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(回答先: 【大川隆法】幸福の科学に走った直木賞作家・景山民夫の“人間研究”【カルト】 投稿者 提供人D 日時 2009 年 8 月 05 日 07:38:02)
噂の眞相 98年4月特集3 焼死した景山民夫の人生を狂わせた幸福の科学と夫人との出合いの“不幸”
●曾我静太郎
● 突然の怪死事件
人の死は、時に突然やってくるものらしい。昨年暮れの伊丹十三から最近の新井将敬に至るまで、このところ有名人たちの突然すぎる死がメディアを賑わす中、この直木賞作家の場合もそうだった。
ただ、伊丹や新井とこの作家の死にひとつ違った点があったとすれば、前者は自殺、そして後者は事故死とされている点だろう。
直木賞作家、というよりも、近年はむしろ「幸福の科学」信者として知られていた景山民夫が“現世”を去ったのは、1月27日の午前1時半、運びこまれた病院でだった。その数時間前、東京・世田谷にある景山の自宅3階の仕事場から出火し、一酸化炭素中毒を起こしたことが直接の死因だったという・・。
だが、たとえば景山の死を報じたスポーツ紙や夕刊紙が「不審火」「書斎だけ炎上」「通報の夫人は軽症」と匂わせていたように、実をいえば当初、彼の死をめぐってはさまざまな“噂”もささやかれていたのである。
現場を取材した社会部記者がいう。「現場検証で否定はされたけど、あの事故には未だに脇に落ちない点も多いんです。近所の住民が爆発音を聞いていたり、あれだけ広い自宅兼事務所の建物のうち、景山さんの仕事場だった3階の書斎だけが天井が抜けるほど燃えていたり…。さらに通報者であり、すぐ下の階にいた朋子夫人はなぜかほとんど無傷だったり、とね。そうした点から、自殺説や不審火説が非常に根強いのも事実」
当局側が事故死と判断したのは、朋子夫人の証言や現場検証の結果から薬物の反応、外部からの侵入、自殺などの裏付けがとれなかったからにすぎない。逆にいえば、事故死と断定できる強力な材料もない、というのだ。
とはいえ、たしかに自殺だった可能性は低いように思える。というのも当日、午後11時ごろに「風呂に入る」と3階に上がった景山は、通報を受けたレスキュー隊が救出した際も、パンツ一枚で倒れていたからである。「景山さんは、自宅に打合せに来る編集者に対してもスーツ姿で迎えるほどダンディ。その景山さんが仮に自殺するにしても下着姿のままするはずがない」(担当編集者)
また、こういう証言もある。景山には近々ハワイに住む友人の家に遊びに行く予定があったという。このハワイ行きについて、景山は友人にファックスを送っており、実は部屋に残されたそのファックスの日付が1月26日だったのだ。つまり事故当日なのである。「ハワイ旅行を訪問先の友人に知らせたその日に自殺する、というのも考えられない話。これで自殺説は消えた」(前出・担当編集者)
しかし、一方の不審火説はどうか。実は景山の関係者の中には、現在も不審火説を強く主張する声がけっして少なくはないのだ。
たとえば、ある関係者はこう語る。「火災の原因となったのは、たばこの火の不始末や電気スタンドの過熱で、その火が景山の趣味だったプラモデルの製作に使う塗料などに引火、爆発し、一層火が噴き上がったといわれているが、だとすればやはりおかしい。景山はたしかにプラモデル作りを趣味にしていたが、一方で非常に凡帳面かつ神経の細かい人間。パンツ一枚でプラモデル作りをしていたうえ、たばこの火の不始末で火事を起こしたとはどうしても思えない・・」
そういえば、景山民夫はあの神戸大震災の直後、大量の食料品や外部と交信するための無線機、さらに4WDの車を購入したり、仕事場の書庫にストッパーを取り付けたりしたように、臆病で用心深い人物として有名だった。最近では、信仰する幸福の科学が創価学会との対立を激化させたため、車の中にスタンガンを常備していたほどだったという。
「景山さんを知る人間は全員が全員「臆病で用心深く、細かい性格と口をそろえるはず。その彼がたばこの火の不始末で火事を起こすとは考えられない」(景山と旧知の編集者) あくまでも景山の死は事故ではなく、「不審火」によるもの、というのである。
