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そもそも「天岩戸」とは一體何なのか。
四海書房刊
平成七年(西暦一九九五年)七月發行
白山大地氏著
「火水傳文と○九十の理(ひみつつたえふみとまことのみち)」
第ニ章 日本民族と猶太人が握るカギ
猶太の靈統と失はれた十部族
岩戸閉めと輪廻轉生のしくみ
百四頁據り
猶太の靈統と失はれた十部族
然し、惡すなはち(身欲)は生じてしまつた。其處でまづ第一囘目の岩戸閉めが行はれて「魔釣りの經綸」が發動したのである。
閉ぢられた眞釣るマコトの岩戸 ― 。其のときから輪廻轉生が始まつた。
此の岩戸閉め、具體的には靈の世界と現實の世界の間の扉を閉めた事だと私は考へてゐる。其れまでの人間は、生き乍ら靈の世界と行き來できたのだらう。たぶん誰でも靈體離脱ができ、靈界へも自由に行けたのではないか。だからイザナギはイザナミを追つて、根の國である靈界へ本當に行つたのだと思ふ。
私たちの宇宙は、たぶん靈界と現界が重なり合つた雙子の宇宙なのだ。「此の度の出産」とは、この二つの世界が融合して一つに成ると云ふことではないのか。
初發の岩戸閉めあるによりて、汝等が囚われ身欲に走りた其の時に、魔釣りの經綸に入りて、情け
を受くる仕組みの世と成りたのぢや。情けをもろうて初めて眞釣リの何かに氣附き嚮きた其の時が、
眞釣る花の經綸の入りロと成りてをりたのぞ。情けの仕組みの大き型示しいうが汝等の申す[死]で
ござる。花の仕組みの大き型示しいうが汝等の申す[誕生]でござるよ。こが汝等のメグリの輪廻轉
生の始まりでござりたのぢや。此れ解かるか、身欲生ぜねば、惡生ぜず。惡生ぜねば、メグリの輪廻
轉生は無かりたのであるぞ。
此の文からすると、其れまでは苦しんで死ぬ人はゐなかつたのであらう。事故も病氣もなかつたはずで、人々の壽命も今よりはずつと長かつたに違ひない。
岩戸閉めと輪廻轉生のしくみ
此處で岩戸閉めと云ふことを、もう一度説明しておき度い。
スメラの民にも猶太の民にも岩戸閉めのことが型で示されてゐた事は、既に記してきたとおりだ。とくに、スメラの民にははつきりと示されてゐる。
第一囘目の岩戸閉めは、イザナミが死んでカグツチのbを殘したときだ。此のとき元つマコトのb眞釣りが閉められた。古事記には、イザナギが黄泉比良坂で岩戸をかけた事が型示しとして述べられてゐる。其れからは、人間は夢の世界でしか靈界へ行くことが出來なくなつてしまつた。然しまだ完全に閉ぢられたはけではなかつた。
ただし、はじめに説明したとほり、古事記の記述がすべて正しくはない事は頭の片隅に置いておいていただき度い。火水傳文にかうある。
汝等の知り居る古紀申すは、裏で『魔釣りの經綸』を操る者共に、郡合の良き樣に改ざんされある
を知りて下されよ。
元つマコトのb眞釣りが閉められては、正しく傳はるはずもないが、此れをもとに日本は萬世一系と考へると危險だ。
此のヒノモトは萬世一系ぢや等と申して、安心致し居るマコトの解からぬ者は、よくよく氣を附け
なされよ。そは人皇の世の事にてあらうが。ヒノモトのマコトの眞釣り申すは、そんなことではござ
らぬぞ。ヒノモト申すはb幽顯、三千世界を統べ眞釣る、尊き御坐の坐すところ、ミロクを現ずる眞
中なり。
イザナギご一柱でb々をお産みに成つたときから、,片ハタラキのbがお出ましに成つた。以後、記紀に述べられてゐる事は、此の片ハタラキのbのことだ。
ヒノモトに快欲の 《逆十字、△》 の響き鳴リ渡りて後、裏で『魔釣リの經綸』を操るミタマ鳴り渡
リて來たるは、二千數百年も前にてあるのぞ。そは自らのミタマの來歴を知らず、其のままにありて
は、天孫いうも許し難き大大罪なれど、自ら知れず天孫を自稱し來たりたのぢや。其れありたが由、
自ら人皇を名乘らねば、治まりつかぬ程のご苦勞を致されて、四度目の岩戸閉めを成されたが、正b
眞bのご靈統にあらせられるカムヤマトイワレヒコノミコト、b武天皇なるぞ。
此の部分は、私の智識では誤解を招く恐れがあるので、詳しくは説明しないが、此處ではイザナミが去られてからb武天皇の時代と成るまで、いろいろなことがあつた事が示されてゐる。所謂古史古傳と云はれるいくつかの古文書に書かれてゐる事が、此の間にあつた出來事の參考に成るかもしれない。ただ火水傳文には、 〈眞釣りは靈統に依り魔釣りは血統によるのぢや〉 と書かれてゐることを附け加へておかう。
兔に角、b武天皇が人皇と成られたときが、四度目の岩戸閉めと云ふことだ。然し其の間の二度目、三度目の岩戸閉めに就いて、火水傳文には解説がない。日月b示に其の説明があるので、簡單にご紹介しよう.
