニョン人の時代になると、魔法も進歩しています。壁画に動物を描いて、狩猟の成功を祈ったのです。

つまり、熊の頭蓋骨という具体的なものを必要とせず、絵という抽象度の高いもので魔法をかけられるようになったのです。

これらを【フェティシズム】〔Fetishism物神崇拝〕と言います。このような時代の魔法、つまり人類最初の魔法はフェティシズム的世界観によって行われた魔法だと考えられます。

つまり、『もの』の魔力を直接用いる魔法です。ネアンデルタール人の魔法も、熊の頭蓋骨という熊の肉体〔の一部〕そのものの持つ力を用いた魔法である事が分かるでしょう。動物の爪を持つことで自らの攻撃力を高める魔法は、フェティシズムの時代からある古い古い魔法なのです。フェティシズムといっても、異常性欲の一種ではありません。宗教学において、フェティシズムとは、物神崇拝〔または呪物崇拝、霊物崇拝〕の事です。つまり、【物】に魔力があり、その力を崇拝するという思想です。元々は、15世紀にポルトガルの船乗りが西アフリカに行き、住民が歯や爪、木片や貝殻、さらに剣や鏡などを崇拝しているのを見て、自分たちがフェティゾ〔カトリックの聖遺物〕をありがたがっているのと似ていると考えて、フェティシズムという言葉ができたのです。

そして、西アフリカの住人が拝んでいる物神のことをフェティッシュと呼ぶようになりました。西アフリカの例では、部族に一つフェティッシュがあるほかに、家族ごとにもフェティッシュがあります。個人が一つのフェティッシュを持っている例もあります。

フランス人で社会学の祖コント〔1798〜1857〕によれば、「フェティシズムは世界に対する人間の根源的態度」であり、人間の精神史における最初の段階である「神学的状態」における人間の心性であるとされます。つまり、人間の精神が発達し始めた最初の段階で、自分たちが生命を維持する為に使うものたちに、何らかの力を感じ、それを崇拝するようになった状態がフェティシズムなのです。フェティシズム自体、物に潜む魔法を見出す一種の魔法体系だと考えられますが、フェティシズムの考え方は、後の魔法体系にも広く取り入れられました。物に魔力を込めてマジックアイテムを作り出すのは、このフェティシズムが起源でしょう。

ちなみに、フェティシズムには、宗教学的意味、経済学的意味、心理学的意味があり、上記の説明は宗教学におけるフェティシズムです。経済学で言うフェティシズムは、(あの『資本論』を書いた)カール・マルクスによって定義された言葉で、「商品が人間の意志を超えて動き出し、逆に人間を拘束するようになった」状態をあらわしています。日本語では【物神崇拝】といいます。そして、心理学で言うフェティシズムが【節片淫乱症】とも訳される性倒錯の一種です。いずれも、実態(宗教学では物の働き、経済学では物の使用価値、心理学では性の対象となりうる人体)から遊離した物に価値を見出す心理です。

人類の実体から象徴を抽象化する能力に伴う、人類の文化そのものに潜むフェティシズムが、様々な方面にあらわれたものと解釈されています。フェティシズム的魔法の時代が数万年続いたあとで、人類はアニミズム〔Animism 有霊観・精霊崇拝〕的世界観を手に入れました。そして、これによって物の背後にあって魔力の基となる霊的存在に気づくことができるようになりました。

メラネシアの住人がマナと呼んでいるもの、我々日本人があらゆるものに宿っていると感じている神々、これらは全てアニミズム的な霊的存在なのです。物に宿る霊的存在こそが魔力の源であるならば、同じ物でもより強い霊的存在を宿らせる事で、より強力に働かせる事が出来ます。また、病などが起こるのも、人間に宿る霊が抜けてしまう事で人間の働きが悪くなってしまうからなのです。逆に、敵の武器に宿る霊的存在を追い出す事ができれば、敵の刃は味方を傷つける事がないのです。

このように、アニミズム的世界観があれば、魔法に様々な工夫を施す事ができるようになります。そして、その工夫の差によって、魔法の力に大きな差が出るようになりました。魔術専門家の出現です。フェティシズムの次の段階として、「物」それ自身に魔力があるのではなく、「物」に霊的存在が宿っていて、それが力を持っているのだという考え方が登場しました。これがアニミズムであり日本語で汎神論といいます。

この霊的存在のことを、精霊と呼んだり、神々と呼んだりします。イギリスの文化人類学者タイラー〔1823〜1917〕によれば、アニミズムは夢や死、病気や幻想などの経験から、体から離脱できる非物質的で、しかも人格的な存在を信じるようになった事から生まれたとされます。そして、そのような霊的存在を進行する事が宗教の始まりであるとされています。

アニミズムは、現在にも残る魔法の基本となりました。死にかけた人の親族が、屋根の上や井戸に向かってその人の名前を呼ぶのは、死にかけた人の魂がどこかへ行ってしまうのを防ぎ、元の身体に戻るように行う儀式なのです。例えば、ケルト人の間でも首を狩る習慣がありますが、これも首に存在する霊魂を獲得する事で、狩った側の豊穣を祈る魔法なのです。他にも、動物霊の存在はきつね憑きなどの憑依現象の原因であるし、お盆も霊魂が特定の日に戻ってくるというアニミズム的な考え方の名残なのです。トーテミズム〔Totemism 族霊崇拝〕とは、ある集団と、特定の動植物や事物とが、特別な結びつきを持っている事をあらわします。


そして、その特定の何かの事を、トーテムと呼びます。元々は、アメリカ・インディアンのオジブワ族の言葉ototeman〔彼は私の一族の者だ〕に由来するものです。特にそのトーテムを柱に刻んだトーテムポールでして知る人も多いでしょう。

けれども、トーテミズムは、インディアンだけの特殊事情ではなく、世界中で広く行われていました。トーテミズムの例としては、奇妙なものも多いです。特定の部族が熊を自分たちの先祖と信じているものなどは、まだしも分かりやすいです・・が、オーストラリアの部族で、下痢という病気をトーテムに持つ部族もいます。こうなると、一体トーテムとは何なのか、訳がわかりません。ともかく、特定のトーテムを持ち、時にはトーテム名で呼ばれる部族が、そのトーテムに関して何らかの利益を得たり、何らかのタブーをもっています。

これが、トーテミズムです。つまり、トーテムと部族の間には、何らかの神秘的なつながりがあります。そのつながりのために、部族は何らかの約束事を守らねばならず、その代わりに何か利益を受けます。これを魔法と呼ばずして・・何といえばよいのでしょう。シャーマニズム〔Shamanism 祖霊崇拝〕は、アニミズムにおける霊的存在が、物に宿るだけではないことを知ったことによって生まれた魔法です。

つまり、本当に強い霊的存在は物に宿っておらず、人間の手の届かないどこかにいるのだということを知った人間が、その強い存在に働きかける為に作り出した魔法体系がシャーマニズムなのです。そして、このシャーマニズムにいたって、遂に職業的魔術師が登場する事になりました。それがシャーマンです。

シャーマンといっても、大きく分けて2種類のシャーマンがいます。彼等の使う魔法も二つに分けられます。【憑依型シャーマン】と【脱魂型シャーマン】です。

憑依型シャーマンは、強力な霊的存在を自分の肉体に宿らせて、その霊的存在に力を発揮してもらう魔法を使います。つまりシャーマンの魔法は、必要な霊を選択すること、自分の体に宿らせる事の二つです。本当に魔法(奇跡かもしれませんが)を使うのは、シャーマンの身体に宿った霊が行うのです。こう言うと、憑依型シャーマンは、たいした能力を持っていないように思えるかもしれません。しかし、そんな事はありません、自らの肉体を霊に貸し、しかもあとから取り返せるようにしなければならないことを考えると、シャーマンの魔力は大変高いものでなければなりません。

実際、能力不足のシャーマンが悪霊に憑依されたままになった例は、何度も報告されているほどです。憑依型シャーマンの魔法の強さは、呼び出す霊のバリエーションと強さによって決まります。より強い霊を、数多く呼び出せるシャーマン(その上で、呼び出した霊を追い返せる能力も必要)が、強力なのです。


脱魂型シャーマンは、自らの霊魂を肉体から離脱させ、高位の霊的存在に会いに行って、依頼を行います。シャーマンの魔法は、自らの魂を離脱させる事、高位の霊のいる所まで魂だけで旅をする事、高位の霊に依頼を聞いてもらう事の3つです。こちらも、本当に魔法を使うのは、シャーマンが出会った高位の霊です。脱魂型シャーマンの利点は、霊を自らの肉体に宿らせなくても良いので、より高位の霊と接触する事ができる点にあります。

憑依型シャーマンは、霊を強制的に呼び出すため、自らが霊よりも強い力を持っている必要があります。また、強力な霊を我が身に宿らせるのは、本人にとってかなりの負担です。しかし、脱魂型シャーマンは、自らが会いに行くので、そのような制限がなく、どんな強い霊に依頼する事も可能です。その代わり、高位の霊を強制して働かせるわけにいかないので、うまく説得したり、適当な代償を支払ったりする必要があります。けれども、国家的大事件などを解決するには、憑依型シャーマンでは力不足で、脱魂型シャーマンの力が必要となります。

脱魂型シャーマンの魔法の強さは、高位の霊に会う道筋をどれだけ知っているかと、その高位の霊に依頼を聞いてもらう為の技術によって決まります。より高位の霊と接触できれば、より高度な魔法が使えるのです。

シャーマニズム、特に脱魂型シャーマンは、文明社会では早くに衰退しました。というのも、神々について知った人々は、最高位の霊である神に祈る僧侶の祈りの方が、それ以外の精霊に接触するシャーマンよりも強力に見えたからです。特に大事件を扱う脱魂型シャーマンは、宗教というライバルに顧客を奪われ、衰退の憂き目を見る事になりました。

現在では、未開地域を除いて、脱魂型シャーマンを見る事はありません。しかし、憑依型シャーマンは、憑依させる霊の制限から比較的小さな願いをかなえる魔法であった為個人を相手にする魔法使いとして長くその地位を保つ事が出来ました。心霊主義も、憑依型シャーマンの末裔と考える事ができるほどです。つまり、憑依型シャーマンは、20世紀になっても使われつづけた魔法体系なのです。
http://f4f4440.s10.xrea.com/pagefile/sinwa/jujut2.htm


03. 中川隆 2012年11月05日 00:03:55 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

「神々の糧」:トリプタミン幻覚剤と意識のビッグバーン

ホモ・サピエンスは5万年前に知性が爆発的に急成長し、アフリカから脱出した150人程度のグループが現在のすべての人類の祖先となったとされている。アフリカで意識のビッグバーンを引き起こしたものは何だったのか。

『神々の糧(Food of the Gods)』のテレンス・マッケナは、強いエクスタシー感覚をもたらす世界中の向精神性植物を比較検討し、アフリカ中部で幅広く植生し、人類祖先の食糧となった可能性があるのはトリプタミン幻覚剤を含有する植物・キノコ類ではないか、と推理する。

トリプタミン系のシロシビンを摂取すると視覚が鋭敏になり、性的な興奮を誘発するという実験を引き合いにしながら、マッケナは5万年前の激変を以下の3点から考察している。

■ 1. 鋭敏な視力は狩猟や採集を大幅に向上させ、食糧の大量確保が可能になった。

■ 2. 性的な興奮を引き起こし、人類の急速な繁殖に役に立った。

■ 3. シャーマン的なエクスタシーを経験し、超自然的な判断力・予知能力・問題解決力をもつ指導者が現れた。

視力向上によって「狩猟される側」から「狩猟する側」に転換したともいえる。裸眼視力が3.0〜5.0に上がっただけではなく、心の目による察知能力も高まり、安全な住み家や集落を確保したうえで、生めよ殖やせよ、が起こったのかもしれない。

やがて超自然との交流を専門にするシャーマンの家系が生まれ、神秘世界や生命現象が徐々にコトバで表現されるようになり、ここから宗教や文字社会へと発展した、と想像できる。

わたしが主張したいのは、初期人類の食物に含まれていた突然変異を起こさせる向精神性化学化合物が、脳の情報処理能力の急速な再編成に直接影響を与えたということである。植物中のアルカロイド、とくにシロシビン、ジメチルトリプタミン(DMT)、ハルマリンといった幻覚誘発物質は、原人の食物の中で、内省能力の出現の媒介を果たす化学的要素となり得るものだった。<中略> この過程のもっと後の段階で、幻覚誘発物質は想像力の発達を促し、人間の内部にさまざまな戦略や願望をさかんに生み出し、そしてそれらが言語と宗教の出現を助けたのかもしれない。(p41)

著者はエクスタシー感の高い“ドラッグ”を以下の4つに分類する。


1. LSD型化合物・・・近縁はヒルガオ、麦角など

2. トリプタミン幻覚剤・・・DMT、シロシン、シロシビン(豆類など)

3. ベータ・カルボリン系ドラッグ・・・ハルミン、ハルマリン(アワヤスカのベース)

4. イボガイン科の物質・・・アフリカと南米に存在

余談だが、本書では『神々の果実(Magic Mushroom)』にも登場するベニテングダケについては、若干の向精神性はあるものの、安定的なエクスタシーはもたらさないとして除外されている。私も『神々の果実』を読んでみたが、インドのソーマ(Soma)に関しては文献学的に説得力があるが、飲尿習慣を絶対の前提とするところが難点だ。また、神話学やユダヤ・キリスト教に関しては、拡大解釈が甚だしい。

ともあれ、人類の祖先がアフリカのトリプタミン幻覚剤で意識のビッグバーンを経験したと仮定すると、その後の放浪地では良質の幻覚剤に恵まれなかったということか。

エジプト脱出のモーゼは麦角(LSD)の知識が豊富だったという説もある。エレウシスの秘儀は麦角ビールのような特殊大麦飲料を使っていたという考察もある。だが、麦角は一歩間違うと大量の死者を出す猛毒物質でもあるため、扱いが困難だ。

アヘンは中国を攻略する薬物となり、“スピリット(精神)”と呼ばれるようになった蒸留アルコール飲料も、大量の中毒者を出して社会不安を広げた。アヤワスカは現在注目されているものの、これを使っていた中南米の民族が戦略的な優位に立てていたかどうか。砂糖・コーヒー・茶・チョコレートは、医薬品や催淫剤としては期待倒れだった。現代社会が抱えるタバコの害についてはすでに周知の通りだ。

現代社会では草原で狩猟をするような視力は不要であり、人類全体の視力は低下する一方だ。生めよ殖やせよの効果が効き過ぎたせいなのか、地球上の人口がこれだけ増えても年中型の発情は続き、それでも満足できず、「もっともっと」とドラッグを求めている。

残された快感と英知の世界は、シャーマン型のエクスタシーの世界だ。このエクスタシーを一般庶民が常時体験するような革命の日々は、果たして訪れるのだろうか。

モーゼが視たヘルメス蛇の幻想 ― 龍神イエスを導くマトリックス

ヘブライ大学の認知心理学の教授がモーゼ研究で面白いことを言っている。


◆AFP:十戒を受けたときモーゼはハイだった、イスラエル研究報告(2008/3/6)

 旧約聖書に登場するモーゼ(Moses)はシナイ山(Mount Sinai)で神から10の戒律を授かったとされているが、それは麻薬の影響による幻覚経験だった――イスラエルの研究者によるこのような論文が今週、心理学の学術誌「Time and Mind」に発表された。

 ヘブライ大学(Hebrew University)のベニー・シャノン(Benny Shanon)教授(認知心理学)は、旧約聖書に記されている「モーゼが十戒を授かる」という現象に関し、超常現象、伝説のいずれの説も否定。モーゼもイスラエルの民も麻薬で「ハイになっていた」可能性が極めて高いとしている。

 モーゼが「燃える柴」を見たり、聖書によく出てくる「声を見た」という表現も、麻薬の影響を示しているという。

 教授自身も麻薬を使用して同様の感覚を味わったことがあるという。1991年、ブラジルのアマゾンの森林で行われた宗教儀式で、「音楽を見る」ための強力な向精神薬、アヤフアスカを服用。精神と宗教のつながりを視覚的に体験したと言う。
 アヤフアスカには、聖書の中でも言及されているアカシアの樹皮でつくる調合薬と同程度の幻覚作用があるという。

「アヤフアスカ」はアヤワスカとも呼ばれる幻覚調合剤で、エハン・デラヴィやグラハム・ハンコックなど意識の冒険家たちが何度も服用している。このアヤワスカを飲むと大蛇の幻覚を例外なく見ると言われているが、シャーマンとしてのモーゼがアカシア樹脂を使って同様の幻覚作用を得ていたとすると、モーゼの「蛇の杖」や「炎の蛇」や「青銅の蛇」も説明がつく。

蛇信仰は世界中で普遍的に存在するが、旧約聖書の創世記では蛇はサタンの化身であり、イブをけしかけて知恵の実を食べさせた。一方、エジプト脱出のモーゼは杖を蛇に変えたり、堕落した民を炎の蛇で殺してしまうという“蛇使い”だ。

◆旧約聖書 『民数記(Numbers)』 21:4−9 (新共同訳)

彼らは、ホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海を通って行った。しかし、民は途中で耐え切れなくなって、神とモーセに逆らって言った。

「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」 

主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。民はモーセのもとに来て言った。

「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」 

モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。

「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者ががそれを見上げれば、命を得る。」 

モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。

最も不思議なのは、ユダヤの民が許してくださいと哀願したときに、蛇にかまれても死ぬことのない“解毒装置”として、「青銅の蛇」を用意したことだ。蛇にかまれても、この青銅の蛇を見ると命を得るという。

偶像を拝んではいけない、他の神を拝んではいけないといいながら、チャッカリ蛇の偶像を用意したことになる。みんな死ぬのが怖いので、この青銅の蛇をありがたや、ありがたやと拝むに決まっている。どうして蛇の天敵である「鷲」や「鷹」の像を使わないのか。あるいは

「ヤウェ、ヤウェと10回繰り返せば直る」

という言葉のパワーを使わないのか。


◆旧約聖書 『列王記 下(II Kings)』 18:1−4 (新共同訳)

イスラエルの王、エラの子ホシュアの治世第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。彼は二十五歳で王となり、二十九年間エルサレムで王位にあった。その母の名はアビといい、ゼカルヤの娘であった。彼は父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行い、聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。イスラエルの人々は、このころまでにこれをネフシュタンと呼んで、これに香をたいていたからである。


時代が下ってヒゼキヤ王の時代になると、モーゼの造った青銅の蛇は打ち砕かれてしまう。蛇神は拝んではいけませんよ、何度注意しても、人々は蛇を拝んでしまっていたということだろう。しかしながら、この蛇拝みの元を造ったのはユダヤ教の開祖モーゼなのだ。

蛇神というとおどろおどろしいが、いわゆる地の神の象徴であり、龍神さまと言ってもいい。龍神の側に立って、旧約聖書にある「ヤウェ vs 龍神」の対立構造を読み取ると以下のようになる。


ヤウェがこの世を創造したけれど、ロクなもんじゃないよ、この世界は。
アダムとイブを救うべく、知恵の実を食べさせる龍神さまの電撃作戦がついに決行!

ところがヤウェが「原罪」と恐怖政治の手法を使って闇の人間支配を継続。

これに反撃すべく、モーゼが登場。ヤウェだけを拝むように見せかけて、「青銅の蛇」を拝まざるを得ない仕組みを構築。

ヤウェの化身ヒゼキヤ王がこの工作に気づき、龍神の通信機「青銅の蛇」を破壊。

互角の戦いといったところか。で、この後にユダヤの律法主義を批判しながら登場するイエスは、さて、どちら側の化身なのか。正統派のキリスト教会は口先でユダヤ教を否定・超克したと言いながら、

ユダヤの神=キリストの神

という路線を選択。一方、キリスト教の異端であるグノーシス派は

ユダヤの神=サタン、キリストの神=龍神

を選択している。

ユダヤ教の神ヤウェがサタンであるとすると、アダムとイブに知恵づけをした蛇が本当の神さま(龍神さま)だったということになる。また、イエスこそが龍神の化身であり、ヤウェが仕組んだ「原罪」を浄化するために、あえて十字架に掛かって犠牲になったという解釈や、スキをついてサタンをコブラツイストで締め上げたという解釈も成り立つ。

中世のキリスト教では、旧約の神様が偶像崇拝はいけないと何度も警告したにもかかわらず、イエスの磔刑や聖母マリアを偶像にしてしまう。一方、東欧で栄えたグノーシスのボゴミール派は、龍神イエスを処刑した十字架を拝むなんてトンでもないということで、十字架を含めいっさいの偶像を否定した。

ルネサンスになると、エジプトのヘルメス主義やギリシャの秘儀、ユダヤ教のカバラなどを融合した新プラトン主義が台頭する中で、「十字架に架かる蛇」(フラメル紋章)も現れる。反カトリックの神秘主義者は

蛇神=イエス

をほのめかし、詭弁のキリスト教徒は


これはモーゼの青銅の蛇を意味し、イエスの磔刑を予言したもの


とうそぶいて、“旧約は新約の予表”という預型論(タイポロジー)に溺れる。


いずれにせよ、一方が神で他方はサタンであるという善悪二元論を超越しない限り、旧約を“聖”書に仕立て上げたバイブルであれ、旧約を全面的に否定したグノーシスであれ、英知に至ることは不可能であろうね。
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1714647
http://hiro-san.seesaa.net/index-23.html


04. 中川隆 2012年11月05日 00:06:41 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM


宗教の本質はオルギア


オルギア、狂宴(Orgy)

ギリシア語の o[rgia に由来する語で、「秘密の礼拝」を意味した[註1]。ほとんどの秘教の礼拝には、エレウシス、カビリア、シャクティスム、スーフィー教、キリスト教の一派の拝蛇教などの秘儀におけるごとく、性の儀式が含まれていた。ウィルキンズは、「宗教は、自然と密着したすべての祭儀につきもののオルギア的傾向をもはやとらなくなったときでさえ、

……つねに性愛的な一面を持っている。……

遠くさかのぼればさかのぼるほど、性愛と聖礼の違いを見分けるのはますます困難になる。そして『遠くさかのぼる』のは単に時間的な意味だけでなく、経験の深さをもまた意味する」と述べている[註2]。

 現在使われている「休日」holidayという語は東方のホリの祭り(ヒンズー教徒の春の祭り)に由来している。西欧の敬虔な観察者は、この祭りを、「最もみだらな逸楽」を特徴とする「サトゥルナリア祭」として記述している[註3]。参加者はみな一様に、彼らの「逸楽」を、至福を暗示する聖なる行為と考えていた。

 ヒンズー教の聖典は「女神パールヴァティと肉体をもって交わることは、すべての罪を消滅させる徳である」と述べた[註4]。易経は、「万物に生命を与える」性交の神秘的価値について語っている[註5]。イワン・ブロッホ(『現代の性生活』の著者。ハヴロック・エリスと同時代人)によれば、「宗教は、やむことのない渇望、永続の感情、生命の深淵への神秘な没入、永遠に祝福された結合による個と個の合体への切望を、性的衝動と分かち合うものだ」[註6]という。このような理由から、情熱、祝福、恍惚、忘我、栄光のような言葉は、宗教的および性的経験のどちらにも置き換えて用いられた。

 ギリシア時代の異教は、中心となる秘儀を表すものとして、性的狂宴orgiaを行った。キリスト教の禁欲主義者が「大儀式」を、「名を挙げることをはばかる秘教の儀式」、あるいは「エレウシスの売春」として非難した理由は、性的狂宴にあった。女神は「ひそかに寝室に入ってきた」者たちに永遠の生命を約束した。女神の寝室は「花嫁の部屋」pastosを意味し、そこにおいて、女神と女神の崇拝者たちとの間の「聖なる結婚」hieros gamosが達成された[註7]。

 同種の性的狂宴は、北方の未開民族の間でも行われた。ストラボンは、アイルランドのドルイド教の呪術師は、「サモトラケ島のオルギアと同様の」礼拝を行っていると述べた[註8]。


2、3世紀頃の極端な禁欲主義にもかかわらず、キリスト教もまた、その実践にあたって、ある場合には狂宴的な宗教としての徴候をいくつか示すようになってきた。オルレアンのキリスト教の団体は、1年の間に数夜、乱雑な行動に耽るために集まった。同時代の記述は述べている。「明かりが消されると、男たちはみな、たとえそれが母親、姉妹、修道尼であろうとかまわずに、罪の意識なしに、手近の女をひっつかむ。このようなもつれ合いが、彼らにとっては、聖なる行為であり、宗教であると考えられたからだ」[註9]。

 しかし、このような行為を、悪魔崇拝の仕業だと決めつけることは、それを防ぐ手立てとしては決して有効とは言えなかった。公共の場での狂宴は、宗教の聖典が書かれる以前から、世界のいたるところで、宗教に伴って行われる慣例的な行為であった。それは、宗教的な体験を特徴的に示そうとする集団感情のうねりの一部をなしていた。中世の農民にとってこの現象は以前から馴染みのものであって、彼らの好むものであり、たとえ悪魔崇拝と呼ばれようと、この行為に固執した[註10]。

 悪魔崇拝と呼ばれたからといって、かえりみて自分たちを悪魔の崇拝者とみなす狂宴者はほとんどいなかった。概して彼らは自分たちを特別に聖なる者として考えた。ラスプーチン(1971-1916。シベリアの農夫出身の祈祷僧、ロシア皇帝ニコライ2世と皇后アレクサンドラに取り入って、勢力をふるった)一派の「神の人々」は、彼らの裸のダンスは天国の天使のダンスの模倣であると主張した。忘我の状態を誘引する歌と踊りの後で、彼らは性の狂宴に耽り、ときには子どもたちはみな、聖霊によって生まれたのだ、と言われた[註11]。

 インディアナ州のあるメソジスト派の説教師はかつてこう語った。「宗教的情熱は他のあらゆる情熱を包括するのであった、他の情熱を刺激せずに、ひとつの情熱だけを激しく感じることはできない」[註12]。アメリカにおける信仰復興運動は、明らかにこの事実を証明するものであり、復興主義者の会合の9か月後に生まれた子どもは、広く「キャンプ集会の子ども」として知られるほどであった。

 外見は清教徒でありながら、その実アメリカの新教運動は、宗教的な行動様式を「復興」させた。その様式は、サモトラケ島の狂宴と好色なサテュロスをもつ古代ギリシア人にとって、全く馴染み深いものであったろうと思われる[註13]。ただ本当の名前で呼ばれなくなったにすぎない。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/orgia.html


密教の起源はインドにおける「尸林(しりん)の宗教」にあります。

「尸林」とは中世インドの葬儀場のことで、大きな都市に隣接してこの尸林が存在していました。死者の遺骸は都市部から尸林に運ばれ、荼毘(だび)にふされるかそのまま放置されて鳥獣の貪り食うにまかせられました。しばしば尸林は処刑場を兼ねており、斬首されたり、串刺しにされた罪人の死骸が晒されていました。

これらはまともな神経の人間には実に恐ろしい場所であり、実際に野獣が跋扈(ばっこ)する危険な場所であり、しばしば魑魅魍魎(ちみもうりょう)が徘徊する場所として恐れられていました。

 この尸林では、「尸林の宗教」といったものがあり、墓場に女神が祀られ、女神に仕える巫女が住み、死体や血液を用いる黒魔術的な秘儀を行なっていたのです。尸林の土着の女神たちは、それぞれの尸林を管理する教団によって、ヒンドゥー教か仏教の女神として崇拝されていました。それぞれの尸林の女神の祠(ほこら)には巫女が仕え、女神を供養する傍ら、呪術を生業としていました。その巫女は苦行母(茶吉尼・ダーキニー)または、瑜伽女(ヨーギニー)と言いました。

シヴァ神の神妃サティーの暗黒面を表象するドゥルガー女神に彼女たちは侍女兼巫女として仕えていたのです。

その聖地(墓場)に土着の女性たちは、多くはアウト・カースト(日本で言う穢多非人・えたひにん)の出身で、昼間は牧畜や工芸等の底辺労働に従事し、夜間は(アウト・カーストの女性に特有の)妖術を使うとみなされていました。

彼女等は1年の特定の祭日、又は月の特定の祭日に尸林に集まり、人肉や排泄物を含む反日常的な食物、つまりは聖なる食物として食し、酒を飲み、歌舞音曲を楽しむというオルギア(秘教的儀式)を行ないました。

 この尸林におけるオルギアの中核をなすのは、ガナチャクラと呼ばれる性魔術儀式です。ガナチャクラとは仏教行者の行なう修法の一種であり、修法を構成する儀礼は曼荼羅制作、護摩(ごま)、観相(瞑想)法、飲食、歌舞、供犠、性瑜伽(ヨガ)などです。

 ガナチャクラの構成員は9名であり、破壊神シヴァの最も凶暴な姿を具現した神、パイラヴァを召喚した男性行者が1名がアジャリとなり、その周囲を円形に囲む女神を召喚した女性行者が8名の計9名で行なう儀礼です。

天体の運行を模す形で周囲の女性が位置を変え、順番に中央の男性と瑜伽(性行為・読み方はヨガ、ヨガのポーズはこの性行為の秘儀が元になっています。)します。この位置変換を「瑜伽(ヨガ)女の転移)(サンチャーラ)と言います。女性行者が8名に臨時のメンバー(行者でない女性)を1名加えた9名と言う説もあります。その場合は中央の歓喜仏の姿勢で交合する男女1組に対して、円形に8名の女性が並び、曼荼羅が常時成立することになります。この結果、中央の男性行者はすべての女性行者と平等に和合することになります。

 この儀式はインドの古代神話世界において、ヴィシュヌ神が金輪剣(チャクラ)を用いてシヴァの神妃サティーをばらばらに切断し、地上に落としたあと、サティー女神が復活し、シヴァ神と再結合を果たした説話をかたどっています。ちなみに切断された女神の遺体が落下した場所が前出の聖地です。


星辰(せいしん)の回転を象徴しながら、都合8回(1対8)の性的和合により発生する宇宙的快楽は「大楽(マハースーカ)」と呼ばれ、子の大楽が行者を「梵我一如」の境地に連れ去ると言われているようです。

 梵字はこの瑜伽(ヨガ)のポーズを記号化したものであることから、ヨガのポーズや梵字には多くの憑依霊や狐などの動物靈を呼び寄せる大変危険なものなのです。

 上記の尸林に集まる巫女の内、ダーキニーと呼ばれた人たちは、空海が日本に密教を持ち込んだ時に茶吉尼天(ダキニテン)という女神として現在の稲荷神社に祀ってしまいました。稲荷神社でキツネを眷族(けんぞく)として祀っているのは、このダキニテンからきています。

 というのは、もともとダキニテンはインドの墓場、尸林で性行為を伴う黒魔術をおこなっているたダーキニーであり、インドでは人肉を食らいながら裸で踊り狂い、左手には人の腎臓(もしくは心臓)、右手には人からもぎ取った手足を持っている姿で描かれていますが、何と日本の稲荷神社で茶吉尼天となったダーキニーは優しい姿で左手には宝玉、右手には剣を持って描かれています。

 そして、何故キツネかと言えば、もともとダーキニーは夜になると死肉をあさるゴールデンジャッカルの変身した姿だと言われていたり、ゴールデンジャッカルを人食い女神の眷族(けんぞく・使いっ走り)として使っていた、と言うことから来ていますが、日本にはジャッカルが存在しないため、ダーキニーとジャッカルのコンビが茶吉尼天とキツネのコンビに変容してしてしまったようです。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/onmyoukai/newpage109.html


05. 中川隆 2012年11月05日 00:13:03 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM


鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱醯鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱霾鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱驩鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱雖雁聴隅鬱鬱鬱鬱羈贍貔躍鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱詣觀召_召状隅鬱羇剤錐鋸醯艪鬱鬱歡笵鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱鬱醢儲ィ鑓テ羽Ы⊇没踈佼Y荘繍鬱鬱鬱鬱甑璢霾鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱勧鬱藹韲菅莢べ⊇∃Ц它∬⊇羽讙蠢鬱葢温輻鬱鬱諸荻Y呈シ隴鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鐔鬱露媛どベ   ベS辷Щ坦旦鏥鬱鬱`驩讒鬱鬪舜悠⊆ジY停o鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱齬醯譴甜Ρ       `∃Ш珀伽躇遏T鬱鬱鬱鬱芦サY川ジベ介Y蹄ヲ霾鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱醯佼三、      ベ∃滋譴靄謔鬱噬ッ¨       ``ベ⊇川浴壮穉隴罅T鬱鬱鬱鬱鬱
鬱盛護燗燗鷦妓冖マ∴、      ベ俎罎靄躇諚牧べ              ベ⊇川衍掘雁隴鬱鬱鬱鬱鬱鬱
鬱醢世鎰鋸謐鬱廷レ、          沼貍隴謡鈷⊆゛                `ベ∃氾狛挧鍠薩鬱鬱鬱鬱鬱
鬱鬱鬱靉咒謐鬱鬱鬱醢止        ∃堀鍠狽拔シ`∴               ベベ川Y珀掘鐫遏T鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱蠢=@     ‘氾荘珀召Κ`∴、                ベベ川Y壮掘隴鬱鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱蠢蹟蠢蠧熨鬱影        ベY珀笠に∴3、                  `ベ介衍衒鐫鬱鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱醪攤J蠡J鬱’         ‘∃衍衒旦Щ辷゛                   ベ∃衍衒鋸遏T鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱鬱記鷦騾粳”            ベY珀狛錐自.                    ベ∃衍珀鍠疆鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱鬱蠢,``                `ヨ召Y定ネ此                   ベ∃汾珀掘儲鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱監                   ベ交ベヨ疆齔                  ∴S⊇浴衒鍠譴鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱蠢』                  ベ三ヘベ鴪彭                ベ⊇⊇氾衒掘儲鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱ル                  ∃川シ  ヅ’                 ベベ3氾珀伽疆鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱』                  `当癶、        、  u∴     ベベ⊇Y珀雄鬱鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱。                  ″  シ  、uムЩ糴庇     ∴シ⊇汾衍儲鬱鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱監                      ∴、∃ヨ櫨鬱鬱齔      `3⊇氾珀遏T鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱テ                逧此払(錙鬱鬱鬱h     ベ3⊇氾衒鬱鬱鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱蠢』              『鬱JJ鬱鬱鬱鬱影忙      ベ⊇⊇浴郤弭儲鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱蠢=@             『鬱鬱鬱鬱鬱Г      ベジ⊇Y交氾据鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鹹              情苛泣罅         ∴3S川Γ ヨ据鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱醢=@           ヴ県戸”          ⊇⊇ジ   ∃据鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱蠧=@                       ⊇⊇゛    ヨ溷鬱鬱鬱
鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱蠧止.                  ベシ       旧疆鬱鬱鬱

原始宗教


1) アニミズムとアニマティズム


山崎
「アニミズムとは、動植物から、山や川や海といった無生物、 雨や風や雷などといった自然現象に至る万物に、霊的存在〔霊魂・神霊・精霊・妖精など〕を認める信仰だ」。


ルナ
「つまり自然の万物、万象を生命化するのがアニミズムなのね」。


山崎
「そうだね。もっとも原始的な宗教で、神の観念はこのアニミズムから生じたとされるよ」。


ルナ
「やがて、太陽、山、海、風などが が神格化されて多神教の神になったのね」。


山崎
『アニミズムより以前に、アニマティズム(プレ・アニミズム)が存在したという説もある。

アニマティズムとは、万物に内在する生命力や活力に対する信仰で、ここから神の観念が生じたとも言われている。山や海や太陽などといった人間の力を超える存在に対し、おそれかしこむ心情を抱くこと。火や水の浄化力を信じて禊(みそぎ)したり火祭を行うこと。鏡や剣に霊力がそなわるという考え。これらはアニマティズムに通じていると言えるんじゃないかな。

なお、呪術さらには宗教そのものが、超自然的存在を動かすことを目的としていて、アニマティズムの発展と考えられるよ』。


ルナ
「いずれにしても、かつて人間は、人智を超えた自然神秘や驚異を神と見なしたということね」。
「最初にアニミズム説を唱えた人は?」。


山崎
『エドワード・バーネット・タイラー(1832〜1917・オックスホード大学初代人類学教授)というイギリスの人類学者だ。タイラーは主著「原始文化」で、神や霊魂の観念、呪術、祖霊崇拝などといった宗教現象となっている人間の意識をアニミズム〔ラテン語のアニマ(霊魂・生命・気息の意)から〕と定義し、これこそが最も原始的な宗教の形で、ここから死霊崇拝などを経て多神教へと発展し、さらに一神教へと進化したと述べたそうだ』。


ルナ
「当然、一神教の立場の人たちから激しい批判を受けたでしょうね」。山崎「そのとおりだ」。


山崎
『なお、タイラーは最初に「文化」の概念を明らかにした人としても知られている。彼は、文化や文明は、人間が獲得した知識、信仰、芸術、慣わしなどといった能力や習慣の複合体であるとしている。また、世界各地に同じような神話が見られることから、文化は伝播すると主張したようだね。のちには、世界の諸文化を、野蛮、未開、文明の3つに分け、文化の進化主義をとったというよ』。


ルナ
「アニマティズムを主張した人は?」。


山崎
『タイラーの弟子の マット〔1866〜1943・イギリスの人類学者。オックスフォード大学学長〕だ。彼によると、人類が霊魂や精霊の観念をもったのは、智恵がかなり発達してからだという。例えば「雨よ。やんでくれ」と雨に呼びかけるのは、雨に霊魂が存在していると見ているのではなく、雨を生命そのものとみなしているというのがマットの主張だ』


ルナ
「なるほど」。


山崎
『それからマットは、メラネシアやポリネシアといったオセアニアの島々の原住民が持つ「マナ」の観念を自説の裏付けとしていて、アニマティズムは、マナイズムともいうよね』。


B、マ ナ

ルナ
「マナって?」。

山崎
「自然、人工物、人間、神、祖霊、死霊などあらゆる存在が持つと考えられている超自然的な力だ。広く太平洋諸島にみられる観念だという」。


山崎
『例えば「彼が勇士なのは、マナを有する槍を持っているからだ」とか「彼の土地に作物がよく育つのは、マナを有する石を持っているからだ」とか「マナを持てば家畜が増える」とか「酋長は多くのマナを所有している」などと言われるものだね。

マナの特徴は、その人やそのものに固有な力ではなく、付け加えたり、取り除くことができるということ、また勝手に他のものに伝わっていくということにある。だから、槍や網などの道具類、また病人や疲労した人に、マナを注入することで、望ましい状態にすることができると考えられている。

マナを得ることが利益ももたらすので、人々は強力なマナを得ようと様々な努力をするというよ。
マナの観念は、イギリスの人類学者・カトリックの宣教師 コドリントン(1830〜1922)の著書「メラネシア人」によって世界に紹介されている。彼は、マナとは“転移性を有する超自然力”と定義している。このマナが学会の注目を集めたのは、マナのような超自然力こそが、宗教の原初であり、あらゆる宗教の本質であると考えられたことからなんだ』。


ルナ
「“超自然力を獲得するための努力”なら、修験道では、山岳を霊力が強い場所とみなし、そこで修行すれば霊験(れいげん)を得るとしている。この霊験という超自然力を得て、加持祈祷を行なう人が修験者だわ」。


山崎
『修験道には“転移性を有する超自然力”の観念もみられるよね。
密教では、宇宙の根本仏の大日如来と合一することで即身成仏を目指す。これも超自然力を手にするための努力だ。
護摩木や供物を火の中に投じ、煩悩を焼き尽くす「護摩」という修法には、火を超自然的な浄化力とみなす観念がみられるね。
また日蓮系においては、日蓮の著した曼荼羅にはすごい功力(くりき)があるとされていて、これを拝み題目(南無妙法蓮華経)を唱えることで、自己の仏性が顕現され、大変な功徳が得られると信じられている。

