http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/463.html
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<夏の蝶>
・この日のことを上泉伊勢守(38歳)は生涯忘れなかった。
あのような異変が、わが身に起ころうとは…。
そしてまた、於富も伊勢守同様に、
(何故、私があのようなことをしたものか…それは自分にもわからぬ)
のである。
(書見を終えて)伊勢守は、居間から広縁へ出た。…庭から入りこんで来た紋白蝶が、はらはらとたゆたっていた。そして、その白い蝶は、廊下をたどって行く伊勢守の目の前を舞い泳ぎつつ左へ逸れた。
突き当りに於富の(あてがわれた)部屋がある。板扉がすこし開いていた。これは於富が(稽古後の)午睡からさめたことしめしている。
ために伊勢守は別だん、ためらうことなく。むしろ、にこやかに
「於富…」とよびかけ、「白蝶が…」いいさして、於富の部屋の前に立ち、中をのぞいた。
「よう、ねむっておる…」
つぶやいて伊勢守は、板扉の外から於富をながめた。
…
於富は先ず、師の声に目ざめた。そして、はらはらと部屋の中へ舞いこんで来た白い蝶の姿を見た。伊勢守のしずかな足音も。
そのとき、われ知らず、於富は身を横たえ、被衣を引き寄せ、両眼をつぶっていた。伊勢守は廊下に立ち、凝っと、於富を見た。
(愛らしい…)と、見た。
18歳の凝脂が、その顔に照っている。
伊勢守は、身を返して部屋の前からはなれようとした。
異変は、そのとき起こった。
その瞬間に…。於富の両眼が、はっとひらき、伊勢守を見たのである。夏の烈日よりも強く、激しいものに於富の眼は燃えていた。
ふたりの…師と愛弟子の視線が空間にむすび合い、凝結した。すこしずつ、すこしずつ、於富が身を起こすにつれて、なんと、伊勢守の躰が廊下から部屋の中へ吸い込まれるように入っていく。
なぜ、こうなってしまったのか…。
於富の眸子から発する何ものかに、伊勢守はひきこまれてしまった、というよりほかはない。ということは、於富の眼の輝きにこたえるだけのものが、伊勢守の胸の底にも内在していたことになるのではないか…。
それは、つまり、この三年間の師弟としてのまじわりのうちに育まれていたものと、いってよい。部屋の中へ入った伊勢守は、うしろ手に板扉をしめた。
…
それから半刻ほどのちに、上泉伊勢守は、「馬をひけ」と…。
【出所】池波正太郎『剣の天地』
(ヤブ人)
その後、数回の逢瀬ののち富姫は身ごもる。ほどなく、かねての婚約者の武将と富姫は祝言を挙げる。やがてやや勘定の合わない月々で男子が誕生するがその出生の秘密を知るのは富姫と懐妊直後に打ち明けられた伊勢守のみである。
こうしてその後の二人は武家同士として何事もなかったように相まみえるだけとなる。
後にその武将と於富は戦に敗れ命を落とすも、この男子のみは伊勢守に託される。
富姫と伊勢守が結ばれたのかどうかの史実は問ぬ。こんな艶っぽいながら、爽快で清々しいシーンが拙者の好みに合うってえこと。(平たく言えば、於富の子宮が伊勢守の種を欲していたってえことがやがて明らかになる。子宮は意志を持つ!)。
この場面を正太郎はんが、どんな思いで創作するに到ったのかと思いを巡らすんである。正太郎の師匠の長谷川伸によるど作家ってえのは仕事の半分は神に助けてもらっているんだそうで、正太郎もそれを実感することがあったど。
おぞらく、剣聖・上泉伊勢守の半生を描くにあたり(天に)心を開いて想を練っているど、天からこんなシーンがすらすらと降り来ったんではねえのかと思うんでんす。それぐれえムリのねえ流れるようなリアリティをもって迫ってきよるー。
・「愛」の起源はどっから来たのかえ?〜『愛のヨガ』より
http://www.asyura2.com/09/idletalk38/msg/853.html
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- Re: 全編にええ気が流れる『剣の天地』は、正太郎はんの最高傑作じゃないかえ 藪素人 2011/1/12 20:32:36
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