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なにゆゑ國聯ビルがかつての屠殺場に建てられてゐるのか。
其れは屠殺された家畜達の「怨」と云ふ、負のは波動を利用する爲である。
此の國聯と云ふ世界の中心から全世界に嚮けて、此の屠殺された家畜達の「怨」が、
全地球的規模で、負の波動と成つてがばら蒔かれてゐるのだ。
聯中は此の家畜達の「怨」の波動、負のエネルギーの強さを知つてゐる。
ゆゑに此處に國聯ビルと建てたのだ。
此の期に及んで未だに肉喰をしてゐる者共は、此の事の重大性を認識する必要がある。
肉喰を續けると云ふ事は、自分の魂を此の家畜達の「怨」で自らの魂を穢してゐる
と云ふ事である。
其れでも構はないのなら肉喰を續けるがいい。
日本に於ける肉喰の歴史
http://www.new-agriculture.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=161118
みんなの喰への期待つて、何?
161118 日本に於ける肉喰の歴史
阿部佳容子 ( 45 大阪 營業 ) 07/09/12 PM05
●古墳時代後期:渡來人とともに渡來
大陸からいろいろの民族が渡來し、各地に移住し、集團生活を營みはじめたが、其の中に肉喰の風習をもつた人々が多かつた。彼らが皮革を利用するために牛馬を屠殺するとき、殘りの肉は喰用された。其の喰習慣をみて、日本人も肉喰の味を覺えていつたとされる。
●奈良時代:佛教歸依による殺生禁斷→肉喰禁止
佛教が盛んに成り、朝廷が佛教に歸依し始めると殺生禁斷の教へに急速に共鳴していつた。殺生禁斷の教へは、佛教をわかりやすく國民に傳へ理解させる手段に成りえた事、農耕や軍事に大切な牛馬を保存して、朝廷の權力を強化させえた事、勢力を伸ばしつつあつた渡來人を牽制する意味もあつた事、朝廷はまづ、天武四年に殺生禁斷、肉喰禁止の詔敕を出した。
然し肉喰が全面的になくなつたか云ふと、決してさうではなく、いろいろの記録に肉喰を禁止しきれなかつた樣子が見られる。天武、元正、聖武、孝謙、桓武、崇徳、後鳥羽・・、くりかへし殺生禁斷令がだされてゐる事が其の證據のひとつである。其の後、基督教の布教に伴ひ、南蠻文化が入つてくると、更に肉喰を喰べるひとが多くなつた。
●江戸時代末期〜明治:肉喰キヤンペーン
鎖國が解かれ、西洋事情がわかつてくると、日本の指導者たちは此のままで立國基盤が危うくなると西洋文明を取り入れようとした。大衆が牛肉を喰べると云ふ習慣は、實は此の過程でお上からの押し附けで始まつた。長年宗教上の戒律で忌み嫌はれてゐた肉喰は、此の期におよんでは逆に「牛肉を喰はねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」とまで言はれ始めた。
蘭學を脩めた香川脩徳、福澤諭吉、ジヤーナリストの柳川春三、福地櫻痴など、當時の文化人が中心と成つて肉喰をすすめるキヤンペーンをはつた。
牛肉が更に大衆へ普及したのは軍隊の近代化によるところが大きい。慶應四年、戊辰の役の負傷兵が東京の和泉橋の大病院に收容され治療されたとき、體力の恢復を圖るため、其處で牛肉を喰べさせたと云ふ。また、日清、日露戰爭に從軍した兵士が戰場で牛肉の罐詰を給喰され、其のおいしさを知つた。牛肉を衞生的に生産する屠場が全國津々浦々にでき、牛肉の販賣店が各地に出來ていつた。
●戰後〜現在:消費量の飛躍的増大
戰後混亂期に於て喰肉の統制價格撤廢は昭和二四年八月二五日に行なはれた。漸く豐富に出囘り始めた時期とも言へる。其の後、昭和四五年(一九七〇)までは,牛肉の國内自給率はほぼ九〇%であつたが、其の後、牛肉の消費増による輸入量の増加とともに自給率は低下して二〇〇四年には四四%と成つてゐる。
また、牛肉の消費量は九六〇年代から一九九〇年代の間に、一〇倍に増えたが、現在は横ばい状態が續いてゐる。
參考圖書:全集日本の喰文化第四卷 魚・野菜・肉
ヘルプアニマルズ - ベジタリアンになろう
http://www.all-creatures.org/ha/Chikusan.html
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