古神道では「禊」(みそぎ)は、身削ぎ(心身の浄化)だけでなく、霊注ぎ(みそぎ)の意味もあるなんて言われる。水の持つ超自然的な浄化力やエネルギーを信じるものだね。
「神籬」(ひもろぎ・巨木)や「磐座」(いわくら・巨岩石)に、神が依りつくという考えは、超自然力の転移だ。
神道では、巫女(みこ)や神輿(みこし)に神霊が宿ったり(転移)するし、お祓(はら)いなんていうのは、まさに超自然的な力で災いを除く呪術だよ』。


ルナ
「一神教の神も超自然力をそなえた全知全能の神だわ」。


山崎
『一神教においては、人間が神の力を獲得することは説かれないけど、生前に奇跡をなした人を「聖人」という称号を与えて崇めるカトリックの「聖人崇拝」なんてのは、特定な人間に超自然的な力を認めるものだし、
「教会には神より聖霊が与えられていて、秘蹟(サクラメント)の効果は、聖職者に聖霊が宿るから可能である」なんていうカトリックの教義にもマナ的観念がみられる』。


ルナ「カリスマ(ギリシャ語。神の賜物の意)という語も、本来、キリスト教の言葉で、神から与えられた奇跡、呪術、予言などを行なう力をさすというわ」。


山崎『イスラム教神秘主義のスーフィズムでは、すぐれたスーフィー(神秘主義者)は、人々の願望をかなえるバラカという特別な呪力を得ていて、聖者として崇拝の対象となる。


バラカは死後も存続し、ムハンマドや聖者たちの遺体、遺品、墓石などにバラカがあり、これらを拝んだりすると様々な功徳があるとされている』。


ルナ『スーフィズムの聖者崇拝は、カトリックの「守護聖人」(特定の職業や地域などを守護すると崇められる聖人や天使)に対する信仰と近いわね』。


山崎『こうした宗教の源となったアニマティズムというのは、おそらく人類が超自然的な力を恐れ、危害を避けたいと願うと同時に「その力を味方にしたい」と考えたことから生まれたのかもしれないよね』。ルナ「はい」。


C、呪 術


ルナ『「呪術」も超自然的な力を動かすことで目的を達成しようとするものでしょ』。


山崎『呪術は、雨乞いのように人や社会に有益なことを目的とする「白呪術」と、人や社会に災いが起きることを目的とする「黒呪術」に分けられ、黒呪術には、密教の「調伏」〔ちょうぶく・明王などを本尊として、怨敵や魔障を降伏(ごうぶく)させる修法〕や「丑(うし)の時参り」なんかがよく知られている』。


ルナ『丑三つの刻(午前2時半頃)、社寺の樹に、呪う相手のわら人形を取り付けて、呪文を唱えながら五寸釘を打ち込むのが「丑の時参り」ね。よく白衣に身をまとった女性が、わら人形に釘を打つ姿が漫画に描かれたりするわ。


釘を人形の頭に打てば、相手の頭を痛めつけ、手足に打てば手足を痛めつけられる。満願の日までに人に見られると効果がないとか、目撃されたらその者を殺さないと自分が死ぬとか言われているわよね』。


山崎「黒呪術には、この他、写真に針を刺したり、相手の名前を書いた板に釘を打って海に流したり、足跡に釘を打ったり、相手の髪の毛を手に入れて呪うなどの方法があるようだね」。


ルナ『「お百度参り」は、白呪術になるのかしら?』。


山崎『そうだね。百度参りは、平安時代にはじまり、中世以降に一般に浸透したそうだ。特定の社寺に100回参詣し祈願するものが、のちに1日に100度参詣する形式となったそうだよ。


拝殿で祈願すると、そこからお百度石に戻り、そこからまた拝殿に行き祈願することを100回繰り返す。これを、お百度を踏むと言うんだけど、数を間違えないように、小石や小枝や竹べらが用意されていたり、お百度石の壁面にそろばんのようなものが備え付けられていたりするよね』。


ルナ「宗教がどちらかというと、超自然的な存在への帰依や服従であるのに対して、呪術は人間の力によって超自然的な力を動かそうという意識が強いようね」。


D、シャーマニズム T


ルナ「シャーマンが、トランス(恍惚)状態、神がかり状態となって、神や霊といった超自然的存在の言葉を語るシャーマニズムも古いタイプの宗教でしょ。邪馬台国の女王 卑弥呼もシャーマンだったというし」。


山崎『シャーマンは、ツングース語(シベリア東部・中国東北部に住むツングース系諸民族の言語)のシャマン(霊媒師)に由来するという。


日本のシャーマンの代表が、民間巫女(みこ)の「イタコ」(東北)と「ユタ」(沖縄)だね。巫女は、神社で神に仕える神社巫女〔かつては処女をあてた〕と、民間巫女に大別されるんだけど、民間巫女は、口寄せをするところに特徴がある』。


ルナ「巫女の語源は?」。山崎「不明だが、神の子を意味するみかんこの転、貴人の子を敬って称したものなどと言われているよね」。


ルナ「口寄せって、死霊を招いて神がかり状態となり霊の意志を語るのよね」。


山崎『口寄せには、ルナの言った「死口」(しにくち)の他、神霊を寄せる「神口」(かみくち)、生霊を寄せる「生口」(いきくち)があるそうだ。個人によってどれを得意とするかがあるみたいだね』。


ルナ『神や死者・さらには未来人・宇宙人など交信する「チャネリング」は、現代版の口寄せといったところね』。


山崎『シャーマンは、口寄せ(霊との交信)ばかりでなく、とり憑いた悪い霊を除く「除霊」。さまよっている霊を浄化(成仏)させる「浄霊」。またそれらにより、病気を治したり、災いを除くこと。


さらには、予言、占い、前世や過去世をいいあてること。悩み事相談なんかもするよね。悩み事相談の答えは「現在の不幸は、○代目前の先祖への供養が足りないために、その先祖が苦しんでいるのが原因です」とかいうものだ』。


ルナ「最近では、スピリチュアルカウンセラーなんていう連中が登場したど、彼らのしていることは、民間巫女と基本変わらないわね」。


山崎『それから未開社会では、青年期に夢や幻覚で見た鷲や熊などの動物霊を、個人の精霊(守護霊)としたり、日本のように祖霊信仰を持つ社会では、先祖の霊が子孫を加護するという思想があるようだけど、シャーマンは、守護霊と関係が深いようだ。


世界的に見てシャーマンになるには三つの型があるとされるよ。1つは、代々シャーマンの家系で守護霊が継承される世襲型。


1つは、召命型。これは、守護霊に選ばれた者が、巫病(ふびょう)にかかり、夢や幻覚で守護霊を見たり、幻聴で守護霊の声を聞くなど心身に異常をきたす。選ばれてしまったら本人の意志で拒絶することは困難で、拒否すると異常が激しくなり死ぬこともある。先輩シャーマンの指導によりシャーマンになると異常は消え、守護霊に守られるというもの。


もう一つは、修行型といって自分の意志や親族などのすすめにより師のシャーマンのもと修行し、呪文やトランス状態になることなどを学び、最後に守護霊を依り憑かせる儀式をうけてシャーマンになるというもので、このとき陶酔や幻覚のなかに現れた霊体が守護霊となるというものだ。


守護霊は、神霊であったり、先祖の霊であったり、精霊(鷲や熊などの動物霊)であったりするらしい。シャーマンと守護霊が夫婦や主従の関係とされたり、守護霊に眷属(けんぞく・家来)がいて、シャーマンは守護霊の力により眷属を使うことができるとされている場合もあるというよね』。


E、シャーマニズムU〔イタコ〕


山崎「イタコは、東北の津軽、南部〔岩手県と青森県下北半島と北秋田にまたがる地域。狭義には盛岡をさす〕の民間巫女だ。語源は、アイヌ語のイタク(語る)に愛称のコが付いたという説や、戒名を板に書いて祀るので板コである等の説がある。下北半島の恐山〔おそれざん・879mの火山。宇曾利山(うそりざん)ともいう〕を聖地とするよね」。


ルナ「恐山?」。


山崎『恐山は、862年に 慈覚大師 円仁(延暦寺3代座主。天台宗山門派の祖)が地蔵尊を祀ったことに始まると伝承される。菩提寺(円通寺地蔵堂)があり、比叡山、高野山とともに日本三大霊場とされるよ。


菩提寺は1536年に 聚覚(じゅかく)が再建して以来、山腹の円通寺〔曹洞宗。1522年、宏智聚覚(こうちじゅかく)の開山。南部氏の開基(資金的な開山)。本尊 釈迦如来〕の管理となっている。


宇曾利湖というカルデラ湖を中心に、周囲に朝比奈岳、円山、大尽山、釜臥山などの山々がある。周囲の山々は、八葉(はちよう・8つの花弁)蓮華の花弁をあらわしているとされる。いたるところに硫気孔があり、音を立てて硫気を吹き出していて、三途の川、賽の河原、八大地獄などもあり、死霊信仰と地蔵信仰が習合した霊場だ。


死者の集まる山として7/20〜24日の大祭には、参詣や観光でにぎわい、数珠を手にしたイタコによる口寄せが境内のいたるところで行われる。こ2恐山の大祭や、津軽半島 金木町川倉の地蔵盆には、沢山のいたこが集まるという』。


ルナ「イタコには盲目の女性が多いと聞くけど?」。


山崎『天台宗の寺院でも養成しているところがあるそうだが、普通、盲目の女性が少女のときに師のもとに弟子入りし、経文、祈祷、筮竹(ぜいちく)による占いなどを学ぶことが多いというよね。


独立のときにカミ憑(つ)けという神婚式を行い自分を守護する神や仏をもらうらしい。彼岸や盆に死者の供養として口寄せをする他、病気治しのオッパライ(お祓い。猫や馬や蛇などが描かれているイタコ絵馬を用いて病気の原因を占ってオッパライの祈祷を行う)をしたり、オシラサマを祀ったりするというよ』。


【 オシラサマ… 東北地方の民間信仰の神様。多くは30pほどの桑の木2本に男女や馬の顔などを彫ったり書いたりして、おせんたくと呼ぶ布を着せ、家の神、農耕神、養蚕神としたもの。神棚の祠におさめる。春秋の祭の日には祠から出しておせんたくを着せ替えたり、本家の老婆が祭文(さいもん・祭のときに神にささげる祈願や賛嘆の心を表したことば)を唱えるという。


イタコが行う土地も多くオシラサマを両手で持って舞わせながら祭文を唱える。イタコがオシラサマを舞わせたり、少女がオシラサマを背負って遊ばせることをオシラアソバセという。】


F、シャーマニズム V〔ユタ・御杖代〕


ルナ「ユタというのは、聞いたことがないけど…」。


山崎『ユタは、沖縄本島を中心に南西諸島で活動する民間巫女で、女性がほとんどだが男性もいるというよ。語源は不明だが、左右にゆためくことからとか、あらぬことを口ばしるので、ゆた口やゆたゆん(よくしゃべる意)からきたなどと考えられている。


ノロ〔祝女。地域の祭祀を取りしきり、御嶽(うたき)を管理する女性神官。世襲制で、かつては琉球王国より任命された〕が神官であるのに対し、ユタはシャーマン(霊媒師)だ』。


ルナ「沖縄では、女性が祭祀の中心なのね」。山崎「そうだ」。


山崎「ユタは、多くは幼少から病弱で霊能力を持つ者がなる。宿命によってなるのであり一般人はなれないとされるよ」。


ルナ「イタコが修行型であるのに対し、ユタは召命型なのね」。


山崎『幼児期に不思議な精神体験をし、その後、神ダーリ(巫病・神よりユタになるよう与えられる病気)にかかり、精神的に不安定な状態となり、死者と交信したり、予言を語ったり、異常な行動をするという。神の指示に従うことで精神が安定し、異常行動はなくなり、ユタとしての能力が現れてくるというよ。


その後、御嶽(うたき)を巡り、自分の守護神を見つけこれをのり移りさせて、最終的には弟子入りして学ぶという』。


【 御嶽… うたき・おたけ・沖縄県において、神社および鎮守の森に相当する聖地。多くは森の空間。山そのものや島そのものであることもある。


宮古(宮古島など)や八重山地方(石垣島・西表島・竹富島など)では、過去に実在したノロの墓が御嶽となっているものも多く。そのノロは地域の守護神として祀られているという。


社殿はなく、本殿にあたる最も神聖な場所をイベ、イビ、ウブ等と呼び、イベ石という自然石を祀る。イベ石は、古神道の磐座(いわくら)にあたり、神が降臨する場である。


イベには、香炉、線香、ロウソクなどが置かれ、酒や供物が供えられる。琉球王国時代、御嶽は完全に男子禁制で、現在でも、イベには、ノロ(祝女)・ニーガン(根神)・ツカサ(司)等の女性神役しか近づくことはできないという御嶽も多い。


≪ ニーガン… 村の草分け的な家を ニーヤ(根屋)と呼び、その主人(村の長)が ニーンチュ(根人)、主人の姉妹が ニーガン(根神)である。ニーガンは ノロの支配下にあり、村の祭祀を行った。


ツカサ… 宮古、八重山地域には ノロの名称はなく、ノロに代わって村落の祭祀を司る神女。≫


また、大きな御嶽では、人々が御嶽の神を歓待して歌ったり踊ったりするための「神あしゃぎ」(神が足をあげる場=腰を下ろす場の意味という)と呼ばれる四方が吹き抜けの建物が設けられていることもある。


鳥居がある御嶽も見られるが、これは明治の「皇民化政策」による結果。明治初期には、宗教政策の一環として御嶽を神社化する動きもあったが、影響は一部にとどまっている。


御嶽に祀る神は、村落共同体の祖霊神、太陽神、土地神、水神、火の神、農耕神、鍛冶の神、航海神、竜宮神、英雄神など様々。普通、それぞれの御嶽には、これを崇拝する集団がいて、代表者の女性神役を中心に定期的に豊作祈願や悪霊払い等がなされている。


現在でも新しい御嶽が出来たり、逆に統合されたり、放置されるなどしているという。なお、村落や地域の人々が、加護や繁栄を祈願する場所を「うがんじゅ」(拝所)と総称する。うがんじゅの多くは御嶽であるが、他に霊石や洞穴などの場合もある。】


ユタを守護する神(守護霊)は、多くは何代か前の先祖が多いが、観音菩薩などとする者もいるらしい。ユタは、自分の守護神が他人のそれより霊力が強いことを誇りとするそうだ。


ユタによる死霊の口寄せを「マブイワカシ」(マブは霊魂の意。本来は守護する意)という。人により、琉球王朝時代の死霊を呼び出すのを得意としたり、死んで間もない者の霊を得意とするなどの違いがあるらしい。この他、身体から抜け出した生霊を戻して病気を治す「マブイグミ」なんかを行うそうだ。


また、教義も戒律もないことから、ユタの祭壇には、仏教、神道、キリスト教などの偶像なんかが一緒に並べられているそうだ。また、副業としてユタを行なっている者も多いというよね。


また沖縄には、沖縄県には「医者半分、ユタ半分」ということわざがあり、ユタが千〜2千人(5千人とも)いて、多くの人たちがユタと関わりを持ち、結婚相手、結婚の日取り、運勢、転居、ノロなどの神役の選定、家庭の不和などの悩み事について占ってもらうそうだ。


さらに明治以後、移民によりブラジル、アルゼンチン、ペルーなどにも広がり、当地のユタの判示(占いの答え)を受け、沖縄に祈願にくる人もいるというよ。


しかし、不安を煽るような事を言っては、お金を騙し取るユタも多く、社会問題になることも多い。


また、中央集権化や近代化を目指す支配者層は、ユタの存在は、脅威や障害とみなされ、琉球王国以来「世間を惑わす」として、幾度も弾圧、摘発を受けている。近代以降も、明治期のユタの禁止令、大正期のユタ征伐運動、昭和10年代(戦時体制下)のユタ弾圧といった迫害を受けている』。


ルナ「日本初の統一王朝とされる邪馬台国〔初代神武天皇が創始した大和朝廷以前に存在。3世紀半ば頃〕の女王 卑弥呼(ひみこ)は、鬼道(幻術、妖術)に通じた巫女(シャーマン)であったとされるでしょ」。


山崎「飲食を給し、用件を伝えるただ一人の男子と婢(ひ・女の奴隷)千人が仕えていたとされ、弟が卑弥呼の神託に従って政治や軍事を担当していたというよ」。


ルナ「古代の祭祀って女性が中心だったのかしら?」。


山崎『古代の祭祀では、未婚の女性(処女)を神聖視したそうだ。神の妻とされた女性が神がかりして、神の言葉を伝えてきたようだね。例えば、斎宮〔さいぐう・斎王(さいおう・いつきのみこ)〕は、天皇の代わりに伊勢神宮に入り、天照大神に仕えた内親王(未婚の皇女)や 女王(じょおう・天皇の2世(孫)以下の女子)で、天皇即位のさいに選ばれたという。10代 崇神(すじん)天皇のときにはじまり96代 後醍醐天皇(在位・1318〜1339)のときまで続いたとされる。


〔崇神の年代についてはよく分かっていない。3〜4世紀とする説もある。また、崇神天皇を初代天皇とする説や、神武(初代)=崇神とする説、神武=応神(10代)=崇神とする説もある〕


皇祖神の天照大神(あまてらすおおみかみ・太陽の女神)の御神体である「八咫鏡」〔やたのかがみ・「天の岩戸開き」の神話に由来する鏡〕は、天皇のもとにあったが、崇神天皇のとき、恐れ多いとして、大和の笠縫邑(かさぬいむら)に移して、皇女 豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が仕えた。


しかし、その後も天照の霊魂(みたま)が荒ぶったことから、姫が「御杖代」(みつえしろ・自らが天照の霊魂が宿る者)となり、丹波(京都中部)、大和(奈良)、木乃国(和歌山)、吉備国(岡山)を21年間巡っている。


さらに11代垂仁天皇のとき、年老いた豊鍬入姫命に代わり、垂仁の皇女 倭姫命(やまとひめのみこと)が、御杖代となり、新たな鎮座の地を求め、伊賀、淡海(おうみ)、美濃、尾張を巡り、伊勢の五十鈴(いすず)川のほとりに来たとき、天照が「常世(とこよ)の浪(なみ)が重浪(しきなみ)帰(き)する国なり」といたく気に入ったとして神殿が建てられた。これが伊勢神宮だよ。


天照の霊魂が皇居を出て、最終的に伊勢神宮に鎮座するまでに、25ヶ所もの社(宮)に祀られたとされ、これらの場所は「元伊勢」と呼ばれているよ。〔1つの元伊勢に、現在あるいくつかの神社が候補地としてあげられていたりする〕


また、日本武尊〔やまとたけるのみこと・12代景行天皇の第3皇子。14代仲哀天皇の父。小碓命(おうすのみこと)〕は、東北征討の途中、伊勢神宮に立ち寄り、おばで斎宮の倭姫命より、草薙剣を授かっているよ』。


【 草薙剣… 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)ともいう。八咫鏡、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)とともに、歴代天皇の三種の神器、皇位継承の証とされる。天照の弟の須佐之男命(すさのおのみこと)が、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに、大蛇のしっぽから出てきた剣。】


このような女性中心の祭祀形態は、神の言葉を伝えるという巫女の役割が形骸化されてゆき、巫女が男性神職の補助的存在になって失われていったと考えられているよね。だから沖縄の祭祀は、古代日本の宗教形態を最もとどめていると言えるかもしれないね』。


G、フェチニズム


山崎『マナの観念と似るものに「フェチニズム」というのがある。アニミズムやアニマティズムとともに宗教の原初形態の1つとされている。現在では、自然崇拝やアニミズムが宗教の原初であるという説が有力だが、かつては、フェチニズムから、アニミズム、多神教へと発展したという説も唱えられたそうだよ』。


ルナ『「フェチ」と言うと、異性全体ではなく、髪の毛とか、足とか、耳とかいった身体の一部や、靴下とか、下着とかといった所持品に、愛着を示すことでしょ』。山崎「そうだね。下着どろぼうや、毛皮(異性の象徴となるモノ)を着ていない女性とは、性交できないなんてのがいい例だ」。


山崎「フェチニズムは、もともとは特定の自然物や人工物に神秘的な力、超自然的な力が内在すると信じ、崇拝するものだよ。アフリカの未開社会をはじめ各地でみられるというよ。物神(フェティシュ)崇拝とか、呪物崇拝と訳される。


語源は、フェチコに由来する。15世紀後半、西アフリカと交易をしたポルトガルの航海者たちが、西アフリカの海岸地域で、原住民が、歯や爪、木片や貝殻や石などを、髪の毛に包んでお守りにして身に付けていたり、剣や鏡や玉、首飾り、臼などを崇拝しているのを見て、


カトリック信者が、聖者たちの遺物や護符をフェチコ(呪符や護符の意)として崇拝しているのと同じとみたところからきているそうだ。


フェチニズムの語を最初に使ったのは、フランスの比較民俗学者で思想家(ヒューマニスト)の シャルル・ド・ブロス(1709〜77)の著書「フェティシュ諸神の崇拝」だとされるよ』。


ルナ「偶像(仏像やキリストの画像)や十字架、曼荼羅、御札やお守り…。これらは広い意味で、フェチニズムと言えるわね」。


H、トーテミズム


山崎「ルナは、トーテムポールを知っているかな?」。ルナ「学校の校庭にあったわ。公園にもみられるわよね。鳥とか動物とか、人間の顔などが彫刻されている柱でしょ」。


山崎『トーテムポールは、カナダ西海岸部から北西アメリカのネイティブ(インディアン)諸族が製作するもので、トーテム〔家系をあらわす紋章。動植物など〕や、彼らのもつ伝説や物語の登場人物を表現したものというよ。


家屋から独立して建てられる独立柱、家屋の正面に建てられる入り口柱、家を支える柱また家の内部の飾りとして建てられる家柱、墓地に特定の個人を記念するために建てる墓標柱、特別な出来事(戦いなど)を記念して建てられる記念柱などがあるようだ。但し、これらは、崇拝の対象ではないというね』。


ルナ「トーテムって何?」。


山崎『氏族の先祖として崇拝する特定の動植物だね。動植物ばかりでなく、自然物、人工物、自然現象などの場合もあるようだ。


トーテムという語は、オジブワ族〔アメリカおよびカナダのネイティブの部族。アメリカでは3番、北米全体でも4番の人口〕の「彼は私の一族の者だ」という言葉に由来する アルバート・ギャラティン〔1761〜1849・アメリカの民俗学者。言語学者。政治家(財務長官を務めた)。アメリカ民族学会の設立者〕の造語だと言われているよ。


トーテミズムは、トーテムを崇拝する信仰だ。この信仰は、はじめネイティブアメリカン(アメリカインディアン)で発見され、のちに世界各地、とくにオーストラリア、オセアニア諸島、アフリカ、インドなどにも見られることが明らかになったそうだ。


オーストラリアには、各氏族のトーテムをあわせると、その数4千にもなる部族があったり、日、月、雲、雪、雨、火、水、季節などもトーテムとなっている部族があったり、安眠、下痢、嘔吐、性交などがトーテムとなっている部族があったり、男がコウモリで、女がキツツキというように、氏族でなく性によるトーテムを持つ例がみられたりするそうだ。


また、メラネシアには、各氏族が、鳥1種、樹木1種、動物1種というように複数のトーテムを持つ部族があったり、インドには、短刀、割れた瓶、トゲの付いた棒、腕輪、パン切れなどもトーテムとなっている部族があったり、


アフリカには、トーテムは牛だけで、各氏族のそれは、赤牛とか乳牛といった牛の種類や、舌、腸、心臓といった身体の部位で区別する部族があったり、アメリカ北西部には、個人が特定のトーテムを持つ例(但しこれは守護霊であるとする考えもある)もみられるというよ。


ほとんどの場合、トーテムとトーテム集団との結びつきの由来を物語る神話が存在するそうだ。また、トーテムは部族や氏族の先祖として畏敬され、殺したり食べたりしてはいけないとされていて、触れたり、見たりすることもタブー(禁忌)とする例もあるという。


一方で、禁忌をともなわない例も多く、トーテム動物は、トーテム集団の者に好意を持っていて、撃たれて食べられることを望んでいるとする例もあるそうだ。トーテム集団の人たちの姿や性格は、トーテム動物に似ているなどとも言われるらしい。


また、同じトーテムを持つ氏族の者同士の結婚は許されないというよね』。


I、アニミズムと神道


ルナ「日本の神道って、アニミズム的要素を割合と濃くとどめていると言えるような気がするけど…」。


山崎『そうだね。経済先進国において、純粋にアニミズム的要素を濃く残している宗教は、日本の神道以外にないかもしれないよ。


アニミズムとは自然の万物に、精霊や霊魂(みたま)が宿るという信仰だね。巨樹、森、山、太陽、月、あるいは、雨や風などの自然現象に精霊が宿るといった信仰だ。


前述したとおり、山、太陽、月、雨、風、雷などが神格化されて、神道のような多神教の神になったとされる。


インドのヒンズー教も多神教ではあるけど、仏教同様、輪廻や解脱を説き哲学性が強いうえ、カースト制度をも包含し、社会への影響は計り知れない。また中国の道教も多神教であるけど、まじない的要素が強いし、人間神も多いからね』。


山崎「ルナはどんなところに、神道にアニミズム的要素が色濃く残っていると感じたのかな?」。


ルナ「そうね-。仏教では仏像が本尊とされたりするけど、神道では神像がほとんど見らないわ。もちろんこれは一神教のような偶像崇拝の禁止とは違うでしょ…」 。


山崎「そこに、神道が自然崇拝を残している感じを持たせるわけだね。ルナにそう感じさせるのは、おそらく社(やしろ)が、本尊を拝む場ではなく、万物、自然を対象とする拝殿って感じがするからかもしれないね」。ルナ「確かにそうね」。


ルナ「鏡や玉や剣が御神体とされるところにもアニミズムの要素が感じるけど…」。


山崎『なるほど。おじさんが、神道がアニミズム的要素を色濃く残すと思うのには、神道がタマ(魂)とカミ(神)の観念が結びついた信仰だからというのもある。


古代の日本人は、言葉には言霊(ことだま)、木には木霊(こだま)、人には人霊(ひとだま)、稲には稲霊(いなだま)、船には船霊(ふなだま)が存在すると考えたそうけど、


天照大神の御神体(ごしんたい・神霊を象徴するもの)=御霊(みたま)を「八咫鏡」(やたのかがみ)とするのなんかは、まさにタマとカミの結びつきを示していよね。


さらに、神道の神、つまり日本神話の神には、ギリシア神話でみられる理念神〔勝利、自由、秩序、愛などの理念を神格化した神。日本神話ではこれといった理念神は登場しない〕がみられず、自然神が多いことも、神道にアニミズム的要素が色濃く残っている根拠の1つになると思うよ』。


ルナ『秩序の神という理念神がみられないのは、古代の日本人が、天体の運行から、花の一生に至るまでの全ての自然現象に、規則性や秩序性を感じ、


自然の摂理こそが、全ての秩序であり、理念であるとみていたからかもしれないわね』。山崎「なるほど」。


山崎「それから、例えば、八幡神社の祭神の八幡神は、応神天皇(15代天皇。5世紀頃)のことだとされている。このように神社の祭神はみな自然神なわけではない。でも、一般の人は、地域の神社は、その祭神に関わりなく、そこの地域や住民を守る 産土(うぶすな)神、鎮守神、氏神であると認識しているよね。ここにもアニミズム的要素がみられるだろうね」。


J、多神教と一神教


山崎『アニミズムやアニマティズムの信仰の対象が、やがて神格化されて、自然神が誕生した。自然神の誕生は、多神教の誕生でもある。


自然神とは、山や川、太陽や月、雷や風といった自然、天体、気象現象を神格化したものだ。アイヌの熊など神聖視される動物も自然神の一種と言える。


その後、人間神や文化神や理念神も誕生する。人間神とは、民族や氏族の統合の象徴で、祖先神や氏神といったものだ。


例えば、奈良の春日大社の祭神 天児屋根命〔あねのこやねのみこと・天照大神(あまてらすおおみかみ)が、天の岩屋にかくれたとき、祝詞(のりと)を奏して出現を祈った。のちに邇々芸命(ににぎのみこと)の天孫降臨につきしたがった神の1人。祝詞の神。子孫は大和朝廷の祭祀を司った〕は、


朝廷の祭祀を司った中臣(なかとみ)氏と、中臣氏から分れた藤原氏〔中臣鎌足が大化の改新の功により藤原姓を賜ったことにはじまる〕の氏神だ。


【 春日大社… 710年の平城京への遷都後まもなく、藤原不比等が、武神の建御雷神(たけみかづちのかみ)を春日山の浮雲峰に祀ったのにはじまり、786年に、称徳女帝の命で、藤原永手(ながて・不比等の孫。左大臣)が山麓に移し、建御雷神とともに、祖神の天児屋根命をあわせて祀った。この他、祭神は、武神の経津主神(ふつぬしのかみ)、比売神(ひめがみ)。】


祖先神や氏神は、子孫に律法をさずけたり、子孫を守護する神だね。


歴史や伝説の英雄なども神格化されている。家康は、日光東照宮に、東照大権現〔権現とは、権(かり)に現れた神の意。神仏習合思想で、インドの仏・菩薩が、日本の衆生を教化するために、仮に神の姿をとって現れたという意味〕として祀られている。


この他、人間神の例として、明治神宮は、明治天皇を祭神としている。天満宮の祭神の天神さんは、菅原道真だね。


文化神は、屋敷神、かまどの神、音楽神、学芸神といった生活や文化を司る神だ。


理念神は、勝利、秩序、自由、愛などの理念が、神格化されたものだ。アメリカの自由の女神。ギリシア神話の秩序と正義の女神 テミスや、運命の3女神 モイライ。


最高神のゼウスも雷神であると同時に、人間社会の秩序を支配している。また、バラモン教の宇宙の根本原理ブラフマン(梵)を神格化した ブラフマー(梵天)は、自然神と理念神の性格をもっていると言えるよね。


多神教では、時代がすすむにつれ、神の間に上下関係や支配被支配関係が生まれ、多くの神のなかから最高神が誕生したり、主要な神がトリオで最高神の位置を占めるようになってくる。


3神トリオの例としては、ギリシア神話で世界を3分する ゼウス(天)、ポセイドン(海)、ハデス(冥府)の兄弟。ヒンズー教の ブラフマー(創造)、ビシュヌ(維持)、シバ(破壊)。


古事記の最初に登場する造化3神〔天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神御産巣日神(かみむすひのかみ)〕。


黄泉(よみ)の国から帰った伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が海で禊(みそぎ)して生まれた三貴子〔天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つくよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)〕などがあげられる。


多神教には、特定の最高神は存在せず、祭儀の目的(福徳・病気平癒・長寿・悪霊退散・和合・祈雨など)にかなった神を最高神とするものもある。


つまり、その場に適した神を、交替で最高神とする信仰で、これを交替神教というそうだ。


リグ・ヴェーダ(バラモン教の聖典ヴェーダの最初部)時代のバラモン教はこれにあたる。密教の別尊曼荼羅〔 密教U 曼荼羅T 分類 〕もこれに属すると言えるよ。


また、多神教でも特定の一神をとりわけ強く信仰するもの、多神教と一神教の中間に位置するものもあるらしい。


一神教の成立については、多神教より発展したという説や、一神教こそ宗教の原初の形態で、多神教は一神教が退化して誕生したという説もあけど、これらはほとんどかえりみられない。


最も支持されているのが、創唱者によって創造されたという説だ。一神教にも、他の集団が崇拝する神を容認するが、自分たちは特定の神しか拝まないというものと、他の神は一切認めないという立場があり、古代イスラエルのヤーウェへの信仰は、前者だね』。


K、汎神論。理神論


ルナ『アニミズムって、一切が神、宇宙や自然すべてが神という「汎神(はんしんろん)論」に通じているわよね』。


山崎「そうだね。ただ汎神論に2種類あるんだよ」。ルナ「2種類?」。


山崎「一切が神というのと、神が一切というやつだ」。ルナ「同じように思えるけど…」。


山崎「一切が神となると、ルナもおじさんも、そこに転がっている石も、あそこに立っている木も神ということだね。すると神という言葉は飾りものにすぎない。形容詞にすぎないってことになる。これは神がいないのと同じだというので“無神論”というんだよ」。ルナ「なるほど」。


山崎「これに対して、神が一切というと、ルナも私も、そこの石も木も、宇宙のすべてが、じつは神の影のような存在で、実際は、本体の神しか存在しないことになるね。だからこっちは“無宇宙論”というのさ」。


ルナ『無神論は多元論。無宇宙論は一元論ね。一神教は「神」と「神の創造物の宇宙」の二元論にあるから、一切が神という多元論や、神が一切という一元論は否定されるでしょ』。


山崎「そうだね。汎神論を、無神論、無宇宙論と立て分けて論じるようになったのも、一神教の立場から、汎神論を否定するためになされたことと想像できる」。


ルナ「いつ頃から汎神論について色々論じられるようになったの?」。


山崎『スピノザが“神即自然”(即はそのままの意)という「理神論」を説いてからだというよね』。


ルナ「理神論?」。


山崎『17〜18世紀のヨーロッパに登場した神学だ。世界の根源としての神の存在は認めるが、これを人格的な神とは考えない立場さ。理神論者たちは、イギリス国教会(聖公会)の説く、神の啓示(おつげ)、神の奇跡、秘儀(サクラメント)などの神秘的要素、超自然的要素を否定し、


神による天地創造以後の世界においては、自然に内在する法則を把握することは可能であり、宗教的真理は自然から理性によって把握できると主張したんだよ。このため、理神論は、自然宗教や理性宗教と呼ばれているんだ』。


ルナ「理性宗教と自然宗教って反対のような感じだけど、キリスト教の世界観では同じなのね」。


山崎『イギリスの思想家 トーランド〔1670〜1722・論争をまきおこす多くの著書のため、迫害され諸国を放浪。貧困のうち死去。「キリスト教は神秘ならず」は処女作〕が「キリスト教は神秘ならず」(1696)を公刊すると、それに反論する国教会側とのあいだに論争が起きたというよ。


トーランドは、信仰が理性に反してはならず、キリスト教の教義は理性に反しないと主張し、教会の伝統的な秘儀を厳しく攻撃したそうだ」。


ルナ「でも、キリスト教の教義を、理性で把握できるという主張もおかしいわよね」。山崎「結局そこが一神教の世界で育った思想家の限界ということなんだろうね」。


L、スピノザ。必然と偶然


山崎「理神論者で最も有名なのが、オランダの哲学者・神学者の スピノザ(1632〜77)だ」。ルナ「スピノザ?」。


山崎『スピノサの両親はポーランドからオランダに移住した裕福なユダヤ商人で、スピノザは、ユダヤ人学校でヘブライ語や聖書を学び、その後、ユダヤ教の神学を研究したそうだ。


しかし批判的な見解をもつに至り、ユダヤ教会から永久的に破門され、学問の研究に生涯を終えたようだね』。ルナ「そうなんですか」。


山崎『スピノザは、まず神を万物の内在的原因と考え、超越的原因ではないとして“神即自然”と主張したんだ」。ルナ「汎神論ね」。


山崎『そして、神は唯一無限の実体である。精神界、物質界の全ての事物、事象は、神の諸様態である。


神の本性は、絶対・無限で、属性を無限に持つ。精神も身体も神の属性の1つにすぎない。と考えたんだ』。


ルナ「これは汎神論の無宇宙論ですね」。


山崎『そうだね。神による一元論さ。さらに、一切は神に内在する必然性(必ずそうなる)によって生成されるので、人間の自由意志や偶然(たまたまそうなる)は全く存在しないとしているよ。


スピノザによると、自由意志と理解されている心像や言語は、じつは単なる身体の運動にすぎないというよね』。


ルナ「決定論、運命論ね」。


山崎「但し、彼は、個の本質に、自己保存の衝動(コナトゥス)を認めている。その上でこのコナトゥスを乗り越えるには、神による必然性を理性によって認識し、この認識を他者と共有する必要があると唱えているよ」。


ルナ「ここに理神論的な思想があるのね」。


山崎『スピノザの真の自由とは、理性を通して、自己を含む全ての存在が、神の必然性の中にあることを洞察し、人間が神を通して思考できていることを知ることだという。


そして、これが最高の善であり道徳あるというのが、彼最大の主張で、これを「神への知的愛」と呼んでいるよ』。


ルナ『デカルト(1596〜1650)の「我思う、ゆえに我あり」を、根拠のない宗教的信念から否定しているわね』。


山崎『さらに「神への知的愛」とは、神が、神の一様態である人間を介して、自分(神)自身を愛することであり、人間は神の一様態であるから、神への愛は人間への愛でもある。


人間は、神が、自分自身を認識し、愛し、満足する行為に参与することで、最高の満足を得ることができると主張するよね』。


ルナ「感情については?」。


山崎『感情には、感覚的な受動感情と、理性的な能動感情があり、欲望の決定が、不完全な受動感情でなされたとき、人間は自らの環境にふりまわされ支配されている状態にある。能動感情により決定されているとき、人間は自由であるとしているよ』。ルナ「なるほど」。


山崎「そして、以上のような理神論の立場から、聖書はあくまで民衆を導く信仰の書であり、科学や哲学の書ではない。聖書にある奇跡を現実の出来事として教えるのは、信仰を迷信におとしめる行為であると主張したそうだ」。


ルナ「スピノザも色々と考えたようだけど、結局、センスのない服をおかしくアレンジしたみたいになっちゃってるわね」。


山崎「もともとオカルトにすぎないものに、色々と理屈をつけたからおかしなものになってしまったということだね」。ルナ「はい」。


山崎「無宇宙論や唯心論〔全ての事物、事象は、心という本体よりあらわれた影であり、本来 心の他に存在しない〕は、神あるいは心を唯一の真理とする一元論だ。一元論の場合、1つの存在だけが真理なんだから、その1つがよほどしっかりとした根拠を持たないと、スピノザみたいに哲学ではなく神学みたいになっちゃうよね」。


ルナ「全てに仏性があるという仏教の立場は、一切が神という無神論と同じだと思うけど…」。山崎「そうだね。仏教は無神論的宗教と言えるね」。


ルナ『スピノザが「全ては必然」という運命論の立場にあるのに対して、仏教はそうではないですよね。すると、仏教って全ては偶然だというの?」。


山崎「仏教でも偶然はあり得ないとみるよ。但し、それは全てを必然とみるからではなく、全ての結果に原因があるという因果の法則の立場からだ」。


ルナ「なるほど。まず因果の法則によって偶然は否定されるわけね」。


山崎『それから一神教では、宇宙は唯一絶対の神によって創造されたとするけど、これに対して仏教では、全ては、因(結果を生じさせる直接的な因。原因)と縁(因を助けて果を生じさせる間接的な因。助因)が、一瞬一瞬 和合して成り立っているという「縁起」を説く』。


ルナ「全てが関係性によって成り立っている。全てが相互依存の関係にあるということね。全ては神の御心という運命論とは違うわ」。


山崎『仏教における、森羅万象の本質は変化だよ。変化しないものはないという「空」だ。空は、縁起と表裏一体の関係にあり、あらわれた果にまた新たな因と縁が加わると、たちまち変化するので、新たな因や縁をつくってゆくことで、未来はいくらでも変えてゆけるという可能性の哲学でもあるんだよ』。


ルナ「空は可能性の哲学なのね。運命論や決定論、つまり全ては必然で決まっているというのとは逆の立場ね。すると、偶然でもなく必然でもないというのが仏教の立場になるわ」。山崎「そういうことだ。 全てが関係性によって成り立っているというのが仏教だ」。