とすると、誰が、何のために・・。景山と20年に及ぶ友人関係にあった某文化人は、ズバリ、「朋子夫人が怪しい」と臆測する。「実は景山は最近、幸福の科学総裁である大川隆法と対立していたという話がある。推測だが、そのため幸福の科学を脱会しようとして夫人と衝突し、今回の“事件”につながったんじゃないか。景山の父親は内務省上がりの元エリート警察官僚だったから、警察も穏便に事故死として処理したようだけどね」
たしかに景山と幸福の科学側の関係が最近芳しくなかった、との説もあるにはある。
いわく景山は、大川隆法夫人であり教団の実質的支配者といわれる大川きょう子から嫌われ、教団内で孤立していた、と。だが、たったそれだけで「不審火」と朋子夫人を結びつけるのはあまりにも短絡的だし、穿った見方というものだろう。 別の友人は断言する。「葬儀の時、朋子夫人が『景山クンは夫でると同時に仕事のパートナーであり、父でり、兄であり、弟であり、友達だった』と涙ながらに語っていたように、あの夫婦の仲の良さは業界内でも有名だった。その朋子夫人が怪しいって? あり得ないと思うよ」
だとすれば、景山の突然の死にいったいどんな原囚があったのか。あるいは、その真相は誰にも分からないことなのかもしれない。ただ「景山民夫」を語るうえで、朋子夫人という存在を無視するわけにはいかないことだけは、たしかなのだ。少なくとも80年代半ば以降、景山と朋子夫人こと大津朋子は、常に一体といっていい関係にあったのである。
●景山民夫の私生活
夫婦であり、兄妹、親子、そして友人だったーー。朋子夫人の言葉の通り、なるほどふたりの関係は事実そうだったかもしれない。
なにしろ、いくら彼女が景山の個人事務所の社長の肩書を持ち、秘書役を務めていたとはいえ、ふたりは公私の境などまったくないといっていいほど、常に一緒だったのだ。
景山の担当編集者もつとめた出版関係者も呆れ顔でこう語る。「よくいえば仲のいい夫婦なんでしょうが、悪くいうとちょっと変でしたよ。なにしろ朋子夫人は、それが編集者との打合せだろうが友人との食事だろうが業界関係のパーティーだろうが、毎回毎回必ず景山さんについて来ていましたからね。ハッキリ言えばうっとうしいくらいに、です。まあ、宗教やオカルト系以外の話ではわりと黙っていてくれたので害はなかったといえばそうですが…」
そういえば、幸福の科学が講談社に大々的な“抗議符動”を展開したあの騒動の最中、景山と「週刊朝日」で論争した作家・野坂昭如は、当時、こんな感想をもらしていた。<僕は千人近くの方といわゆる対談をやったけれども、奥さん同伴のお座敷は初めて〉
もちろん、私生活でも同様である。「景山さんは仕事絡みで食事するのが嫌いだったから、食事もいつも夫婦ふたりで外で食べていた。そのうえ、年に何回もふたりで海外旅行に行ってたし、たぶん1日24時間以上、1カ月のうち28、29日は一緒だったと思います。景山さん本人もよく、男友達と飲むより朋子といるほうが楽しい、なんて臆面もなく言っていましたよ」(前出・出版関係者)
葬儀で彼女が<景山、バカヤロー! さみしいじゃねえか!>と叫んだのも当然だろう。
しかし実を言えば、この悲劇で広く知れわたった大津朋子という女性の名は、すでにずっと以前から一部の出版関係者の間では有名でもあったのだ。それも、彼女が景山と知り合い同棲し結婚する、さらに前から・・。
ほかでもない、大津朋子はもともと、「村上龍」というまったく別の有名作家の愛人だったからである。文壇関係者が明かす。「朋子夫人が昔、村上龍の愛人だったというのは本当の話ですよ。朋子夫人と村上は同じ九州・佐世保出身の同級生で、彼女は村上が高校時代に憧れていた女性だったんです」
村上龍の自伝的小説『69(シックスティナイン)』に「主人公である野暮ったい田舎者の高校生=村上が憧れる、周辺の高校でも評判の美人女子高生が登場する。在りし日の大津朋子、つまりこれが朋子夫人なのである。
卒業後ふたりは、再会する。村上龍はすでに有名作家でこの小説『69』が刊行される前のことだ。別の文壇関係者が語る。「村上にとっては昔憧れていた女だし、大津朋子も故郷の同級生が有名作家になっていたのだから、たぶん互いに渡りに船だったんだろうね。すぐに男女の関係になったらしい」
当時、村上龍が深夜の赤坂プリンスホテルに大津朋子をひんぱんに呼び出しては、彼女も喜々としてタクシーでかけつける、というシーンが何度もくり返されていたという。
が、こうした関係もそう長くは続かなかった。彼女が愛人という自分の「地位」に疲れたためなのか、ふたりの関係は、しだいにドロドロの修羅場と化していったのだ。「いつまでたっても夫人と別れないために朋、子さんが業を煮やし、度々奥さんのいる村上の家に突然押しかけたりして大騒動になったんです。村上は弱りきっていたけど、彼女にしてみれば作家夫人になれるかどうかの瀬戸際だからね」(前出・文壇関係者)