次の岩戸しめは天照大bの時ぞ、大bはまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシ
タbがお出ましぞと知らせてあらう。愈々と成つてマコトの天照大b、天照皇大b、日の大b揃
ふてお出まし近うなつて來たぞ。次の岩戸しめは素盞鳴命に總ての罪をきせてネの國に追ひやつた時
であるぞ、素盞鳴命は天下を治しめす御役のbであるぞ。(日月聖典より引用)
此れでおわかりのやうに、二度目の岩戸閉めは、アマテラスオオミカミが岩戸の中にお隱れになつたときを云ふ。そして三度目の岩戸閉めは、スサノウノミコトが根の國に追ひやられたときのことを云つてゐる。
火水傳文を讀むにあたつて、「智識はいらぬ」とbもおつしやつてゐるが、日月b示に書かれている事を踏まえて、お話をされてゐるところもある。「火水傳文と合はせて日月b示も讀むやうに」とbがおつしやる理由の一つは其處にある。
たしかに日月b示に書かれてゐる事がわかつてゐれば理解も深まる。何しろ 〈日月は經綸の計劃書ぢや。火水は經綸のワケぢや〉 と云ふことだから當然でもあるが。
然し同時に、bは飜譯者を通じて 〈日月は浴びよ.火水は歩め〉 ともおつしやつてゐる。火水傳文は行動のための文なのだ。そして日月b示は、あまり意味や言葉にとらはれず、唯々聲を出して讀み、音と其の響きを感じとつてほしいと云ふことでもある。
外國語を勉強するのと同じで、テープで繰り返し聞いて暗記すると、ある日突然、意味が理解できるやうに成る。其れが音と響きの效果でもあらう。私が此れまで日月b示を引用せずに、火水傳文だけを紹介してゐるのも、其のためだ。
岩戸閉めの話にもどろう。
最後の五度目の岩戸閉めは、佛教が日本に傳來してきたときに行はれた。西暦五三八年が佛教傳來の年とされてゐるが、勿論正確な年ははつきりしない。火水傳文では、五度目の岩戸閉めについては、 〈佛魔來たりて五度目の岩戸を閉める〉 と一言述べられてゐるだけだ。此れは私の考へだが、靈界と現界の間の扉を開けておくと、幽界 (人が念で作りだした世界) の魔物が忍び込む恐れがあつたのだらう。此の五度目の岩戸閉めで、兩界の間は完全に遮斷されてしまつた。
誤解のないやうに附け加へておくが、佛教が佛魔と云ふのではない。佛教と一緒に佛魔も日本に入つてきてしまつたから、岩戸が閉められたのだ。日月b示には其のことがハツキリと述べられてゐる。
お釋迦樣もイエス樣も、其の當時に必要な教へを正しくキツチリとお傳へしてゐる (ただしイエスの教へと今のキリスト教、釋迦の其れと今の佛教とは必ずしも一致しないが)、天界の祕密は人間の成長とともに明かされ、許された範圍でしか教へていただけない。幼い子に刄物は渡せないのだ。「戒律のある宗教は滅びる」と云つても、子供にはしつけが必要なやうに、戒律も必要な時があつた。今、成長して、出産が目の前に迫つてきてゐるから、かうして火水傳文ではじめて明かされた事も多い。日月b示では明かされなかつた内容も火水傳文には述べられてゐる。其れは、日月b示だけではどうしても知り得なかつた部分をわかつてもらひ度いと云ふ、bのご慈悲からであらう。
日月b示だけで出産出來れば、私たちの靈魂の成長も大きかつたので、日月b示を「とどめのb示」としたのだ。火水傳文が出ても、日月b示はとどめのb示である事に變はりはない。
では火水傳文は何かと云ふと、わかつた事を行動に結ぶための「傳へ文」だ。正確に云へばb示ではない。だから火水傳文を讀んで、わかつたところからすぐに行ひに結んでいかなければ意味がないと云ふことだ。
第一囘目の岩戸締め イザナミが死んでカグツチのbを殘した時。
第ニ囘目の岩戸締め アマテラスオオミカミが岩戸の中にお隱れになつた時。
第三囘目の岩戸締め スサノウノミコトが根の國に追ひやられた時。
第四囘目の岩戸締め 人皇、b武天皇誕生の時。