M、アイヌの信仰 T〔アイヌ人〕


ルナ「アイヌの意味は?」。山崎「アイヌ語で人間を意味するそうだ」。


ルナ「そもそもアイヌ人とは?」。山崎「東アジアの古種族で、歴史的には、北海道を中心に、樺太南部、千島列島、本州の東北部を生活圏にしていた人たちだ」。


山崎『現在では、日本とロシアという2つの国に分断されて生活する少数民族で、日本では北海道を中心に、東京他の都市部でも生活しているというよ。その数3万人を超えるとも、北海道内には2万3千人がいるともいうが実際のところ正確な数はよく分かっていないようだ。


これはアイヌと名乗ることができない人がいるからだというよね。またこれらの人たちのほとんどが、日本人との混血によって人種的な特質は薄れているらしい。


なお、アイヌは、他のモンゴロイドに比べて、彫りが深かったり、体毛が濃かったりといった身体的特徴から、コーカソイドに近いという説が広かった時期があったそうだ。のちに、アイヌ=縄文人近似説が主流となっている』。


ルナ「縄文人近似説?」


山崎『この説によると、≪縄文時代、日本列島を含む東アジア一帯には、南方系の人々が住んでいた。およそ5千年前、シベリアの北方系の人々が東アジアに拡大をはじめた。2300年前には、九州北部から日本列島に侵入してきた。彼らが弥生人である。本土の大部分は弥生人によって占められ、わずかに北海道に残った縄文人がアイヌの人々になった。現代日本人は、平均として、およそ北方弥生系7〜8割、南方縄文系2〜3割の比率で混血している≫ということらしい。


〔縄文時代… 今から約1万6500年前(前145世紀)〜約3千年前(前10世紀)。弥生時代… 前10世紀中頃(異論もある)〜3世紀中頃〕


室町中期から江戸後期にかけては、和人(アイヌの立場から日本人を指す語)の抑圧に対して、しばしばアイヌの武装蜂起が起きている。秀吉、家康から松前氏が蝦夷の支配権を認められた後にも、大規模な蜂起が起き、これを収拾することで、松前氏は実質的な支配権を確立したそうだ。


アイヌ人は、食糧や生活に必要な素材のほとんどを狩猟〔エゾシカ・ヒグマ・アザラシ・トド・オットセイなど〕、漁労〔サケ、マス、ニシン、シシャモなど〕、植物採集により得ていたんだ』。


【 シシャモという言葉はアイヌ語のスサム(柳の葉の意)に由来する。神の国の柳の葉が人間の世界に落ちて魚になったとされる。サケは、カムイ・チップ(神の魚)と呼ばれ、サケの回帰性を神が与えてくれたものとみなした。】


ルナ「木の皮の繊維で織った和服に似たアイヌの民族衣装をアツシ(アットゥシ)というわよね」。山崎「アツシには、オヒョウあるいはシナノキの内皮を使うそうだ」。


山崎『しかし明治政府が成立し、多くの和人が移住してくると、森林は伐採され、原野は耕作地となり、狩猟や漁労の権利も奪われてしまったという。これにより彼らは、採集民としての生活が維持できなくなったという。


明治政府は、アイヌの農民化とともに、皇国臣民化を図ったというよ。以来、政策によって日本文化への同化を強いられ、固有の文化を失っていったそうだ。とくにアイヌ語は、日常の会話で全く使われなくなったそうだ。


近年までアイヌに対する根強い差別や偏見があったが、現在では、物質的、精神的ともに、日本人と全く同じ生活を営んでいて、民族としてのアイヌはすでになく、せいぜいアイヌ系日本人となっているともいう人もいるよね』。


ルナ「北海道や東北を、蝦夷地(えぞち)と言うでしょ」。山崎「蝦夷とは、大和朝廷によって異族視されていた北方に住む土着民に対する呼称で、蝦夷地は、時代によりその地域は変化しているよね」。


山崎『アイヌも、近世には、蝦夷(えぞ)と呼ばれたそうだ。アイヌという言葉が一般化したのは明治以降だという。蝦夷は、古代には「えみし」と読み「毛人」とも書かれたらしい。また「えみし」の転訛から「えびす」とも読まれたそうだ。えぞと読むようになったのは平安中期以降だというよ。


えみし、えぞの語源については様々な説があるが、一説によると、アイヌ語の雅語(日常語に対して文章語をいう)の「エンチュ」(人間の意)に由来するという。他には、本来の意味は「田舎(辺境)の勇者」であったという説などがあるようだ』。


N、アイヌの信仰 U〔カムイ〕


ルナ「アイヌの信仰ってどのようなものなの?」。


山崎『まず、ユーカラという神話的叙事詩がある。ユーカラは吟唱するもので、「カムイ・ユーカラ」(神謡)と「人間のユーカラ」(英雄叙事詩)の2つに大別される。また、鳥獣、植物、火、風などの神々が自らの身の上を語るカムイ・ユーカラ(神謡)、人間の祖先神が自らの功績を語るオイナ(聖伝)、人間の英雄(主にポンヤウンペという少年)の戦闘や愛などの体験記であるユーカラ(英雄詞曲)、主人公が女性のマト・ユーカラ(婦女詞曲)の4つに分けられたりする。


カムイ・ユーカラやオイナによれば、アイヌ神話の国造りの神は、コタン・コル・カムイ〔コタンは村や里や集落。カムイは神や神霊の意〕で、この神は巨人神で鯨を串刺しにしてあぶったりする。妹神とともに、大海に陸地をつくり、山や川、人間、動物、植物などを創造し、天上界に帰ったとあるそうだ。


天上界は神々の生活の場〔カムイ・モシリ〕で、ここの支配者は、カント・コル・カムイ〔雷神カンナカムイと同一とする説もある〕で、この神の指示によって、地上世界の創造されたという。


アイヌの世界観には、神々の世界(カムイ・モシリ)、人間の世界(アイヌ・モシリ)、死後に行く(ポクナ・モシリ)があり、死後に行く世界は、地上と同じ様相をしていると考えられていて、主神的な存在は見られないそうだ。


天上界から人間界〔アイヌ・モシリ〕に、生活の知恵や文化を授けた神は、アイヌラックル(人間的な神の意)という始祖神(アイヌ人の祖)で、オキクルミ、アエオイナカムイ、オイナカムイ、オキキリムイの別名を持つ。


この神は、脛(すね)の中に、稗(ひえ)の種を隠して、地上に降り、人間に穀物を授け、狩猟、漁労、耕作、薬草につていの知識、家や舟の作り方、彫り物、機織り、刺繍、神の祀り方や祈りの詞(ことば)などの信仰の儀礼、争いごとの解決法など生活の全てを教えたという。また地上の悪神を退治している』。


ルナ「日本語の神とカムイ〔神威や神居と当て字する〕は関係あるの?」。山崎「共通の祖先語から生まれたという説もあるようだよ」。


山崎「そのカムイ(神霊)が、動植物や自然現象、さらには人工物など、あらゆるものに宿っているというのがアイヌの世界観だね」。ルナ「アニミズムね」。


ルナ「他はどのような神がいるの?」。


山崎『太陽(チュプカムイ)、雨乞い(ホイヌサバカムイ)、雷(カンナカムイ)、狩猟(ハシナウックカムイ)、幣柵(ヌサコルカムイ)、月、風、雪、山、川、湖、草木、鳥獣、魚、虫、火、舟、疱瘡などの神々が祀られるという。


カムイ・ユーカラでは、これらの神々が、自分の来歴や体験などを語り、人間に対する位置づけや祀られるゆえんなどを明らかにしているそうだ。


水の神(ワッカ・ワシ・カムイ)や、魚(チェプコルカムイ)を与えてくれる川の神(ペトルンカムイ)はとくに重要で、また多くの祭儀では、火の神(アぺ・カムイ)がとくに尊ばれるというよ。火の神は人間の言葉を神の言葉に変えて、諸神に伝えてくれるため、どんなカムイに祈りを捧げる場合でも、原則としてアペ・カムイへの礼拝がともなうそうだ。


舟や家をつくる材料となるシランパ・カムイ〔樹木の神霊。樹木の集合である山をも意味した〕には、材料となる良い樹木には良いカムイが、ならない樹木には悪いカムイがいるとみなしたそうだ。


家にも、家の守護霊(チセコロカムイ・家の東北角に存在)、囲炉裏の霊〔アペ・フチ・カムイ。アペは火、フチは老婆の意味で、老婆の姿をした神〕、夫婦の霊(エチリリクマッ・家に入って入口すぐ右の柱に存在)などがいるとされたという。


また、陸、海、空のそれぞれに、最も重要な動物神がいる。陸ではキムン・カムイ(山にいる神)であるヒグマ、海ではレプン・カムイ(沖にいる神)であるシャチ、空ではコタン・コル・カムイ(集落を護る神)であるシマフクロウだ。他には、鹿の霊(ユッコルカムイ)、狐の霊(キムンシラッキ)なども信仰されたようだ。


さらに、人間に幸をもたらすピリカ・カムイ(善きカムイ)と、人間に災をもたらすウェン・カムイ(悪しきカムイ)がいる。流行病や天災は、悪しきカムイとされる。疱瘡(天然痘)や流行病を司る神は、パヨカカムイまたはパイカイカムイといい、この神の射た矢の音を聞いた者が疱瘡になるそうだ』。


O、アイヌの信仰 V〔イオマンテ〕


ルナ「イオマンテ(熊神送りの祭儀)ってよく聞くけど…」。


山崎『イは「それ(神霊)を」、オマンテは「行かしめる」の意味で、飼育した子熊(ヒグマ)を殺し、その霊魂であるカムイを神々の世界(カムイ・モシリ)に送り届ける祭儀だというよ。なお、親熊を狩りで殺した場合、その場で解体し、霊を送るけど、これはカムイ・ポプニレ(カムイを発動させる意)というそうだ。


カムイ・ポプニレは、祭壇を設えてヒグマの頭部を祀る。これは、殺された直後の獣(熊以外の動物も)のカムイ(霊魂)は、両耳の間に留まっているので、これを神々の世界に送り返すからだというよ。


但し、人間を傷つけたり殺したりした熊は、細かく刻んで大地にまいたり、ゴミと一緒に燃やしてしまい、ポプニレを行わないため、こうした熊の霊魂は神の世界に帰れないそうだ。


春先、まだ冬眠から目覚めない熊を狩ると、冬ごもりの間に生まれた子熊がいる場合がある。この子熊を集落に連れ帰って飼育する。はじめは、人間の子供と同じように家の中で育てるそうだ。1、2年ほど育てた後に、集落をあげての盛大な祭儀(イオマンテ)を行う。


花矢(木を装飾的に削ってつくった矢)を射かけ、最後に本物の矢を心臓に打ち込み、さらに丸太の間に首を挟んで屠殺するそうだ。遺骸は一定の様式に従い、頭だけを残して解体される。頭部はポプニレ同様、イナウ(木幣)や酒を供え、祈りを捧げて、霊魂を神々の世界に送り返す。肉は人々にふるまわれるそうだ。


アイヌの人たちは、イオマンテを行うことにより、再び熊神が、自然の恵み(毛皮や肉)をもって、人間の世界に訪れてくれると考えたらしい。


なお、熊神の他、主要な動物神〔シマフクロウ・キツネ・タヌキ・カラスなど〕を送る場合もイオマンテと呼ばれ、クジラやシャチを対象とするイオマンテもあるそうだ。一部の地域では、シマフクロウ〔北海道には130羽しかいない。日本では1971年に国の天然記念物。93年に希少野生動植物種に指定〕のイオマンテが重視されるという』。


翔「イオマンテは、生贄(いけにえ)を神に捧げて守護を願うというものや、人間の罪を動物に着せてあながわせるといった贖罪信仰とも違うみたいだね」。


山崎『アイヌの信仰は、アニミズム的な側面が強い。自然物、人工物、人間に関わるものであれば全てに神霊(カムイ)が存在すると信じられていた。神と霊との関係は、樹を切るときには、その霊を森の神に送り返すといったもので、同様に、使わなくなった食器は、捨てずに特定の場所にもっていき、器や皿の霊を神の世界へ送り返す。葬式では、死者の霊とともに副葬品の霊が他界へ行くように、副葬品を壊したり破ったりするそうだ。イオマンテもこうしたところからきていることが分るよね。


カムイは、カムイ・モシリという神々の世界からやってくる。このカムイ・モシリは、天上界にあると考える場合と、山の獣であれは山の奥に、鳥であれば天界にあるといったように生活の場から想定される場合とがあるようだ。


カムイ・シモリでは、カムイは、人間と同じ姿で、人間と同じように、料理をしたり、彫り物をしたり暮らしているが、人間には見ることができないという。カムイが人間界になにかの理由(シマフクロウなら村を護るため)でやってくる場合、人間に見える衣装を身に付ける。火のカムイなら赤い衣装を、クマなら黒い衣装を身に付ける。これが人間には炎に見えたり、毛皮に見えたりするそうだ。


クマは毛皮と肉という土産をもって、気に入った人間の家を訪れる。狩猟はこれを迎える行為だというよ。本人が心が美しいと熊が好意をもって訪問してくる。猟運とはこれをいうそうだ。


なお、熊やキツネを先祖とする家も多いそうだけど、これをトーテムの残存とするかどうかについては考えが分かれているらしい』。


P、アイヌの信仰 W


翔「偶像は作られたの?」。


山崎『アイヌの信仰は、神殿やら神の像やらは作らない。祭儀では、イナウを用いる。例えばイオマンテでは、熊神の祭壇を中心に、森の神、水の神、狩猟の神、氏神、農業神、祖霊などの祭壇が設けられるそうだけど、祭壇とは、イナウを立てる並べる柵だというよ。

また祭壇は、家の脇にも設けられていて、祭儀ごとに酒を供え、祈りを捧げるそうだ。


【 イナウ… 木幣(もくへい)。通常は、ヤナギを使用。ミズキや、キハダ(ミカン科)で作られたものは上等とされ、肌が白いミズキのイナウは天界で銀に、黄色いキハダのイナウは金に変るとされる。捧げる神によって種々の形がある。

一例をあげると、直径が3センチほどのヤナギやミズキの枝を採集し、70センチほどの長さに切り、皮を剥ぎ、乾燥させる。乾燥したら、表面を削り、先端部あたりにふさふさと飾りたらす。イナウ作りはアイヌの男性の大切な仕事とされ、イオマンテなど重要な祭儀には、泊りがけで集い、イナウを作成したという。】


また、アイヌには神官のような人は存在せず、成人男性であれば誰でもカムイへの儀礼ができなければならないという。一方、女性はふつう火の神以外には祈りを捧げられないそうだ。参加できない祭儀も多いようだ』。


Q、アイヌの信仰 X〔コロボックルと日本人の起源〕


翔『「コロボックル」ってアイヌの説話に登場する小人だよね』。


山崎『地面を50センチくらい掘って屋根をかけた竪穴住居に住むというよね。また、コロボックルとはフキの葉の下に住む人の意味で、フキの葉の下に2〜3人(10人とも)入れる大きさだそうだ。


漁が得意で、笹の葉を合わせて作った舟で漁に出て、多くの舟が力を合わせてニシンなどを捕り、クジラも捕るそうだ。北海道の原住民で、アイヌの家にやってきて物品を交換したりするという。


人類学者の 坪井正五郎〔1863〜1913・東大理学部教授。日本人類学会の創設者〕が、1887年(明治20)に「コロボックルは日本列島の先住民で、アイヌに追われた」と主張し、「日本人の先住民はアイヌである」(当時の主流の説)と主張した 小金井良精〔よしきよ。1858〜1944・東大解剖学部教授。日本解剖学会の創設者〕と激しい論争を展開したそうだ。


これを「コロボックル論争」「アイヌ・コロボックル論争」という。この論争によって、日本人の起源の研究が飛躍的に進歩したというよ。


小金井は、人骨の実証的研究から坪井の間違えを証明し、彼の「アイヌ先住民説」は、修正をなされながらも現在に至っている。つまり、アイヌは縄文人の血を最も直接的に引き継いでいるとみられている。沖縄の人たちも、縄文人の血を濃く受け継ぐ民族だといわれている。


しかし小金井は、縄文時代の先住民のアイヌは、弥生人(日本人)が海外から渡来したことによって、北へと追いやられたと考えたが、これはその後の研究によって、弥生人も基本的には縄文人に由来することが分り、間違えのようだ。


縄文人は、本州では、大陸から農耕文化が入ることによる生活の変化や、西からの遺伝的影響によって体質を大きく変えて弥生人となったが、北日本では、北からの遺伝的影響を受けながらも、漁猟採集を中心とした生活が続き、本州ほど体質を変化することなくアイヌとなったというのが現在の見方のようだね。


なお、縄文人は、2〜3万年前(後期旧石器時代)に、アジア大陸から陸橋を渡ってやってきたモンゴロイド系の集団が、海面が上昇したことで、日本列島に長期に亘って閉じ込められ、その結果、特殊化したものだというよ』。
http://shinri809.com/sono13.html


06. 中川隆 2012年11月05日 00:15:12 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

ポリネシアは広大な空間を占める海洋と島々の世界であるにもかかわらず,島ごとの偏差を越えて,言語と文化の共通性がいちじるしい。これは,ポリネシア人がいまでこそ広漠たる大洋に散在する多数の島々に分散居住してはいるものの,もと一つ源泉に出たものであるからにほかならない。

相手かまわぬ乱暴狼籍とはいかないまでも,ポリネシアのあちこちに散見される習俗として,死者の財物を破壊する行為がある(Williamson 233−287)。この場合,破壊される財物には二種類ある。そのひとつは死者が病臥中に使用していたか,あるいは死後その屍体に触れるかしていた品々であり,他はそうしたことにかかわりのない,死者の生前の所有物すべてである。

前者に関しては,たとえばマルケサス諸島(Handy 1923:111)やタヒチ(Oliver 1974:494)では,死者が病臥中および死後に触れていたもの一一ベッド,マット,衣料,食器等々 のいっさいが焼却された。マルケサスでは,死者が病臥していた住居さえもが焼き払われた。

こうした焼却は,浄化の火によって死の不浄を除去するため,と土着宗教の司祭によって説明されている。

ところが,このような,死者が死の前後に触れるか使用するかしていた品物の,焼却による破壊とは別に,生前の身の回り品や道具類を破砕することもあった。タヒチのある女性首長が死んだおり,彼女の身の回り品や特別に愛着のあった品々を,遺体とともに墓所に納めたが,そのさい,それらの晶々は,こなごなに壊したうえで納められた,というロンドン伝道協会宣教師の手になる,19世紀初めの記録が残されている(Oliver 1974:494)。

破壊する品がそれだけにとどまらず,故人の所有にかかる耕地や樹木にまでおよぶばあいもあった。たとえば,ッアモッ諸島では,死者がでると,人びとはただちに死者の持ちものを燃やすばかりか,彼の畑も壊わし,彼のココヤシの木を伐り倒した(Williamson 1933:275−276)。ニウエ島でも,死者のすべての畑が殿たれ,ココヤシをはじめとする果樹類が伐り倒されたうえ,海に投げ捨てられた(WHliamson 1933:278)。

こうした破調行為の理由として,これまでになされてきた説明には,4つのものがある。

その1は,死者(の魂)が死後においても生前の財物を用いうるよう,それらの財物を所有者同様に死なせて(破壊して),財物の霊質だけを死者に同伴させる,というもの。

その2は,死者に生前属していたものはすべて,それが死の前後に死者によって触れられたと否とにかかわらず,死霊がとりついていて危険きわまりないから,というもの。

その3はゴ邪術によって死者の霊を操作しようと待ちかまえている敵対者によって,死者の遺品が邪術の手段に悪用されることを妨げるため,.というもの。

そして最後は,以上の諸説と違って世俗的な説明である。つまり,死者の遺品が他人に盗まれてその所有物にされることを防ぐため,というものである。

これらの説明は,資料採集者もしくは研究者の解釈というだけでなく,その慣習をもつ人びと自身の説明でもある。どれもがもっともらしく,にわかにどれか一つに決定的理由をしぼることは困難である。

畑や果樹まで含めて,死者の財物を破壊するこの慣習は,一見ハワイの場合との類似を思わせるが,つぎの諸点で根本的に相違しているとせざるをえない。

ハワイのばあいには,その慣習の契機となる死者は,原則として王もしくは首長にかぎられる。誰が死んでもというわけではない。他方,破壊の対象とされる財物は,死者のものだけにかぎられない。相手かまわず誰のものでも,手あたりしだいに破壊の対象とされ,破壊ばかりか掠奪されたり放火されることもある。さらに,攻撃が人間にむけられ,傷害や殺人さえおこなわれることもある。まったくの無法・無秩序状態の現出といってよい。こうみてくると,ハワイのばあいを,ポリネシアにかなり一般的な,死者の財物破壊の慣習の,一変異とみなすことはとうていできがたく思われる。他に類例を求めねばならない。


首長の死に続く無法・無秩序 サモアとタヒチの事例

捜してみると,ハワイのそれによりょく似た慣習を,サモア諸島のサヴァイイ島にみいだすことができた。
サヴァイイ島では,首長が死ぬと,戦士たちが首長の遺体を野外に引き出し,これを担って「おおわが首長よ,あなたはわが君主」と歌いながら村のうちを巡回し,行きあたった豚を殺し,カヌーを壊しというように,見つけるかぎりの財物すべてを破壊した。それで,村はあたかも戦争で掠奪されたかのような光景を呈した(Williamson 1933:240−241)。

ウィリアムソンは,この破壊はおそらく首長の霊魂のためになされたのであろう,と解釈している。この報告では,ハワイのばあいによく似てはいるものの,傷害や殺人について触れるところがない。ハワイでは,そうしたことさえもおこなわれたというのである。ところが,こんどは,サヴァイイ島の事例とは逆に,破壊や掠奪こそともなわないものの,傷害が通常のことで,ときとして殺人にまでいたるという例が,タヒチを含むソサイエティ諸島にみられる。これについては,ハワイの事例を報告したエリス自身をはじめ,多くの情報提供者がある)。それらによれば,

大首長が死ぬと,親族と従者の若者たちが,腰帯をまとうだけの裸体となり,その体を赤,自,黒に彩色して,見るからに恐ろしげにつくり,司祭を先頭に領土内をねり歩いた。司祭はすっぽりと頭部を掩う仮面をかぶるほか,全身を着飾り,手には2枚の真珠貝でできたカスタネットと,サメの歯を植えこんだ長さ1メートル半もの大鎌とを携えていた。若者たちは手に手に槍や棍棒をもち,それを回しながら行進した。もし,彼らの行手を横切ったり,無礼とみえる態度を示す者があれば,たちどころにこれを打ちすえ,あるいは斬りつけて,ときには死に至るまでの傷害をおわせた。

このため,彼等の接近を知らせる司祭の鳴らすカスタネットの音は,村の人びとの恐怖心をかきたてた。村を通過するとき,司祭は手にした大鎌で家の壁を激しく叩き,屋内の人びとを怯えさせた。屋内の人びとは,じっと息をひそめて,彼らの通過が少しでも早かれと願うばかりであった。

戸外の人びとは,身の安全をもとめて,マラエ(土着宗教の祭祀場,神域)に逃げこむのであった。マラエだけが,いかなる暴徒といえども乱入をはばかる「聖域」だったからである。

こうした異常事態は,1∼2週間からときには数ヶ月もつづく。その期間が長ければ長いほど,それだけ死者が喜ぶと信じられていたのである。やがて,遺族の意志によって終燃することとなるが,そうはならずに,戦争にまで発展することもあった。他の地域の人びとが鎮圧にのりだしたばあいである。双方に同盟者が加担して,全土をまきこむ深刻な戦乱になることさえあった。首長連中の仲介によって戦乱が収まるまでには,多数の戦死者がでた。司祭が仮面をぬぎ,服装を変えると,これが戦争終結の合図となって,平和が回復するのであった。

この異常な慣習は,ヨーロッパ人との接触以後にもつづき,暴行に用いられる武器に,新たに導入された火器まで加わったという。そこまで狂暴化するこの慣習の意味について,18世紀の末にタヒチを訪れた,南海の探検史上有名なイギリス船バウンティ号の,掌帆良種を務めていたジェームズ・モリソンは,親族の死のために悲しみのあまり狂気に駆られた行動,と述べている(Oliver l974:502)。モリソンの解釈だけでなく,島民自身にもぞうした見方があったようで,それは,こうした暴挙を演じる若者たちが,ネネヴァ(「無意識」とか「錯乱」の意)という名称で呼ばれていたことから推測される。

しかし,かりに錯乱からでた行動であったにしても,それが一定の様式にしたがってなされていることからみて,儀式化された錯乱であったことは明らかである。

エリスの説明はまた別で,死者が生前にうけた侮辱への報復と,遺族にたいする無礼への懲罰とのために,その人びとは死者の霊にのり移られたものと考えられていた,と述べている(Ellis 1831:414)。報復とか懲罰ということはさておき,この暴挙への参加者の異様な扮装,とりわけ司祭の仮装は,死者の霊を象徴しているようにも思われる。
エリスはまた,これが戦争をはじめる手段として利用されたという,政治的な意味も指摘している。


無法・無秩序を演出する理由一ひとつの仮説一

エリスがハワイについて記述した,王や首長などの社会的に高い身分の人びとの死にともなう,慣習としての無法・無秩序状態の意味を探るために,ポリネシア諸地域に類例を求めてえられた結果が,上に述べたサモア(サヴァイイ島)とソサイエティ諸島の事例であった。さきに触れたように,前者では無差別な財物の破壊だけで,人にたいする危害はなく,後者にあっては逆に,人の危害だけで財物の破壊をともなわない。しかし,どちらのばあいも,けっして衝動的な暴動・暴行というようなものではなく,それなりの形式にしたがっている。サモアの例では,首長の遺体を担い,一定の文言を唱和しながらということであったし,ソサイエティ諸島のばあいでは,いっそう形式化しており,暴徒のスタイルを含めて始まりから終わりまでが一定の型にはまっている。

この両者にくらべてハワイのばあいは,エリスの記述にしたがうかぎり,掠奪,破壊,放火,傷害,殺人といった乱暴狼籍のかぎりがっくされ,文字どおりの暴動の印象をうけるのである。

しかし,それにもかかわらず,そうした事態の起こるのは,首長など高位の人物の死去にさいしてだけであり,ある期問,日常の秩序が失われ,無法がまかり通るという点では,ハワイもサモアやソサイエティ諸島のばあいにことならないのである。つまり,ことの本質において,ハワイ,サモア,ソサイエティのそれぞれの慣習は同じである。

この同一性,あるいは一致を,この慣習がそもそも高位の人の死にともないがちな性質のものであり,それゆえに各地域に独立に成立し,結果的に一致を示した,とみることもできよう。しかし,いまのばあい私は,三地域間の一致を,歴史的な関連にもとつく結果であることまちがいないと考えている。それは,三地域間に民族移動の とくに,ソサイエティ,ハワイ問のそれは西紀12世紀ごろという比較的新しい時代に あったことが,先史学的に立証されているからである。

ハワイでは,暴徒が裸のままで走りまわったというが,ソサイエティ諸島でも暴徒の若者たちは腰帯一本の裸体となった。ソサイエティ諸島では,人びとはマラエ(〃研α6,伝統宗教の祭祀場,神域)に難を逃がれたが,ハワイでもキリスト教の教会領が避難所とされた。

ハワイにも1819年の伝統宗教の放棄以前には,ソサイエティ諸島のマラエにあたる,ヘイアウ(加’α枷)と称する祭祀場があちこちにあった。キリスト教以前の伝統宗教の時代であったならば,おそらくヘイァウが避難所とされたことであろう。こうした類似からも,その暴力的慣行が同根であることを疑うわけにはいかない。エリスの記述で一見無統制な暴動を思わせるハワイのそれにも,やはりなんらかの形式があったのではなかろうか。エリスの聞きもらしか,あるいは,のちの変化で失われたか,本来はサモアやソサイエティ.諸島と同様に,演出された無法・無秩序であったにちがいない。

さて,それならば,この慣行にはどのような意味があったのであろうか。すでにこれまでに,ウィリアムソン,モリソン,そしてエリスの説を紹介してきた。そのどれをも,誤った解釈であるとして,否定するだけの積極的根拠を私はもたない。それぞれになるほどと思わせるものがあり,各説相互に矛盾するわけでもないから,むしろ柑補弼に理解することが妥当なのかもしれない。

しかしながら,そうした解釈とは別に,より深いところで,この慣行の意味をとらえることも可能なのではないか,と私は考える。

エリスの著書にハワイのその記事を読んだとき,まず私の頭に浮かんだことは,『古事記』に語られた天岩屋神話であった。つまり,アマテラスが岩屋にかくれた結果,世がヨロズワザワイ コトゴト闇となり「……萬の妖,悉に昇りき」という条である。天岩屋神話が,神話の類型学からみて日蝕神話に属するにしても,上に引用した句は,明らかにアマテラスが世界秩序の体現者であり,彼女の姿が失われるとき,世の秩序もまた失われることを物語っている。いうまでもなく,アマテラスは太陽神であり,あらゆる生命の源泉,世界の秩序の体現者と観念されて少しもおかしくない。

このあと,すぐに述べるように,ポリネシアでは大首長がそのような存在と考えられていた。アマテラスが神話上の存在であるのにたいして,ポリネシアの大首長は肉体をそなえた実在であるという違いはあるものの,観念的にはポリネシアの大首長もまた,生命の源泉であり,世界の秩序を体現した存在であった。であればこそ,大首長が死をヨロズ ワザワイ迎えるとき,世の秩序は失われ,アマテラスが天岩屋にかくれたおりと同様な「萬の妖,コトゴトオコ悉に発」る情況が演出されなければならなかったのであろう。そうした情況を続出せず,ただひたすら厳粛,静謹のうちに大葬が運ばれるならば,そのことはかえって,世界秩序の体現者としての大首長の本質を否定することになるのではないか。

ここで当然に想起されるのが,フレイザーがその昔『金枝篇』の中にはじめて集めたことで有名となった,「王殺し」の諸例である(Frazer 1890)。

このばあいには,人の世の繁栄を維持するために,少しでも体力の衰えをみえた王,あるいは一定の統治期間のすぎた王は,みずから生命を断つか,拭殺されるかしなければならなかった。これは王があらゆる力の源泉と考えられたがゆえにほかならない。帝威衰えるとき天変地異あり,という東洋に古くからみられる思想も右に同じである。

ポリネシアのばあいも同様であり,ただ,ここでは慣行が,フレイザーの諸例とことなる形態をとって発現した,ということなのではないか。

ポリネシアの大首長の本質

さて,ポリネシアの大首長の本質についてである。これについては,ポリネシア人の宗教観念の基本にある,マナの観念から説明を始めなければならない。

マナというのは,精霊や霊魂ともことなって,いわば世界を運行させる原動力ともいうべき超自然力の観念である。作物の成長,家畜の繁殖,海や山からの豊かな収穫,人びとの繁栄,そして人の世のあらゆる企ての成功をもたらすものがマナである。ひとりポリネシアにかぎらず,このマナの観念は,南太平洋諸民族のあいだに広くみられるが,ポリネシアでは,身分制と結びついて特異な発達をとげていた。

ポリネシア人の観念では,マナは生物,無生物を問わず,万物に宿っている。ただし,宿っているマナの量はけっして一様でなく,個々の宿主ごとにことなる。マナをごくわずかしかもたない存在もあれば,大量にもっているものもある。マナとはこのようなものであり,こうしたマナをもっとも大量に,というよりも無限に宿した存在が神であった。神はマナの源泉といってよい。

ところで,ポリネシアではマナはけっして一代かぎりのものでなく,系譜的に継承もしくは相続されていく。そのばあい,なにごとによらず長子優先のポリネシア社会では,長子が祖先のマナをもっとも大量に相続し,他は祖先からの系譜上の位置の遠近に応じて,それなりのマナを相続するものと考えられていた。

ポリネシアの社会は,大きく貴族と平民両落分層から構成されていたが,この二つの身分層を区別する規準は,神の系統に属するか否か,ということであった。いうまでもなく,神の子孫にあたるものが貴族である。この氏族のうち,代々にわたって長子継承の原則にもとつく神の直系の子孫こそが大首長にほかならず,彼は前述したマナ相続の原理にしたがって,神のマナをもっとも大量に身に宿した存在,つまり現人神ということになる。

大首長のこのような本質を理解してみるならば,その死にともなって,社会の一時的な無法・無秩序状態が演出されたとして,けっして理解できぬことではあるまい。ハワイ,サモア,ソサイエティ諸島の准例を,私はそうしたものと解釈したい。

なお,ここで私が大首長と称したものは,首長国(chiefdom)の頂点に立つ首長(chief)のことであって,首長国を構成する諸小集団それぞれの長のことではない。後者もまた首長と呼ばれうるので,それらと区別するために,ことさらに大の字を冠したわけである。土地の言葉でも,たとえばハワイ語では,アリイ(髄)という言葉で首長一般をさすほか,これに「大」を意味するヌイ(nui)を付してアリイ・ヌイ(alii nui)をとくに区別することがある。英語文献では,私のいう大首長を,paramount chiefまたはthe highest chiefと表現することが多いが, chiefとだけ記して,区別の曖昧な例も少なくない。

ウィリアムソンが引用したサモア(サヴァイイ島)の例に語られている首長は,大首長のこととみてまちがいあるまい。エリスもまた,ハワイの記事で「王や首長」と述べているが,この首長も大首長であること疑いない。ハワイ王国は,その群島の各地に割拠分立していた多数の首長国を,カメハメハ大王が1810年に征服・統合したことによって成立したもので,カメハメハ大王もその前身は,ハワイ島かぎりの大首長にほかならなかった。したがって,エリスによって王に併記された首長は,とうぜん,王国成立以前のかつての諸首長国の長,つまり大首長をさすものと考えて誤りないであろう。

エリスは,ハワイにおいて,王母の死去にさいしても,無法・無秩序状態のおこることを人びとが懸念して,避難さわぎのおこったことを目撃している。じっさいには,そうしたことはおこらなかったのであるが,もし人びとの懸念が思いすごしではなく,正当な予想であった ということは,キリスト教以前であればとうぜんにおこった とするならば,死につづく無法・無秩序の慣行は,ひとり大首長の死去のばあいだけにかぎらず,大首長に準ずる高位の人の死にさいしてもみられたこととなる。かりにそうであったにしても,私は,サモアやソサイエティ諸島の事例にてらして,ハワイのそれは,この慣行の真意が忘れられた結果としての拡大現象であると考えたい。

最後に,この慣行が,ときとしてポリネシアで葬儀にともなう模擬戦とは別ものであることを,付言しておきたい。これもまた,大首長の死にさいしての慣行の一つにはちがいないが,模擬戦では,遺族側の集団と,近隣からの弔問者の集団とのあいだで,儀式的に戦闘が演じられるのであって,暴徒が一方的に荒れ狂うのではない。その意味についてここでは立ちいらないが,この慣行が,本稿の主題としたそれとは別ものであることだけを,念のためにここに書きそえておく。

http://docs.google.com/viewer?a=v&q=cache:W5fs8-SrRusJ:ir.minpaku.ac.jp/dspace/bitstream/10502/1875/1/SER59_004.pdf+%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2+%E6%AD%BB%E9%9C%8A&hl=ja&gl=jp&pid=bl&srcid=ADGEESjEtS4plalExa8V1OWH7eQYsuzpbBxPVQF82TcN3daLeBxtTdQJmY3VkFgeFF9Y7kz3n3TyZCc1AvEbyPq7A9_Dzi0yTmn1j7B3tKkGM9WXxkq5CHKbE8ypelFUbr3_I5SepDaP&sig=AHIEtbQlJ-_RC-hifQKdGt0DC5vBXSkGTw



07. 中川隆 2012年11月05日 00:25:57 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

                        \               , イ
                      l!   ヽ 、         ,. ( /
                        jl     ヾ 、    ,. (   /
                      l !.       iヘ.  /       /─ -  _
                       l !       !∨             `> 、
                      l i      /l l                  `ヽ
                      ! l    /  ! i                   \
                      ヽ 、  /   ! L- ´  ̄ `>、                ヘ
        ___.            ヾ 、 _i   .j j: : :_: : : : : : : : :ヽ            ヘ
      ,. (////////`>、         `ー|   / 斤´ 7 `ヽ: : : : : : ヘ            ヘ
   ////////////////∧         j.  ノ ,辷ンゅ  ∨: : : : : :ヘ            ヘ
  ////////////////////!         /  ^´ ////     i: : : : : : :i  r-、          i
  .i////////////////////ヽ _      /            .!: : : : : : :|  ー'r 、        |
  .!///////////////////////      `  _      _,.、    l: : : : : : : !    ´o         !
  !'/////////////////////,!         ` ー- (:::":ノrや´!: : : : : : : |             |
  ∨////////////////////               !j ////j: : : : : : : : !            i
.   ヽ//////////////////,{                /////!: : : : : : : :i             !
    \//////////////> '                /////,l: : : : : : : : !            i
      ヽ//////////                ///////,l: : : : : : : : :i            l
      //////////                 ////////,l: : : : : : : : : !             j
     .//////////> 、_              /////////!: : : : : : : : : ヘ            /
     ////////////////`ヽ             i/////////l: : : : : : : : : : ヘ          /
    .////////////////////ヽ          !/////////l : : : : : : : : : : ヘ        /
   .i/////////////////////∧         ∨///////ヽ: : : : : : : : : : :ヽ      ./
   !'//////////////////////∧         ヽ////    ',: : : : : : : : : : : :ヘ   /                 /
.   i////////////////////////∧         ヽ/     ∨ : : : : : : : : : : \/                    /
   !/////////////////////////∧       γ´フ´     ヽ: : : : : : : : : : : : :\                   /
   !//////////////////////////∧、     / ´      j  \: : : : : : : : : : : : :ヽ               /
    l'///////////////////////////∧/>、  /      r-f    \: : : : : : : : : : : :ヘ             /
   ヽ////////////////////////////ヽ///>j       !/,L_    \: : : : : : : :ト、: :j              /
     ∨///////////////////////////\//L_.  .__」////7>ー-'/ゝ: :、: : : : ! ):ノ           / _, . (
       ∨////////////////////////////ヽ//////////////////////フ\:j\: l            /、7/////
      ヽ//////////////////////////////////////////////////,ノ     `            / !/>: ´: :
        \///////////////////////////////////////////////ノ                 ムr//,|: : : : :
         ヽ///////////////////////////////> ´  ̄ `  ̄ ̄´ !                //////l: : : : :
           \//////////////////////> ´ ̄             |                !/! .V//!: : : : :
            ∨////////////////////ヽ     r j        l                l/  ∨ヘ: : : : :
             i//////////////////////ヽ^ヘ   リ         l                {!   ヾヘ: : : :
             |///////////////////に==, そ´          ヘ                !   }∧、:_:
             !/////////////////////r-='_、 !           ヘ                i   //r―
             |/////////////////////(ノ´//} `ー-_,         ヽ                i  l//!
              |//////////////////////////fj^i´ ̄           ヽ              ∨ j//L_
                  l'///////////////////////////∧             \              ∨/r―‐

西洋や東洋の美術が到達し得なかった高みに達している「作品」


 北極や南極のような人が住んでいない雪や氷の世界で仕事をすることが多い私だが、そのため、無性に人恋しくなることがある。

 それゆえにか、集めているのがアフリカの各部族が祭事のために彫った木彫の仮面だ。これらの仮面は観光客用に媚びを売っている土産ではない。自分たちの祭事に使うための魂がこもっている。そして、これらの仮面は、西洋や東洋の美術が到達し得なかった高みに達している「作品」だと私は思う。

 たとえば、写真一を見てほしい。これはアフリカの西海岸に近いサハラ砂漠の内陸国、マリの面だ。これほど憂愁に満ちた表情を持つ仮面は、日本の能面を含めて、世界でもめったにあるまい。作った人にとっては宗教的なものに違いないが、この憂いの深さは、例えばジャコメッティをほとんど凌ぐほどの芸術に見える。緑と黄色の耳飾りの華やかさと憂愁のコントラストが見事だ。