大津朋子には、良くも悪くも昔からこうした“志向”があったという。事実、例の村上の『69』の中で彼女は、スター性があり目立つ男子生徒にまとわりつく、グルーピー気質の女性として描かれてもいるのである。
そして修羅場を重ねたすえ、ついに村上を見切った彼女が次に目をつけたのが、当時、放送作家、テレビ文化人としてひと際目立つ活躍をしていた景山民夫の将来性だった。 今から15年ほど前、83年ごろのことである。
●朋子夫人との出会いと入信
景山民夫に大津朋子を紹介したのは、景山とは中学が同じで幼なじみだった元「ブルータス」の編集者、小黒一三だったという。
知られているように、もともと景山民夫には、大学時代に知り合い、24歳で結婚して3人の子どもをつくった妻がいた。しかし結婚生活はわずか6年で破綻。さらに3年の別居を経た後、80年に正式に離婚するのだ。「離婚の原因は、身も蓋もなくいってしまえば“性格の不一致”ということらしいんですが、やっぱり重症の心身障害でずっと寝たきりだった長女の問題も大きかったらしい。長女をめぐり、夫婦の間で喧嘩や軋轢が絶えなかったようですから」(景山の友人の一人)
離婚し、家を出た景山がこの時、ギターと身の回りの服だけ持って次に暮らし始めた相手が小黒一三だった。景山はその小黒に大津朋子を紹介されると、彼女に夢中になっていったという。同時に小黒との“同居”も解消した。前出の元担当編集者が言う。「おそらく小黒さんは、朋子夫人から景山を紹介しろと頼まれたのと、彼女を村上龍から遠ざける意味でふたりを会わせたんでしょうけど、まんまとハマりましたね。景山さんは、小黒さんとふたりで暮らしていた時は“やっぱり男は独身でいたほうがいい”とか言っていたくせに、朋子夫人に会った瞬間、“あ、コイツだ!”ってすぐピーンときたらしい。ホント軽いよあの人は(笑)。その後、景山さんは仕事場に寝泊まりし、そこに朋子夫人がひんぱんに出入りするようになった」
実際、大津朋子に当初どんな“思惑”があったにせよ、景山が先にメロメロになったのは間違いないだろう。当時、景山はさまざまな場所に彼女を連れて歩き、「僕の愛人です」とうれしそうに紹介して回ったという。「やがて、朋子夫人の言を借りれば、“彼が一緒に暮らしたい、と駄々っ子のように言うので“同棲を始めるんです。それがたしか83年で、それから3年後、86年ごろに正式に籍を入れたはずです」(同・元担当編集者)
朋子夫人はこの時、たんに念願の妻の座のみならず、同時に事務所の実権も手中におさめているのである。元担当編集者が続ける。「景山と朋子夫人がつき合いはじめた時、景山の事務所には女性マネージャーがちゃんといたんです。ところが、景山が朋子夫人と同棲し始めると、朋子夫人はしだいに事務所の業務に深くかかわってくるようになり、結婚と同じころ、ついには作家とテレビ関係の業務を一本化した新事務所を設立させ、社長にまでおさまってしまった。むしろ、作家の秘書から、妻の座を手に入れたわけです」
ふたりの結婚は、式も披露宴も行わず、ただ婚姻届を区役所に出しただけだった。
なぜ、彼らは身内や友人を集めたバーティーていどのこともしなかったのか。ひとつは朋子夫人の家族が結婚に反対していたため、ともいわれる。それがどういう理由、経緯からかは分からないが、事実、景山の葬儀に朋子夫人側の親族の姿はいっさいなかった。
そしてもうひとつ理由があったとすれば、おそらく景山の家族、それも別れた妻や離れて暮らす長男と次女、さらに心身障害を患っていた長女を思ってのことだろう。
景山が親しい友人に朋子夫人との入籍を正式に伝えたのは、心身障害で生涯寝たきりだった長女が90年に享年18で亡くなったその翌日だった、といわれているのだ。
当時「宝島」で連載していたコラムだけに、景山はこう書き残している。<娘が死んだ。俺の娘だ。長女だった。十八年間、生まれたときからずっと、べッドから自分の力で起き上がることも出来ずにいて、それで一昨日死んじまった。(略)すくなくとも自分の足で歩けて、自分のロでしゃべれて、自分の手を使って飯が食えることを幸せだと思ってほしい。頼むから思ってくれ>