第五囘目の岩戸締め 佛教が日本に傳來してきた時。
畢竟、五段階あると云ふ事らしい。
其れ以外にも、
第六囘目の岩戸締め 徳川幕府に據る鎖國と切支丹禁止令
があるのではないのだらうか。
では岩戸開きはだうなのだらうか。
第一囘目の岩戸開き 明治維新。
第ニ囘目の岩戸開き 大東亞戰爭敗戰。
第三囘目の岩戸開き 昭和天皇崩御。
第四囘目の岩戸開き バブル崩壞以降から小泉政權迄。
第五囘目の岩戸開き 此れから起こる事。
第六囘目の岩戸開き 此れから起こる事の更に先に起こる事。
と云ふ所であらうか。
「天岩戸」とは、一つのある物の事を指してゐるのでは無く、幾つかの段階があり、幾つかの存在、現象の事を指してゐるやうだ。
幾つかある岩戸開きの其の一つ
此の本は極めて重要な、否、決定的に重要な本である。
此の本に書かれてゐる電話の件はよく判る。私自身も、偶に電話で教へて貰う事があるから。
「こうなのかな、其れともああなのかな、否、恐らくこうなのだらう」等とあれこれ妄想に耽つて自分の中で結論じみた事を思ひ附いた直後に「ジリリリリン」と電話が鳴る時がある。而も一囘鳴つて切れるのである。ああ、其れでいいんだねと納得するのだ。
聯中が來る時に硫黄臭がすると云ふのも成る程なと思つた。だから地獄谷と云ふのだな。また、映畫「コンスタンチン」にも、硫黄臭について描かれてゐたのはさう云ふ事なのだ。
それにしても、此の人の書く本は、注釋が非常に面白い。b々の軍隊の時もさうだつた。
マクモニーグルが所屬してゐた、米國陸軍の遠隔透視部隊の通稱が「スター・ゲイト」と云ふのが非常に意味深長だ。
徳間書店刊
平成二十一年(西暦二〇〇九年)一月三十一日發行
濱田政彦氏著
「異次元に廣がる超文明世界の謎 ― UFO最後の眞實」
第一章 異星人たちの「人間世界」侵入作戰
地球各地に口を開けた謎の異次元トンネル
二十四頁據り
地球各地に口を開けた謎の異次元トンネル
一九七一(昭和四六)年ニ月のある日のことだつた。宇宙人研究で知られる亞米利加のUFO研究家、ブラツド・スタイガー(一九三六 ― )のもとに、一通の手紙が送られてきた。差出人ぱキーシツグと名のる男だつた。
手紙に目を通したスタイガーは大きな衝撃を受けた。手紙には、キーシツグが異次元世界に迷ひ込んだときの體驗と、タイムトラベルに關する意見が書かれてゐたのである。あまりの偶然の一致に、スタイガーはめまいを覺えた。
實は手紙を受け取る直前、スタイガーは不思議現象專門雜誌の『サーガ』誌に、タイムトラベル研究の記事を載せてゐたのである。そして此の記事を目にしたキーシツグは、スタイガーの考へに共鳴して、自分の異樣な體驗を告白する事にしたらしいのだ。だが最初、キーシツグは手紙を書くことをためらつた。自分の體驗が普通でない許りか、若し人に話さうものなら、精神異常者あつかひされかねない内容だつたからだ。
キーシツグの體驗は六年前のことだつた。一九六五(昭和四〇)年一ニ月、キーシツグはアーカンソー洲の、ある場所に引つ越しをした。ある朝のこと、いつものやうにキーシツグは愛犬を聯れて散歩に出た。自宅の周邊は、矢鱈に廣い野原で、彼は愛犬と一緒に、散歩を樂しんだ。
ある丘の中腹にさしかかつた所で、キーシツグは立ち止まり休憩した。すると其れまで嬉しさうに走り囘つてゐた愛犬が、急に脅えたやうに成ると、彼にくつついて離れなくなつてしまつたのである。不思議に思ひつつも、キーシツグば再び歩き始めたが、邊りの雰圍氣は、なんだかさつきまでとは打つて變わつて、やけにシーンと靜まりかえつてゐた。空は晴れ晴れとして、太陽は燦々と照つてゐるのに、音一つしなければ、風もまつ度くない。まるで時間が止まつたかのやうだ。うまく言ひ表せないが、何かが決定的に狂つてゐた。映像的にはすべてが申し分ないのに、氣分のはうはまつ度く優れなかつた。何か酷く餘所餘所しい雰圍氣が、じわじわとキーシツグを包圍しやうとしてゐた・・・・・・。