 仮面の高さは24センチ。この仮面は木彫だが、木の上に薄い真鍮板を被せ、夥しい数の、丸い頭の釘で留めてある。これは、同国に住むマルカ部族の仮面の特徴である。

 じつは、アフリカの国々は、いまはたまたまひとつの国になっていても、そこに住む部族は、人種も文化も違うことが多い。フランス、英国、オランダ、ベルギーなどかつての列強である文明国の、いわば勝手な都合で、それぞれの国にされてしまったのである。

 このため、たとえば象牙海岸(コートジボアール)ひとつとっても、何種類もの違う種類の仮面がある。これはそれぞれの部族によって作る仮面がまったく違うからである。それゆえアフリカの西海岸の部族の仮面と東海岸のそれとは、まったくの別物である。

 フランス・パリの市内、新オペラ座の近くの裏町にあるピカソ美術館には、ピカソの描いた作品だけではなく、ピカソ本人が収集した絵や彫刻も飾ってある。これらにはピカソと親交があった画家の絵のほか、アフリカの木彫もある。動物とも人間ともつかない原始芸術風のアフリカの木彫もある。これらアフリカの木彫から、彼が芸術のインスピレーションを受けていたことは間違いがあるまい。

 写真二は同じマルカ族の、二本の角が生えた男の仮面である。角(つの)も木製の芯が金属板で丁寧に覆われている。製作の基本的な手法は写真一のものと同じだが、真鍮板を留めている釘の数は、こちらのほうがずっと少ない。写真一が釘の配置と数で表現している肌の質感を、こちらはまるで彫金のような真鍮板のディテールで表現している。

 この写真二の仮面が表そうとしているものは、西洋美術のジャコメッティが指向したものと遠くないように見える。くぼんだ眼窩と小さな口。デフォルメと簡略化と、そして必要なところは強調しているというバランスが絶妙である。

 写真ではちょっと見えにくいかもしれないが、両方のこめかみと、そこから下がった真鍮の長いもみあげの先に深紅のリボンが、合計四ヶ所に着いている。これらは、写真一と同様、金属の面に鮮やかな彩りを添えている。 これは、兜を被った戦士の面ではないだろうか。部族のための闘いに赴く戦士の憂愁を表しているように見える。仮面の高さは39センチと、かなり大きなものだ。


 写真三は象牙海岸の女性の仮面だ。アフリカの仮面には比較的柔らかい木に彫って彩色したものも多いが、この仮面には彩色はない。その代わり、とても硬くて目が詰んだ木で、細部までじつに精密に彫られている。とくに頭髪の彫刻は細かい。彫るのには大変な手間がかかったに違いない。

 この仮面は、私には貴婦人の面に見える。みごとに鼻筋が通り、目が大きい。頬も唇も豊満だ。両眉が繋がっているのが不思議に見えるかもしれないが、これは象牙海岸の仮面の特徴である。

 美しいばかりではない。この仮面は、見る角度によって微妙に表情を変える。この写真の角度より、少し下から眺めると、ずっとふくよかで、もっと穏やかな顔になる。

 表情の品の良さ、穏やかさ、見える角度によって変える表情は、すぐれた日本の能面を凌ぐ出来栄えだと思う。仮面の高さは38センチある。

 ここでは私の集めた仮面全部を掲げる紙数はないが、なかにはジョアン・ミロ風のとぼけた丸顔も、穏やかな笑顔も、道化も、また、まるで秋田のなまはげのような怪奇な仮面もある。興味のある方は「魂の詩(うた)」と名付けて私のホームページ(http://shima3.fc2web.com/african-masks/)に、そのうち二十数個を公開しているので、ご覧いただきたい。

 私は、これらの仮面を西欧各国の蚤の市で買うことが多い。日本と違ってアフリカ美術は彼の地では美術品のジャンルのひとつになっていて、専門の店や画商のところに行けば、驚くほど高い値段で、白人たちが売っている。

 しかし、この高い価格が、製作者や、画商以外の流通に関与した人たちに還元されていることは到底、考えられない。一種の搾取というべきだろう。

 しかし、道端で開かれている蚤の市では、仮面を作った人たちの後裔が、他の部族の面も並べて売っている。値段も、画商と比べれば、びっくりするくらい安い。いまのアフリカの国名ではこれこれだが、じつは部族にはこれとこれがあり・・、と言った詳しい話や由来を聞かせてくれる。しかし他の部族についてはほとんど知らないことも多い。

 だが、自分や一家が欧州に来た顛末を話してくれたり、一緒に売っている民族楽器を驚くほど器用に奏でてくれたりする。

 ヨーロッパとアフリカの結びつきは長くて深い。第二次世界大戦前には、多くの西欧の国がアフリカに植民地を持っていた。戦後、それぞれの植民地は独立を果たしたが、それまでの歴史の影響がいまだに強く残っている。たとえば、一般的にアフリカ西海岸の国々はフランス語、東海岸は英語が通じるのもその影響のひとつだ。

 私がつきあっている西欧の知識人の心には、アフリカに対する原罪という底流が流れている。それなりの文化を持っていたアフリカを、植民地として収奪して蹂躙してしまっただけではなく、現在に至るまで貧しくて病気も多く、安定しない状態にしてしまったという贖罪意識なのであろう。

 私の専門である地球物理学からいえば、そもそもアフリカには大地溝帯という大地の割れ目が走り、世界の他の地域よりはずっと高い地熱がある。ここは大陸プレートが割れていずれ大西洋のような海が誕生しようとしているところだ。この地球の息吹は少なくとも数百万年、つまり人類の誕生以前から続いている。

 地球上で最初の人類が発生したのがこのアフリカだ。また、地球上でプレートが陸上で誕生しているのはここだけだ。この二つに関連があるのかないのか、いまだ解けぬナゾとはいえ、なにかの関連を思いながら、遠い昔に思いを馳せさせてくれる仮面なのである。
http://shima3.fc2web.com/sibusawazaidan55.htm

魂の詩・アフリカの仮面

私が持っているアフリカなどの面(マスク、 仮面、African Mask、African Art)をご紹介します。なお、これらを作った「部族 tribes」と今の「国」とは1対1に対応しているわけではなく、また今の国境を越えて同じ部族が住んでいることも珍しくありません。アフリカの国々の国境線は、かつての植民地争奪戦や国際政治の力学によって押しつけられたことも多かったわけですから。
19世紀末以前のアフリカでは、欧州列強の植民地は大陸全体の約10%にしかすぎませんでした。

しかし、アフリカの分割は、1884年のベルリン列国会議から1914年に勃発した第一次世界大戦にかけて、アフリカは欧州列強に分割されていき、ほぼ全域が植民地となってしまったのです。

そして、その影響は、多くの国が独立を果たした現在でも、色濃く残っています。

1-1:マルカ部族(いまのマリ)の真鍮でカバーした木製の「憂いの面」

華やかな耳飾りの陰で、この憂いの深い顔には、どのような感情が込められているのだろう。戦の憂いだろうか。

木製の面の上に、薄い真鍮板を張り付けて、おびただしい数の丸い頭の釘で留めている。これは マルカ(MARKA)部族 (WARKAとも書く)の面の特徴である。

このマルカ部族は、マンデ(Mande)部族の一部だと思われており、マリから象牙海岸にかけて暮らしている。下の西アフリカ内陸の部族分布図にはWarkaと書かれている。人口は知られていない。

バンバラ(Bambara)部族(下の部族の地図の中央部にある)とは別の部族だが、Bambara部族の強い影響を受けているという。また、5-2のセヌーフォ(Senufo)部族とも近くで暮らしている。

(高さ24cm。2001年、フランス・パリ、 レピュブリーク大通りのアフリカ民芸店の地下で買う)

--------------------------------------------------------------------------------

1-2:マルカ部族(いまのマリ)の、真鍮でカバーした木製の「戦士の面」

上の1-1と同じように、木製の面の上に、薄い真鍮板を全面に張り付けて、丸い頭の釘で留めている。

角も木製の芯が金属板で丁寧に覆われている。製作の手法は上のものと同じだが、釘の数は、こちらのほうがずっと少ない 。

西洋美術でいえばジャコメッティだろうか。デフォルメと簡略化と、そして必要なところの強調のバランスが絶妙である。

見えにくいが、両方の額と、そこから下がった髪の先に赤いリボンが、合計4ヶ所に着いている。 これは、戦士の面ではないだろうか。

(高さ39cm。1991年、フランス・パリ北部のクリニャンクールの蚤の市で買う)

--------------------------------------------------------------------------------


1-3:マルカ部族(いまのマリ)の真鍮でカバーした木製の「鳥の全身像」

では、このマルカ部族が、仮面以外のものを作ったら、どのような才能を発揮するのだろう。

抽象化された、しかし気品のある頭部や嘴、厚い胸、ピンと張った翼。背の高さ。これも、ジャコメッティなのである。あるいは、それを超えているかもしれない。

これはブルキナファソで昔から多く食用にされてきているホロホロ鳥にちがいない。ハゲタカやワシのような猛禽類ではあるまい。

左下の写真は、ホロホロ鳥の骨格標本である。マルカ族の鳥の立像が、身体の特徴をきちんと捉えながら、「芸術表現」としての抽象化が見事になされているのが見て取れよう。

また、抽象化された頭部の中でも、嘴の根元にある鼻の穴も表現されているなど、この鳥を良く知る者だけが表現できるディテールも盛り込まれている。

木製の像の上に、薄い真鍮板を全面に張り付けて、丸い頭の釘で留めている。両足で丸い石をしっかり抱えて立っている全身像である。


なお、ホロホロ鳥は、15世紀くらいから欧州でも食用にされ、フランス料理では美味な鳥として知られている。しかし、この鳥が部族の人たちにとって貴重な蛋白源であるのとちがって、フランス人にとっては、飽食の果ての贅沢な材料なのである。

なお、この鳥のモチーフは、マルカ部族にかぎらず、周辺の多くの部族の仮面にも使われている。しかし、このように金属をかぶせているのではなくて、木彫である。

(高さ40cm。2000年、フランス・パリ北東部の路上の、その日かぎりの蚤の市で買う)

--------------------------------------------------------------------------------


2-1:バウレ部族(象牙海岸)の木製の「ミロの面」

同じ象牙海岸でも、部族が違うのだろう。これは、まるでジョアン・ミロの世界である。眼とその表情も、口も、そして顔の輪郭も、どれもすさまじい表現力である。

木製の面に、要所だけ彩色されている。

これは象牙海岸の中央部に暮らしているバウレ BAULE部族(BAOULE, BAWULEとも書く)の仮面だ(下の部族の分布図参照)。

バウレ部族はBaule (Akan cluster of Twi)語を話す部族で、人口は40万人といわれている。約300年前にAsante部族(6-1)に西に追われて、いまの地に落ち着いた歴史を持つ。

バウレ部族の木彫りの仮面は、近くに住むセヌーフォSenufo部族(5-2)やグーロ Guro部族(2-3)の仮面に影響されているものもある、といわれている。しかし、この「ミロの面」は独特のものだ。

(高さ46cm。頭の上に、大きな木の輪が着いている。2001年、フランス・パリ南部のバンブの蚤の市で買う)

--------------------------------------------------------------------------------


2-2:同じバウレ部族(象牙海岸)の「貴婦人の面」

上の2-1と同じバウレ族が、まったく違う仮面も作る。これも木製の面だが木質が違い、表現はもっと違う。鼻筋が通り、目が大きい。

彩色はないが、とても硬くて目が詰んだ木で、細部まで精密に彫られている。とくに頭髪の彫刻は細かい。

この面は、見る角度によって、微妙に表情を変える。この写真の角度より、少し下から眺めると、ずっとふくよかで、もっと穏やかな顔になる。

この、角度によって表情を変えることや、彫りの品の良さは、日本の能面を凌ぐほどの出来栄えである。

(高さ38cm。2001年、フランス・パリ北部のクリニャンクールの蚤の市で買う)

--------------------------------------------------------------------------------


2-3:隣のグーロ部族(象牙海岸)の「道化の面」

この木製の仮面は、徹底して道化ぶりを発揮している。部族を纏めるためには、このような役割が必要であったに違いない。

あでやかな彩色がされている。口のまわりが、なんとも言えない表情を醸し出している。

頭の上に、頭を前に傾げて面を突つこうとでもしている鳥の全身像を背負い、またアゴの下には、面を支える取っ手だろうか、出っ張りが着いている。

日本の能面にも、頭の上に鹿の角をつけているものがある。一角仙人である。しかし、角は本来、鹿の頭に着いているものだから、このアフリカの面の鳥のように「異物」が着いている異様さはない。

この仮面はグーロ(GURO)部族(GOURO, GWIO, KWENI, LO, LORUBEとも書く)のものだ。グーロ部族は象牙海岸の南部に住み、上のバウレ部族の西、セヌーフォ部族の南に、ほとんど隣接している(上の2-1の部族分布図を参照)。人口は約20万人を擁している。

グーロ部族は、もともとはクウェニ部族と自称していた。しかし、196年から1912年にかけて、侵略してきたフランスに強制的に植民地化されてバウレ部族が呼びならわしていたグーロ族という名前に変えられてしまった歴史を持っている。フランスに限らず、欧州各国は、アフリカで暴虐のかぎりをつくした。彼らの心の底には、いまでも原罪意識が流れているのは、その歴史と無縁ではない。

(高さ32cm。2000年、フランス・パリ北東部の路上の臨時の蚤の市で買う)

--------------------------------------------------------------------------------


2-4:これはヨフレ部族(象牙海岸)の「怒りの面」

これも上の赤い面と似た木製の面だが、上のと同じ赤い色ながら、一転、口をへの字に結んだ険しい表情をしている。目も、頬のバツ印も、四角い鼻も、上の道化とは対照的である。

しかし、対照的に、四角く抽象化された耳と、左右がつながった眉だけは、まるで、しきたりでもあるかのように、微妙に違いながらも、よく似ている。しかし、そのつながった眉は、鼻と離れている点で、バウレ族の仮面(2-2)とは違っている。

これも、頭の上に鳥の全身像を背負っているが、その鳥は顔を真正面に向けて凛としている。またアゴの下には、面を支える取っ手の出っ張りが着いている。

上の面と同じように、木製の面に彩色をしてあるが、上の3-2の、のっぺりした絵の具の塗装とはテクスチュアも色合いも違った、別の表現手法である。

この仮面は、上と同じグーロ部族のものかもしれないが、表現が少し違うところから、多分、ヨフレ(YOHURE)部族 (SNAN, YAOURE, YAUREとも書く)の仮面ではないかと思われる。

ヨフレ部族は象牙海岸の中央部に住む、人口2万人という小さな部族だ(上の2-1の部族分布図を参照)。地理的にも、東にバウレ部族、北と西にグーロ部族が住んでいて、文化的にも言語的にも、この二つの影響が強いという。それゆえ、仮面も似ているのであろう。

長細い顔の上に動物を組み合わせる仮面、そして突き出した口は、このヨフレ部族の仮面の特徴である。

(高さ49cm。2001年、フランス・パリ中央部の路上の臨時の蚤の市で買う)

--------------------------------------------------------------------------------


2-5:ダン部族(象牙海岸)の穏やかな「少女の面」

これも象牙海岸の木製の面だが、上のと違って、自然の硬い木の肌のままで、彩色はしていない。

眉の形に、バウレ部族やグーロ部族が作った上の象牙海岸の3つの面(2-2, 2-3, 2-4)との共通点がある。 しかし、鼻との連続に、微妙な違いもある。

これはダン( DAN)部族 (DAN-GIOH, GIO, GIOH, GYO, YACOUBA, YACUBA, YAKUBAとも書く)が作ったものだ。ダン部族は、象牙海岸の比較的南部、グーロ部族の西に住む(上の2-1の部族分布図を参照)。一部は隣国リベリアにも住む。

人口は35万人ほどで、Dan (Mande)語を話す。19世紀までは、中央政府を持っていない部族だった。政府らしきものが出来たのは、比較的最近である。

しかし、この仮面は、なんという穏やかな顔だろう。 あるいは永遠の眠りについた死に顔なのだろうか。

画家のアメデオ・クレメンテ・モジリアーニ(モジリアニ。Amedeo Clemente Modigliani, 1884-1920)は、アフリカの仮面に大きな影響を受けた。影響されたのは、たぶん象牙海岸あたりの仮面だと思われているから、このような仮面だったのかもしれない。

しかし、ある意味では、魂の叫びという面では、モジリアニといえども、アフリカの原始美術を超えられなかったのではないだろうか。

(高さ22cm。1991年、フランス・パリ北部のクリニャンクールの蚤の市で買う)

--------------------------------------------------------------------------------


3-1:ガボンのプーヌー部族の木製の「東洋人の面」

ガボンの木製の彩色面。鮮やかな彩りだ。

黄色い肌、細い眼。低くて丸い団子鼻。アフリカの人の面ではないだろう。 私には東洋人を模したものに見える。

頭の上に、嘴をこの顔に向けた鳥の全身像を背負い、またアゴの下には、面を支える取っ手だろうか、出っ張りが着いている。

この仮面はプーヌー(PUNU) 部族(APONO, BAPUNU, MPONGWE, PUONOU, PUNOとも書く)のものだ。額(おでこ)についている菱形の特有の模様が、このPUNU族特有のものなのである。

PUNU族はガボンの南部とコンゴに住む(下のガボンからザンビアまでのアフリカ中西部の部族の分布図参照)。Punu (Bantu)語を話し、部族は約40000人しかいない小さな部族だ。

しかし、この部族がどこから来たか、どんな宗教的な歴史を持っているかは、あまりわかっていない。

(高さ34cm。2001年、フランス・パリ中央部の、路上の臨時の蚤の市で買う。次の日には、影も形もない露店である。)

--------------------------------------------------------------------------------


4-1:コンゴ民主共和国(旧ザイール)のレガ部族の「白人の面」

穏やかな、見方によっては無表情な木製の面。口の表情が特異である。

アフリカの面の中でも、この面が特異なのは、白く塗られていることだ。白人を模したものであろうか。

これはレガ(LEGA)部族(BALEGA, BALEGGA, REGA, WALEGA, WAREGAとも書く)が作った仮面だ。

レガ部族はコンゴ民主共和国(旧ザイール、コンゴ共和国の東隣)の東部、つまりアフリカの大地溝帯やタンガニイカ湖の近くに住む部族だ(上の3-1の部族の分布図を参照)。 人口は10〜25万人と、比較的小さい部族だ。

じつはカメルーン・ガボン・コンゴ共和国(コンゴ民主共和国の西隣の別の国)が国境を接する近くに住むクウェレ(KWELE)部族(BAKWELE, BEKWIL, EBAA, KOUELEともいう。3-1の部族分布図を参照)も、同じような白くて平板な顔の仮面を作っている。しかし、眉から鼻へのつながりが、このレガ民族のものとは、やや違っている。

なお、KWERE部族は東アフリカ、タンザニアに住む人口5万人ほどの小さな部族で、KWELE部族とは別の部族である。

(高さ26cm。1994年、フランス・パリ南部のバンブの蚤の市で買う)

--------------------------------------------------------------------------------


4-2:コンゴ民主共和国(旧ザイール)のルバ部族の「ひょっとこの面」

彩色した木製の面。上の象牙海岸の道化の面と同じような用途で使われたものだろうか。

口は真四角で、顔中に皺(あるいは装飾)がある。鼻翼の表現が独特だ。

この仮面は、たぶんルバ(LUBA)部族 (BALUBA, KALUBA, LOUBA, URUWA, WALUBA, WARUAとも書く)のものだ。コンゴ民主共和国(旧ザイール、コンゴ共和国の東隣)の南東部、つまりアフリカの大地溝帯の近くに住む部族である(上の3-1の部族の分布図にLUBAとして出ている)。上の4-1のレガ部族よりは、南に住んでいる。

その北に住むソンギエ部族(SONGYE。その他 BASONGE, BASONGYE, BASSONGO, BAYEMBE, SONGE, SONGHAY, WASONGAとも書く)も、この仮面とやや似た、四角いひょっとこ口の仮面を作っている。顔中に皺(あるいは装飾)があるものもある。しかし、顔の形がデフォルメされているものが多く、このルバ族のものほど、丸と四角の形が単純ではない。

このルバ部族は100万人ほどいる、大きな部族だ。16世紀から19世紀にかけてルバ帝国を作り、領土を拡大していった、しかし、その後欧州列強によって没落させられてしまった。一方、ソンギエ部族は16世紀にこの辺に移住してきた部族で、現在15万人ほどいるといわれている。ルバ部族はCiluba (central Bantu)語を話すが、ソンギエ部族は KiSongye (Bantu)語を話す。

世紀末を彩ったウィーンの画家、グスタフ・クリムト(1862-1918)は56歳でなくなったが、その晩年、時代から取り残される自分を強く感じていた。そして、1914年にブリュッセルを訪れたクリムトは、そこで(当時の)ベルギー領コンゴのアフリカ美術を見て、いたく感心したと伝えられている。「彼らは独自の造形で我々よりはるかに多くのことが出来る」と述べたという。しかし、アフリカ美術から影響を受けて、新しい境地を開拓するための時間は、もう、クリムトには残されていなかったのであった。

(高さ17cm。1996年、英国・ロンドンのカムデンロックの蚤の市で買う。店の白人の主人は、しょっちゅう、アフリカに買い付けに行っているので、この面は留守番役の奥さんから買った。)

--------------------------------------------------------------------------------


5-1:カメルーンの「部族長の面」

表情を表す、というよりも、手の込んだ細工で威厳を表しているように見える木製の面。鎖風の金属を、ごく硬い木の表面に埋め込んだ、恐ろしく手間がかかったに違いない面である。

顔の周りには髭を模したものだろうか、縄が廻されている。

この仮面を売っていたアフリカ系の男によれば、この仮面はカメルーンから来た、部族はわからない、ということだった。

しかし、いまのところは、この仮面は、そもそもカメルーンかどうかも謎である。しかし、たとえばカメルーンのチカール(Tikar)部族は、いくぶん似たような仮面を作っている。

アンゴラ東部、コンゴ民主共和国(旧ザイール)の南部、そしてザンビアに広くまたがって住んでいるチョクウェ(CHOKWE)部族(人口110万人を超えるというこの部族は、住んでいる地域が広いせいか、(BAJOKWE, BATSHIOKO, JOKWE, TCHOKWE, TSHOKWEなど、少なくとも30の別の書き方があるという)の仮面には、この硬い木や、顔を覆う縄など、似たところがある仮面が多い。しかし、これほど手の込んだ細工はない。

またダン(DAN)部族(2-5)も、この面に似ていなくもない仮面を作っているが、やはり、この精緻さにはかなわない。

(高さ40cm。1999年、フランス・パリ南部のバンブの蚤の市の「場外」(本来の市としては許されていない場所での露店)で買う)

--------------------------------------------------------------------------------


5-2:セヌーフォ部族(象牙海岸など)の「女性を背負った面」

この表情は、笑っているのか、泣いているのか、私には読めない。口の表情も独特のものだ。

もちろん、ほかのアフリカの面と同じく、目のところは、このように細いものでも穴が開いていて、面を被ったときに前が見えるようになっている。

頭の上に、顔を正面に向けた女性の裸の全身座像を背負い、また顔の八方には、この写真にも一部見られるような、複雑な、まるで花魁のような飾りが突き出ている。

面は木製で彩色していない。 上の5-1などとは違って、木としてはツヤのない木だ。

これは、象牙海岸の奥地に住むセヌーフォ(SENUFO)部族 (SENOUFO, SIENA, SIENNAとも書く)の仮面だ。セヌーフォの仮面には多くの種類があるが、どの木彫にも、じつにすぐれた能力が発揮されている。

セヌーフォ部族は1-1の西アフリカの内陸の部族(太字)の分布地図の中央部にある(2-1の地図にも、部族の位置が出ている)ように、いまの象牙海岸の奥地を中心にして住んできた部族である。部族の人口は60〜100万、比較的大きな部族だ。

セヌーフォ部族が住んでいるのは象牙海岸とはいっても、海岸からは、はるかに遠い。このほか、ブルキナファソ、ガーナ、マリなど広い範囲に住んでいる。i

(高さ44cm。2000年、フランス・パリ、 レピュブリーク大通りのアフリカ民芸店の地下で買う)

--------------------------------------------------------------------------------


5-3:タンガニイカ湖畔のベンバ部族の「顔が二つある面」

これも、ジョアン・ミロ風に見えなくもないが、私には、それを超えて、西欧の近代美術が到達できなかった高みの魂が作った面に見える。

パリにあるピカソ美術館には、ピカソの作品のほか、ピカソが収集した美術品やアフリカの木彫品が展示されている。木彫品には、面は少なくとも展示してはいなかったが、動物の立像などがある。

製作した人たちはそう思って作ったのではなくて、祭事に使うために作ったに違いない「アフリカの芸術」に、欧州の近代美術が、それなりに影響を受けたのは間違いがないだろう。

面は木製で彩色してある。不思議なことに、顔が二つあり、口はない。上の眼は安らかで、下の眼は、まるで慈しむような眼だ。鼻は上の顔にはあり、下の顔にはない。しかし、全体としてみると、不思議に、奇妙さも奇怪さもが感じられない。つまり、すぐれた美術品と同じなのである。

この不思議な仮面は、ベンバ(BEMBA)部族 (AWEMBA, AYEMBA, BABEMBA, BEMBE, WABEMBA, WEMBAとも書かれる)のものだと思われる。

ベンバ部族はザンビアの東北部からコンゴ民主共和国の南東部にかけてタンガニイカ湖の岸に住んでいる部族で、人口は6万しかいない(右の東アフリカの部族分布図、と3-1の図を参照)。部族の名前であるベンバ(あるいはBabemba)は「湖の人」の意味である。

小さい部族ゆえ、そして、あるいは戦いを好まなかった部族ゆえか、Lega(4-1), Buyu, Binjiといった周囲の部族と多くの習慣を共有してきている。

じつはタンガニイカ湖の北西部に住むゴマ(GOMA)部族(BAGOMA, BAHOMA, BENEMBAHO, HOMA, NGOMA, WAGOMAとも書く)も、全体の形や眼の表情が似ている仮面を作ってきた。しかし、彼らの仮面は、一様に、丸いおちょぼ口が突き出した、つまり日本のひょっとこのような口をしている。つまり、この口が仮面の表現にとって、大事な要素になっているのだ。それゆえ、この仮面とは違うものだと思われる。

(高さ37cm。2003年、フランス・パリ北部のクリニャンクールの蚤の市で買う)

--------------------------------------------------------------------------------


6-1:アサンテ部族(ガーナ)の「安産のお守り」

これは、見てきたほかの「面」とは違って、全身像の顔の部分のクローズアップである。

これは、安産のためのお守りである。現在のガーナに住むAsante tribe(アサンテ部族)が作ったAkua'ba doll (アクアバ人形)というものだ。

アサンテASANTE部族は、ACHANTI, ASHANTE, ASHANTI、とも書かれるが、いまでいえばガーナの中南部に、17世紀初めに作られたアサンテ帝国の生き残りの部族で、約15000人がいるといわれている。

全身像の形は、日本の埴輪に似たところもある。乳房だけが象徴的に突き出した、簡略化された胴体から下の像と比べて、顔の部分は大きく、また胴体が簡略化されているのと比べて、頭の部分は精緻に作られている。なお、丸い顔は美女の象徴であった。

像は比較的硬い木製で、彩色してある。

2-1 の地図(西アフリカの海岸部の部族(太字)の分布地図)で、ガーナの中南部、象牙海岸に近いところにアサンテ族という表記がある。

(高さ33cm。1996年、オランダ・アムステルダムのウォーターループレインの蚤の市で買う)

--------------------------------------------------------------------------------


7-1:ナイジェリアの「少年の面」

この面には、まるでウサギのような尖って大きな耳が付いている。その耳から延びた布らしきものが、頬かぶりのように下りてきている。祭りごとなのか、戦に赴く姿なのか、どちらであろうか。

像は木製で、黒いのは地色である。

(高さ21cm。1992年、英国・ロンドンのポートベローの蚤の市の「場外」(本来の市が終わった先)で買う。一般には、昔の植民地の縁で、西アフリカのフランス語圏の国々から来た面はフランスに多く、東アフリカの英語圏の国々の面は英国に多い)

--------------------------------------------------------------------------------


8-1:(出所不明の)「着飾った丸顔の面」

なんという鮮やかな飾りだろう。色とりどりのビーズのほか、まるで金箔のような三角形の飾りまで纏っている。アイシャドーも金色だ。

面は木製で、彩色してある。飾りは、象嵌細工のように、はめ込んである。

(高さ13cm。1992年、オランダ・アムステルダムの骨董屋で買う。昔の植民地の縁からいえば、西アフリカの国々から来たのかもしれない)
GOMA (BAGOMA, BAHOMA, BENEMBAHO, HOMA, NGOMA, WAGOMA)


--------------------------------------------------------------------------------


8-2:(出所不明の)「着飾った猿の面」

この面は、胸部まであり、全体は盾の形をしている。写真の左下に見えているが、首から下の衣装部分も精緻な造りになっている。

しかし、衣装が精緻に出来ているのと違って、顔の部分は、あまりにも落差が大きい。顔は真っ平らだし、眼は、単に丸い穴が開いているだけで、なんの表情も窺えないし、色も朱色一色で塗りつぶしてある。

口も、人間をかたどったにしては、形がへんだ。つまり、この面は人面ではなくて、猿か類人猿を表したものではないだろうか。

だとしたら、上の8-1の丸い面も、鳥の顔のようにも見えてくる。 あるいは4-2のザイールの面も、もしかしたら猿のような動物であろうか。

面は木製で、彩色してある。

(高さ35cm。1998年、フランス・パリ北部のクリニャンクールの蚤の市で買う。昔の植民地の縁からいえば、西アフリカの国々から来たのであろう)



9-1:パプアニューギニアの「おどけた面」


木製の仮面を作って祭事に使ったり、飾りにする習慣は、アフリカに限らず、世界中にある。

これは、パプアニューギニアの面である。パプアニューギニアは驚くほど多くの部族が独立に暮らしている「国」だから(それが「国として成り立つものかどうかはこちらを参照)、仮面も多岐に渡っている。

この面の表情は、悲しみや怒りではあるまい。驚愕でもなく、たぶん、上の1-6のような道化の面ではないかと思われる。一見不要なようだが、じつは部族にはなくてはならない役回しなのであろう。

この面は木製で彩色してある。面の表情も、絵の具の種類や塗り方も、アフリカの面とは、ずいぶん違う。木は、ごく柔らかい木だ。

(高さ40cm。1997年、パプアニューギニア・ポートモレスビーで買う)

--------------------------------------------------------------------------------


9-2:パプアニューギニアの「戦士の憂いの面」

この面は同じく木製だが、彩色はしていない。上の面よりは、ずっと硬い木だ。

眉間に刻まれた深い皺、高くてまっすぐ通った鼻、意志の強そうな口、それでいて憂いを含んだ眼。この面は戦士の面に違いないと、私は思っている。

(高さ46cm。1997年、パプアニューギニア・ポートモレスビーで買う)

--------------------------------------------------------------------------------


9-3:パプアニューギニアの「戦死者の面」

この面も柔らかい木を使った面だが、上のものと違って、鮮やかな彩色がされている。また、眼にはタカラガイがはめ込まれている。

パプアニューギニアの多くの部族は、顔にこのような色を塗って祭事を行っている。かつては頻繁に行われた部族の存続を賭けた闘いや、女性を取り戻すための闘いに赴いた姿である。この面にはめ込まれた貝の目は、死者の目に見えるが、違うのだろうか。

(高さ41cm。1996年、パプアニューギニア・ポートモレスビーで買う)

--------------------------------------------------------------------------------


9-4:パプアニューギニアの「鳥人の面」

これはパプアニューギニアの本土の東北にある Sepik (セピック)川中流地方の Tambaum (タンバウム)村に住む部族が作った面である。

この鼻。この眼。見るものに恐怖心を与えるための面であろう。鳥をかたどった人というべきであろうか。パプアニューギニアの祭りも、鬼面人を驚かすような飾り付けや衣装が多い。ほとんど、秋田のなまはげの世界なのである。

(高さ39cm。1994年、ニュージーランド・ウェリントンで買う)

--------------------------------------------------------------------------------


9-5:パプアニューギニアの「抽象芸術、その1」

パプアニューギニアにも、上の9-1や9-3のような大味なものばかりではなくて、上のアフリカの3-1や5-1のような細かい細工の木彫りがある。これがそのひとつの例だ。

全体のフォルム、眼のまわりの念の入った刻み、胴体や鰭の装飾。愛らしい唇。これは具象芸術を昇華した、ほとんど抽象芸術というべきものだろう。

パプアニューギニアの本土の東北に離れているニューブリテン島のラバウルで買った。比較的柔らかい木を彫ったもので、白いところには、貝がはめ込んである。

(長さ16cm。1996年、パプアニューギニア・ラバウルで買う)

--------------------------------------------------------------------------------


9-6:パプアニューギニアの「抽象芸術、その2」

パプアニューギニアのカメの木彫。カメを知り尽くして、なおここまでデフォルメできるのは、芸術的な才能であろう。要所要所には、上の魚と同じように、7色に光る貝が埋め込んである。

上の魚と違って眼のまわりが素っ気ないわりには、足の付け根や尻尾の先には、念の入った刻みが施されている。一方、甲羅の模様は具象というよりは抽象だ。省くところは省き、必要なところだけは過不足なく表現している。

パプアニューギニアの本土の東北に離れているニューブリテン島のラバウルで買った。黒檀かマホガニーのような硬い木を彫ったものだ。なお、腹側(裏側)にはなんの彫り込みもない。

(長さ26cm。1996年、パプアニューギニア・ラバウルで買う)


--------------------------------------------------------------------------------


9-7:パプアニューギニアの「具象芸術」

しかし、パプアニューギニアの「抽象芸術」としての木彫りが優れているといっても、それは具象芸術としての「腕」が優れていないことを意味しているわけではない。

あたかもパブロ・ピカソが「青の時代」などに優れた具象的な作品を造ったあと、抽象芸術の花を咲かせたように、優れた具象芸術の腕があってこそ、抽象芸術が優れたものになるのであろう。

このワニはパプアニューギニアのラバウルで、私が滞在中に、現地の火山観測所の技官が半年間にわたった(海底地震計の)共同観測の餞別として彫ってくれたものだ。鼻の先から、尻尾の先まで(ワニの体長に沿って)60cmを超える大作である。

この木彫りには、ワニをふだんから見なれているものにしか分からないディテールまで、じつに細かく表現されている。リアリズムが凄い。そして、一方で、背中の模様などは、それなりに抽象化されているのが興味深い。

この種の「確かな木彫りの腕」が、パプアニューギニアには綿々と受け継がれている。その「腕」の上に、上の9-5や9-6のような具象的な木彫りが造られているのである。

(長さ43cm。1997年、パプアニューギニア・ラバウルで餞別として造って貰う)

--------------------------------------------------------------------------------


9-8:フィジー諸島のワニ。これも具象芸術だが。

同じワニでも、南太平洋のフィジーで作られている木彫りは、パプアニューギニアのものとは、大分、違う。

この木彫りにも、ワニをふだんから見なれているものにしか分からないディテールがある。背中、腹、尾、脚。それぞれが忠実に表現されている。

しかし、パプアニューギニアのワニのような凄みのあるリアリズムは、ここにはない。殺すか、殺されるかの鋭い部族対立が続いていて殺伐としているパプアニューギニアとはちがって、南海の楽園というのにふさわしかったフィジーでは、木彫りのワニも、人間にとっての、よき「隣人」なのであろう。

しかし、最近のフィジーは、いろいろな問題が噴出している。世界のどこにも、楽園はなくなってしまったのであろう。

なお、このワニも、上のパプアニューギニアのワニも、腹側には雌の生殖器が彫られていることが共通しているのは興味深い。

(長さ37cm。体長は39cm。1973年、フィジー諸島スバで買う)



10-1:フィジー諸島の「王の面」(観光みやげ用の複製)

これは、南太平洋のフィジー諸島の面。貝から取った白い模様を象嵌細工のようにはめ込んであるのは、海の民らしい細工である。

上のアフリカの面とは、唇も、目の「表情」も違う。なお、この面は王冠をかぶっている。強い意志を感じさせる唇を持ち、それなりに気高い顔をしているというべきだろう。

(高さ33cm。1973年、フィジー島スバで買う)



11-1:カリブ海ハイチの「あまりにも貧相な面」


アフリカの面も、そして多くの地域の面も、喜怒哀楽の感情を表したり、あるいは威厳を示したりするためのものに違いない。いわば、魂がこもっているのである。

しかし、この面は、それらの面と違って、なんと貧相な顔つきをしているのだろう。鼻筋が通っていないのは、もしかして民族性かもしれないが、目や口の表情は、なんともなさけない。眼に力がなく、頬に表情がない。

木製でニス(樹脂)を塗った面だ。

どんな気持ちで作られて、どんな用途に使われた面か、私にはわからない。祭事にも、強い個性を発揮してくれては困る「その他大勢」が必要で、そのための面であろうか。

(高さ18cm。ハイチの首都ポルトープランスで買う)

--------------------------------------------------------------------------------


12-1:サラワク(マレーシア・ボルネオ島)の「仁王様の面」とケランタン(マレーシア)の「身内が見た東洋人の面」

同じ木製の仮面でも、東南アジアに来ると、どこか日本の面に似てくる。左は日本の寺の入り口にある仁王様の顔に似ているし、右下は能面や、あるいはひょっとこの面に似ている。

このふたつの面はマレーシア・クアラルンプールの国際空港のロビーに民俗文化の紹介として展示してあったものだ。

左はボルネオ島(マレーシア。サラワク州)で儀式に使われていた面だ。Kayan mask といわれる。高さ38cm、幅26cm。つまり、顔を十分覆うほど大きい。

しかし、上のアフリカの面と比べると、なんと人間的な表情に乏しいのだろう。泣く子も黙る恐ろしさだけを訴えている日本の仁王像の顔と、無表情という意味では、そっくりである。

この12-1のふたつの面だけは、この頁のほかの木彫と違って、私の持ち物ではない。感情に乏しく、魂がこもっているようには見えないので、この種のものは、買う気がしなかったのである。


右はマレーシア。ケランタン州で演劇と音楽と踊りがミックスされた演芸のコメディアンに使われていた面だ

喜劇ゆえ、顔を全部覆ってしまうのではなく、口の表情を見せたり、聴衆に明瞭な発音を聞かせることが必要だったのだろう。ナマの口を見せるというのは、この頁に出している、どの面とも違った特異なものだ。

アフリカやパプアニューギニアの面と比べると、顔の造作や表情が、なんとも日本的、というよりも東南アジア的、なのが興味深い。上の3-1が「東洋人以外が見た典型的東洋人」なのに対して、こちらは「身内が見た東洋人」なのである。

なお、タイと国境を接するマレーシア北部のケランタン州の州都コタバルは第二次大戦中の南方侵略を始めた日本軍が1941年に最初に上陸したところだ。

最近、コタバルには日本軍が残した「傷跡」を展示する「第2次世界大戦博物館」が作られ、同国の生徒や一般人に歴史を語り継いでいる。日本人は忘れても、現地の人々は忘れていない。

(ともに2009年5月、マレーシア・クアラルンプールの国際空港ロビーで。なお、右写真の赤いものは仮面を置いてある台である。)



