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(回答先: イラン攻撃? 起こらないだろう Attacking Iran? It will not happenイラク情勢ニュース 投稿者 新世紀人 日時 2008 年 7 月 20 日 15:54:54)
http://www.geocities.com/inazuma_jp/suez.html
スエズ運河 The Suez Canal
■ スエズは究極の中立地帯
1888年10月29日、コンスタンチノポリス(今のイスタンブール)でスエズ運河の自由航行に関する条約が締結されました。この条約では平時はもちろん、なんと戦時でも敵国の軍艦さえも自由に通過することが出来ると言うものでした。
ただし、イギリス帝国は批准しませんでした。だって自国の主導権が失われる事が嫌だったのです。
■ 第1次中東戦争(パレスチナ戦争・イスラエル独立戦争)
1948年5月13日、イスラエルとアラブの戦争が避けられなくなると、エジプトはイスラエル船舶のスエズ運河の通過を禁止したのです。
イスラエル以外の船籍であってもイスラエル向けの荷物を積んでいる場合も同じです。エジプトの宗主国イギリス帝国の船もイスラエルへ向かう場合は拿捕するとの強行な姿勢に、イギリスは憤慨しましたが、エジプトに押し切られてしまいます。
これ以降、国連がいくら説得してもイスラエルがスエズ運河を通過することは認められませんでした。イスラエルがインド洋に抜けるルートはアカバ湾から紅海を抜けていくルートに限られてしまったのです。
■ スエズ動乱
1956年7月26日、ナセル大統領はスエズ運河会社(本社フランス)のエジプトへの摂取を宣言します。これに憤慨したフランス、イギリス帝国はエジプトへの軍事介入を企てます。
ナセル大統領はさらに、紅海のティラン海峡をにらむシャルム・エル・シェイクに海防陣地を作り、イスラエルへ嫌がらせを始めました。フランスとイギリスはこれに対し、イスラエルを誘ってエジプトに攻め込んだのです。
この戦争中の11月3日、エジプトのスエズ閉塞作戦が実地され、船が運河に自沈し、運河が使用不能となりました。戦争は終わりましたが、運河が使用できるようになるのは1957年6月1日までかかりました。
イスラエルは結局この作戦(シナイ・キャンペーン)が失敗に終わり、スエズ運河を通過する権利を逃してしまいました。
しかし、ティラン海峡については国連軍が入り、イスラエルは安全に通過することが出来るようになったのでした。
■ 第3次中東戦争
1967年、ナセル大統領はシナイ半島に軍隊を終結させ、イスラエルへ戦争を仕掛けようと図ります。当然、国連軍がいるシナイ半島ですが、ナセル大統領は国連軍に撤収を要求します。
これを受けてシナイ半島の国連軍は撤収し、ティラン海峡海防陣地もエジプトの手に落ちたのです。そしてナセル大統領は再びティラン海峡の封鎖を命じます。
6月5日、戦争が勃発と同時にエジプトはスエズ運河を航行禁止としました。この第3次中東戦争は6日で終了しましたが、スエズ運河は閉鎖されたままです。
これによってエジプトはせっかく国有化したスエズ運河からの収益が無くなり、財政が苦しくなります。これを見て、アラブ諸国はエジプトに経済援助を行いました。
1975年6月5日、第5次中東戦争の後、スエズは8年ぶりに再開されました。エジプトはこの時、イスラエル向けの物資を積んだ船も、軍事物資以外であるならばと言う条件付で、通過を許可したのです。
■ エジプト・イスラエル平和条約
1979年3月、エジプトはイスラエルと平和条約を締結します。イスラエルはもちろんこれを歓迎し、エジプトから占領していたシナイ半島を返還します。
そしてエジプトは、イスラエル船舶のスエズ運河通過を許可したのでした。
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