不安になつたキーシツグは、丘の頂に登つて、いま自分がどの邊りにゐるのかを慥かめようとした。丘の上からは遠くに二軒の家が見えたが、其の家からは人の氣配がまつ度く感じられなかつた。生活活動の一切が、突然に打ち切られて、其のまま打ち捨てられたやうな家を見たキーシツグは、震へ上がるやうな恐怖を全身に覺えた。此れ以上先に進むことは危險だ! キーシツグは、愛犬とともに來た道を引き返した。
最初に通つた丘を越えたとたん、急にさはやかな風が吹き始め、自然の音色が聞こえだした。そして周圍の雰圍氣も俄に生命を取り戻し始め、「時間」が流れ始めた。ああ、歸れた! と云ふ安堵感がキーシツグと愛犬を包み込んだ。
自宅に戻つたキーシツグは時計を見て驚いた。ニ時間くらゐの散歩時間だと思つてゐたら、なんと實際は六時間近くも野原を彷徨つてゐたのである。だがキーシツグは、此の時間喪失體驗(ミツシング・タイム)に就いて、祕かに心當たりがあつた。實はキーシツグは、「目に見えない世界」を見る事が出來る、一種の超常(サイキツク)能力を生まれつき持つてゐたのである。人竝みに生きるには邪魔に成る此の力を、彼は覆ひ隱して生きてきたのだが、心地よい散歩の最中に、無意識のうちに封印を解いて、隱された自分の力を發揮してしまつたに違ひないと考へたのだ。
キーシツグは自分が入りこんだ空間を、異次元世界であると確信してゐた。そして此の體驗後、恐れずに自分の超常(サイキツク)能力を意識的に使ふやうにしてみたところ、數々の驚くべき發見をした。
ミズーリ洲とアーカンソー洲に、異次元世界への「見えない入り口」を何カ所か見つけたキーシツグは、かうした入り口には、「西の扉」と呼ばれる「惡魔の入り口」と、「東の扉」と呼ばれる「靈界の入り口」とがあると語り、惡魔の入リロからは、人間そつくりの姿形をした異次元世界の人々が、祕かに我々の現實世界に侵入してくると云ふ。然も恐ろしい事には、此の「聯中」は、我々人類に友好的ではないと云ふのだ。
キーシツグは、「聯中」の世界は我々の物質世界とウリニつなのだが、まつ度く生命の氣配が感じられない死の世界であると云ふ。にもかかはらず、矛盾するやうだが、彼らは慥かに生きてゐると云ふのだ。
キーシツグは、扉(ドア)をくぐつて異次元トンネルを使ひこなすことで、瞬間移動、詰りテレポーテーシヨンする事が可能だと斷言する。驚くことに、地球内を移動するだけではなく、人間の肉體ごと他の惑星系へと移動させる扉もあると云ふ。
更にキーシツグは、「過去の空間」への扉や、「未來の空間」につながる扉もあるといい、我々も其れを使つて過去や未來を覗くことが出來ると云ふ。然し此れは、恰も硝子越しに嚮かうの景色を見るやうなものであり、タイムトラベルのSFにあるやうに、實際に未來や過去の世界に降り立つて活動する事は不可能だと云ふ。詰り我々は、過去や未來に直接介入する事は出來ないと云ふことだ。我々が自由に行動が出來るのは、三次元の法則(物質を支へてゐる根本原則)に制約されてゐる、此の物質世界(マトリツクス)の中だけと云ふことなのだ。
キーシツグが言ふ「死の世界に棲む生きた住人」が、我々のいる三次元現實世界(マトリツクス)に侵入するのは何が目的なのだらうか? 多くのUFO事件が指し示すところでは、「聯中」は太古の時代から、露骨に人類に介入してきては影響を與へて、歴史其のものを動かしてゐる。だがそんなことをして、いつ度いなにに成ると云ふのであらうか? 人類史を操作する事が、其のまま異次元に於ける「聯中」のポジシヨン(立場)の、有利な脩正にでもつながると云ふのであらうか? 或は人間誘拐事件(アブダクシヨン・ケース)が示すやうに、生きた人類の生命力に惹きつけられて、やつて來てゐるのだらうか? キーシツグの話には、俄かには信じ難い話が多く含まれるが、疑惑の目が周圍から嚮けられるのを理解した上で、彼は思ふところを語つてゐる。