13-1:北極海の「牙彫り」


どちらが先か分からないが、木彫りのほかに、動物の牙や骨を彫る「芸術」もある。

たまたま手許にある材料を使ったことは同じで、ただ、入手できる材料の大きさや堅さから、自ずから「芸術」が違ってくる。

動物の牙や骨を彫るものには、象牙が有名だが、セイウチやトナカイなど北極海の動物の牙や角を彫った「作品」が各地で残されている。

これは、セイウチの牙を彫ったもので、材質が硬いから、木彫りのように大きな凹凸を造る代わりに、全体の形を生かして、こみ入った絵を彫り込んだものだ。

全体は鳥の頭を擬している。牙の形を生かして、嘴と鋭い目と頭部と羽根が、じつにみごとに表現されている。

それと同時に、北極海で行われている原始的なクジラ漁のありさまが、左右両側に描かれている。

貴重な蛋白源であり、油や骨やヒゲまで残すところなく使えたクジラは、北極圏に住む人たちにとって、大事な獲物だった。

もちろん、大きなクジラを、冷たくて荒れる北極海で、描かれているような小さな舟と原始的なモリで仕留めるのは、命がけの冒険でもあったに違いない。


この牙には「1850年、北極海で取れた」と英語で書いてある。

私はこの牙をオランダ・アムステルダムの有名な蚤の市 waterloo plein の古美術商から買った。もともと誰が造って、どうしてアムステルダムまで流れてきたものかは、残念ながら、売り主は知らなかった。

それゆえ、サーメやエスキモー(エスキモーと呼ばれるのを嫌がるカナダのイヌイットも、エスキモーと呼ばれてかまわないグリーンランドのエスキモーもいる)の製作になるものかどうかは分からない。もし、お分かりの方がおられたら、お教えいただければ幸いである。

しかし、いずれにせよ、欧州の蚤の市には、なんでもある。私の知り合いのノルウェー在住の地質学者はロンドンの蚤の市で、マンモスの歯を二束三文で買った。ロンドンの売り主には、マンモスの歯は、たんに、形の悪い石にしか見えなかったに違いない。

アムステルダムのこの売り主は、額縁に入っていない藤田嗣治の猫の絵を売っていたことがある。売り主が差し出してくれたルーペで見ると、猫の毛の一本一本が極細の筆で描いてあった。生涯、(芸術家ではなく)Artisan(職人)にすぎない、として批判を受け続けた藤田嗣治ならではの筆使いに感心したことがある。
http://shima3.fc2web.com/african-masks.htm

アフリカの仮面の「眼」

表現の制約のなかで「眼」を表現する難しさ

 以前、この『青淵』で、私が趣味で収集しているアフリカの仮面について書いたことがある、2005年5月のことだ。

 そこでは、アフリカ西部の内陸国マリのマルカ族の仮面と、象牙海岸の仮面を紹介した。今回は、その他の面を含めて、アフリカの仮面の特徴的な眼の表情のいろいろを紹介しよう。

 眼は、人間の表情の中でも、もっとも雄弁に感情を物語るものだ。目は口ほどにものを言い、という言い方もあり、眼だけは笑っていない、という言い方もあるように、眼の表す感情は多彩で、そして正直である。

 ところで、前に書いたようにアフリカの仮面は観光客用に媚びを売っている観光土産ではない。自分たちの伝統的な祭事に使うために、神と対峙して作る魂がこもっている。

 祭事に使うために、仮面の眼のところには、被った人間が前方が見えるように、穴が開いている。じつは、このことは眼の表情を仮面の表現として表現するためには、重大な制約を課せられていることを意味している。絵画や彫刻のように、一番大事な、眼の中心部を表現できないからである。

 写真一はカメルーンの仮面だ。高さ40センチほどあるもので、鎖のように加工した金属を、ごく硬い木の表面にまるで象嵌細工のように丹念に埋め込んだ、たいへんな手間がかかった面である。

 木は黒灰色で目が詰まっていて、ほとんど金属のような光沢を持っている。

 私には、この面は威厳を示そうとしていて、なお、憂愁を含んでいるように見える。

 他の部族との争いで、いつ命を落とすかもしれない武士の憂愁である。多分、戦いも死も、日常からは決して遠いものではなかったはずだ。以前私が『青淵』で紹介したマリのセヌーフォ族の仮面も、深い哀愁を含んだ戦士の仮面であった。

 しかし、アフリカの仮面には、このような憂愁の表情を表したものだけではない。まったく対照的に、あきらかに道化の役割を担ったに違いないものもある。

 たとえば写真二は彩色した木製の面で、高さ17センチほどのものだ。ザイール(現・コンゴ民主共和国)の仮面だ。眼のまわりと鼻は黒に、あとは朱色に近い茶色に着色されている。

 まるで日本のひょっとこの面のような口をしている。顔中の皺や、鼻翼の単純化された表現が、眼の表情と、この仮面の道化としての役割を際だたせている。

 ところで、珍しいものもある。普通の仮面とは違って、一つの仮面にふたつの顔、そしてふたつの違う眼の表情を盛り込んだものだ。

 写真三はタンガニイカ湖畔に住むベンバ部族の仮面だ。高さは37センチある。ある時期以降のピカソの絵には、一つの顔に、正面の表情と横顔の別の表情を盛り込んだものがあるが、これは左右ではなく、上下に別の顔を重ねている。

 ピカソがアフリカの木彫を集めていたことは前回に書いた。ピカソがアフリカの木彫から、なにかを学んだ可能性は大きい。

 両方の顔とも、口がない。しかも下の顔には鼻さえない。つまり他の部分を意識的に省略して、豊かな眼の表情だけが、この仮面の表現を支えているのである。下の顔の眼の慈しむような表情と、上の顔の眼のおだやかな表情を、みごとに描き分けている。

 カラーでお見せできないのが残念だが、この仮面は木に彩色したもので、淡い灰色、淡い深緑、そして淡い桃色が絶妙の彩りを添えている。

 ある意味では、これはジョアン・ミロが表現したかったものに似ている。以前私が『青淵』で紹介したセヌーフォ族の仮面が、ジャコメッティの表現に似ていたように、私には、アフリカの仮面は、西欧の近代美術が究極のものとして望みながら到達できなかった、高みの魂が作ったものだと思える。

 アフリカの仮面には、日本の能面のように、喜怒哀楽をそれぞれ表したものがある。写真四は怒りの表情であろう。これは象牙海岸のものだ。

 赤い色に彩色されている。高さは49センチもあるが、こんなに長いのは、この顔の上に、鳥の全身像を背負っているのと、アゴの下には、面を手で支えるために、取っ手風の出っ張りが着いているためだ。

 このように鳥を頭の上に背負っている仮面は象牙海岸の仮面に多い。

 鳥は、嘴を下げてまるで仮面の人の頭を突こうとしているようなものもあるが、この仮面の場合には、鳥は顔を真正面に向けて凛としている。

 仮面の表情は硬い。口をへの字に結んだ険しい表情をしている。眼はもちろん、頬のバツ印も、四角い鼻も、怒りを露わにした表情をみごとに表現している。顔の下に取っ手が付いているのは、この仮面を付けて出演するべき祭事の場面に、瞬時に対応するためだろう。

 なお、四角く抽象化された耳と、左右がつながった眉は、象牙海岸の仮面に多い特徴である。

 当たり前のことだが、仮面は表情を変えることができない。以前私が『青淵』で紹介した象牙海岸の貴婦人の仮面のように、日本の能面のように、見る角度によって、微妙に表情を変えるものもある。しかし、それにも、もちろん限界がある。

 この限界ゆえ、一見したところでは、なんの表情か分からない仮面も多い。つまり、いくつかの役を演じきるために、顔や眼が表す感情を意識的に殺してしまった仮面である。場面に応じて、声や音楽を変え、あるいは衣装を替えることで、仮面が表す役回りを変えるのであろう。

 そのひとつは、写真五のセヌーフォ部族の仮面である。この表情は、笑っているのか、泣いているのか、私には読めない。仮面を被る人物が役割を演じない限り、誰にも読めないだろう。

 恐ろしく細い眼が、感情を押し殺している。しかし、単に眼を細くしただけでは、間延びしてしまう顔の表情を、頬の隈取りと、抽象化された涙袋で引き締めているのはみごとである。また、口の表情も独特のものだ。

 この仮面は、頭の上に、顔を正面に向けた女性の裸の全身座像を背負い、また顔の八方には、この写真にも一部見られるような、複雑な、まるで花魁のような飾りが突き出ている。仮面は黒い木で作られており、彩色はしていない。 高さは44センチほどある。

 じつは、私はアフリカの仮面だけではなく、パプアニューギニアの仮面もいくつか持っている。人間の顔を同じように模するものとはいえ、アフリカのものとは天と地ほどに違うのが面白い。

 そのひとつに、写真六のパプアニューギニアの戦士の面がある。高さ41センチほどで、現地に多く生えている、ごく柔らかい白い木に彫って、朱色と黒の、鮮やかな彩色がされている。

 パプアニューギニアの多くの部族は、いまでも実際に、顔にこのような色を塗って祭事を行っている。

 この顔の彩りは、かつては頻繁に行われた部族の存続を賭けた戦いや、女性を取り戻すための闘いに赴いた姿である。相手に恐怖を与える化粧だ。

 いかにも海に近い熱帯のものらしく、眼にはタカラガイがはめ込まれている。この面にはめ込まれた貝の眼は、安らかに眠っている死んだ戦士の眼に見える。

 いずれにせよ、近代西洋文明が入ってくる前のアフリカや大洋州では、祭事は人間と神が対話できる限られた機会だった。人々は魂の叫びを仮面作りに込めたのに違いない。
http://shima3.fc2web.com/sibusawazaidan7c.htm


08. 2012年11月05日 00:43:17 : HNPlrBDYLM
______________
______________


参考

釈迦の悟りとは何であったのか?
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/1058.html
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/1158.html

イエスが殺された本当の理由
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/371.html

独占インタビュー 元弟子が語るイエス教団「治療」の実態!!
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/605.html

西洋の達人が悟れない理由_ロシアのキリスト教
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/385.html

イエスのヒーリングは本物のシャーマンには敵わない
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/609.html

リヒアルト・ヴィルヘルムと易
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/606.html

東洋ではどんな分野の達人でも超能力者
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/607.html

狂った宗教 イスラム教
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/322.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/324.html

ディープ世界への入り口 _ 箱根湯本 平賀敬美術館
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/297.html

靖国神道は神道とは別物のインチキカルト
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/402.html

存在の耐えられない軽さ _ 参考資料 _ 舊約聖書 傳道之書
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/550.html

参考資料1 _ トマス福音書
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/372.html

参考資料2 _ ユダの福音書
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/373.html

参考資料3 _ 聖イッサ伝  
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/374.html

参考資料4 _ マリアによる福音書
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/375.html

参考資料5 _ マルコによる福音書(文語訳)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/376.html

_________

参考ブログ

アヴァンギャルド精神世界
http://blog.goo.ne.jp/naitoukonan

佐倉哲エッセイ集
http://www.j-world.com/usr/sakura/index.html


09. 中川隆 2012年11月05日 01:01:01 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

イルミナティの悪魔的な所業の謎をとく
へのコメント『パラノイアの世界』
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/247.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/333.html

釈迦は何故日本に再誕したか_ 大川隆法の心の病を分析
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/341.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/342.html

真光教の深層への旅
http://www.amezor.to/shiso/070630234021.html


10. 中川隆 2013年5月03日 09:53:25 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6


「恥の文化」の力



このところ特に強く感じるんですが、最近の日本人って、ホントに自信を失ってますよね。といっても、周りの大学生などと話していると、若い世代はそれほどでもないように思うのですが、50代後半〜60代ぐらいの人たちは、なんか日本は経済も文化も根本的にダメダメみたいな感情をもっているように思います。

だから、「バスに乗り遅れるな」とか「世界の孤児になってもいいのか」「これからは英語、英語、留学、留学、トーフル、トーフル」「アジアに打って出るしかない」みたいな強迫的ともいえるグローバル化衝動が生じるのかなあなどと日々感じております。

こういう日本人の自信のなさの背景には、一つは、日本の道徳に対する不信感があるようです。

たとえば、「日本人は同調主義的だ」「自律性や主体性がない」「権威に弱い」「周りの他者や世間の目ばかり気にする」ということがよく言われます。

なんでこんなイメージが広まったかといえば、一つの理由として、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトが書いて終戦後、日本でベストセラーになった『菊と刀』の議論があると思います。

この本の中で、ベネディクトは、日本は「恥の文化」だといって、日本の一般的な道徳観をかなり悪く言っています。

ベネディクトの説明によると、「恥の文化」とは、「ものの良し悪しを判断する際に、他者の目や世間の評判のみを基準とする外面的な道徳が支配的な文化だ」というんですね。

要するに、周りに他者や権威者の目がなければ、日本人は悪いことしますよ〜というわけです。

逆に、ベネディクトは自分とこのアメリカの道徳は「罪の文化」であり、自律的だといっています。たとえば、「罪の文化」は、「道徳の絶対標準を説き、良心の啓発を頼みとする」と書いています。

つまり、アメリカ人は、「良心を重視するので、誰もみていなくても悪いことしませんよ、自律的ですよ」というんですね。

こういう「恥の文化=他律的、外面的」、「罪の文化=自律的、内面的」という図式を『菊と刀』で展開して、日本の道徳を否定的にみるわけです。

『菊と刀』は、終戦直後の日本でよく読まれました。戦争でみんな自信を失っていたんでしょうね。日本人は真面目だから、戦争で負けたのは、自分たちに何か欠陥があったからに違いない。アメリカ人の言うことをよく聞いて反省しなければならない、と考えたのだと思います。

それで、「日本文化 = 恥の文化 = 良心が弱く、権威にも弱く、他律的で同調主義的だ」というイメージを受け入れてしまったんだと推測します。

でも、このイメージ、正しくないですよね。
たとえば、日本は、米国に比べれば、はるかに治安が良く、犯罪も少ないと思います。
電車に財布を置き忘れても無事に届けられる確率は、日本は世界で最も高い部類に入るでしょう。
人に見られてなければ悪事を犯すなんてことは、大部分の日本人には思いもよらぬことです。
権威に弱いというのも、間違いだと思います。日本ほど、政治家の悪口をいう国民はそうそういないように思います。私も例にもれませんが(^_^)

つまり、ベネディクトは、日本の道徳をひどく矮小化し、間違って理解していたと思います。現代の日本人も、残念ながらベネディクトの理解に影響されてしまっているところ多々があるようです。

ベネディクトの「恥の文化」の理解のおかしさについて、いくつも指摘したいことがあるのですが、今回は、上の新聞記事でも書いた一点だけ触れたいと思います。

「恥の文化」で敏感に感じとるべき他者の視点として、同時代の他者や世間だけではなく、死者の視点、つまり過去の世代の人々の視点もあるということをベネディクトは見逃していたということです。

現代の日本人も忘れがちかもしれませんが、日本の伝統では、死者の視点を常に身近に感じ、死者に思いを馳せることに、とても価値が置かれていました。
(なんか五月の連休ではなく、お彼岸に書いたほうがいいような内容ですね…。スミマセン…)
f(^^;) フタタビポリポリ

私はすごく好きな文章でよくとりあげるのですが、民俗学の祖・柳田国男は、この点についてとても美しく書いています。

「私がこの本のなかで力を入れて説きたいと思う一つの点は、日本人の死後の観念、すなわち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰が、おそらくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられているということである」(『先祖の話』)

「日本を囲繞したさまざまな民族でも、死ねば途方もなく遠い遠い処へ、旅立ってしまうという思想が、精粗幾通りもの形をもって、おおよそは行きわたっている。

ひとりこういうなかにおいてこの島々にのみ、死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを顧念しているものと考えだしたことは、いつの世の文化の所産であるかは知らず、限りもなくなつかしいことである。

それが誤りたる思想であるかどうか、信じてよいかどうかはこれからの人が決めてよい。我々の証明したいのは過去の事実、許多の歳月にわたって我々の祖先がしかく信じ、さらにまた次々に来る者に同じ信仰をもたせようとしていたということである」(「魂の行くえ」)。

つまり、柳田国男によると、日本の多くの人々は、人が死んだら故郷の山のあたりに魂は昇って行って、そこから子孫の生活をずっと見守っているというのですね。そしてお盆になると降りてきて、子孫や近所の人たちと一緒に過ごして、お盆が終わるとまた戻っていく。そういうふうに考えられてきたというわけです。

私は、この考え、すごく好きです。私も死んだら、近くの山の頂上あたりにふわふわと漂って、後の世代の人々の生活をぼーっと見ていたいなあ、なんて思います。
柳田国男が「…限りもなくなつかしいことである」といった気持ちがわかるような気がします。
(^-^ )

少し話がズレました…。
(-_-;)

柳田国男がここで述べているのは、日本人の道徳は、死者、つまり過去の世代の人々に思いを寄せ、彼らの意を汲むことを重んじてきたことだと解釈できます。

つまり「恥の文化」は、同時代の他者や世間のみではなく、今は声をあげることのない過去のさまざまな人々の思いを感受し汲みとってはじめて完成するということです。

同時代の他者の観点やその総体としての世間の観点だけでなく、過去に生きたさまざまな人々の視点やその集合体としての祖霊に思いを馳せる。
それを通じて、いわば横軸(同時代)だけでなく、縦軸(伝統)の視点を身につけ、時間のつながりのなかで自分の位置を反省し、遠い将来まで見据えたうえで自分がいま何をなすべきかを立体的かつ複眼的に考えられるようになる。

本来の「恥の文化」とは、とても奥深く、そこまで求めたものだと思います。

そこをベネディクトは見抜けなかったし、現代のわれわれ日本人も、忘れがちのような気がします。

現代では、死者とのつながりが忘れられ、縦軸が疎かになっているので、(私もえらそうなことはまったく言えませんが)ふらふらと周囲の目ばかり気になり、自分を見失い、何をなすべきか定まらない人が増えているように思います。

靖国の問題だけではないですが、現代の日本人にとって困ったことの一つは、戦前と戦後で意識の分断が生じやすくされてしまったことですよね。

それが、日本人が本来の力を発揮するのを難しくしているのではないかと思います。

逆に言えば、日本にもう少しおとなしくしていてもらいたい国々は、何かにつけてそこに付け込もうとするんですよね。

戦前と戦後の意識の分断をどう修復すれば一番いいのか私にはわからないところも多いのですが、一つ言えると思うのは、戦前の人々も、現代の我々も、根本ではあまり変わっていないと認識することなんじゃないでしょうか。国民性って、そう簡単に変わるものではありませんので。そしてもっと身近に過去の世代の人たちに思いを馳せることではないかと思います。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/05/03/se-12/


11. 中川隆 2013年9月03日 03:31:31 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

祈りとは「よけいなことを考えさせない」ための行為である 2013-09-02


現代人は、もう宗教というのは勝手に考えた妄想だと知っているし、神を信じていない人も多い。

それでも、この時代にも宗教を必要とする人たちがいるのは、いったいなぜなのだろうか。それは、それを信じていることにしたほうが「共同体の維持」に好都合だからだ。

別に神がいようがいまいが、もうどうでもいい。全員が同じ妄想を信じることにしたら、それで対立が減るし、共同体が維持できる。

「みんな同じ考え方」というのは、余計な対立がないということなのである。つまり、共同体の中では安心して暮らせるということなのだ。

ある人がキリスト教を信じていて、右隣の人はイスラム教を信じていて、左隣の人は仏教を信じているとする。習慣も、文化も、何もかも違う。

違うだけならいいが、互いに「他の宗教は間違っている」と思っていたら、毎日がいがみ合いの生活になり、共同体が成り立たない。

宗教には必ず上下関係(ヒエラルキー)がある

だから、隣近所はみんな同じ宗教・同じ宗派であったほうが安心して暮らせる。いちいち、他人の思想を確認しなくても済むし、相手が理解できるし、自分も理解してもらえる。

人類はそれが欲しかったのだ。

また、権力志向の人間にとっても、それは重要だった。自分が司祭の立場になると、勘違いした信者が司祭を「神」か「神の使者」と間違えて一緒に祈ってくれる。それは、都合が良かったのだ。

宗教には上下関係(ヒエラルキー)がある。ヒエラルキーの上部にいる人間は、わざと一般的ではない、どこか奇妙な服を着て、神々しく振る舞う。それは、「演出」である。

演出して、無理やり自分を祈らせ、あがめさせようとする。

そうなると、宗教に名を借りた支配が可能になるので、人を疑うことを知らない人間を服従させることができるようになる。

宗教のコミュニティーの中では「疑うことを知らない純真さ」が尊ばれる。なぜ、それを徹底して教えるのか。

いちいち、他人のことを疑う人間がいたら、ピラミッドの上部にいる人が居心地が悪くて眠れないからである。

「神などいない」と考えるような人間が出てくると、上層部はとたんに「ただの人」にまで落とされる。

だから、信者がよけいなことを考えないように「祈りなさい」と祈りを強要し、共同体でがんじがらめにしてしまう。祈りとは、実は「よけいなことを考えさせないこと」なのである。

フィリピンでの子供たちの祈り。祈りとは、実は「よけいなことを考えさせないこと」なのである。


疑う人間は、一心不乱に祈らせて考えさせない

胡散臭い宗教であればあるほど、長時間祈らせたり、頻繁に祈らせたりする。疑問を感じると「それは雑念だ」と言って恫喝する。

祈るというのは、自分自身を自分で洗脳することだ。

キリスト教も、イスラム教も、そうやって長い間、子供の頃から祈りを通じて、自己洗脳を強制し、洗脳し、共同体に組み込んできた。

疑う人間は、一心不乱に祈らせて考えないように仕向けた。

大人になって、「実は神はいないのではないか?」「仏はいないのではないか?」「この宗教は間違っているのではないか?」と思ったときはもう遅い。

そう思った瞬間に、共同体から弾き飛ばされる。そして、今まで信じていたものが崩れると、人格崩壊の可能性もある。

だから、大人になってからの、「この宗教は、何か違う」という違和感や「宗教は妄想だ」という覚醒は危険なのだ。

みんなが妄想に浸っているときに自分だけ覚醒してしまうというのは、突如として自分が異分子になるということだ。信じている仲間を裏切り、文化を裏切ることにつながる。

信じ込んでいる人であればあるほど、「正気に返れない」ようになっている。正気に戻ったら、共同体から出て行かなければならないからだ。

そこで、洗脳が解けそうになると、共同体にいたいがために、人は必死で「祈る」ことになる。つまり、自己洗脳を強化するということだ。

もっとも、湧き上がる疑念は抑えられないこともある。

アメリカでもイタリアでも、あるいはアフガンやイランでも、本当はキリストやイスラムに懐疑的な人が山ほどいるのだが、あえてそれを言わない。何食わぬ顔をして、信じているふりをしている。

しかし、覚醒しているので、本当は心の中で馬鹿馬鹿しくてつきあってられないと考えている。

アフガニスタンで、イスラム教に疑問を持ったら、果たして生きていけるかどうか分からない。


不可知論者という、一種の「気配り」が考え出された

欧米では、無神論者だと思われたら共同体から爪弾きにされ、差別や報復の対象になってしまう。

だから、神を信じていなくても「自分は無神論者だ」と主張する人は少ない。

しかし、今どき「男から女を作った」「処女懐妊でキリストが生まれた」「キリストは死んでから3日後に復活した」と言われて純粋に信じる人も少なくなった。

そこで、「不可知論者」という概念が生まれている。

日本語も難しいが、英語も「アグノスチック」という難しい言い回しが使われている。不可知論というのは「神はいるともいないとも言えない」という立場である。

「神などいるわけない」と口に出して言えば危ない。自分は白い目で見られるし、相手も傷つく。親や友人が宗教を信じていて、それを嘲笑したくないときもある。

そういうときは、「神がいるかいないか私の中では未知なので、不可知論者なんですよ」とやんわりと無神論であることを主張できる。

欧米人が考え出した一種の「気配り」が、不可知論というものであると捉えれば分かりやすい。

欧米人は自分の考えや思いを主張して、ディベートする民族ではある。

それでも宗教批判はコミュニティを破壊し、相手の全人格を破壊するので、非常に「微妙」な扱いにされている。欧米人にして、「気配り」が必要なほど微妙な問題なのである。


こんな時代になっても、いまだに宗教は続いて行く

昔は、交通機関が発達していなかった。人類が「村」や「町」という共同体の中で、小さく暮らしていた。

そんな時代、宗教は共同体の維持に役に立った。

しかし、やがて人類が「国」単位で暮らすようになると、宗教は多種多様な考え方をする人を取り込めなくなってしまった。

そして、人類が「国際」「世界」単位で暮らす現代になると、今度は宗教そのものが、対立や紛争を引き起こす災厄の種になってしまっている。

宗教というのは、まだ人類が小さな共同体、つまり「村」や「町」で暮らしていた頃の伝統である。

これだけ世界がつながってしまうと、もう宗教という「共同体維持のための仕組み」は、かえって人類の足を引っ張る厄介者に過ぎなくなった。

宗教対立・宗教戦争・宗教弾圧をなくすにはどうしたらいいのか。本来であれば、「もう宗教は役に立たないので、みんなで一緒にやめましょう」と、やめてしまえばいい。

しかし、現実的にはそれは不可能である。

宗教という枠組みの中で、ヒエラルキーの上部にいる人間は、絶対にそれをさせない。共同体が崩れ去ると、自分がただの人に転がり堕ちるからだ。

また、宗教は、その人の思想、文化、両親の存在、共同体の存続すべてに関わっている。宗教を否定するというのは、その人の全人生と歴史を否定するということになる。

だから、こんな時代になっても、いまだに宗教は続いて行く。そして、裏切り者は殺され、異宗教との戦いも続く。

そして、疑い深い人がいたら、とにかく祈らせる。祈らせて、考えさせないようにする。一日に何度も、あるいは長時間に渡って祈らせる宗教は、そういうことなのだ。

祈りは、とても危険な行為なのである。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130903T0014520900.html?a=l0ll


12. 中川隆 2013年9月04日 05:45:24 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

2013-09-03

呪術と迷信で、手足を切り刻まれるタンザニアのアルビノたち


2013年2月16日、アフリカ・タンザニアでひとりの少年が学校帰りの途中、ナタを持った3人の男に襲われて腕を切り落とされ、その腕を持ち去られた事件があった。

その7歳の少年は普通のアフリカの少年とはまったく違う外観をしていた。白い肌、白い髪。先天性白皮症(アルビノ)だったのである。

アルビノとは先天的に皮膚や髪のメラニン色素がないか、もしくは極小の病気を指す。したがって、黒人やアジア人でアルビノとして生まれると、その特異な症状に多くの人が驚く。

通常、アルビノになるのは2万人から3万人にひとりの割合なのだが、どうもタンザニアには非常にアルビノの生まれる率が多く、統計によると1400人にひとりという確率になっていると言われている。

このアルビノの人々が、タンザニアではしばしば襲われて、手足を切り刻まれたり、女性の場合は殺されて性器を根こそぎ削がれたりしている。

なぜ、そんなことになっているのか。

「生け贄」となるのがアルビノの人たちの「身体」

なぜなら、彼らの身体には「黒魔術(ブラック・マジック)に威力がある」と思われているからだ。

ご存知の通り、黒魔術はしばしば儀式に生け贄を使う。その生け贄は通常は動物の骨であったり、頭部だったりする。

そして、狂信的なものになっていくと、それが猿の頭部になり、人間の赤ん坊になり、人間の女性になっていく。

黒魔術で人間を犠牲にしていた例については、過去のブラックアジアでも何度か取り上げた。タイでもそのような例があった。

(黒魔術用の金箔塗りの胎児と、パイガーン寺の2000体の胎児)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120522T1840000900.html

パプアでは、魔女と断定された女性が焼き殺されるという悲惨な事件もあった。

(20歳の女性が「魔女」だと断定され、生きたまま焼き殺される)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130209T2040570900.html

ブラジルでも黒魔術が普通に信じられていて、少女が生け贄として焼き殺された事件があった。

(ブラック・マジック。深い闇の中で存在している呪いの信仰)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130218T2014290900.html


そして、悪魔儀式で赤ん坊が殺される事件もあって、現場の写真も流出していた事件もあった。


(悪魔崇拝の儀式で子供を殺す。いまだに信じられている悪魔)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130611T0547290900.html

悪魔と言えば、現代人は「そんなものはいない」と笑い飛ばす存在だが、未開地ではまだ悪魔が実存すると信じられている。そして、呪術や黒魔術の儀式で「生け贄」を必要として、それが悲惨な事件を引き起こすのである。

タンザニアでもそうだった。そして、ここでは「生け贄」となるのがアルビノの人たちの「身体」だったのである。

タンザニアでは、アルビノの人々がしばしば襲われて手足を切断されたり、殺されたりしている。


アルビノの女性と性行為をしたらエイズが治る?

タンザニアでは、国民の60%が今でも悪霊を信じている国であり、悪霊がいるからには「祟り」も「呪い」も信じられている。そして、その悪霊を撃退するために特別な力を持つ呪術師に頼る。

その呪術師は、魔女と称する女性だったり、アニミズムの教祖だったりするのだが、そういった特殊な人たちが儀式でアルビノの身体を「使う」のである。

たまたまタンザニアは、世界でも最大のアルビノの人たちが生まれる国だった。それがゆえに、アルビノの特異な容姿を多くの人が印象深く思ったのだろう。

そして、いつしかそれが神秘性に結びつき、アルビノの部位には特別な力が存在するという迷信になっていったようだ。

そして、どうなったのか。アルビノの人々が、少年少女から大人まで、次から次へと襲われ、手足を切断される目に遭うようになってしまったのである。

2006年以降、71人が命を奪われた。手足を切断されたアルビノも30人近くもいる。

さらに、アルビノの墓まで掘り起こされて、死体を解体されて持って行かれている。

最近は儀式に使うだけではなく、アルビノの人間の骨を持っていれば「幸運」がやって来るという迷信まで付いた。

さらにひどいのは、アルビノの女性と性行為をしたらエイズが治るという迷信まで流布されて、エイズの男たちがアルビノの女性を襲っていることである。

タンザニアという国が、アルビノにとって、猛烈に危険な国になっていることは、こういった事例だけで分かるはずだ。

アルビノがカネになると分かるや否や、自分のアルビノの息子を売り飛ばす父親さえもいたという。

アルビノにとって、猛烈に危険な国、タンザニア。すべてはアルビノに対する迷信から始まっている。


タンザニアでは教育の重要性が、理解されていない

こういった「アルビノ狩り」を懸念してタンザニア政府は啓蒙キャンペーンに取り組んでいる。

しかし、2013年にも少年が腕を切り落とされたのを見ても分かる通り、効果があるようには見えない。

人々は政府の言うことは信じないが、魔術師の言うことは信じるからである。

アルビノの特異な容貌が、何らかの神秘性を持っているというのは、「そんなことはない」と主張する政府よりも説得力があるようにも見える。

だから、人々の心の中から迷信はまったく消えず、手をこまねいているうちに、アルビノの人たちはタンザニアで普通に暮らすことすらも困難になりつつある。

唯一の解決法は、人々に「悪魔はいない」「彼らも普通の人間だ」と、強力に教育することしかない。

しかし、タンザニアでは教育の重要性が、ほとんど理解されていない。

小学校に通っている子供たちも全体の59%近くしかおらず、貧困のために途中でやめてしまう子供も多いという。

教育で啓蒙し、教育が行き届けばアルビノに対する差別はなくなるのだが、その教育が浸透していないのである。

赤ん坊を抱けばエイズが治るとか、アルビノ女性と性行為をしたらエイズが治るというのは、教育を受けた私たちはすぐに「そんなものは馬鹿げた迷信だ」と分かる。

しかし、教育が行き届いていなければ、何を信じて何を信じてはいけないのか、判断できないことが多い。

そこで、自分が絶大な信頼を置いている呪術師のような人たちが間違ったことを教えると、一気にそれが拡散してしまうことになる。

タンザニアのアルビノが安全な暮らしができるのは、まだまだ先の話になる可能性が高い。

黒い肌の黒人の中で、アルビノの肌の白さは非常に目立つ。それが、アルビノに対する神秘性につながり、やがてそれが悲劇になっていく。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130903T0401330900.html?a=l0ll


13. 2014年8月21日 19:01:27 : uEWohmF1e2
ひとりごと

2014年8月21日木曜日
http://hitorigoto-kokoro.blogspot.jp/2014_08_01_archive.html


盗聴事件と男体山

男体山のことを二荒山と言う
修験道の霊山として有名な山である
知ったのが1997年だ


( - ゛-) ぱふ


日光東照宮に奄美大島の巫女さん
予言をすると言われる方を案内した


この方が僕が山登りをすると聞き
二荒山に登らせて欲しいと頼まれた
この時にこの山の話を聞いた


呼びかたもね


修験道だからわざと厳しい道にしてる
ほとんど一直線に登っていきます
結構きつい道である


それで僕にサポートを頼んだのだ
少しお年を召してたからね


僕に取っての日光やは林間学校
東京都内の小学校が利用する場所
二荒山も男体山として覚えてる


行く前に学習するからね


この巫女さん
日光東照宮を案内した後
お断りしたのですがお金をくれた


このお金を元にお金を足し
団体を設立して運営を開始した
盗聴事件が起きた場所のはじまり
巫女さんから頂いたお金だったのです


盗聴事件と関係するという意味だ


いつだろう?
ニュースを見てると気がついた
奄美大島の伝統文化に携わる人
予言とか占いをする女性が殺された
そんなニュースを見たのです


たぶん僕がブログを再開した後だ
2008年以降のことだろう


僕が案内した方だとすぐわかった
一瞬口封じで殺されたのかと思った


「・・・」


盗聴事件自体はそんなに知らん
知らんから殺される理由はない
たぶん違うだろう


殺した犯人も逮捕されてる
精神病を持つ人のようである


ネットで探したのだがない
ニュース記事が見当たりません


奄美大島で知られた方のようだ
現地の人なら知る人はいるはずだ
一度調べてミタイネ


しかしすごい確立ですよね
盗聴事件に関係する人たちの死亡
次々死んでいます


「・・・」


盗聴事件の始まる直前
九条の会に嫌がらせをされてる頃
奄美の人に演奏会を開いて貰ってる


「縁」と言うタイトルをつけてね


この頃に九条の会ともめてた
よど号事件の支援者らとももめた


この時はまだ盗聴事件
始まる前で嫌がらせが高まる頃だ
縁と言うコンサートがポイントになるな
盗聴事件の期間が特定できそうだ


「むふ」


後で調べてミヨウ


盗聴事件って奄美大島の人も絡んでる
奄美大島出身のタレントたち
何人も来ていた


この話は別に書く


いろいろ思い出してキタゾ


ミ((((( ̄○ ̄) すうぃ〜

************************

奄美大島のユタ神様

2012年02月27日
http://dmjtwmda.mie1.net/e379793.html

霊能力者〜ユタ神様の真実1


************************


霊能者殺害の検索結果
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%9C%8A%E8%83%BD%E8%80%85%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E3%80%8C%E3%83%A6%E3%82%BF%E7%A5%9E%E3%81%AB%E6%81%A8%E3%81%BF%E3%81%8C&ei=UTF-8&pstart=1&fr=fjpciec1&b=1


14. 中川隆[3983] koaQ7Jey 2016年9月12日 00:05:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4375]

アフリカ・レソトの聖なる洞窟、数千年の歴史持つ霊界への入口
2016.09.11 Sun posted at 18:10 JST
http://www.cnn.co.jp/travel/35085458.html?tag=top;mainStory


アフリカ南部の洞窟網周辺を上空から眺める
http://www.cnn.co.jp/photo/l/706777.html

洞窟に集い、死者に祈りを捧げる
http://www.cnn.co.jp/video/15338.html

写真特集:岩に閉ざされた知られざる聖地
http://www.cnn.co.jp/photo/35085450.html


(CNN) アフリカ南部の国レソトに住むバソト人は、毎年、ある洞窟網に巡礼する。この洞窟網は数千年もの間、何世代にも渡って人々と彼らの祖先とを結び付けてきた。今も恐竜の足跡や数千年前に描かれた岩窟壁画が残るこの洞窟には、驚くべき歴史がある。

巡礼者たちは、ろうそくを高く掲げながら列をなして洞窟に入り、中で宴を催し、祈りを捧げ、死者と心を通わせる。

「これはアフリカ南部の宗教にとって重要な要素」と語るのは、南アフリカのウィットウォータース大学社会人類学名誉教授、デビッド・コプラン氏だ。

「神は非常に高い位置にいるので、そこから見下ろしてもあなたのことは見えないかもしれない。しかし、あなたの祖先ならあなたが誰か知っており、あなたに興味を持ち、恩恵をもたらしてくれる」(コプラン氏)

洞窟の前で火を起こし、儀式を執り行う
http://www.cnn.co.jp/photo/l/706628.html

コプラン教授は、これらの巡礼は比較的最近始まったもので、人気を集め出したのは20世紀初頭と考えている。教授自身もこの洞窟を何度も訪れており、またヒーラー(心霊治療家)としても活動している。

コプラン教授は「ここには宗教的権威はない」とし、「誰でも自由に来て、祈ることができる」と付け加えた。

この洞窟で行われる儀式は、キリスト教とその土地固有の宗教を融合したものだ。キリスト教の聖職者がズールー族のヒーラーたちと並んで立ち、信者たちに向けた儀式を執り行う姿も見られる。洞窟に週末だけ滞在する者もいれば、長期間滞在する者もいるが、彼らは全員、自分たちを超越した歴史と重要性を持つ場所にいることを認識している。

先住民族であるサン族は何千年にもわたり、その洞窟網で暮らしてきた。その証拠に、洞窟の壁には至る所にサン族の岩窟壁画が残っている。それらの壁画には、今やレソトではほとんど見られなくなった狩猟採集民の生活の様子が描かれている。

石や粘土を使って洞窟内に住居を作り生活する人々もいる
http://www.cnn.co.jp/photo/l/706627.html


サン族の岩窟壁画の世界的専門家ピーター・ジョリー氏は、この壁画は霊的要素を含んでいると指摘する。

ジョリー氏は「壁画に描かれているのは、極めて非現実的な人物、動物、奇妙な生物など、トランス状態の体験に関するものが大半」とし、さらに「サン族の壁画は、霊界を描写することに主眼が置かれており、トランス状態を経験したことがない人やシャーマンと同じ経験をしたことがない人が霊界をのぞくための『窓』の役割を果たしている」と指摘する。

またジョリー氏は、「トランス状態は主にダンスやリズム、女性たちの拍手を通じて達成される。彼らはトランス状態になると、自分がまるで力のある動物になったかのように感じた」とし、さらに「トランス状態になり、霊界に入り込むと、そこでその地域に不和、病気、死をもたらす悪霊と戦うことになるが、その動物の力で守られる」と付け加えた。

しかし今、一部の岩肌は危機に瀕しており、そこに描かれた壁画が自然の力や、今も一部のオーバーハング(張り出し部分)周辺で飼育されている畜牛により損なわれている。しかし世俗と霊界の架け橋となり、生きている者と死者とをつなぐ、これらの洞窟の力は今後も失われることはない。


15. 中川隆[-15954] koaQ7Jey 2021年10月18日 17:55:50 : qkJ0267vVE : Y2lNRWlkTWpEVlE=[15] 報告
人類における始原のカミは、抽象化された不可視のアニマ(生命、魂)としてではなく、個別具体的な事象に即して把握されていました。霊魂などの抽象的概念の登場以前に、眼前の現象がそのままカミとみなされていた段階があった、というわけです。

具体的には、人に畏怖の念を抱かせる、雷や竜巻などの自然現象です。より日常的な現象としては、毎日起きる昼夜の交代です。人がカミを見出したもう一つの対象は、人にない力を有する動物たちで、具体的には熊や猛禽類や蛇などです。また、生命力を感じさせる植物、巨木や奇岩なども聖なる存在として把握されました。

カミは最初、これら個々の現象や動植物などと不可分の存在でした。何かが個々の現象や動植物などに憑依することで、初めてカミになったわけではありませんでした。

2021年10月16日
佐藤弘夫『日本人と神』
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_16.html

https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%A8%E7%A5%9E-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E5%BC%98%E5%A4%AB/dp/4065234042