つまり、この悲痛な文章を書いた前日に、彼は朋子夫人との入籍を明らかにしたのだ。 そこにどういう意味があったのか。彼のいない現在となっては知るすべはない。だが、ひょっとしたらこの出来事と「幸福の科学」という新興宗教団体への入信は、やはり何らかの関連があったのでは、とも思えるのだ。
●なぜ宗教に走ったのか
彼はなぜ、幸福の科学を選んだのか。 景山民夫は、間違いなくかつてのオカルトムーブメントの担い手のひとりだった。
超脳力、UFO、霊魂、ネッシー、そしてノストラダムス……。エッセイはもちろん、さまざまなメディアを通じて、UFOとの遭遇や霊との交信などの「神秘体験」を喜々として語り、あるいはニューギアまで「ミゴー」という怪獣を探しに行ったりもした。
とすると、件の教団への入信は、よくいるオカルト好きがそのまま新興宗教にハマっていくというパターンの、その延長線上にすぎないものだったのだろうか。が、景山は、生前「もともと霊体質は強いし神秘体験もあったが、それとは違う」と否定している。「環境破壊問題や反原発への、景山らしくない一時期のヒステリックな入れ込み方も、たとえば講談社に対するデモを予感させるものがありましたよ。広瀬隆の『危険な話』を盲信するあまり、『危険な話』を知り合いに片っ端から送りつけオルグするという彼の手法は幸福の科学のやり方と通じる。幸福の科学に入信してからは、朋子夫人が景山の友人知人に大川隆法の著作を山ほど送りつけていましたからね。実際、景山夫妻のオルグで本当に入信してしまったマスコミ関係者は少なくとも数人はいるはず」(旧知の出版関係者)
知られているように、幸福の科学に入信したのは彼の妻、朋子夫人が先だった。
発端は、景山が小説のために大本教の出口王仁三郎について調べているうちにまず、大川隆法の『出ロ王仁三郎霊示集』を資料として読み、そして同じころ、知人から大川の著作を何冊かもらい読んだことだったという。「夫婦で大川の本を読んでいたら、まず朋子夫人が信じるようになった。でもそのころは景山も朋子夫人をからかっていたらしいけどね。ところが毎日朋子夫人から本を読まされ信仰を薦められるうち、だんだん景山自身もハマリ始めてしまったらしい」
それなら朋子夫人に洗練されたという説が正しいのか。それともやはり、長女の死に対する心め救いを求めての信仰だったのか。
景山は、雑誌にこう語っている。<別に女房に誘いこまれたわけでも、娘のことがきっかけになったわけでもない。死んだ娘とは、今はもういつでも話ができますから>
だが、これはもちろん景山の「勘違い」だろう。娘の霊と交信している、と思いこむことで、彼は癒されているにすぎないのだ。
おそらくは、景山の幸福の科学入信に対するこうしたさまざまな見方は、彼が否定しようともすべてが間違っているわけではない。景山はたぶん、疲れ切っていたのである。
彼はその内幕をほとんど語っていないが、最初の妻との離婚劇は、長女をめぐる長年の争いに加え、調停に1年半を費やしたドロドロのものだったという。結果、慰謝料・養育費を合わせて総額1億円あまり。景山の月収が50方ほどなのに、月々の支払いは35万円にものぼった。
古くからの友人もこう明かす。「景山は当時、心身ともに疲れ切っていたのに、そのうえ貧乏だった。深夜のテレビに多少出ていたりはしてたけど、ちょうどテレビから作家にシフトしつつあった時期で、『タモリ優楽部』を降板したりと金になる仕事はほとんどない状態だった。そうした離婚劇の余韻を引きずりつつ朋子夫人と同棲、結婚したところに、今度は長女の死です・・。宗教に走っても不思議じゃありませんよ」
景山がマルチ人間のはしりとして時代と寄り添ってきた根幹に、60年代終わりから70年代にかけてのアメリカを放浪した体験がある。この時触れたヒッピーのコミューンは、人と深く付き合うことができない彼にとって、おそらく魅力的なものだっただろう。
ひょっとすると景山は、幸福の科学という「コミューン」で仲間をつくり、大川隆法という絶対的な神を仰ぐことで癒され、解放されたかったのかもしれない。しかも、もともとその素養は十分にあったのである。
しかし、信仰したものが、幸福の科学という宗教だったことは彼にとって不幸だった。ただ、少なくとも景山民夫は、この教団のいう現世に積んだ善根が来世の高い次元霊につながり、生まれ変わったらいい暮らしができる、という差別的な戯言を信じていた。
しかし、景山がこの世からいなくなった時、その景山をインチキ宗教にひきずりこんだ夫人にはやはりこういわざるをえなかったのである。「ばかやろう」とーー。<敬称略>