「地球と呼ぶ此の世界だけが、われわれのやうな人間の住む唯一の世界ではない。
われわれは、ものの考へ方を廣くしなければならない。……述べた出來事を證明で
きる手立てはなにもない。……私の言葉以外に、眞實を證明するものはない」
(B..スタイガー『謎の大消滅』青木榮一譯 二見書房 文中ルビは筆者)
キーシツグの體驗は、三次元世界(物質次元)に住む我々が、異次元世界への“裂け目”を通つて、肉體を持つた儘行き來が可能なことを示してゐる。だが入り込んだ「其の世界」は、肉體を持つた儘の人間には、耐へうる世界ではなかつた。「何もかもが狂つてゐる」感覺と恐怖が襲ひ來る世界なのだ。
映畫「スターゲイト」
つい最近、此の映畫については知つた。
こんな其の物ズバリを題材とした映畫があつとは。
なにゆゑ今、此の時に私は此の映畫の存在に氣附いたのか。
其れは、其の時が來たからであらう。ゆゑに私に氣附きを與へて呉れたのだ。
其の前でもの其の後でも駄目なのだ。今、其れを知る必要があつたのだ。
「異次元に廣がる超文明世界の謎 ― UFO最後の眞實」(特に此處には轉載しないが、第一章の注釋九は決定的に重要だ)と云ふ本を手に取つたのも、今囘の一聯の聖地巡禮旅行もさう云ふ事なのだ。
此の映畫「スターゲイト」は、ズバリ「天岩戸」其の物である。
因みにテレビシリーズには興味は無い。
幾つかある岩戸開きの其の一つ
何所で讀んだか定かではないのだが、人間のDNAのある部分が、ある時期が來た時點で、作動、覺醒するやうな仕組みを、彼等、我々人類を創造した存在は、我々のDNAに組み込んだやうなのである。
集合、共時性意識の覺醒
爬蟲類的腦と哺乳類的腦の眞の融合
右腦と左腦の眞の融合
其の鍵の一つは「サバン症候群」
そして第七の腦のステージへ
人間から超人へ、そして更にb人へと續く進化の道。
宇宙意識へと帰還する其の道へ。
「21世紀の世界は日本のキツズ(new breed)が變革してゐくだらう」
http://www.asyura2.com/08/bd53/msg/405.html
投稿者 石工の都仙臺市 日時 2008 年 6 月 29 日 19:00:16: Gsx84HOp6wiqQ
講談社刊
平成十九年(西暦二〇〇七年)六月十三日發行
ダニエル・タメツト氏著 古屋美登里女史飜譯
「ぼくには數字が風景に見へる」
映畫「レインマン」
時間と空間を超越した存在
集合無意識、意識の共有
集合、共時性意識の覺醒
映畫「ハイランダー」
クリスチヤン・ローゼンクロイツ
サンジエルマン伯爵
b社にみる「天岩戸 スターゲイト」
あの茅の輪は一體何なのか、何を暗示してゐるのか全く解らなかつた。だが、あの「輪」は、決定的に重要な何かであると云ふ事は感じてゐた。ゆゑに何時迄も私の意識の中に殘り續けたのだ。
b社の祭で行はれてゐる茅の輪くぐりの茅の輪は、謂はばb社に存在する異次元との通路、岩戸を暗喩したものなのではないのか。
而も濳り方が、八の字を描くやうに濳ると云ふ。八の字はメビウスの輪、アンフイニ、無限を暗示してゐるのではないのか。
此處にも時間と空間を超越すると云ふ感じが傳はつて來る。
恐らく今年から本格的に此のb國日本の各地にあるであらう天岩戸は開き始める筈である。
「戸」が附く地名の場所は非常に重要と成るだらう。
「b戸」「水戸」「八戸」「二戸」等々。畢竟、陸奧の國が重要か。恐山と云ふ山がある所をみると。
現代に於いて此のb國日本各地に間違ひなくあるであらう天岩戸が開かれる事は、必ずしも良い事ばかり起こるとは限らないであらう。寧ろ、腐敗、堕落し切つた現代人にとつて、大變な苦しみを齎すやうな氣がする。
其れは天岩戸と云ふよりも、寧ろ地獄の竈の蓋を開けると云ふ表現の方が適切であるだらう。天岩戸が開き始めると同時に、地獄の竈の蓋も開き始める事と云ふ事である。