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2021年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。著者の以前の一般向け著書『「神国」日本 記紀から中世、そしてナショナリズムへ』にたいへん感銘を受けたので(関連記事)、本書はまず、日本列島におけるあらゆる宗教現象を神と仏の二要素に還元する「神仏習合」で読み解くことはできず、それは近代的思考の偏りである、と指摘します。本書はこの視点に基づいて、日本列島における信仰の変容を検証していきます。


●先史時代

 日本列島における信仰について本書はまず、現代日本社会において一般的な認識と思われる、山のように自然そのものを崇拝することが日本列島における信仰の最古層になっている、というような太古からの信仰が今でも「神道」など一部で続いている、といった言説に疑問を呈します。山麓から山を遥拝する形態や、一木一草に神が宿るという発想は室町時代以降に一般化し、神観念としても祭祀の作法としても比較的新しい、というわけです。

 たとえば神祭りの「原初」形態を示すとされる三輪山では、山麓に点在する祭礼の痕跡は紀元後4世紀にさかのぼり、祭祀の形跡の多くは山を仰ぎ見る場所に設定されていることから、三輪山の信仰は当初から山を神聖視し、神の居場所である社殿はありませんでした。しかし、三輪山信仰の原初的形態が山を遥拝する形だったわけではない、と本書は指摘します。本書が重視するのは、恒常的な祭祀の場所が定められていなかった点です。山そのものを崇拝対象とするならば、現在の拝殿のように最適な地を祭祀の場と定めて定期的な祭りを行なえばすむだろう、というわけです。

 そこで本書は、三輪山信仰の原初的形態の手がかりとして、三輪山遺跡と同時代(弥生時代後期〜古墳時代)の日本列島における神信仰を見ていきます。信仰の側面から見た弥生時代の最も顕著な特色は、神が姿を消すことです。縄文時代には信仰の遺物として、人間を超えた存在=カミ(人間を超える存在、聖なるもの)の表象として土偶がありましたが、弥生時代には聖なるものを可視的に表現した広義の神像が欠けています。弥生時代には、カミは直接的にではなく、シンボルもしくはイメージを通じて間接的に描写されるようになります。銅鐸などカミを祀るための道具は多数出土しているものの、カミを象ったと推測される像はほとんどない、というわけです。

 カミが不可視の存在へと転換した弥生時代には、カミと人々とを媒介するシャーマンの役割が重視されるようになり、『三国志』に見える卑弥呼も三輪山遺跡もそうした文脈で解されます。古墳時代以前の社会では、カミは遠くから拝礼する対象ではなく、互いの声が届く範囲にカミを勧請して人々はその託宣を聞き、カミに語りかけました。これが弥生時代から古墳時代の基本的な祭祀形態だった、と本書は指摘します。記紀や風土記など古代の文献からも、山は神の棲む場所であっても神ではなく、人々が山を聖地として礼拝した事例はないので、現在の三輪山信仰は神祭りの最古形態ではなかった、と本書は指摘します。

 では、日本列島における最古のカミのイメージとその儀礼はいかなるものだったのかが問題となります。人類の宗教の最も原基的な形態は、自然の森羅万象の中に精霊の動きを見出すアニミズムだった、との見解は現代日本社会において広く浸透しているようです。一方で20世紀後半以降、カミの存在を感知する心的能力は6万年前頃に現生人類で起きた認知構造の革命的変化に由来する、との仮説も提示されています。これが芸術など複雑で象徴的な行動も含めて現生人類(Homo sapiens)の文化を飛躍的に発展させた(創造の爆発説、神経学仮説)、というわけです(関連記事)。

 本書はこうした認知考古学の成果も参照しつつ、日本の神の原型は不可視の「精霊」ではないと指摘し、「アニミズム」の範疇で把握することに疑問を呈します。本書が推測する人類における始原のカミは、抽象化された不可視のアニマ(生命、魂)としてではなく、個別具体的な事象に即して把握されていました。霊魂などの抽象的概念の登場以前に、眼前の現象がそのままカミとみなされていた段階があった、というわけです。具体的には、人に畏怖の念を抱かせる、雷や竜巻などの自然現象です。より日常的な現象としては、毎日起きる昼夜の交代です。人がカミを見出したもう一つの対象は、人にない力を有する動物たちで、具体的には熊や猛禽類や蛇などです。また、生命力を感じさせる植物、巨木や奇岩なども聖なる存在として把握されました。カミは最初、これら個々の現象や動植物などと不可分の存在でした。何かが個々の現象や動植物などに憑依することで、初めてカミになったわけではありませんでした。

 こうした最初期のカミに対して、人はひたすら畏敬の念を抱くだけで、ある定まった形式で崇拝することはなく、祭祀が開始されるには、無数に存在してイメージが拡散していたカミを、集団が共有できる実態として一旦同定する必要がありました。日本列島でそれが始まったのは縄文時代でした。縄文時代にカミのイメージを象徴的に表現したものとして土偶がありましたが、それを超える高次のカミは想定されていなかった、と本書は推測します。ただ、こうしたイメージが集団に共有され、定期的な祭祀が行なわれるようになるのは、縄文時代中期以降でした。これにより、霊威を引き起こす不可視の存在としてカミを想定する段階へと転換していきます。カミの抽象化が進行していった、というわけです。死者への認識も変容していき、死者を生前と同様の交流可能な空間に留めておく段階から、死者だけの独立した空間が生まれ、膨張していきます。不可視の存在により構成されるもう一つの世界(他界)が人々に共有されるようになります。

 上述のように、弥生時代にはカミそのものが殆ど表現されなくなります。カミの居場所はおおよその見当がつけられても、一ヶ所に定住することはなく、弥生時代から古墳時代のカミ祭りの形態は、カミを祭祀場に勧請し、終了後に帰っていただく、という形式でした。上述の三輪山祭祀遺跡はこの段階のものでした。超常現象は不可視のカミが起こすもの、との観念が共有されるようになった弥生時代以降には、自然災害や疫病など理解の及ばない事態にさいして、カミの意思の確認が喫緊の課題となりました。カミの意図を察知し、カミが求めるものを提供することでその怒りを和らげ、災禍の沈静化を図ったわけです。カミの言葉はシャーマンを介して人々に伝えられ、共同体共通の記憶としてのカミの言葉は次第に整序化された形で特定の語り部により伝承され、物語としての体系化と洗練化が進みます。カミの人格化と個性化の進展により、各集団の守護神もしくは祖先神としてのカミが特定されるようになると、太古のカミの仕業として世界や文化の起源が語られるようになりました。つまり、神話の誕生です。

 古代日本の神は生活に伴う汚染を徹底して嫌い、共同体における神の重要な機能が集団内の清浄性の確保にあったことを示します。こうした観念は定住生活への移行により強化されていきましたが、これにより、排泄物や死骸に単なる物理的な汚染以上の、より抽象的・精神的な位置づけが与えられるようになっていきます。まず神の祟りがあり、汚染感知警告の役割を果たし、穢れが神に及んでいる、と察知されます。この過程で、国家形成とともに、不浄→祟り→秩序回復のシステムを国家が独占し、「穢れ」の内容を詳細に規定することで、神への影響を最小限に食い止めようとします。カミが嫌うものとの規定により、日常生活に伴う汚染と共同体に違背する行為が、カミの保持する秩序に対する反逆=ケガレと位置づけられ、罪と穢れはしばしば等質として把握されます。ケガレの概念は多様化し、対処するための宗教儀礼も複雑化していきます。本来は生存のための道具だったはずのカミが人の言動を規定し、人を支配する時代が到来したわけです。カミが人の思惑を超えて清浄性をどこまでも追求し始めると、カミが嫌う個別具体的な「穢れ」も本来の意味を超えて一人歩きを開始し、人の意識と行動を縛るようになります。日本でその運動が本格的に開始されたのは9世紀で、物忌みや方違えなどの禁忌が急速に発展し、人々の日常生活を規制するようになります。


●古代

 弥生時代から奈良時代までカミは常態として可視的な姿を持ちませんでしたが、そのイメージは次第に変化し、とくに重要なのは人格化の進展です。その主因として考えられるのは、死者がカミとして祀られることの定着です。それには、傑出した人物の出現が必要となります。これは、首長の墓が集団墓地から分離して巨大化し、平地から山上や山腹などより高い土地に築かれるようになったことと関連しています。特定の人物を超人的な存在(カミ)と把握するヒトガミ信仰の画期は3世紀で、その象徴が前方後円墳でした。前方後円墳では祭祀が行なわれましたが、長く継続して実施された痕跡は見当たらない、と考古学では指摘されています。本書は、当時の信仰形態から推測して、カミの棲む山としての後円部を仰ぎ見ることができ、山にいるカミを呼び寄せる場所に祭祀の痕跡があるのではないか、と推測します。じっさい、仙台市の遠見塚古墳では、後円部の周辺で長期にわたる祭祀継続の痕跡が見つかっています。本書は、前方後円墳がカミの棲む場所として造られた人工の山で、そこにカミとなった首長の霊魂を定着させようした試みだった、と推測します。ヒトガミ信仰の次の画期は天武朝で、天皇自身が神(アキツミカミ)と強調されました。この律令国家草創期に、天皇陵と認定された古墳は国家による奉仕の対象となりました。巨大古墳の意義は、大伽藍の出現や律令制による神祇祭祀制度の整備により失われ、天皇の地位は諸仏諸神により守護される特権的存在となりました。カミの棲む清浄な地としての山には、清浄性を求めて修行者が入るようになります。

 カミのイメージ変遷で人格化とともに重要なのは、特定の地への神の定着です。弥生時代から古墳時代には、カミが特定の山にいたとしても、どこなのかは不明でした。そうした住所不定で祭祀の時にだけ来訪するカミから、定住するカミへの転換が進みます。これにより、7世紀末以降、神社の造営が本格化します。社殿の造営により、信仰形態は祭祀のたびに神を勧請することから、人が神のもとに出向いて礼拝することへと変わりました。これは寺院参詣と共通する形式で、神と仏(仏像)との機能面での接近を示します。神は一方的に祭祀を受ける存在となり、公的な儀礼の場から神と人との対話が消えていきます。

 上述のように神をめぐる禁忌が増幅され、神は人が安易に接近してはならないものへと変貌していきます。神と仏(仏像)との機能面での接近は、神像を生み出しました。長く身体性を失っていた神が、再び具象的な姿をとることになったわけです。こうした神の変貌により、人と神との仲介者としてのシャーマンが姿を消します。これは、俗権を掌握する王の地位強化と対応しており、古墳時代中期には支配層の父系化が進みます(関連記事)。カミの言葉の解釈権を王が手中に収めるようになり、8世紀後半の宇佐八幡宮神託事件はその象徴でした。

 カミの人格化と定住化の進展とともに、非合理で不可解だったカミの祟りが、次第に論理的なものへと変わっていきます。この過程で、善神と悪神の機能分化が進みます。祟りは全ての神の属性ではなく、御霊や疫神など特定の神の役割となりました。平安時代半ば以降、祟りの事例減少と比例するかのように、カミの作用として「罰(バチ)」が用いられるようになり、12世紀以降はほぼ「罰」一色となります。中世的な社会システムが整ってくる12世紀は、古代における「祟り」から中世の「罰」へとカミの機能が変化した時期でした。中世には、「賞罰」が組み合わされて頻出するようになります。カミは罰を下すだけの存在ではなく、人々の行為に応じて厳正な賞罰の権限を行使しました。カミは突然予期せぬ祟りを起こす存在から、予め人がなすべき明確な行動基準を示し、それに厳格に対応する存在と把握されるようになります。古代のカミは、目前に存在する生々しさと、人知の及ばない強い験力の保持を特徴とし、その力の源泉が「清浄」性でした。


●古代から中世へ

 人が神・仏といったカミ(超越的存在)や死者と同じ空間を共有するという古代的な世界観(来世は現世の投影で、その延長に他ならない、との認識)は、紀元後10世紀後半(以下、紀元後の場合は省略します)以降次第に変容していきます。人の世界(この世)からカミの世界(あの世)が分離し、膨張していきます。こうして、ヒトの住む現世(此岸)と不可視の超越者がいる理想郷(彼岸)との緊張感のある対峙という、中世的な二元的世界が形成されます。人の認知できないもう一つの空間イメージが、人々の意識において急速に膨張していったわけです。古代では、カミの居場所は遠くてもせいぜい山頂でしたが、中世では、この世とは次元を異にする他界が実在する、との観念が広く社会に流通しました。曖昧だったカミと死者との関係も、救済者・彼救済者として位置づけ直されました。彼岸=浄土はもはや普通の人が気軽に行ける場所ではなくなったわけです。

 12世紀には、救済者のいる彼岸世界(浄土)こそが真実の世界とされ、この世(此岸)は浄土に到達するための仮の世(穢土)との認識が一般化しました。浄土については、浄土教のように浄土の客観的実在性を強調するものから、ありのままの現実世界の背後に真実の世界を見ようとする密教に至るまで、この世とあの世の距離の取り方は宗派によりさまざまでしたが、身分階層を超えて人々を平等に包み込む普遍的世界が実在する、という理念が広く社会で共有されるようになります。この古代から中世への移行期に起きた世界観の大きな転換はかつて、浄土思想の受容と定着の結果と主張されました。しかし本書は、最初にこの世界観を理論化しようとしたのは浄土教の系譜に連なる人々だったものの、それは世界観の変容の原因ではなく結果だった、と指摘します。中世ヨーロッパのように、不可視の他界の膨張は、人類史がある段階で体験する一般的な現象だろう、と本書は指摘します。日本列島では、それに適合的な思想として彼岸の理想世界の実在を説く浄土信仰が受け入れられ、新たな世界観の体系化が促進された、というわけです。

 しかし中世には、全てのカミがその住所を彼岸に移したわけではなく、人と共生する神仏の方がはるかに多かった、と本書は指摘します。中世の仏には、人々を、生死を超えた救済に導く姿形のない普遍的な存在(民族や国籍は意味を持ちません)と、具体的な外観を与えられた仏像の二種類が存在しました。後者は日本の神と同様に日本の人々を特別扱いし、無条件に守護する存在で、「この世のカミ」としての仏です。中世の世界観は、究極の救済者が住む不可視の理想世界と、人が日常生活を送るこの世から構成される二重構造でした。

 この10〜12世紀における世界観の転換は、古代においてカミに宿るとされた特殊な力の源となった、仏像・神像に宿る「聖霊」と呼ばれるような霊魂のごとき存在に対する思弁が展開し、さまざまなイメージが付加されていく延長線上にありました。この大きな転換のもう一つの要因として、疫病や天変地異や騒乱などによる不安定な社会があります。中世は近世と比較してはるかに流動性の高い時代で、人と土地との結びつきは弱く、大半の階層は先祖から子孫へと受け継がれる「家」を形成できず、死者を長期にわたって弔い続ける社会環境は未熟でした。不安定な生活で継続的な供養を期待できないため、人は短期間での完全な救済実現を望みました。

 中世人にとって大きな課題となったのは、当然のことながら浄土を実際に見た人がおらず、その実在を信じることが容易ではなかったことでした。そこで、浄土の仏たちは自分の分身をこの世に派遣し、人々を励ました、と考えられました。それが「垂迹」で、あの世の仏がこの世に具体的な姿で出現することを意味します。不可視の本地仏の顕現こそが、中世の本地垂迹の骨子となる概念でした。垂迹を代表する存在が、菩薩像や明王像・天部の像を含む広義の仏像(この世の仏)でした。11〜14世紀に大量の阿弥陀像が造立され、人々が仏像に向かって浄土往生を願ったのは、阿弥陀像が浄土にいる本地仏(あの世の仏)の化身=垂迹だったからです。

 この世の仏で仏像より重要な役割を担うと信じられたのは、往生を願う者の祈りに応えてその場に随時化現する垂迹(生身)でした。これは、彼岸の仏がある人物のためだけに特別に姿を現す現象なので、祈願成就を意味すると解釈され、とくに尊重されました。仏像や生身仏とともに垂迹を代表するのが、日本の伝統的な神々でした。中世の本地垂迹は、彼岸世界の根源神と現世のカミを垂直に結びつける論理でした。それをインドの仏と日本の神との同一地平上の平行関係として、現世内部で完結する論理として理解しようとする立場は、彼岸世界が縮小し、人々が不可視の浄土のイメージを共有できなくなった近世以降の発想でした。

 垂迹として把握されていたのは、仏像と日本の神だけではなく、聖徳太子や伝教大師や弘法大師などの聖人・祖師たちでした。垂迹としての聖人の代表が聖徳太子で、古代には南岳慧思の生まれ変わりと考えられていましたが、中世には、極楽浄土の阿弥陀仏の脇侍である観音菩薩の垂迹との説が主流となりました。古代における日中という水平の位置関係から、中世における極楽浄土と此土という垂直の位置関係で把握されたわけです。親鸞も若いころに真実の救済を求めて聖徳太子の廟所を訪れました。インドに生まれた釈迦も垂迹とされ、その意味では聖徳太子と同水準の存在とみなされました。

 中世人に共有されていた根源的存在のイメージは、それと結びつくことにより、日常的なものや卑俗なものを聖なる高みに引き上げる役割を果たすことも多くありました。差別の眼差しに晒された遊女の長者が、普賢菩薩の化身とされたり、身分の低い牛飼い童が生身の地蔵菩薩とされたりしました。日頃差別される人々を聖なる存在の化身とする発想は非人でも見られ、文殊菩薩が非人の姿で出現する、と広く信じられていました。社会的弱者や底辺層の人々であっても、他界の根源神と結びつくことにより、現世の序列を超えて一挙に聖性を帯びた存在に上昇することがある、と考えられていたわけです。

 垂迹の使命は末法の衆生救済なので、その所在が聖地=彼岸世界の通路とみなされることはよくありました。善光寺や春日社や賀茂社などは、霊場として人々を惹きつけていきました。他界への通路と考えられた霊験の地は多くの場合、見晴らしのよい山頂や高台に設けられました。寺院では、垂迹の鎮座する「奥の院」は、高野山や室生寺や醍醐寺に典型的なように、寺内の最も高い場所に置かれました。これは、山こそがこの世で最も清浄な地であるという、古代以来の観念を背景としたものでした。山を不可欠の舞台装置として、周囲の自然景観を取り入れた中世の来迎図は、自然の風景が登場しない敦煌壁画の浄土変相図などとは異なり、日本の浄土信仰が大陸とは異なった方向に発展したことを端的に示す事例でした。

 こうした中世の世界観は、仏教者により占有されたとも言えます。これに違和感を抱いたり反発したりしたのが、神祇信仰に関わる人々でした。平安時代後期から「神道五部書」などの教理書が作成されるようになり、「中世神道」と呼ばれる壮大な思想世界が構築されていきました。その中心的課題は、人が感知できない根源者の存在証明とその救済機能でした。13世紀後半、伊勢において新たな神祇思想の流れが起き、度会行忠たち外宮の神官たちにより伊勢神道が形成されました。伊勢神道の聖典である神道五部書では、仏教や道教の思想的影響下で、この世を創生し主宰する唯一神の観念が成長していきます。国常立神や天照大神は超越性が格段に強化され、伊勢神道は仏教界が「本地」という概念で自らに取り込んだ根源的存在を、仏教から切り離して神祇信仰側に引き入れようとしました。伊勢神道の影響を受けた慈遍は、南北朝時代に国常立神を永遠不滅の究極的存在にまで高め、仏教が独占してきた究極的存在=本地仏の地位を神に与えました。こうして中世には、仏教・道教・神祇信仰といった枠組みを超えてカミの形而上学的考察が進み、不可視の究極者に対する接近が思想の基調となりました。人種や身分の相違を超えて、全ての人が等しく巨大な超越者の懐に包まれている、というイメージが中世人の皮膚感覚となります。

 救済者としてのカミに対する思弁の深化は、一方で被救済者としての人の存在について考察の深まりをもたらしました。救済を追求していくと、平凡な人が生死を超越できるのか、という疑問に正面から向き合わざるを得なくなるからです。人が救済されるための条件を思索するうちに、万人の持つ内なる聖性が発見されていきます。カミが徹底して外部の存在とされた古代に対して、中世では人に内在するカミが発見されていきます。人の肉体を霊魂の宿る場と考え、霊魂が体から離れて帰れなくなる事態を死とみなす発想は古代から存在しました。「タマ」と呼ばれた霊は、容易に身体を離れる存在でした。

 中世には、仏教の内在する「仏性」の観念と結びつき、その聖性と超越性が高まっていきます。仏教、とくにアジア東部に伝播した大乗仏教では、全ての人が仏性を持つことは共通の大前提でした(一切衆生、悉有仏性)。全ての人は等しく聖なる種子を持っており、修行を通じてその種子を発芽させて育てていくことにより、誰もが仏になれる、というわけです。こうした理念は古代日本にもたらされていましたが、超越的存在が霊威を持つ外在者のイメージで把握されていた古代社会では、内在する聖性という理念が大衆に受容され、定着することはできませんでした。聖なる存在への接近は、首長や天皇など選ばれた人が特別の儀式を経て上昇するか、修行者が超人的な努力の積み重ねにより到達できる地位でした。

 一方、万人に内在する仏性が発見された中世では、カミへの上昇は特別な身分や能力の人に限定されず、誰もが仏になれました。根源的存在は、絶対的な救済者であると同時に森羅万象に偏財しており、人は心の中の内なる仏性を発見し、発現することにより自らを聖なる高みに上昇させられる、との理念が人々に共有されるようになります。人と超越的存在を一体的に把握する発想は神祇信仰でも受容され、その基調となりました。一方的に託宣を下して祟りをもたらした古代の神が、宇宙の根源神へと上昇していくと同時に、個々人の心の中にまで入り込み、神は究極の絶対的存在故にあらゆる存在に内在する、と考えられました。こうした理念は、「神は正直の頭に宿る」、「心は神明の舎なり」といった平易な表現の俗諺として、衆庶に浸透していきます。

 いわゆる鎌倉仏教は、戦後日本の仏教研究の花形で、鎌倉時代に他に例のないほど仏教改革運動が盛り上がり、その大衆化が進んだのはなぜか、と研究が進みました。その後、鎌倉仏教を特別視するような見解は相対化されてきましたが(関連記事)、鎌倉時代における仏教の盛り上がり自体はほとんど否定されていません。鎌倉仏教に共通するのは、方法論の違いはあっても、身分や地位や学識などの相違に関わらず万人が漏れなく救済される、という強い確信です。悉有仏性の理念はインドの大乗仏教にすでに備わっていましたが、日本では上述のように古代には開花せず、絶対的な救済者と俗世を超える彼岸世界の現実感が人々に共有され、万人が聖性を内在しているという理念が社会に浸透した中世に初めて、生死を超えた救済の追求が可能となる客観的条件が整い、その延長線上に鎌倉仏教が誕生します。

 古代から中世への移行に伴うこうした世界観の変容は、王権の在り様にも重大な転換をもたらしました。古代の天皇は、アキツミカミとしての自身の宗教的権威により正当化されるだけではなく、律令制、皇祖神や天神地祇や仏教の諸尊など外部のカミにより、守護されていました。中世に彼岸世界のイメージが膨張すると、現世的存在である天皇は、もはや他界の根源神の仲間に加わることはできませんでした。天皇は一次的な権威になり得ない、というわけです。天皇は、古代のように同格のカミとの連携ではなく、より本源的な権威に支えられる必要性が生じます。

 12世紀に、伝統仏教で「仏法」と「王法」の協力関係の重要性が主張されるようになり、「仏法王法相依論」として定式化されます。これは、世俗権力の存続には宗教的権威による支援が不可欠とする、中世的な王権と仏教との関係を端的に表現していました。これは伝統仏教側から主張されましたが、同じ世界観を共有する王権も強く規定しました。王権の側は、仏法により外側から守護してもらうだけではなく、根源的存在との間に直接的通路を設けようとしました。古代では、原則として天皇が仏教と接触することは禁忌とされていましたが、12世紀以降、即位式の前に仏教的儀式が行なわれるようになり、天皇が大日如来に変身する即位灌頂などがあります。しかし、中世において天皇を神秘化する言説も散見されるものの、天皇が地獄や魔道に堕ちる話はずっと多く、王権側の試みは必ずしも奏功しませんでした。この世の根底に存在する人知を超えたカミの意思に反した場合、神孫である天皇でさえ失脚や滅亡から逃れられない、との理念が中世社会では共有されていました。中世人は、自身と天皇との間に、隔絶する聖性の壁を認めませんでした。天皇もあの世のカミの前では一人の救済対象にすぎなかった、というわけです。

 天皇の即位儀礼として最重視されていた大嘗祭が、応仁の乱の前年から200年以上にわたって中断された背景は、政治的混乱や経済的困窮だけではなく、皇祖神の天照大神の「この世のカミ」としての位置づけ=二次的権威化に伴い、大嘗祭が天皇神秘化の作法としてほとんど意味を喪失したことにもありました。こうした中世固有の世界観を前提として、他界の根源神の権威を現世の王権の相対化の論理として用いることにより、天皇家から北条への「国王」の地位の移動=革命を明言する日蓮のような宗教者も出現します。


●中世から近世へ

 中世前期に確立する、人の内面に超越的存在(カミ)を見出だそうとする立場は、中世後期にいっそう深化し、宗派の別を超えて共有されるとともに、芸能・文芸・美術などの分野に広範な影響を与えました。人のありのままの振る舞いが仏であり神の姿そのものとされたわけです。こうした思潮に掉さして発展し、浸透していくのが本覚思想(天台本覚思想)です。本覚思想では、ごく普通の人が如来=仏そのものと説かれています。人は努力と修行を重ねて仏という高みに到達するわけではなく、生まれながらにして仏であり、仏になるのではなく、自分が仏と気づきさえすればよい、というわけです。こうした思想に基づく文献が、最澄や良源や源信といった天台宗の高僧の名で大量に偽作され、流通していきました。

 カミ=救済者を人と対峙する他者として設定するキリスト教やイスラム教とは異なり、仏教の特質は、人が到達すべき究極の目標を救済者と同水準に設定するところにありました。釈迦がたどり着いた仏の境地は釈迦だけの特権ではなく、万人に開かれたものであり、真実の法に目覚め、胸中の仏性(仏の種)を開花させることにより、誰もが仏になれる、というわけです。しかし、成仏に至る過程は、時代と地域により異なります。大まかな傾向として、人と仏との距離は、時代が下るにつれて、東方に伝播するにつれて短くなります。

 大乗仏教では「一切衆生、悉有仏性(聖性の遍在)」が強調されましたが、とりわけ日本では、人と仏は接近して把握される傾向が強く、その延長線上に生まれたのが本覚思想でした。本覚思想は二元的世界観とそれを前提とする浄土信仰が主流だった中世前期には、まだ教団教学の世界に留まっていましたが、中世後期には広く社会に受容されていきます。成仏を目指した特別の修行を不要とするような極端な主張は、日本以外の仏教ではほとんど見られません。絶対者を追求し続けた中世の思想家たちは、万物へのカミの内在の発見を契機に、その視点を外部から人の内面へと一気に転じました。カミはその超越性ゆえにあらゆる事物に遍在する、というわけです。超越性の追求が、キリスト教やイスラム教で見られるような人とカミの隔絶という方向ではなく、万物への聖性の内在という方向に進むところに、日本の神観念の特色がありました。

 こうした傾向の延長線上として、法然や日蓮など中世前期の思想に見られるような、救済者と彼救済者、浄土と此土といった厳しい二元的対立が解消されていきます。法然や日蓮においては、救済者は人と対峙する存在として超越性が強調されていましたが、その後継者たちは、救済者の外圧的・絶対的性格が薄められ、宇宙と人への内在が強調されるようになります。仏に手を引かれて向かうべき他界浄土のイメージがしだいに希薄化し、救済者と彼救済者、他界と現世の境界が曖昧となり、彼岸が現世に溶け込んでいきます。

 いわゆる鎌倉仏教において、その転換点に位置するのが一遍でした。一遍は浄土教の系譜に位置づけられますが、その救済論は、救済者としての阿弥陀仏と彼救済者としての衆生との間の厳しい葛藤と緊張を想定した法然の対極に位置し、仏は何の抵抗もなく彼救済者の体内に入っています。浄土は死後に到達すべき遠い他界ではなく、信心が確立した時、その人は阿弥陀仏の命を譲り受けている、というわけです。こうした発想は一遍に留まらず、中世後期の浄土信仰の主流となっていきます。救済者と彼救済者の境の曖昧化という方向性は、宗派を超えて中世後期の思想界の一大潮流となります。

 中世から近世への転換期において、外在する他界のカミが存在感を失っていくもう一つの原因は、政治権力に対する宗教勢力の屈伏でした。浄土真宗と法華宗(日蓮宗)ではとりわけ一揆が盛んで、両派は中世でもとりわけ他界の仏の超越的性格を強調しました。日本史上、外在する絶対的存在としてのカミのイメージが最も高揚したのは戦国時代の宗教一揆で、異次元世界にある万物の創造主を想定するキリスト教の思想も、そうした時代思潮を背景に受け入れられていきました。一向一揆が平定され、島原の乱が鎮圧されると、その背景にあった強大な超越者もその力を喪失し、カミの内在化という時代趨勢に呑み込まれ、現実世界に溶け込んでいきました。

 こうした過程を経て宗教的な理想世界のイメージが内在化・後景化した近世では、政治権力の正当性は他界のカミとの関係性ではなく、純然たる現実社会の力学から生み出されることになりました。人間関係の非対称性が、現世内部だけの要因により再生産される時代が到来したわけです。この新たに誕生した幕藩制国家に国制の枠組みと政治的権威を提供したのが天皇でした。天皇を頂点とする身分序列と天皇が授与する官位の体系は、国家水準での秩序を支える最上位の制度として、中世と比較して飛躍的に重みを増すことになりました。

 中世後期には、人の内側だけではなく、自然界にもカミとその働きを見ようとする指向性が強まりました。その思潮を理論的に裏づけたのが本覚思想で、草木から岩石に至るこの世の一切の存在に仏性を見出し、眼前の現実をそのまま真理の現れとして受け入れていこうとする立場は、「草木国土悉皆成仏」という言葉で概念化されて広く流通しました。人以外の生物や「非情(心を持たない)」という分類で把握される草木が人と同じように成仏できるのかという問題は、仏教発祥地のインドでは主要な問題とはならず、初期仏教で最大の関心事は、人はいかに生きるべきか、という問題でした。「草木国土」のような人を取り巻く存在に視線が向けられ、その救済が議論されるようになったのは、アジア東部に定着した大乗仏教においてでした。

 隋代の天台智は「一念三千」という法門を説き、この世界のあらゆる存在に仏性が遍く行き渡っていると論じ、草木や国土の成仏を肯定するための理論的基盤が確立されました。これを万物の成仏という方向に展開したのが平安時代前期の天台僧安然で、初めて「草木国土悉皆成仏」という言葉が生み出され、その延長線上に仏国土=浄土とする本覚思想が開花します。本覚思想では、理想世界は認知不可能な異次元空間に存在したり、現実の背後に隠れたりしているわけではなく、眼前の光景が浄土でした。室町時代には、古い道具が妖怪に変身する付喪神が絵画として表現されるようになりますが、これもそうした時代思潮を背景としていました。

 上述のように、古代において山に神が棲むという観念は一般化していても、山そのものを神とする見方はまだなく、山をまるごと御神体として遥拝する信仰形態の普及は、自然にカミを見出す「草木国土悉皆成仏」の理念が浸透する中世後期になって初めて可能となる現象でした。日本的な自然観の典型とされる山を神とみなす思想は、太古以来の「アニミズム」の伝統ではありませんでした。記紀神話における山の人格化は、人と自然を同次元の存在として、対称性・連続性の関係で把握する発想に基づいていました。人々が山に畏敬の念を抱いても、タマ(霊)が宿っているから山を拝むという発想は、古代には存在しませんでした。一方、神体山の信仰は、カミの自然への内在化という過程を経て出現する、高度に抽象化された中世の思想を背景としていました。「草木国土悉皆成仏」の思想は室町時代の芸術諸分野に広く浸透しました。

 内在するカミという概念は、中世前期には抽象的な理念の段階に留まっており、万人をカミに引き上げる論理として現実に機能することは殆どありませんでした。人のカミへの上昇(ヒトガミ)は、中世前期には聖徳太子など選ばれた人に限られており、それも本地垂迹の論理により彼岸の本地仏との関係で説明され、一般人はまだ救済の対象でした。しかし、中世後期には現実の光景と超越的存在との境目が次第に曖昧化し、現実の人がありのままの姿で仏だと強調され、そうした認識が思想界の主流を占めるようになります。これは、彼岸の超越的存在に媒介されない、新たなヒトガミの誕生を意味します。人は救済者の光を浴びてカミに上昇するのではなく、自らに内在する聖性によりカミになる、というわけです。これは仏教の世界に留まらず、中世後期にはまだ権力者や神官など特殊な人物に限定されているものの、古代の天皇霊とは異なり、人が自らの意志により生きたまま神に上昇できるようになります。神は誰もがじっさいに到達可能な地位とされ、神と人との距離は接近します。こうした思潮を神祇信仰で理論化したのが、吉田神道の祖とされる吉田兼倶でした。

 世俗社会の普通の人が実は神仏の姿そのものとの認識は、聖性発現によりカミへの上昇を目指す宗教的実践の軽視に結びつきました。これにより大きな問題となったのが、信仰の世界への世俗的要素の侵入です。中世において、寺社勢力の組織化と広大な荘園領有といった世俗化が進展した一方で、信仰世界から世俗的要素を締め出そうとする傾向も強くありました。しかし、中世後期における聖俗の緊張関係の弛緩は、信仰の世界への世俗的要素侵入の道を開きました。

 こうした理想世界と現世との一体化は、現実社会を相対化して批判する視点の喪失をもたらしました。中世前期に見られた信仰至上主義と信心の純粋化を目指す運動は、俗権に対する教権の優位を主張するとともに、信仰世界に向けられた権力の干渉の排除を指向しました。支配権力の意義は正しい宗教を庇護することにあり、その任務を放棄すれば、支配権力は正統性を失い、死後には悪道に堕ちることさえ覚悟しなければなりません。中世の文献に多数出現する天皇の堕地獄譚は、そうした思想状況を背景としていました。しかし、根源神が眼前の自然に溶け込んでしまうと、宗教者がカミの権威を後ろ盾としてこの世界の権力を相対化するような戦略は取れなくなりました。浄土が現世と重なりあったため、理想の浄土に照らして現状を批判するという視座も取れませんでした。この世に残ったカミからは、その聖性の水源が枯れてしまったことを意味するわけです。

 彼岸の根源神を背後に持たない日本の神仏には、もはや人々を悟りに導いたり、遠い世界に送り出したりする力はなく、神も仏も人々のこまごまとした現世の願いに丹念に応えていくことに、新たな生業の道を見出していきます。誰もがカミになれるので、より強大な権力を握る人物が、より巨大なカミになる道が開けました。中世前期のように他界の絶対者の光に照らされたカミになるわけではなく、中世後期には自らの内なる光源によりヒトガミが発生しました。その光源には、身分や地位や権力といった世俗的要素が入り込み、やがて主要な地位を占めるに至ります。

 聖俗の境界の曖昧化は、差別の固定化にもつながりました。とくに問題となったのは「穢れ」で、中世には社会の隅々にまで穢れ観念が浸透します。中世前期には、神が垂迹することは万人をはぐくみ助けるためで、本地の慈悲の心が垂迹にまとわりついた習俗としての忌に優先する、と考えられました。平安時代中期以降、女性は穢れた存在との見方が広まり、清浄な山への立ち入りが制限されていきましたが(女人結界)、いわゆる鎌倉仏教の祖師たちは、法然や親鸞のように女人罪障の問題にほとんど論及せず、弥陀の本願による平等の救済を強調するか、道元のように女性固有の罪障や女人結界そのものを否定しました。

 日本における穢れの禁忌は、その対極にある神仏との関係において肥大化し、中世において穢れ意識を増幅させるこの世の神仏とは、彼岸の仏の垂迹に他なりませんでした。禁忌に拘束されない事例は、いずれも垂迹の背後の本地仏=根源的存在の意思が働いたためでした。穢れ意識が拡大し、差別の網の目が社会に張り巡らされるかのように見える中世において、彼岸の根源的存在との間に直結した回路を設けることで、差別を一気に無化していく道筋が承認されていたわけです。しかし、不可視の彼岸世界と絶対的な救済者の現実感が褪色していくにつれて、本地仏の力により差別を瞬時に克服する方途は次第に縮小していき、社会において特定の身分と結びついた穢れと差別意識の固定化につながりました。その延長線上に、社会の穢れを一手に負わされた被差別民が特定の地区に封じ込められ、その刻印を消し去る道がほぼ完全に封じられた、近世社会が到来します。

 中世後期に進展する本源的存在の現実感の希薄化(彼岸の縮小と救済者としての本地仏に対する現実感の喪失)は、人々の関心を再び現世に向かわせます。彼岸の浄土は、もはや人々に共有されることはなく、人々を惹きつけてきた吸引力が失われていきます。近世にも浄土信仰はありましたが、仏の来訪はほとんど問題とされず、超越者からの夢告も重視されなくなり、個人的体験としての来迎仏=生身仏との遭遇が信仰上の価値を失い、仏像などの定型化した形像の役割が再浮上してきます。

 中世前期には、大半の人にとって現世での生活よりも死後の救済の方が切実な意味を持ち、来世での安楽が保証されるなら、この世の生を多少早めに切り上げてもよい、と考えられていました。不安定で流動的な生活と、死の危険に満ちた社会が、現世を相対化する認識の背景にありました。こうした世界観が中世後期に大きく転換する背景として、惣と呼ばれる地縁共同体が各地に生まれ、全構成員により村落運営が決定されるようになったことがあり、人々の土地への定着と、先祖から子孫へと継承される「家」の形成が庶民層まで下降しました。こうして、突然落命する危険性は中世と比較して大きく減少し、この世の生活自体がかけがえのない価値を有している、との見方が広く定着しました。浮世での生活を精一杯楽しみ、死後のことは死期が近づいたら考えればよい、という近代まで継続する新たな世界観と価値観が形成されたわけです。

 この中世後期に起きた世界観の旋回は、人生観だけではなく、死後世界のイメージも大きく転換させました。他界浄土の現実感が失われた結果、死者は遠い世界に旅立たなくなり、死後も懐かしい国土に留まり、生者と交流を継続することが理想と考えられるようになりました。カミだけではなく死者の世界でもこの世への回帰が開始され、冥界が俗世の延長として把握されるようになり、現世的要素が死後世界に入り込んでくるようになります。こうした転換を承けて神や仏が新たな任務として見出したのが、この世に共生する人と死者の多彩な欲求に応えていくことでした。とげ抜き地蔵や縛り地蔵などさまざまな機能を持ったカミが次々と誕生し、「流行神」が生まれては消えていきました。他界への飛翔を実現すべく、垂迹との邂逅を渇望して一直線的に目的地を目指した中世前期の霊場参詣とは異なり、平穏で満ち足りた生活を祈りながら、娯楽を兼ねて複数の神仏を拝む巡礼が、中世後期以降の霊場信仰の主流となります。

 中世前期には、彼岸の浄土とこの世の悪道の二者択一を死者は求められましたが、死後世界のイメージの大きな転換に伴い、そのどちらにも属さない中間領域が出現し、中世後期には急速にその存在感を増していきます。救済がまだ成就しない者たちは山で試練を受けている、といった話が語られるようになります。こうした中間領域など死後世界の世俗化が進み、死後の理想の在り様が生者の願望に引きつけて解釈されるようになり、人がこの世において生死を繰り返すだけで、どこか別の世界に行くことはない、との語りも登場します。仏はもはや人を他界に誘うことも、生死を超えた悟りへと導くこともなく、人が生死どちらの状態でも平穏な生活を送れるよう、見守り続けることが役割となります。

