最初は、学者という学者が、無名のオランダ職人ごときが、厳格な論文の文体も知らずに書き巡ねた紙切れを一笑に但し、誰も彼の言葉を信じようとはしなかった。が、なめらかな筆で実証を重ねた事実に勝る学問はない。レーウェンフックは、その報告を仕上げるまでに、きわめて用心深く、彼が発見した事実を非難するに違いない学者の思考法をつきとめていた。 学者たちは、自分に先んじてほかの者が事実を発見して栄誉をさらうことに、ひどく恥を覚え、攻撃をしかけてくる生物の集団である。彼らの学問が重んずるのは、事実そのものではなかった。誰がそれを発見したか、その者の肩書は真理を語るために正統であるか、その新事実が社会に明らかにされることによって自分たちがどのような批判を受けなければならないか、といった相対価値だけにあることを知っていた。ひとつ間違えば、レーウェンフックが異端者として宗教裁判にかけられるおそれは充分にあった。 そのような結末は、彼が二十年の歳月を費やしてつきとめた事実の数々にとって、許しがたく、しかし最も起こりやすい出来事であった。その学界の攻撃から、貴い真理を守らなければならないと、レーウェンフックは心に決めていた。彼の報告は、その足元をついて、学界を追いつめる徹底した内容のものであった。奇人と見える男が、精密画によって微生物の形や昆虫の目玉、羽根、脚の曲がり具合などを細部まで描きあげ、それらの生態をしたためた詳細な説明こそ、正確この上なく、この世の生き物の営みを描写しつくしていた。 そのため最後には、王立協会の有志会員が再現した顕微鏡を使って、「レーウェンフックの報告はすべて事実である」ことが、確かめられたのである。 レーウェンフックは、九十歳で大往生するまでに、実に三百台にも遠する世界最高の顕微鏡を完成し、死ぬまで地球を調べ続けた。それでも彼は、アイザック・ニュートンのように高名な学者の頼みであっても、その一台にも、手をふれさせようとしなかった。本心から事実を確認したいと望む誠実な学者でさえ、ただレーウェンフックが指図する通りに、そっと顕微鏡をのぞくことしか許されなかった。 “レーウェンフックの顕微鏡”をのぞきたければ、たとえイギリスの国王でさえ、オランダのデルフトまで足を運んで、有名になった彼の家を訪ねなければならなかったのだ。事実、ロシアのピョートル大帝は、レーウェンフックの家を訪れている。 何という頑固者、何たる自由人、何という努力家、何という哲学者、何とすぐれた頭脳を与えられた天才であったろう。しかし何にもまして感嘆させられるのは、その体内に宿った精神の強靭さである。
|