今年以降、かつて今迄誰も經驗した事のないやうな不可解な事件、事故、得體の知れないモノとの遭遇、目撃が續發する可能性がある。
だが然し、此の流れを止める事、避ける事は出來ない。此の流れは大いなる禊、大祓いでもあるからである。魑魅魍魎が跳梁跋扈する此の世と成るのだ。覺悟せよ。
百鬼夜行
フリー百科事典『ウイキペデイア(Wikipedia)』
據り
百鬼夜行(ひやつきやぎよう、ひやつきやかう)とは、説話などに登場する深夜の町を輯團で徘徊する鬼や妖怪の群れ及び其の行進のこと。
概要
説話に登場する異形の輯團で、『百鬼夜行に遭つた』と云ふ表現をする。
讀經する事により難を逃れた話や、讀經してゐるうちに朝日が昇つたところで鬼たちが逃げたり、いなくなつたりする話が一般的で、佛の功徳を説く話である。
古典の百科全書『拾芥抄』によれば、正月、2月子日、3月・4月午日、5月・6月巳日、7月・8月戌日、9月・10月未日、11月・12月辰日は百鬼夜行が出現する「百鬼夜行日」であり、百鬼夜行に出遭ふと死んでしまふと云はれたため、此れらの日には夜の外出を控へたと云ふ。また同じく『拾芥抄』によると、「カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」と呪文を唱へると、百鬼夜行の害を避けられると云ふ。
お盆
フリー百科事典『ウイキペデイア(Wikipedia)』
據り
お盆(おぼん)は、太陰太陽暦である和暦(天保暦など舊暦と云ふ)の7月15日を中心に日本で行なはれる祖先の靈を祀る一聯の行事。一般に佛教の行事と認識されてゐるが、佛教の教義で説明出來ない部分も多く、日本在來のb道的行事に佛教行事の「盂蘭盆」(うらぼん)が習合して現在の形が出來たと考へられてゐる。
由來
佛教用語の「盂蘭盆」の省略形として「盆」(一般に「お盆」)と呼ばれる。 盆とは文字通り、本來は靈に對する供物を置く容器を意味するため、供物を備へ祀られる精靈の呼稱と成り、盂蘭盆と混同されて習合したとも云ふ説もある。 現在でも精靈をボンサマと呼ぶ地域がある。
盆の明確な起源は分かつてゐないが、1年に2度、初春と初秋の滿月の日に祖先の靈が子孫のもとを訪れて交流する行事があつた(1年が前半年と後半年の2年に成つてゐた名殘との説がある)が、初春のものが祖靈の年bとしてb格を強調されて正月の祭と成り、初秋のものが盂蘭盆と習合して、佛教の行事として行なはれるやうに成つたと云はれてゐる。日本では8世紀頃には、夏に祖先供養を行ふと云ふ風習が確立されたと考へられてゐる。 地方や、佛教の宗派により行事の形態は異なる。
また、お盆時期の地藏菩薩の法會は「地藏盆」と呼ばれ、(天道)大日如來のお盆は大日盆と云はれる。
お盆は成句(イデイオム)して使はれる事もある。「盆暮れ(ぼんくれ)」などと時季を指す言葉としての使用や、「盆と正月が一緒に來たやう」と云ふ"とても忙しい事"または"喜ばしい事が重なる事"のたとへ(慣用句)としての使用が其れである。
此れも一つのきつかけと成るのであらうか。
歐洲原子核研究機構の「大型ハドロン衝突型加速器 (LHC)」で發生するブラツクホールは數分間持續するかもしれない
http://www.asyura2.com/09/bd55/msg/146.html
投稿者 passenger 日時 2009 年 1 月 27 日 18:06:50: eZ/Nw96TErl1Y
宇宙b靈アーリオーンに教へて貰つた映畫
映畫「ベルリン天使の詩」
我れ、古代アトランテイスに附き語らん
http://www.asyura2.com/08/bd53/msg/346.html
投稿者 石工の都仙臺市 日時 2008 年 6 月 15 日 23:18:00: Gsx84HOp6wiqQ
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