 近世人は、他界浄土の現実感を共有できず、遠い浄土への往生を真剣に願うことがなくなります。近世人にとって、人から人への循環を踏み外すことが最大の恐怖となり、その文脈で地獄など悪道への転落が忌避されました。ただ、いかに彼岸の現世化が進んだとはいえ、檀家制度が機能して仏教が圧倒的な影響力を有していた近世には、死者は仏がいて蓮の花の咲く浄土で最終的な解脱を目指して修行している、という中世以来のイメージが完全に消え去ることはありませんでした。しかし、幕末に向かうにつれて他界としての浄土のイメージがさらに希薄化すると、死後世界の表象そのものが大きく変わり、死者の命運をつかさどる仏の存在がさらに後景化し、ついには死後の世界から仏の姿が消え去ります。こうした世俗化の中で、近世には妖怪文化が開花し、妖怪は現実世界内部の手を伸ばせば触れられるような場所に、具体的な姿形で居住する、と描かれました。

 死者がこの世に滞在し、俗世と同じような生活を送ると考えられるようになると、死者救済の観念も変わっていきます。死者がこの世に留まるのは、遠い理想世界の観念が焼失したからで、死者を瞬時に救ってくれる絶対的な救済者のイメージが退潮していきます。仏はもはや人を高みに導く役割を果たさず、死者を世話するのはその親族でした。中世後期から近世にかけて、死者供養に果たす人の役割が相対的に浮上し、それは「家」が成立する過程と深く連動していました。この動向は支配階層から始まり、江戸時代には庶民層にまで拡大していき、江戸時代後期には裕福な商人層や上層農民からより下層へと降りていきます。死後の生活のイメージも変化し、生者が解脱を求めなくなるのと同様に、死者も悟りの成就を願わなくなり、世俗的な衣食住に満ち足りた生活を理想とするようになります。死者の安穏は遥かな浄土への旅立ちではなく、現実世界のどこかしかるべき地点になりました。「草葉の陰で眠る」というような死者のイメージが、近世には定着していきます。

 親族が死者の供養を継続するには、死者を記憶し続けることが不可欠でした。これにより、死者は次第に生前の生々しい欲望や怨念を振り捨てて、安定した先祖にまで上昇できる、と信じられました。中世には墓地に埋葬者の名が刻まれることはなく、直接記憶する人がいなくなると匿名化しました。死者は、その命運を彼岸の仏に委ねた瞬間に救済が確定するので、遺族が死者の行く末を気にする必要はありませんでした。しかし、遺族が供養を担当するようになると、死者が墓で心地よく眠り続けるために、生者の側がそのための客観的条件を整えねばならなくなります。墓は、朝夕にありがたい読経の声が聞こえる、寺院の境内に建てられる必要がありました。近世初頭には、墓地を守るための多数の寺院が新たに造営されました。さらに、縁者は死者が寂しい思いをしないですむよう、定期的に墓を訪問したり、時には死者を自宅に招いたりしなければなりませんでした。こうした交流を通じて、死者は徐々に神の段階=「ご先祖さま」にまで上昇する、と信じられました。死者は、中世には救済者の力により瞬時にカミに変身しましたが、近世には生者との長い交渉の末にカミの地位に到達しました。

 ただ、全ての死者が幸福な生活を送ったわけではなく、近世でも冷酷な殺人や死体遺棄や供養の放棄など、生者側の一方的な契約不履行は後を絶ちませんでした。そのため、恨みを含んで無秩序に現世に越境する死者も膨大な数になった、と考えられました。こうした恨みを残した人々は、幽霊となって現世に復讐に現れる、と考えられました。中世にも未練を伸してこの世をさまよう死霊はいましたが、大半は権力者のような特別な人物で、その結末は復讐の完結ではなく、仏の力による救済でした。近世には、誰でも幽霊になる可能性があり、その目的は宗教的な次元での救済ではなく、復讐の完遂でした。


●近世から近代へ

 上述のように、近世には誰もが自らの内なる光源によりカミとなれ、それは俗世の身分や権力を強く反映するものでした。近世初頭にまずカミとなったのが最高権力者である豊臣秀吉や徳川家康といった天下人だったことには、そうした背景がありました。天下人に続いて近世において神として祀られたのは、大名や武士でした。近世後期になると、カミになる人々の階層が下降するとともに、下からの運動で特定の人物が神にまで上昇する事例も見られ、その一例が天皇信仰です。以前よりも下層の人物がカミと崇められるようになった事例としては、治水工事などで人柱となった者がいます。人柱は古代にもありましたが、それは多くの場合、神からの供犠の要求でした。一方、近世の人柱は、神に要求されたからではなく、同じ村落などの他者への献身のためでした。また、こうした覚悟の死ではなく、日常の些細な問題を解決してくれた人が、神に祭り上げられることもあり、頭痛や虫歯など多彩な効能を持つヒトガミが各地に出現しました。近世後期には、誰もが状況によりカミとなれる時代で、世俗社会に先駆けて、神々の世界で身分という社会的縛りが意味を失い始めていました。

 幕末には世俗ではとくに他界身分ではない人々がイキガミとされ、そのイキガミを教祖としてさまざまな「民衆宗教」が誕生しました。それは黒住教や天理教や金光教などで、教祖は自ら神と認めていたものの、神としての権威を教祖が独占することはなく、広く信徒や庶民に霊性を見出だそうとしました。こうした理念が直ちに身分制撤廃といった先鋭的な主張に結びつくわけではなく、それぞれの分に応じて勤勉に励むことでより裕福になれる、という論理が展開されました。しかし、神人同体観な基づく人としての平等が主張され、その認識が社会に根づき始めていたことは重要で、富士講に身分を超えた参加者がいることに、幕府は警戒するようになります。

 これと関連して、近世には石田梅岩などにより通俗道徳が庶民層にも流通します。これを封建社会の支配イデオロギーと見ることもできるかもしれませんが、近代社会形成期に特有の広範な人々の主体形成過程を読みとる見解もあります。こうした石門心学などの思想には、人に内在する可能性を認めて社会での発現を是とする、民衆宗教と共通する人間観があり、近世に広く受容された、善としての本性を回復すれば全ての人間が聖人になれると説く朱子学や、人が持つ本源的可能性を肯定し、その回復のための実践を強調する陽明学とも共通していました。自分の職分の遂行により自らを輝かすことが肯定されるような新しい思潮は、近世後期の社会に着実に広がり始めていました。

 一方、誰もが自らの内なる光源でカミに上昇できる、との観念が広く定着した近世後期には、まったく異なる文脈で人をカミに上昇させようとする論理が次第に影響力を増していきました。それは、山崎闇斎に始まる垂加神道と、それに影響を与えた吉田神道が主張する、天皇への奉仕により死後神の座に列なることができる、という思想です。吉田神道や垂加神道では、特定の人物の霊魂に「霊神」・「霊社」号を付与して祀ることが行なわれていました。その系譜から、天皇との関係において人を神に祭り上げる論理が生み出され、実践されていきます。この場合の天皇の聖性は、上述の下からの運動による天皇信仰とは似て非なるものでした。庶民が心を寄せる小さな神々の一つだった天皇とは異なり、垂加神道における天皇は人をカミに上昇させる媒体として位置づけられ、通常の神々を凌ぐ強い威力の存在とみなされました。垂加神道では、肉体は滅びても霊魂は永遠に不滅で、生前の功績により人は神の世界に加わることができ、霊界でも現実世界と同様の天皇中心の身分秩序が形成されていました。天皇に対する献身の度合いによっては、現世の序列を一気に飛び越えることも可能になったわけです。垂加神道は、死後の安心を天皇信仰との関わりにおいて提起した点で、画期的意味を持ちました。

 幕末に向けての、こうしたヒトガミもしくはイキガミ観念の高揚も、民衆宗教と同様に、人の主体性と可能性を積極的に肯定しようとする時代思潮の指標とみなせます。垂加神道では天皇、民衆宗教では土着の神という相違点はありましたが、仏教やキリスト教など外来宗教のカミではなく、日本固有の(と考えられていた)カミが再発見されていくわけです。人々の肯定的な自己認識と上昇指向は、19世紀には幕藩体制下での固定化された身分秩序を負の制約と感じる段階にまで到達していました。現実の秩序を一気に超越しようとする願望は、民衆の深層意識の反映でした。

 こうした時代思潮を背景にした幕末維新の動乱は、単なる政治闘争ではなく、長期間の熟成を経た新たな人間観のうねりが既存の硬直化した身分制度に突き当たり、突き破ろうとする大規模な地殻変動でした。明治維新の原動力として、ペリー来航を契機となる日本の国際秩序への組み入れや、下級武士の役割は重要ではあっても副次的要因にすぎず、幕末維新期の動乱の根底には、多様な階層の人々が抱いていた差別と不平等への不満と、そこからの解放欲求がありました。それは明治時代に、自由民権運動などの民衆運動に継承されていきます。

 幕藩体制崩壊後、ヒトガミ指向が内包していた民衆の能動性を国家側に取り込み、国民国家を自発的に支える均質な「国民」を創出するとことが、新たに誕生した天皇制国家の最重要課題となりました。維新政府の政策は、ヒトガミに祀られることを希望するという形で噴出していた人々の平等への欲求と、新国家の精神的な機軸とされたてんのうに対する忠誠とを結びつけることでした。維新政府は、身分を超えた常備軍=国民軍を創出し、その任務を全うして天皇に命を捧げた者は神として再生し、永遠に人々の記憶に留められる、という招魂社の論理を採用しました。招魂社の源流は長州藩にあり、多様な階層の人々が同じく慰霊されました。これが靖国神社へとつながります。人々の上昇と平等化への欲求が、天皇に対する帰依に結びつけられたわけです。

 上述のように、近世には死者が祖霊となるまで供養を続けることが、慰霊の必須要件でしたが、幕末になっても独自の「家」を形成できない身分・階層は多く、そうした人々が、近代国家では天皇のために死ぬことにより、国家の手で神として検証されるわけです。靖国神社は、近世以来のヒトガミ信仰の系譜を継承しながら、近代天皇制国家に相応しい装いで誕生しました。近代天皇制国家において、天皇は民衆を神に変える唯一の媒体である必要があり、近世の国学で提唱され広がった、身分を超えて人々を包摂する特別の地としての「皇国」観念が、そうした方向を裏打ちしました。そのため、元首や統治機構の世俗化を伴う近代国民国家形成の一般的傾向とは対照的に、日本において君主たる天皇の地位が色濃い宗教性を帯びることになりました。近代天皇制国家の宗教性の背景として、日本社会の後進性(成熟した市民社会の不在)に原因を求める見解もありましたが、日本でもヨーロッパでも近代国家成立期の時代背景にあったのは、身分制に対する大衆水準での強い厭悪感情であり、発展段階の差異というよりは、国民国家に向けての二つの異なる道筋と把握できます。

 近代天皇制国家は、人をヒトガミへと引き上げるもう一つの装置である民衆宗教を、淫祠邪教として排撃することで、民衆聖別の権限を独占しようとしました。とくに、大本教や金光教など、天照大神を中核とする天皇制の世界観とは異なる神々の体系を持つ教団に対する圧迫は徹底していました。近代日本ではその当初より、ヒトガミ信仰に現出する民衆の主体性を根こそぎ国家側に搦め捕ろうとする政府と、国家によるヒトガミ創出の占有に抵抗する民衆宗教など在野勢力との激しい綱引きが続きました。

 近代西欧において、世俗権力相対化の役割を果たしたのがキリスト教で、中世から近代の移行に伴って宗教は政治の表舞台から姿を消し、私的領域を活動の場とするようになりました。しかし、その機能は近代社会において「国家権力の犯しえぬ前国家的な個人の基本権」として継承され、発展させられていきました。個々人が最も深い領域で超越的価値(レヒト)とつながっており、それはいかなる権力者にとっても不可侵の聖域でした。近代日本では、現人神たる天皇を何らかの形で相対化できる独立した権威は存在しませんでした。当時、天皇を本当に神とは思っていなかった、との証言は多いものの、表向きには天皇は現人神として神秘化され、その名を用いれば誰も異論を挟めないような客観的状況がありました。天皇の命と言われれば、生命を惜しむことさえ許されませんでしたし、どの宗教団体も、天皇の御稜威を傷つけることは許されず、その権威の風下に立たざるを得ませんでした。

 この背景には、上述のように中世から近世の移行期に起きた宗教勢力の徹底した解体と、宗教的権威の政治権力に対する屈伏がありました。日本は、神や教会の権威そのものが根底から否定されたわけではないヨーロッパとは異なる、というわけです。江戸時代後期から幕末には、幕府などが分担していた政治的権力と権威の一切を天皇に集中するよう、国学者などは目指しました。支配秩序の頂点に立つ天皇を正当化するうえで最も重要とされたのは、外在する超越的存在ではなく、神代以来の系譜を汲む神孫としての天皇自身が見に帯びた聖性でした。こうして、現人神たる天皇が聖俗の権威を独占して君臨する「神国」日本の誕生は準備されました。「神国」の概念はすでに中世で用いられていましたが、それは、仏が遠い世界の日本では神の姿で現れたから、という論理でした。同じ「神国」でありながら、近代のそれは彼岸の超越的存在の前に天皇の機能が相対化されていた中世のそれとは、まったく構造を異にするものでした。

 上述のように、中世にはこの世から分離していた他界が、再びこの世に戻ってきます。この点で古代と近世は同じですが、曖昧な境界のまま死者と生者が混在していた古代に対して、近世では死者と生者の世界が明確に区分され、両者の交渉儀式が事細かに定められました。上述のように、子孫による死者の供養は死者が「ご先祖さま」になるために必須で、祖先の近代天皇制国家も近世以来のこの死者供養を抑圧できず、「ヤスクニの思想」に全面的に吸収しようと試みます。

 中世から近世にかけて世俗社会への転換をもたらしたのは幕府や諸藩で導入された儒学だった、との見解もありますが、因果関係は逆で、現世一元論的な世界観が定着する過程で、それに適合的な生の哲学としての儒学が注目されていった、と考えるべきでしょう。その儒学の大きな問題は、当時の大半の日本人が納得できる死後世界のイメージを提示できなかったことです。日本儒学で大きな影響力を有した朱子学では、人の体は宇宙を構成する「気」の集合により構成され、死ぬとその「気」は離散してその人物の痕跡はやがて完全に消滅し、死後も霊魂は残るものの、遠からず先祖の霊の集合体と一体化する、と考えられました。これは、一部の知識人に受け入れられることはあっても、大衆に広く重用されることは不可能でした。儒学者たちもこの致命的な弱点に気づき、教理の修正を図るものの、仏教が圧倒的に大きな影響力を有する近世において、習俗の水準で大衆の葬送文化に入り込むことは容易ではありませんでした。

 近世の現世主義に対応する体系的な死生観は、仏教以外では国学の系譜から生まれました。とくに大きな役割を果たしたのは平田篤胤で、平田は死後の世界として大国主神が支配する「幽冥」界を想定し、「幽冥」は極楽浄土のように遠い場所にあるのではなく、湖のイ(顕世)と重なるように存在しており、この世から幽冥界を認知できなくとも、暗い場所から明るいところはよく見えるように、幽冥界からこの世はよく見える、と説明しました。平田の想定する幽冥界は、宗教色がきわめて薄く、この世の延長のような場所でした。


●神のゆくえ

 本書はまとめとして、こうした日本におけるカミ観念の変化の原因として、個別的事件や国家の方針転換や外来文化の導入などもあるものの、最も根源的なものは、日本の精神世界の深層で進行した、人々が共有する世界観(コスモロジー)の旋回だった、と指摘します。また本書は、社会構造の変動に伴う世界観の変容が日本列島固有ではなく、さまざまな違いがありつつも、世界の多くの地域で共通する現象であることを指摘します。一回限りの偶然の出来事や外来思想・文化の影響がカミの変貌を生み出すのではなく、社会の転換と連動して、精神世界の奥底で深く静かに進行する地殻変動が、神々の変身という事件を必然のものとする、というわけです。

 「仏教」や「神道」の思想は、基本ソフトとしての世界観によりそのあり方を規定される応用ソフトのような存在だった、と本書は指摘します。これまで、日本列島の思想と文化変容の背景として、仏教の受容が現世否定の思潮を生み出した、中世神話形成の背景に道教があった、ヒトガミ信仰を生み出したのは吉田神道だった、などといった見解が提示されてきました。しかし本書は、この説明の仕方を逆だと指摘します。初めに基本ソフトとしての世界観の変容があり、それが応用ソフトとしての個別思想の受容と展開の在り方を規定する、というわけです。たとえば、日本における初期の仏教受容では、仏教の霊威は全て超人的な力(霊験)で、その威力の源は神と同じく「清浄」性の確保で、悟りへの到達=生死を超えた救いという概念がまったく見られず、この世と次元を異にする他界を想定できない、古代の一元的世界に規定されていました。仏教の因果の理法も人の生死も、この世界の内部で完結し、真理の覚醒といった概念が入り込む余地はありません。

 また本書は、仏教受容が現世否定の思潮を生み出し、浄土信仰を高揚させたわけではない、と指摘します。世界観の展開が大乗仏教の本来の形での受容を可能として、伝統的な神のあり方を変化させた、というわけです。日本の神を日本列島固有の存在と主張しても、それ自体は無意味な議論ではないとしても、そこに神をより広い舞台に引き出すための契機を見出すことはできず、方法としての「神仏習合」も同様です。日本の神を世界とつなげるためには、神を読み解くためのより汎用性の高いフォーマットが求められます。本書は、そうしたフォーマットを追求しています。

 より広く世界を見ていくと、街の中心を占めているのは、神仏や死者のための施設です。それは日本列島も同様で、縄文時代には死者が集落中央の広場に埋葬され、有史時代にも寺社が都市の公共空間の枢要に長く位置していました。現代日本は日常の生活空間から人以外の存在を放逐してしまいましたが、前近代には、人々は不可視の存在や自身とは異質な他者に対する生々しい実在感を共有していました。上述のように、超越的存在と人との距離は時代と地域により異なりましたが、人々はそれらの超越的存在(カミ)の眼差しを感じ、その声に耳を傾けながら暮らしていました。カミは社会システムが円滑に機能するうえで不可欠の役割を担っており、定期的な法会や祭礼は、参加者の人間関係と社会的役割を再確認し、構成員のつながりの強化機能を果たしました。

 人の集団はいかに小さくとも、内部に感情的な軋轢や利害対立が起きます。共同体の構成員は、宗教儀礼を通じてカミという他者への眼差しを共有することで、構成員同士が直接向き合うことから生じるストレスと緊張感を緩和しようとしました。中世の起請文のように、誰かを裁くさいに、人々がその役割を超越的存在に委ねることにより、処罰することに伴う罪悪感と、罰した側の人への怨念の循環を断ち切ろうとしました。カミは人同士の直接的衝突回避のための緩衝材の役割を果たしていました。これは個人間だけではなく、集団間でも同様です。人間中心主義を土台とする近代社会は、カミと人との関係を切断し、人同士が直接対峙するようになります。近代の人間中心主義は人権の拡大と定着に大きく貢献しましたが、個人間や集団間や国家間の隙間を埋めていた緩衝材の喪失も意味します。それは、少しの身動きがすぐに他者を傷つけるように時代の開幕でもありました。

 カミの実在を前提とする前近代の世界観は、人々の死生観も規定していました。現代では、生と死の間に一線を引ける、と考えられています。ある一瞬を境にして、生者が死者の世界に移行する、というわけです。しかし、こうした死生観は、人類史では近現代だけの特殊な感覚でした。前近代では、生と死の間に、時空間的にある幅の中間領域が存在する、と信じられていました。呼吸が停止してもその人は亡くなったわけではなく、生死の境界をさまよっている、と考えられたわけです。その期間の周囲の人々の言動は、背景にある世界観と死生観に強く規定されました。日本列島では、身体から離れた魂が戻れない状態になると死が確定すると考えられており、遊離魂を体内に呼び戻すことにより死者(呼吸の停止した者)を蘇生しようとしました。中世には不可視の理想世界(浄土)が人々に共有され、死者を確実に他界に送り出す目的で追善儀礼が行なわれました。近世には、死者が遠くに去ることなく、いつまでも墓場に住むという感覚が強まり、死者が現世で身にまとった怒りや怨念を振り捨て、穏やかな祖霊へと上昇することを後押しするための供養が中心となりました。

 前近代には、生者と死者は交流を続けながら同じ空間を共有しており、生と死が本質的に異なる状態とは考えられていませんでした。死後も親族縁者と交歓できるという安心感が社会の隅々まで行き渡ることにより、人は死の恐怖を乗り越えることが可能となりました、死は全ての終焉ではなく、再生に向けての休息であり、生者と死者との新たな関係の始まりでした。しかし、死者との日常的な交流を失った現代社会では、人はこの世だけで完結することになり、死後世界は誰も入ったことのない闇の風景と化しました。近代人にとって、死とは現世と切断された孤独と暗黒の世界です。現代日本社会において、生の質を問うことがない、延命を至上視する背景には、生と死を峻別する現代固有の死生観があります。

 これまでに存在したあらゆる民族と共同体にはカミが存在し、不可視のものに対する強い現実感が共同体のあり方を規定していたので、前近代の国家や社会の考察には、その構成要素として人を視野に入れるだけでは不充分です。人を主役とする近代欧米中心の「公共圏」に関わる議論を超えて、人と人を超える存在とが、いかなる関係を保ちながら公共空間を作り上げているのか、明らかにできるかが重要です。これまでの歴史学で主流だった、人による「神仏の利用」という視点を超えて、人とカミが密接に関わりあって共存する前近代の世界観の奥深くに錘鉛を下し、その構造に光を当てていくことが必要です。

 現在、日本列島も含めて世界各地で、現実社会の中に再度カミを引き戻し、実際に機能させようとする試みが始まっているようです。北京の万明病院では、「往生堂」という一室が設けられ、重篤な状態に陥った患者が運ばれ、親族の介護を受けながら念仏の声に送られるというシステムが作り上げられており、敷地内の別の一室では、遺体を前に僧侶を導師として多くの人々が念仏を称え、その儀式は数日間続けられます。一方現代日本の多くの病院では、霊安室と死者の退出口を人目のつかない場所に設けることで、生と死の空間が截然と区別されていますが、臨床宗教師の育成が多くの大学で進められています。

 息詰まるような人間関係の緩衝材として、新たに小さなカミを生み出そうとする動きも盛んです。1990年代以降の精神世界探求ブームはそうでしたし、ペットブームもその無意識の反映と考えられます。現代日本で多く見られるゆるキャラも、現代社会の息詰まるような人間関係の緩衝材で、心の癒しと考えられます。現代日本社会におけるゆるキャラは、小さなカミを創生しようとする試みかもしれません。欧米諸国と比較すると、日本は今でも自然とカミとの連続性・対称性を強く保持する社会です。現代人は、近代草創期に思想家たちが思い描いたような、直線的な進化の果てに生み出された理想社会にいるわけではありません。近代化は人類にかつてない物質的な繁栄をもたらした一方で、昔の人が想像できなかったような無機質な領域を創り出しました。現在の危機が近代化の深まりの中で顕在化したのならば、人間中心の近代を相対化できる長い間隔のなかで、文化のあり方を再考していく必要があります。

 これは、前近代に帰るべきとか、過去に理想社会が存在したとかいうことではありません。どの時代にも苦悩と怨嗟はありましたが、現代社会を見直すために、近代をはるかに超える長い射程の中で、現代社会の歪みを照射していくことが重要になる、というわけです。これまでの歴史で、カミは人にとって肯定的な役割だけを果たしてきたわけではなく、カミが人を支配する時代が長く続き、特定の人々に拭い難い「ケガレ」のレッテルを貼って差別を助長したのもカミでした。カミの名のもとに憎悪が煽られ、無数の人々が惨殺される愚行も繰り返されてきました。人類が直面している危機を直視しながら、人類が千年単位で蓄積してきた知恵を、近代化により失われたものも含めて発掘していくことこそ、現代人に与えられている大切な課題かもしれません。


参考文献:
佐藤弘夫(2021)『日本人と神』(講談社)


https://sicambre.at.webry.info/202110/article_16.html  


夢を諦めない。サン・プラザホームの夢をプラスする家「+Dream(プラスドリーム)」
夢を諦めない。サン・プラザホームの夢をプラスする家「+Dream(プラスドリーム)」

▲△▽▼


雑記帳
2019年07月06日
佐藤弘夫『「神国」日本 記紀から中世、そしてナショナリズムへ』
https://sicambre.at.webry.info/201907/article_14.html

https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E5%9B%BD%E3%80%8D%E6%97%A5%E6%9C%AC-%E8%A8%98%E7%B4%80%E3%81%8B%E3%82%89%E4%B8%AD%E4%B8%96%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%B8-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E5%BC%98%E5%A4%AB/dp/4065121264


 講談社学術文庫の一冊として、2018年6月に講談社より刊行されました。本書の親本『神国日本』は、ちくま新書の一冊として2006年4月に筑摩書房より刊行されました。以前、当ブログにて本書を取り上げましたが、制限字数の2万文字を超えてしまったので、前編と後編に分割しました。今週(2019年7月2日)、ウェブリブログの大規模メンテナンスおよびリニューアルにより、制限文字数が約13万文字に増えたので、記事を一つにまとめることにしました。以下、本文です。


 本書の親本を刊行直後に購入して読み、たいへん感銘を受けたので、何度か再読したくらいです。その後、また再読しようと思っていたところ、講談社学術文庫として文庫版後書が付け加えられて刊行されたことを知り、購入して読み進めることにしました。しっかり比較したわけではないのですが、本文は基本的に親本から変更はないようです(誤字の訂正はあるかもしれませんが)。以前、本書を改めて精読したうえで、当ブログで詳しく取り上げるつもりだ、と述べたので(関連記事)、この機会に以下やや詳しく本書の内容について述べていきます。


 本書はまず、現代日本社会における神国・神国思想の認識について論じます。現代日本社会では、神国思想についてある程度共通の認識はあるものの、その内実には揺らぎもあり、何よりも、好きか嫌いか、容認か否定かという立場が前提となって議論が展開されています。しかし、日本=神国の主張が実際にいかなる論理構造なのか、立ち入った考察がほとんどない、と本書は指摘します。神国思想の内容は議論の余地のないほど自明なのか、と本書は問題提起します。神国思想の論理を解明すべき学界では、神国思想は当初、公家政権側が自己正当化のため唱えた古代的思想と評価され、その後、鎌倉時代の公家政権を中世的とみなす見解が有力となり、神国思想も中世的理念と規定されました。しかし、神国思想が古代的か中世的かといった議論はあっても、それぞれの特色についてはまだ統一的見解が提示されていない、と本書は指摘します。本書は、まず現代日本社会における神国・神国思想についての認識を概観し、その認識への疑問を提示した後に、鎌倉時代を中心に神国思想の形成過程と論理構造を解明し、古代とどう異なるのか、鎌倉時代に確立した後はどう展開していったのか、展望します。

 近代の神国思想を代表するのは『国体の本義』で、神としての天皇を戴く日本は他の国々や民族を凌ぐ万邦無比の神聖国家とされました。天皇とナショナリズムこそ近現代日本社会における神国・神国思想認識の核心です。その『国体の本義』は、神の子孫故に外国(異朝)と異なる、との『神皇正統記』の一節を引用します。『神皇正統記』はまず、次のように説明します。この世界(娑婆世界)の中心には須弥山があり、その四方には四大陸が広がっていて、南の大陸を贍部と呼びます。贍部の中央に位置するのが天竺(インド)で、震旦(中国)は広いといっても、天竺と比較すれば「一片の小国」にすぎません。日本は贍部を離れた東北の海中にあります。日本は、釈迦の生まれた天竺からはるかに隔たった辺境の小島(辺土粟散)にすぎない、というわけです(末法辺土思想)。こうした理念は、末法思想の流行にともない、平安時代後期には社会に共有されました。

 13世紀後半のモンゴル襲来を契機に台頭する神国思想と末法辺土思想は、真っ向から対立する、との見解が学界では主流でした。神国思想は、末法辺土思想を克服するために説かれたのだ、というわけです。それは、「神道的優越感」による「仏教的劣等感」の「克服」と解釈されました。しかし、中世における神国思想の代表とされる『神皇正統記』にしても、日本を辺土粟散と位置づけていました。本書は、神国思想が外国を意識してのナショナリズムだったのか、疑問を呈します。神国思想のもう一つの核である天皇も、中世には儒教的徳治主義や仏教の十善の帝王説の立場から相対化されており、天皇を即自的に神聖な存在とする『国体の本義』とは異なります。

 神国思想の解明にさいしてまず重要なのは、日本における神です。日本の神は現代では、日本「固有」もしくは「土着」の存在として認識されています。しかし、古代と現代とでは、神のイメージは大きく異なります。次に、神国思想を「神道」の枠内にとどめず、より広い思想的・歴史的文脈で見ていかねばなりません。日本を神国とする主張は日本の神祇(天神地祇=天地のあらゆる神々)の世界と密接不可分ですが、中世において圧倒的な社会的・思想的影響力を有していたのは仏教でした。また、陰陽道・儒教など多様な宗教世界の全体的構図を視野に入れねばなりません。こうした視点から、本書は中世、とくに院政期と鎌倉時代を中心に、古代から現代にいたる神国思想の変遷とその論理構造を解明していきますが、その前に、そうした変遷と論理構造の前提となった世界観の変容が解説されます。


 本書は、古代における天皇号の確立を重視します。これにより、ヤマト政権の大王とは隔絶した権威が確立され、天皇が神聖化されるにともない、天照大神を頂点とする神々と神話の体系的秩序が形成されました。じゅうらいは、各氏族がそれぞれ神話と祖先神を有していました。律令体制の変容(本書では古代的な律令制支配の「解体」と表現されています)にともない、平安時代後半には、国家の支援を期待できなくなった大寺院が、摂関家や天皇家といった権門とともに荘園の集積を積極的に進め、古代から中世へと移行していきます。有力神社も、荘園を集積したり、不特定多数の人々に社参や参籠を呼びかけたりするようになります。律令制のもとで神社界の頂点にあった伊勢神宮も、御師が日本各地を回り、土地の寄進を募っていました。

 こうした変動は、伊勢神宮を頂点とする神々の序列にも影響を与えました。国家から以前のような保護を受けられなくなった代わりに、相対的に自立した各神社は、浮沈存亡をかけて競争するようになります。日吉神社を中心とする山王神道関係の書物では、山王神こそ日本第一の神と主張され、公然と天照大神を頂点とする既存の神々の秩序に挑戦しました。本書はこうした状況を、神々の世界における自由競争・下剋上と表現しています。春日社(春日大明神)や熊野本宮や石清水八幡宮なども、既存の神々の秩序に挑戦しました。伊勢神宮でも、経済力をつけてきた外宮が、天照大神を祭る内宮の権威に挑戦します。

 こうした神々の世界における自由競争・下剋上的状況で、天照大神というか伊勢神宮内宮の側も、「自由競争」に参加せざるを得なくなります。しかし本書は、これは天照大神にとって悪いことばかりではなかった、と指摘します。かつての天照大神は諸神の頂点に位置づけられていたものの、非皇族が参詣することも幣帛を捧げることも認められておらず、貴族層の間ですら詳しくは知られていませんでした。確固たる秩序の古代から「自由競争」の中世へと移行し、天照大神は伊勢神宮内宮の努力により、日本において広範な支持・基盤を得るようになります。人々の祈願に気軽に声を傾けるようになった天照大神の一般社会における知名度は、古代よりも飛躍的に上昇します。こうした神の性格の変化は天照大神だけではなく、程度の差こそあれ、どの有力神でも同様でした。有力な神々は、各氏族(天照大神の場合は皇族)の占有神から開かれた「国民神」としての性格を強めていった、というわけです。

 このように中世に神々の性格が変容するにつれて、神々は主権者として特定の領域に君臨し、排他的・独占的に支配する存在と主張されるようになります。寺院でも、寺領荘園が「仏土」と称されるようになります。こうした寺社領への侵犯は、仏罰・神罰として糾弾されました。古代にも一定の領域を神の地とする観念は存在しましたが、あくまでも抽象的・観念的で、中世のように可視的な境界線と具体的な数値で示されるものではありませんでした。さらに、古代と中世以降とでは、神への印象が大きく異なっていました。古代の神は常に一定の場所にいるわけではなく、人間の都合だけで会える存在ではありませんでした。古代の神は基本的に、祭りなど特定の期間にだけ祭祀の場に来訪し、それが終わればどこかに去ってしまうものでした。神が特定の神社に常駐するという観念が広く社会に定着するのは、せいぜい律令国家形成期以降でした。一方、中世の神は遊行を繰り返す存在ではなく、常に社殿の奥深くにあって現世を監視し続け、神社やその領地の危急時には、老人・女性・子供などの具体的姿で現世に現れて人々に指示をくだす存在でした。中世の神々は、人々に具体的な姿で現れ、信仰する者には厚い恩寵を与え、自らの意思に反する者には容赦ない罰をくだす、畏怖すべき存在でしたが、全知全能の絶対者ではなく、多彩で豊かな情感を有し、時には神同士の戦闘で傷つき、弱音を吐くこともありました。


 このように、古代と中世とでは、神の性格が大きく変容します。本書は次に、そうした変容がいかなる論理・契機で進行したのか、解説します。神祇界における古代から中世への移行で重要なのは、上述した国家的な神祇秩序の解体と神々の自立でしたが、もう一つ重要なのは、仏教との全面的な習合でした。主要な神々はすべて仏の垂迹とされ、仏教的なコスモロジーの中に組み込まれました。中世の神国思想は、こうした濃密な神仏混淆の世界から生まれました。仏教伝来後しばらく、神と仏が相互に内的な関係を結ぶことはありませんでした。朝廷の公的儀式でも、仏教は原則として排除されていました。しかし、奈良時代になると、日本の神々が仏法の守護神(護法善神)として位置づけられ、神社の周辺に神宮寺と呼ばれる寺院が建立されるようになります。神は煩悩に苦しむ衆生の一人として仏教に救済を求めていた、と信じられるようになります。

 しかし、この時点での主役はあくまでも神社に祀られた神で、寺院はまだ神を慰めるための付随的な施設にすぎませんでした。平安時代後半以降、神宮寺と神社の力関係は逆転します。王城鎮守としての高い格式を誇る石清水八幡宮では、元々はその付属寺院(神宮寺)にすぎなかった護国寺が逆に神社を支配するようになります。日吉社と延暦寺、春日社と興福寺、弥勒寺と宇佐八幡宮などのように、伊勢神宮を除く大規模な神社の大半が寺家の傘下に入り、その統制に服するようになります。こうした神社と寺院の一体化が進行するなか、思想的な水準でも神と仏の交渉が著しく進展します。神仏を本質的には同一とし、神々を仏(本地)が日本の人々の救済のために姿を変えて出現したもの(垂迹)とする本地垂迹説が、日本全域に浸透し、各神社の祭神は菩薩・権現と呼ばれるようになります。鎌倉時代には、ほとんどの神の本地が特定され、天照大神の本地は観音菩薩や大日如来とされました。


 平安時代に本地垂迹説が日本を席巻した背景として、10世紀頃から急速に進展する彼岸表象の肥大化と浄土信仰の流行がありました。死後の世界(冥界・他界)の観念は太古よりありましたが、平安時代前半まで、人々の主要な関心はもっぱら現世の生活に向けられており、来世・彼岸はその延長にすぎませんでした。しかし、平安時代半ば以降、しだいに観念世界に占める彼岸の割合が増大し、12世紀には現世と逆転します。現世はしょせん仮の宿で、来世の浄土こそ真実の世界なのだから、現世の生活のすべては往生実現のために振り向けられなければならない、との観念が定着しました。古代的な一元的世界にたいする、他界─此土の二重構造を有する中世的な世界観が完成したわけです。当時、往生の対象としての彼岸世界を代表するのは、西方の彼方にあると信じられていた、阿弥陀仏のいる西方極楽浄土でした。しかし、それに一元化されているわけではなく、観音菩薩の補陀落浄土・弥勒菩薩の兜率浄土・薬師仏の浄瑠璃世界・釈迦仏の霊山浄土などといった、多彩な他界浄土がありました。とはいえ、真実の世界たる彼岸の存在という確信は、どれも変わりませんでした。

 浄土往生に人生究極の価値を見出した平安時代後半以降の人々にとって、どうすればそれを実現できるのかが、最大の関心事でした。法然の出現前には、念仏を唱えれば往生できるといった簡単な方法はなく、試行錯誤が続いていました。そうした中で、最も効果的と考えられていたのは、垂迹たる神への結縁でした。平安時代後半から急速に普及する仏教的コスモロジーにおいて、日本は此土のなかでも中心である天竺から遠く離れた辺土と位置づけられました。しかも、平安時代後半には末法の世に入った、と信じられていました。こうした中で、末法辺土の救済主として垂迹が注目されるようになります。垂迹たる神が平安時代後半以降の日本に出現したのは、末法辺土の衆生を正しい信仰に導き、最終的には浄土へ送り届けるためでした。そのため、垂迹のいる霊地・霊場に赴いて帰依することが、往生への近道と考えられました。

 仏との親密化・同体化にともない、日本の伝統的な神々は仏教の影響を受け、その基本的な性格が大きく変容していきます。上述したように、日本の神は、律令国家成立の頃より、定まった姿を持たず、祭祀の期間にだけ現れ、終わると立ち去るような、気ままに遊行を繰り返す存在から、一つの神社に定住している存在と考えられるようになりました。律令国家は、天皇をつねに守護できるよう、神を特定の場所に縛りつけました。また、かつては定まった姿を持たない神が、9世紀になると、仏像にならって像を作られるようになります。このように、律令国家成立の頃よりの神の大きな変化として、可視化・定住化の進展が挙げられます。

 もう一つの神の重要な変化は「合理化」です。かつて神々が人間にたいして起こす作用は、しばしば「祟り」と呼ばれ、その時期と内容、さらにはどの神が祟りを下すのかさえ、人間の予知の範囲外とされました。祟りを鎮めるためには、いかに予測不能で非合理な命令でも、神の要求に無条件に従うしかありませんでした。しかし、平安時代半ば頃から、神と人間の関係は変容し始めます。たとえば、返祝詞の成立です。朝廷からの奉献された品々を納受とそのお返しとしての王権護持からは、もはや神が一方的に人間に服従を求める立場にはないことを示しています。神々は人間にとって「非合理的的」存在から「合理的」存在へと変容したわけです。神々の「合理化」は、神の作用を「祟り」から「罰」と表現するようになったことからも窺えます。罰は賞罰という組み合わせで出現する頻度が高く、賞罰の基準は神およびその守護者たる仏法にたいする信・不信でした。神が初めから明確な基準を示しているという意味で、罰と祟りは異質です。神が人間にたいして一方的に(しばしば「非合理」的な)指示を下す関係から、神と人間相互の応酬が可能な関係へと変容したわけです。こうした神々の「合理化」の背景として、本地垂迹説の定着にともなう神仏の同化がありました。本地垂迹説は、単に神と仏を結びつけるのではなく、人間が認知し得ない彼岸世界の仏と、現実世界に実在する神や仏や聖人とを結合する論理でした。救済を使命とする彼岸の仏(本地)と、賞罰権を行使する此土の神・仏・聖人(垂迹)という分類です。垂迹たる神は自らが至高の存在というわけではなく、仏法を広めるために現世に派遣されたので、その威力も神の恣意によるものではなく、人々を覚醒させるために用いられるべきものでした。神の「合理化」はこうして進展しました。古代ローマでも、当初の神は「理不尽」で「非合理的な」存在でした。

 本地垂迹説の流布は、仏と神がタテの関係においてのみならず、ヨコの関係においても接合されたことを意味します。垂迹たる現世の神・仏・聖人の背後には本地たる仏・菩薩がいますが、その本地も究極的には全宇宙を包摂する唯一の真理(法身仏)に溶融するものと考えられていました。個々の神々も本質的には同一の存在というわけです。法身仏の理念は、「神々の下剋上」的風潮において、完全な無秩序に陥ることを防ぐという、重要な機能を果たしました。仏教的な世界像では、現実世界(娑婆世界)の中心には須弥山がそびえ、その上空から下に向かって、梵天・帝釈天・四天王の住む世界があり、その下に日本の神々や仏像が位置づけられていました。日本の神は聖なる存在とはいっても、世界全体から見ればちっぽけな日本列島のごく一部を支配しているにすぎません。また、こうした序列のなかで、仏教や日本の神祇信仰だけではなく、道教の神々も取り入れられ、その順位は日本の神仏よりも上でした。それは、道教的な神々が日本の神仏よりも広範な地域を担当していたからでした。中世の神々の秩序においては、仏教から隔離された純粋な神祇世界に、相互の結合と神々の位置を確認するための論理は見出されませんでした。中世において、日本の神々は仏教的世界観の中に完全に身を沈めることで初めて、自らの安定した地位を占められました。こうして、天照大神を頂点とする強く固定的な上下の序列の古代から、神々が横一線で鎬を削りつつ、仏教的な世界観に組み入れられ、ゆるやかに結合した中世へと移行します。


 こうした古代から中世への思想状況の変容を背景に、本書は古代と中世の神国思想の論理構造と違いを解説していきます。『日本書紀』に初めて見える神国観念は、神国内部から仏教などの外来要素をできるだけ排除し、神祇世界の純粋性を確保しようとする指向性を有している、イデオロギー的色彩の濃厚なものでした。これには、新羅を強く意識した創作という側面も多分にあります。一方、院政期の頃より、神の国と仏の国の矛盾なき共存を認める神国観念が浮上します。仏教の土着化と本地垂迹説の普及を背景として、神仏が穏やかに調和する中世的な神国思想の出現です。

 『日本書紀』の時点では神国観念はそれほど表面に出ておらず、神国という用語が初めてまとまりをみって出現するのは9世紀後半で、その契機は新羅船の侵攻でした。古代の神国思想は、新羅を鏡とすることで確定する領域でした。その後、平安時代中期に日本の観念的な領域(東は陸奥、西は五島列島、南は土佐、北は佐渡の範囲内)が確定し、神国もこの範囲に収まりました。この範囲は、後に東方が「外が浜」へ、西方が「鬼界が島(現在の硫黄島?)」へと移動(拡大)したものの、基本的にはずっと維持されました。もっとも、これらの範囲は近現代のような明確な線というよりは、流動的で一定の幅を有する面でした。また、こうした日本の範囲は、濃厚な宗教的色彩を帯びていました。この範囲を日本の前提として、奈良時代から9世紀後半までの神国観念は、天照大神を頂点とし、有力な神々が一定の序列を保ちながら、天皇とその支配下の国土・人民を守護する、というものでした。本書はこれを「古代的」神国思想と呼んでいます。古代的神国思想の特徴は、仏教的要素が基本的にはないことです。古代において、公的な場での神仏分離は徹底されており、むしろ平安時代になって自覚化・制度化されていきました。

 古代的神国観念から中世的神国観念への移行で注目されるのは、院政期の頃より日本を神国とする表現が急速に増加し始めることです。神国は、古代の神国思想では、天照大神を頂点とする神々により守護された天皇の君臨する単一の空間が、中世の神国思想では、個々の神々の支配する神領の集合体が想定されていました。また、古代では一体とされていた「国家」と天皇が中世には分離します。中世の神国思想の前提には、上述の本地垂迹説がありました。彼岸と此岸の二重構造的な世界観を前提とし、遠い世界の仏が神として垂迹しているから日本は神国なのだ、という論理が中世の神国思想の特色でした。つまり、古代の神国思想とは異なり、中世の神国思想では仏は排除されておらず、むしろ仏を前提として論理が構築されていました。

 その意味で、上述した、神国思想は平安時代後期から広まった仏教的世界観に基づく末法辺土意識を前提として、その克服のために説きだされた、との近現代日本社会における認識は根本的に間違っています。日本が末法辺土の悪国であることは、本地である仏が神として垂迹するための必要条件でした。神国と末法辺土は矛盾するわけでも相対立するわけでもなく、相互に密接不可分な補完的関係にありました。中世の神国思想は、仏教が日本に土着化し、社会に浸透することにより、初めて成立しました。

 また、中世的神国思想は、モンゴル襲来を契機として、ナショナリズムを背景に高揚し、日本を神秘化して他国への優越を強く主張する、との近現代日本社会における認識も妥当ではありません。まず、日本の神祇を仏教的世界観に包摂する論理構造の神国思想は、国土の神秘化と他国への優越を無条件に説くものではなく、むしろ普遍的真理・世界観と接続するものでした。また、釈迦も孔子や日本の神々や聖徳太子などと同様に他界から派遣された垂迹であって、本地仏とは別次元の存在でした。中世的神国思想は、日本とインド(天竺)を直結させ、中国(震旦)を相対化するものではありませんでした。本地垂迹説の論理は、娑婆世界(現世)の二地点ではなく、普遍的な真理の世界と現実の国土を結びつけるものでした。ただ、中世の神国思想に、日本を神聖化し、他国への優越を誇示する指向性があり、鎌倉時代後半からそれが強くなっていったことも否定できません。しかし本書は、神国思想が仏教的理念を下敷きにしていたことの意義を指摘します。

 日本は天竺・震旦とともに三国のうちの一国として把握され、日本が神国であるのは、たまたま仏が神として垂迹したからで、天竺と震旦が神でないのは、神ではなく釈迦や孔子が垂迹したからでした。そのため、日本の聖性と優越が強調されたとしても、それは垂迹の次元でのことでした。日本に肩入れする神仏は垂迹で、日本と敵対する国にも垂迹はいました。垂迹たちの背後には共通の真理の世界が存在し、その次元ではナショナリズム的観念には意味がありませんでした。中世の僧侶が日本を礼賛して日本の神仏の加護を願いつつ、たびたび震旦・天竺行きを志したのも、本地垂迹説の「国際的な」世界観が前提としてあったからでした。上述した、『神皇正統記』における、日本神国で他国(異朝)とは異なる、との主張も、単純に日本の優越性を説いたものではなく、本地としての仏が神として垂迹し、その子孫が君臨しているという意味での「神国」は日本だけだ、と主張するものでした。『神皇正統記』では、日本賛美傾向もあるものの、日本が広い世界観の中に客観的に位置づけられており、その日本観はかなりの程度客観的です。


 中世的神国思想は、モンゴル襲来を契機として、ナショナリズムを背景に高揚し、日本を神秘化して他国への優越を強く主張する、との近現代日本社会における認識は、中世的神国思想がどのような社会的文脈で強調されたのか、との観点からも間違っています。中世において神国思想がある程度まとまって説かれる事例としては、院政期の寺社相論・鎌倉時代のいわゆる新仏教排撃・モンゴル襲来があります。すでにモンゴル襲来前に、「対外的」危機を前提とせずに、中世的神国思想が強調されていたわけです。中世において、神仏が現実世界を動かしているとの観念は広く社会に共有されており、寺社勢力が大きな力を振るったのはそのためでした。院政期に集中的に出現する神国思想は、国家的な視点に立って権門寺社間の私闘的な対立の克服と融和・共存を呼びかけるため、院とその周辺を中心とする支配層の側から説かれたものでした。神国思想の普遍性が活かされているのではないか、と私は思います。

 いわゆる鎌倉新仏教、中でも法然の唱えた専修念仏は、伝統仏教側から激しく執拗な弾圧を受けました。そのさい、しばしば神国思想が持ち出されました。専修念仏者が念仏を口実として明神を敬おうとしないのは、「国の礼」を失する行為で神の咎めに値する、と伝統仏教側は糾弾しました。神々の威光は仏・菩薩の垂迹であることによるのだから、神々への礼拝の拒否は「神国」の風儀に背く、というわけです。末法辺土の日本では存在を視認できない彼岸の仏を信じるのは容易ではないので、末法辺土の日本に垂迹して姿を現した神々・聖人・仏像などへの礼拝が必要とされました。伝統仏教側は、神々の「自由競争」・「下剋上的状況」のなか、礼拝・参詣により人々の関心を垂迹たる神々や仏像のある霊場に向けさせようとしました。しかし法然は、念仏により身分・階層に関わりなく本地の弥陀の本願により極楽往生できる、と説きました。誰もが、彼岸の阿弥陀仏と直接的に縁を結べるのであり、彼岸と此岸を媒介する垂迹は不要どころか百害あって一利なしとされました。法然の思想には本来、現実の国家・社会を批判するような政治性はありませんでしたが、荘園支配のイデオロギー的基盤となっていた垂迹の権威が否定されたことは、権門寺社にとって支配秩序への反逆に他ならず、垂迹の否定は神国思想の否定でもありました。そのため、専修念仏は支配層から弾圧されました。

 モンゴル襲来の前後には、神々に守護された神国日本の不可侵を強調する神国思想が広く主張されました。本書はこれを、ナショナリズム的観念の高揚というより、荘園公領体制下で所領の細分化による貧窮化などの諸問題を、神国と規定してモンゴル(大元ウルス)と対峙させることで覆い隠そうとするものだった、と指摘しています。院政期の寺社相論や鎌倉時代のいわゆる新仏教排撃で見られたように、中世の神国思想はモンゴル襲来よりも前に盛り上がりを見せており、対外的危機を前提とはしていませんでした。寺社相論も鎌倉新仏教への弾圧もモンゴル襲来も、権門内部で完結する問題ではなく、国家秩序そのものの存亡が根底から揺らぐような問題だったため、神国思想が持ち出された、と本書は論じます。中世において、国家全体の精神的支柱である寺社権門の対立は、国家体制の崩壊に直結しかねない問題でした。専修念仏の盛り上がりも、寺社権門の役割を否定するものという意味で、国家的な危機と認識されました。もちろん、モンゴル襲来はたいへんな国家的危機で、支配層たる権門の再結集が図られるべく、神国思想が強調されました。イデオロギーとしての神国思想はむしろ、内外を問わず、ある要因がもたらす国家体制の動揺にたいする、支配層内部の危機意識の表出という性格の強いものでした。

 神国思想は本来、日本を仏の垂迹たる神々の鎮座する聖地と見る宗教思想でしたが、支配層の総体的危機において力説されたように、政治イデオロギーの役割も担わされました。すべての権力が天皇に一元化していく古代とは異なり、中世社会の特色は権力の分散と多元化にありました。多元的な権力から構成される社会において、諸権門をいかに融和させるかが重要な課題となり、神国思想もそうした中世の国家体制を正当化するイデオロギーとして支配層から説きだされた、と本書は推測しています。神国思想が強調されたのは、個別の権門が危機に陥った時ではなく、国家秩序全体の屋台骨が揺らいでいるような時でした。ただ、中世、とくに前期においては、神国思想は民衆を支配するイデオロギーとして強く機能したわけではありませんでした。中世の民衆を束縛した理念は、荘園を神仏の支配する聖なる土地とする仏土・神領の論理だった、と本書は推測しています。国思想は、じっさいの海外交渉ではなく支配層の危機意識の反映だったので、抽象的でした。その背景となる仏教的世界観自体がきわめて観念的性格の強いものだったので、神国思想はなおさら抽象的にならざるを得ませんでした。天竺・震旦・日本から構成される三国世界との認識も観念的で、日本仏教との関わりの強い朝鮮半島が欠落していました。


 本書は次に、神国思想における天皇の占める位置の変遷を解説します。古代では天皇は神国思想の中核的要素でしたが、中世の神国思想では天皇の存在感は希薄です。古代の神国思想は天皇の安泰を目的としましたが、中世では、天皇は神国維持の手段と化し、神国に相応しくない天皇は速やかに退場してもらう、というのが支配層の共通認識でした。その前提として、天皇の在り様の変化があります。律令国家の変容にともない、天皇の在り様も大きく変わります。天皇の政治権力は失墜しますが、形式上は最高次の統治権能保有者たる「国王」であり続けました。それは、他の権力では代替できない権威を天皇が有していたからでした。それに関しては、大嘗祭に象徴される古代から現代まで一貫する権威があった、という説と、即位灌頂のような仏教的儀式に代表される、それぞれの時代に応じた権威があった、という説が提示されています。

 一方、院政期になると天皇がさまざまな禁忌による緊縛から解き放たれて、神秘性を失ってしまう、との見解もあります。天皇は現御神の地位から転落した、というわけです。天皇は、より高次の宗教的権威である神仏の加護なくして存立し得ず、罰を受ける存在でもある、との観念も広く見られるようになりました。つまり、天皇の脱神秘化が進み、天皇はもはや内的権威で君臨できなくなったので、即位灌頂のような新たな仏教的儀式に見られるように、外的権威を必要としたのではないか、というわけです。しかし本書は、天皇に対する仮借なき批判が一般的だったことから、新たな儀式の効果には限界があった、と指摘します。そもそも、即位灌頂は秘儀とされていて、特定の皇統で行なわれていただけで、よく知られていませんでした。即位灌頂き一般的な天皇神秘化の儀式ではなく、特定の皇統による自己正当化の試みの系譜ではないか、と本書は指摘しています。

 古代の神国思想は天皇の存在を前提として正当化することが役割でした。神々の守るべき国家とは天皇でした。中世には、国家的寺社が自立し天皇は権門の一員となりました。しかし、分権化の進行する中世において、とくに体制総体が危機にある時は、天皇が諸権門の求心力の焦点としての役割を果たすには、ある程度聖別された姿をとることが必要でした。古代には天皇が神孫であることは天皇個人の聖化と絶対化に直結していましたが、中世には神孫であることは即位の基礎資格でしかなく、天皇の終生在位を保証しませんでした。これは、中世には古代と異なり、天皇の観念的権威の高揚が天皇個人の長久を目的としておらず、国家支配維持の政治的手段だったことと密接に関連しています。そのため天皇が国王としての立場を逸脱したとみなされた場合は、支配層から批判され、交代が公然と主張されました。天皇は中世には体制維持の手段と化したわけです。古代には国家とは天皇そのものでしたが、中世の国家概念には国土や人民といった要素が含まれるようになり、国家はより広い支配体制総体を指す概念となりました。神孫であることだけでは天皇位を維持できないので、中世の天皇は徳の涵養を強調する場合もありました。

 より高次の宗教的権威が認められ、個人としては激しく批判されることもあった天皇が必要とされ続けたのは、一つには、神代からの伝統と貴種を認められた天皇に代わるだけの支配権力結集の核を、支配層が用意に見つけられなかったからです。権力の分散が進行する中世において、混乱状況の現出を防ぐために、権門同士の調整と支配秩序の維持が重要な課題として浮上しました。天皇が国家的な位階秩序の要を掌握していたのは、単に伝統だからではなく、支配層全体の要請でもありました。したがって、天皇位の喪失は、天皇家という一権門の没落にとどまらず、支配層全体の求心力の核と、諸権門を位置づけるための座標軸の消失を意味していました。既存の支配秩序を維持しようとする限り、国王たる天皇を表に立てざるを得ないわけです。そのため、体制の矛盾と危機が強まるほど、天皇の神聖不可侵は反動的に強調されねばならず、故にそうした時には神国思想も強調されました。

 天皇が必要とされたもう一つの理由は、中世固有の思想状況です。中世では地上の権威を超える権威たる本地仏が広く認められていたので、天皇ではない者が本地仏と直接結びつく可能性もありました。日蓮や専修念仏には、そうした論理の萌芽が認められ、天皇家と運命共同体の公家にとって、天皇に取って代わる権威は絶対に認められないので、新興仏教に対抗するために天皇と神国を表に出しました。武家政権も、中世前期においては荘園体制を基盤とし、垂迹たる神仏への祈祷に支えられていたので、垂迹を経由せず彼岸の本仏と直接結びつくような、日蓮や専修念仏の信仰を容認できませんでした。武家政権が神国思想を否定することは、鎌倉時代の段階では不可能でした。


 このように、神国思想は固定化された理念ではなく、歴史の状況に応じて自在に姿を変えてきました。神国思想はしばしば、普遍世界に目を開かせ、非「日本的」要素を包摂する論理としても機能しました。「神国」の理念を現代に活かすのであれば、安易に過去の「伝統」に依拠せず、未来を見据え、世界を視野に収めてその中身を新たに創造していく覚悟が求められます。日本を神国とみなす理念は古代から近現代に至るまでいつの時代にも見られましたが、その論理は時代と論者により大きな隔たりがありました。その背景には、神国思想の基盤となる神観念の変貌とコスモロジーの大規模な転換がありました。モンゴル襲来以降の神国思想も、決して手放しの日本礼賛論ではありませんでした。中世の神国思想の骨格は、他界の仏が神の姿で国土に垂迹している、という観念にありました。普遍的存在である仏が神の姿で出現したから「神国」というわけです。インド(天竺)や中国(震旦)が神国ではないのは、仏が神以外の姿をとって現れたからでした。

 現実のさまざまな事象の背後における普遍的な真理の実在を説く論理は、特定の国土・民族の選別と神秘化に本来なじみません。中世的な神国思想の基本的性格は、他国に対する日本の優越の主張ではなく、その独自性の強調でした。中世的な神国思想は、仏教的世界観と根本的に対立するのではなく、それを前提として初めて成立するものでした。中世的神国思想において、天皇はもはや中心的要素ではなく、神国存続のための手段でした。神国に相応しくない天皇は退位させられて当然だ、というのが当時の共通認識でした。中世的神国思想には普遍主義的性格が見られます。中世の思潮に共通して見られる特色は、国土の特殊性への関心とともに、普遍的世界への強い憧れです。現実世界に化現した神・仏・聖人への信仰を通じて、誰かもが最終的には彼岸の理想世界に到達できる、という思想的状況において、中世の神国思想は形成されました。

 中世後期(室町時代)以降、日本の思想状況における大きな変化は、中世前期(院政期・鎌倉時代)に圧倒的な現実感を有していた他界観念の縮小と、彼岸─此岸という二重構造の解体です。古代から中世への移行期に、現世を仮の宿と考え、死後の理想世界たる浄土への往生に強い関心を寄せる世界観が成立しました。しかし、中世後期には浄土のイメージが色褪せ、現世こそが唯一の実態との見方が広まり、日々の生活が宗教的価値観から解放され、社会の世俗化が急速に進展します。仏は人間の認知範囲を超えたどこか遠い世界にあるのではなく、現世の内部に存在し、死者が行くべき他界(浄土)も現世にある、というわけです。死者の安穏は遥かな浄土への旅立ちではなく、墓地に葬られ、子孫の定期的な訪れと読経を聞くことにある、とされました。神は彼岸への案内者という役割から解放され、人々の現世の祈りに耳を傾けることが主要な任務となりました。この大きな社会的変化は、江戸時代に完成します。このコスモロジーの大変動は、その上に組み上げられたさまざまな思想に決定的転換をもたらしました。彼岸世界の衰退は、垂迹の神に対して特権的地位を占めていた本地仏の観念の縮小を招き、近世の本地垂迹思想は、他界の仏と現世の神を結びつける論理ではなく、現世の内部にある等質な存在としての仏と神をつなぐ論理となりました。その結果、地上のあらゆる存在を超越する絶対者と、それが体現していた普遍的権威は消滅しました。中世において、現世の権力や価値観を相対化して批判する根拠となっていた他界の仏や儒教の天といった観念は、近世では現世に内在化し、現世の権力・体制を内側から支えることになりました。

 彼岸世界の後退という大きな変動が始まるのは14世紀頃で、死後の彼岸での救済ではなく、現世での充実した生が希求されるようになりました。もっとも、客観的事実としての彼岸世界の存在を強力に主張し、彼岸の仏の実在を絶対的存在とする発想は、中世を通じておもに民衆に受容されて存続しました。一向一揆や法華一揆は、他界の絶対的存在と直結しているという信念のもと、現世の権力と対峙しましたが、天下人との壮絶な闘争の末に、教学面において彼岸表象の希薄な教団だけが正統として存在を許されました。江戸時代にはすべての宗教勢力が統一権力に屈し、世俗の支配権力を相対化できる視点を持つ宗教は、社会的な勢力としても理念の面でも消滅しました。神国思想も、近世には中世の要素を強く継承しつつも、大きく変わりました。近世の神国思想では、本地は万物の根源ではなく「心」とされました。本地は異次元世界の住人ではなく、人間に内在するものとされました。また、近世の神国思想では、垂迹は浄土と現世を結ぶ論理とは認識されておらず、中世の神国思想の根底をなした遠い彼岸の観念は見られません。近世の神国思想では、本地垂迹は他界と現世とを結ぶのではなく、現世における神仏関係となっていました。

 中世的神国思想の中核は、他界の仏が神として日本列島に垂迹している、という理念でした。現実の差別相を超克する普遍的真理の実在にたいする強烈な信念があり、それが自民族中心主義へ向かって神国思想が暴走することを阻止する役割を果たしていました。しかし、中世後期における彼岸表象の衰退にともない、諸国・諸民族をともかくも相対化していた視座は失われ、普遍的世界観の後ろ盾を失った神国思想には、日本の一方的な優越を説くさいの制約は存在しませんでした。じっさい、江戸時代の神道家や国学者は、神国たる日本を絶賛し、他国にたいする優越を説きました。中世的な神国思想では日本の特殊性が強調されましたが、近世の神国思想では、日本の絶対的優位が中核的な主張となりました。

 古代においても中世前期においても、神国思想には制約(古代では神々の整然たる秩序、中世では仏教的世界観)があり、自由な展開には限界があった、という点は共通していました。しかし、近世においては、権力批判に結びつかない限り、神国思想を制約する思想的条件はありませんでした。近世には、思想や学問が宗教・イデオロギーから分離し、独立しました。近世の神国思想は多様な人々により提唱され、日本を神国とみなす根拠も、さまざまな思想・宗教に基づいていました。共通する要素は、現実社会を唯一の存在実態とみなす世俗主義の立場と強烈な自尊意識です。近世の神国思想の重要な特色としては、中世では日本=神国論の中心から排除されていた天皇が、再び神国との強い結びつきを回復し、中核に居座るようになったことです。中世において至高の権威の担い手は、超越的存在としての彼岸の本地仏でした。中世後期以降、彼岸のイメージが縮小し、中世には天皇を相対化していた彼岸的・宗教的権威が後退していきます。近世の神国思想において、本地垂迹の論理は神国を支える土台たり得ず、日本が神国であることを保証する権威として、古代以来の伝統を有する天皇が持ち出されました。

 明治政府は神国=天皇の国という近世の神国思想の基本概念を継承しますが、神仏分離により、外来の宗教に汚されていない「純粋な」神々の世界のもと、神国思想を再編しました。近代の神国理念には、(近世以降に日本「固有」で「純粋な」信仰として解釈された)神祇以外の要素を許容する余地はなく、中世の仏教的世界観も、近世の多様な思想・宗教も排除されました。天皇を国家の中心とし、「伝統的な」神々が守護するという現代日本人に馴染み深い神国の理念は、こうした過程を経て近代に成立しました。近代の神国思想には、日本を相対化させる契機は内在されていませんでした。独善的な意識で侵略を正当化する神国思想への道が、こうして近代に開かれました。

 現代日本社会における神国思想をめぐる議論について、賛否どちらの議論にも前提となる認識に問題があります。日本=神国とする理念自体は悪ではなく、議論を封印すべきではありません。自民族を選ばれたものとみなす発想は時代を問わず広範な地域で見られ、神国思想もその一つです。排外主義としてだけではなく、逆に普遍的世界に目を開かせ、外来の諸要素を包摂する論理として機能したこともありました。神国思想は日本列島において育まれた文化的伝統の一つで、その役割は総括すべきとしても、文化遺産としての重みを正しく認識する義務があります。一方、神国思想を全面的に肯定する人々には、他者・他国に向けての政治的スローガンにすべきではない、と本書は力説します。そうした行為は、神国という理念にさまざまな思いを託してきた先人たちの努力と、神国が背負っている厚い思想的・文化的伝統を踏みにじる結果になりかねません。神国思想は、一種の選民思想でありながら、一見すると正反対な普遍主義への指向も内包しつ、多様に形を変えながら現代まで存続してきました。仏教・キリスト教・イスラム教などが広まった地域では、前近代において、普遍主義的な世界観が主流を占めた時期があります。宇宙を貫く宗教的真理にたいする信頼が喪失し、普遍主義の拘束から解放された地域・民族が、自画像を模索しながら激しく自己主張をするのが近代でした。自尊意識と普遍主義が共存する神国思想に関する研究成果は、方法と実証両面において、各地域における普遍主義と自民族中心主義の関わり方と共存の構造の解明に、何らかの学問的貢献ができる、と予想されます。


 以上が親本の内容となり、以下が文庫版の追加分となります。本書執筆の背景には、異形のナショナリズムと排他主義の勃興、大規模な汚染や大量破壊兵器といった近代が生み出した問題にたいする危機意識がありました。文庫版では、親本よりもこの問題意識が強く打ち出されています。近代化の延長線上にある現代の危機的状況の解決・克服には、近代そのものを相対化できる視座が不可欠で、それは前近代にまで射程を延ばしてこそ可能ではないか、というのが本書の見通しです。以下、親本での内容とかなり重なりますが、文庫版の追加分について備忘録的に取り上げていきます。


 中世には機能の異なる二種類の仏がいました。一方は、生死を超越した救済に民族(的概念に近い分類)・国の別なく衆生を導く普遍的存在で、姿形を持ちません。もう一方の仏は、具体的な形を与えられた仏像で、日本列島の住民を特別扱いし、無条件に守護する存在です。日本の仏は人々を彼岸(他界)の本仏に結縁させる役割を担っていますが、それ自体が衆生を悟りに到達させる力は持ちません。日本に仏教が導入された当初の古代において、死後の世界たる浄土は現世と連続しており、容易に往来できました。このような仏教受容は、人間が神仏や死者といった超越的存在(カミ)と同じ空間を共有する、という古代的なコスモロジーを背景としていました。

 こうした古代的な一元的世界観は、10〜12世紀に転換していきます。超越的存在にたいする思弁が深化して体系化されるにつれてその存在感が増大し、その所在地が現世から分離し始めます。人間の世界(現世)から超越的存在の世界(他界)が自立して膨張します。この延長線上に、現世と理想の浄土が緊張感をもって対峙する二元的な中世的コスモロジーが成立します。至高の救済者が住む他界こそが真実の世界とされ、現世は他界に到達するための仮の宿という認識が一般化しました。言語や肌の色の違いを超えて人々を包み込む普遍的世界が、現実の背後に実在すると広く信じられるようになりました。日本の神や仏像など、現世に取り残されたカミは、衆生を他界に導くために現世に出現した、彼岸の究極の超越的存在(本地仏)の化現=垂迹として位置づけられました。

 日本では古代から中世においてこのようにコスモロジーが転換し、仏教、とりわけ浄土信仰が本格的に受容されます。教理として論じられてきた厭離穢土欣求浄土の思想や生死を超えた救済の理念が、閉じられた寺院社会を超えて大衆の心をつかむ客観的情勢がやっと成熟したわけです。仏教や浄土教が受容されたから彼岸表象が肥大化したのではなく、他界イメージの拡大が、浄土信仰本来の形での受容を可能にしました。コスモロジーの変容が仏教受容の在り方を規定する、というわけです。現世を超えた個々人の救済をどこまでも探求する「鎌倉仏教」誕生の前提には、こうした新たなコスモロジーの形成がありました。このコスモロジーの転換の要因について、本書は人類史の根底にある巨大な潮流を示唆していますが、いずれ本格的に論じたい、と述べるに留まっています。

 神国がしきりに説かれるようになる中世は、多くの人が現世を超えた心理の世界を確信していた時代でした。日本の神は仏(仏像)と同じく、それ自体が究極の真理を体現するのではなく、人々を他界に送り出すことを最終的な使命として、現世に出現=垂迹した存在でした。神の存在意義は衆生を普遍的な救済者につなぐことにあったわけです。こうした世界観では、現世的存在で、他界の仏の垂迹にすぎない神に光を当てた神国の論理は、他国を見下し、日本の絶対的な神聖性と優位を主張する方向らには進みませんでした。神に託して日本の優越性が主張されるのは、世俗的な水準の問題に限られており、真実の救済の水準では、国や民族(的概念に近い分類)といった修行者の属性は意味を失いました。中世の神国思想は普遍的な世界観の枠組みに制約されていたわけです。日本が神国であるのは、彼岸の仏がたまたま神という形で出現したからで、インド(天竺)はそれが釈迦で、中国(震旦)はそれが孔子や顔回といった学者(聖人)だったので、神国とは呼ばれませんでした。

 中世的なコスモロジーは14〜16世紀に大きく転換していきます。不可視の理想世界にたいする現実感が消失し、現世と他界という二元的世界観が解体し、現世が肥大化していきます。人々が目に見えるものや計測できるものしか信じないような、近代へとつながる世界観が社会を覆い始めます。生死を超えた救済に人々を誘う彼岸の本地仏の存在感は失われ、現世での霊験や細々とした現世利益を担当する日本の神や仏像の役割が増大し、日本と外国を同次元においたうえで、日本の優位を主張するさまざまな神国思想が近世(江戸時代)には登場します。

 近世的神国思想では、背景にあった普遍主義の衰退にも関わらず、日本優位の主張が暴走することはありませんでした。その歯止めになっていたのは、一つには身分制でした。国家を果実にたとえると、身分制社会は、ミカンのようにその内部に身分や階層による固定的な区分を有しており、それが国家権力により保証されています。一つの国家のなかに利害関係を異にする複数の集団が存在し、国家全体よりも各集団の利害の方が優先されました。モンゴル襲来にさいして神国観念が高揚した中世においても、モンゴルと対峙した武士勢力に純粋な愛国心があったわけではなく、自らが君臨する支配秩序の崩壊にたいする危機意識と、戦功による地位の上昇・恩賞が主要な動機でした。自分の地位に強い矜持を抱き、命をかけてそれを貫こうとする高い精神性はあっても、愛する国土を守るために侵略者に立ち向かうといった構図は見当たらず、それが中世人の普通の姿でした。愛国心がないから不純だと考えるのは、近代的発想に囚われています。中世の庶民層でも国家水準の発想は皆無で、モンゴル襲来は、日本の解体につながるからではなく、日常生活を破壊するものとして忌避されました。

 近代国家は、内部が区分されているミカン的な近世社会から、一様な果肉を有するリンゴ的社会へと転換しました。近代国家は、全構成員を「国民」という等質な存在として把握します。この新たに創出された国民を統合する役割を担ったのが天皇でした。神国日本は悠久の伝統を有する神としての天皇をいただく唯一の国家なので、他国と比較を絶する神聖な存在であり、その神国の存続と繁栄に命を捧げることが日本人の聖なる使命とされました。普遍主義的コスモロジーが失われ、全構成員たる国民が神国の選民と規定された近代国家の成立により、神国日本の暴走に歯止めをかける装置はすべて失われました。第二次世界大戦での敗北により状況は一変しましたが、ナショナリズムを制御する役割を果たす基本ソフト(コスモロジー)が欠けているという点では、現在も変わりません。

 社会の軋轢の緩衝材としてのカミが極限まで肥大化し、聖職者によりその機能が論理化され、普遍的存在にまで高められたのが中世でした。現世の根源に位置する超越者は、民族・身分に関わりなく全員を包み込む救済者でした。近代化にともなう世俗化の進行とカミの世界の縮小により、人間世界から神仏だけではなく死者も動物も植物も排除され、特権的存在としての人間同士が直に対峙する社会が出現しました。近代社会は、人間中心主義を土台としていたわけです。この人間中心主義は基本的人権の拡大・定着に大きな役割を果たしましたが、社会における緩衝材の喪失も招きました。人間の少しの身動きがすぐに他者を傷つけるような時代の到来です。現在の排他的な神国思想は、宗教的装いをとっていても、社会の世俗化の果てに生まれたもので、その背後にあるのは、生々しい現世的な欲望と肥大化した自我です。自分の育った郷土や国に愛情と誇りを抱くのは自然な感情ですが、問題はその制御です。現在の危機が近代化の深化のなかで顕在化したものであれば、人間中心主義としての近代ヒューマニズムを相対化できる長い射程のなかで、文化・文明を再考することが必要です。これは、前近代に帰れとか、過去に理想社会が実在したとかいうことではなく、近代をはるかに超える長い射程のなかで、近現代の歪みを照射することが重要だ、ということです。


 以上、本書の見解について備忘録的に詳しく取り上げてきました。そのため、かなりくどくなってしまったので、改めて自分なりに簡潔にまとめておきます。神国思想は、神としての天皇を戴く日本を神国として、他国に対する絶対的優位を説いた、(偏狭な)ナショナリズムで、鎌倉時代のモンゴル襲来を契機に盛り上がりました。平安時代後期〜モンゴル襲来の頃まで、日本は釈迦の生まれた天竺からはるかに隔たった辺境の小島(辺土粟散)にすぎない、という末法辺土思想が日本では浸透しており、神国思想は神道的優越感による仏教的劣等感の克服でした。

 本書は、このような近現代日本社会における(おそらくは最大公約数的な)神国思想認識に疑問を呈し、異なる解釈を提示します。神国思想は、古代・中世・近世・近現代で、その論理構造と社会的機能が大きく変容しました。古代のコスモロジーは、人間が神仏や死者といった超越的存在と同じ空間を共有する、というものでした。しかし、古代の神は人間にとって絶対的で理不尽な存在で、人間には祟りをもたらし、予測不能で非合理的な命令をくだしました。また、古代の神は一ヶ所に定住せず、祭祀の期間にだけ現れ、終わると立ち去るような、気ままに遊行を繰り返す存在でした。これも、古代の神の人間にとって理不尽ではあるものの、絶対的存在でもあったことの表れなのでしょう。古代の神は氏族に占有されており、広く大衆に開かれているわけではありませんでした。しかし、律令国家形成の頃より、次第に神は一ヶ所に定住する傾向を強めていきます。中央集権を志向した律令国家により、神々も統制されていくようになったわけです。このなかで、皇祖神たる天照大神を頂点とする神々の整然とした秩序が整備され、天皇は国家そのものとされ、神々が守護すべき対象とされました。古代的神国思想では、仏教的要素は極力排除され、天皇が中核的要素とされました。

 こうした整然とした古代的秩序は、律令制度の変容にともない、平安時代前期に大きく変わります。神社にたいする国家の経済的支援は減少し、神社は皇族や有力貴族・寺院などとともに、荘園の集積に乗り出し、経済的基盤を確立しようとします(荘園公領制)。この過程で、古代的な整然とした神々の秩序は崩壊し、神々の自由競争的社会が到来します。これが古代から中世への移行で、古代から中世への移行期を経て、中世にはコスモロジーも神国思想も大きく変容します。古代から中世への移行期に、神の立場が大きく変わります。かつては一ヶ所に定住せず、人間に祟り、理不尽な命令をくだす絶対的な存在だったのが、一ヶ所に定住し、人間の信仰・奉仕に応じて賞罰をくだす、より合理的存在となります。神の一ヶ所への定住は、集積された各所領の正当性の主張に好都合でした。また、仏像にならって神の像も作られるようになります。古代から中世への神の変化は、合理化・定住化・可視化と評価されます。

 さらに、仏教の浸透、神々の仏教への融合により、かつては人間と神などの超越的存在とが同じ空間を共有していたのに、超越的存在の空間としての彼岸の観念が拡大し、理想の世界とされ、現世たる此岸と明確に分離します。こうしたコスモロジーは、仏教信仰と教学の深化により精緻になっていきました。そこで説かれたのが本地垂迹説で、普遍的真理たる彼岸の本地仏と、その化現である垂迹としての神や仏(仏像)という構図が広く支持されるようになりました。古代において人間にとって絶対的存在だった神は、普遍的真理ではあるものの、あまりにも遠く、人間には覚知しにくい彼岸と、現世の存在たる人間とを結びつける、本地仏より下位の存在となりました。この垂迹は、天竺(インド)・震旦(中国)・日本という当時の地理的認識における各国では、それぞれ異なる姿で現れました。天竺では釈迦、震旦では孔子、日本では神々というわけです。日本が神国との論理は、中世においては、垂迹が神であるという意味においてであり、日本が天竺や震旦より優位と主張する傾向もありましたが、それは垂迹の水準でのことで、本質的な主張ではありませんでした。中世の神国思想は、仏教的世界観を前提とした普遍的真理に基づいており、モンゴル襲来のようなナショナリズム的観念の高揚を契機に主張されるようになったのではありませんでした。じっさい、中世において神国思想が盛んに説かれる契機となったのは、院政期の寺社相論と鎌倉時代のいわゆる新仏教(とくに専修念仏)排撃で、モンゴル襲来よりも前のことでした。このような中世的神国思想は、他国にたいする絶対的優位を説く方向には進みませんでした。また、中世には天皇の権威も低下し、神国思想において天皇は自身が守護の対象というより、体制維持の手段でした。

 しかし、神国思想の前提となるコスモロジーが変容すれば、神国思想自体も大きく変わっていきます。14世紀以降、日本では中世において強固だった彼岸─此岸の構造が解体していきます。彼岸世界の観念は大きく縮小し、此岸たる現世社会が拡大していき、人々が彼岸世界に見ていた普遍的真理も衰退していきます。こうした傾向は江戸時代に明確になり、ナショナリズム的観念の肥大を阻止していた普遍的真理が喪失されたコスモロジーにおいて、自国の絶対的優越を説く主張への歯止めはもはや存在していませんでした。江戸時代(近世)には、さまざまな思想・宗教的根拠で他国にたいする日本の絶対的優位が主張され、天皇がその中核となっていきました。しかし、身分制社会の近世において、身分や階層による固定的な区分の、利害関係を異にする複数の集団が存在していたため、国家全体よりも各集団の利害の方が優先され、神国思想の他国にたいする暴走に歯止めがかけられていました。近代日本は、近世の神国思想を継承しつつ、(近世以降に日本「固有」で「純粋な」信仰として解釈された)神祇以外の要素を排除し、近現代日本社会における(最大公約数的な)神国思想認識が確立しました。近代日本は、全構成員を「国民」という等質な存在として把握します。この新たに創出された国民を統合する役割を担ったのが天皇でした。普遍主義的コスモロジーが失われ、全構成員たる国民が神国の選民と規定された近代国家の成立により、神国思想の暴走に歯止めをかける装置はすべて失われました。


 短くと言いつつ、長くなってしまい、しかもさほど的確な要約にもなっていませんが、とりあえず今回はここまでとしておきます。神国思想の論理構造と社会的機能の変遷を、世界観・思想・社会的状況から読み解いていく本書の見解は、12年前にはたいへん感銘を受けましたし、今でもじゅうぶん読みごたえがあります。ただ、当時から、古代が一元的に把握されすぎているのではないか、と思っていました。もっとも、諸文献に見える思想状況ということならば、本書のような把握でも大過はない、と言えるのかもしれませんが。一向一揆などいわゆる鎌倉新仏教系と支配層との対立的関係が強調されすぎているように思われることも、気になります(関連記事)。戦国時代の天道思想(関連記事)と中世のコスモロジーとの整合的な理解や、今後の日本社会において神国思想はどう活かされるべきなのか、あるいは否定的に解釈していくべきなのかなど、まだ勉強すべきことは多々ありますし、今回はほとんど本書の重要と思った箇所を引用しただけになったのですが、今回は長くなりすぎたので、それらは今後の課題としておきます。

https://sicambre.at.webry.info/201907/article_14.html

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理


  拍手はせず、拍手一覧を見る

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
  削除対象コメントを見つけたら「管理人に報告する?」をクリックお願いします。24時間程度で確認し違反が確認できたものは全て削除します。 最新投稿・コメント全文リスト
フォローアップ:

このページに返信するときは、このボタンを押してください。投稿フォームが開きます。

 

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 文化2掲示板

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。

     ▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 文化2掲示板

 
▲上へ       
★阿修羅♪  
この板投稿一覧