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(回答先: 立花隆さんの「メディア ソシオ-ポリティクス」の海外アーカイブを阿修羅のスレッドでまとめて保存してくれないかと、。 投稿者 ROMが好き 日時 2008 年 12 月 05 日 18:06:37)
第106回 安倍教育改革「負の遺産」 「哲学」の崩壊は憲法問題 (2007/05/22)
http://web.archive.org/web/20070524090758/http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/070522_tetsugaku/index.html
2007年5月22日
5月20日、千葉大学で開催された日本哲学会の第66回大会に呼ばれて、「哲学とはいかなる営みか」というシンポジウムに出席してきた。
これは、いま進行中の大学改革の中で、哲学という研究領域がどんどん追いつめられつつあり、下手をすると、学問領域として近い将来消滅してしまうかもしれない、という状況に危機感を持った哲学会が、哲学という学問がこの世界において、どれほど大切な知的営みを担っているかを世の中にアピールしようということで企画されたシンポジウムである。
追い詰められた大学での哲学教育
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学会というものは、通常、哲学会にしろ、他の学会にしろ、学者のインナーサークル的組織であるから、学会に属する学者だけで行う会議のようなものだが、今回は、世の中に哲学者の置かれている状況をもっとアピールしたいという意味から、はじめて学会外の人をパネリストに呼んでシンポジウムを開くことにしたのだという。
聞けば聞くほど、哲学の追いつめられ方は深刻である。
哲学は、文科系の教養の基礎中の基礎だと思っていたら、いまや、大学の教養課程で、哲学を必修ないし選択必修にしているところは、少数派になり、大学全体でいうと、哲学を学ぶ学生はせいぜい1割、多目に見ても、2割程度しかいないという。
先に、大学で理系の基礎中の基礎である物理を学ぶ学生が減りすぎて困っているという話を書いたが、似たようなことが、文科系でも進行していたわけだ。
next: 大学から次々と去ることになった哲学者たち
http://web.archive.org/web/20070524085852/http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/070522_tetsugaku/index1.html
大学から次々と去ることになった哲学者たち
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「大学の教養課程の哲学は、いまや消滅しかかっているんです」
と哲学会の幹部がいう。パネリストの1人である高山守東大教授が、
「ぼくが前にいた南山大学では、ついに哲学科が消滅してしまったんですよ」
という。パネルディスカッションの司会をした鹿島徹早稲田大学教授は、
「早稲田大の哲学科は、以前、教授が7人いたのに、いまは3人に減らされてしまったんです」
という。
「エーッ、ホントですか!」
という話の連続である。
要するに、文科省の方針に従うと、いまや大学で哲学を教える必要性は必ずしもなくなったということらしい。
必要ないものは安易に捨てるというのが最近の大学の行動パターンで、哲学者(哲学の教師)は大学からどんどん消えつつあるのだ。
しかしこれはとんでもない話で、哲学はあらゆる知の世界の基盤を支える学問である。
哲学のトレーニングが少しでもある人と、それが全くない人とでは、頭の働き方がかなりちがってくる。それが全くない人は、一般に筋道だててものごとを考えるということができなくなる。
next: 哲学教育の欠如が論理力の欠落招く
http://web.archive.org/web/20070524090116/http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/070522_tetsugaku/index2.html
哲学教育の欠如が論理力の欠落招く
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問題をきちんと設定するにはどうすればよいのか、その答えを正しく出していくためには、頭をどのように使うべきなのかがわからなくなる。
問題を正しく整理して、その対立軸がどこにあるのかを見抜き、論争点をはっきりつかむことができなくなる。論点の欠落を見抜くとか、世の中の多数派のものの見方に安易に引きずられて簡単に烏合の衆の一員になってしまう。多角的にものごとを見るということができなくなる。
要するに、しっかりした議論ができなくなる。その辺りにゴロゴロいるちょっと頭の足りない人の議論と同じレベルの議論しかできないようになる。
哲学はこのように、知の基礎教育中の基礎教育だから、ゆるがせにしていいはずがない。
フランスでは、文科系のリセ(高等学校)の教育で最も重視されるのは、哲学的思考のトレーニングである。フランス人と議論すると日本人がたいてい負けるのは、一つは高校時代(ないし大学初等級の教養教育)での頭の哲学的トレーニングの有無によるところが大きい。
いま教育の問題というと、一般社会の関心は、初等中等教育における、しつけの問題、いじめの問題、ゆとり教育、学力低下問題などに集中しているが、それよりずっと大きな問題をはらんでいるのが、大学教育の問題である。
大学教養教育の基礎の部分がいまどんどん掘りくずされつつある。
next: 「運営交付金の競争的資金化」がもたらしたこと
http://web.archive.org/web/20070524090116/http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/070522_tetsugaku/index3.html
「運営交付金の競争的資金化」がもたらしたこと
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国立大学は、平成16年の行政改革で、いっせいに独立行政法人となり、その基礎的経費は、運営交付金という形で、文科省から配分を受ける形になった(私立大学もいま自前の資金だけでは経営が立ちいかなくなり、相当部分が、国からの補助金を得て経営するようになっているから、事情は金額の多寡こそちがいがあれ、国立大と似たような状況にある)。
これまで、大学の運営交付金は、学生数、教官数に応じる形で基礎的教育費として一律に国から出ていたが、小泉内閣から安倍内閣に引き継がれた財政改革、教育改革の掛け声の中で、このところ急激にパイプがしぼられてきた。
その上最近では「運営交付金の競争的資金化」という事態が進みつつある。どういうことかというと、配布を規模に応じる形でとった律に散布しないで、実績に応じてスライドさせる(増減させる)ようにしたということである。
それだけ聞くと、それは必ずしも悪いアイデアではないように聞こえる。いかにももっともらしいように聞こえる。しかし、実際に起きていることを聞くと、とんでもないのである。
つまり、大学教育の場でどういう基準で実績をはかるかというと、合理的定説がない。
結局、大学が何をやったかというと、いちばん目に見える実績と結びつかない基礎教育、教養教育の部分を減らして、なんらかの実績(特に経済的実績)に結びつきやすい目立ちやすい専門教育のほうにリソース(資金と人)を集中したのである。
その結果起きたことが消滅しつつある哲学科というような、基礎教育中の基礎教育部分へのしわ寄せだったのである。
next: 「学問の自由」はなぜ憲法で保障されているのか
http://web.archive.org/web/20070624155417/http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/070522_tetsugaku/index4.html
「学問の自由」はなぜ憲法で保障されているのか
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パネリストの1人であった石井紫郎東大名誉教授は、
「これは憲法問題である」
と喝破した。
どういうことかというと、日本の憲法には、第23条、「学問の自由はこれを保障する」という特別な一項がある。
先進各国どこでも、学問の自由が守られているが、それをこのように、憲法に特別の条項を付けてまで保障しているのは日本の憲法だけである。
日本の憲法にこのような条項が生まれたのはなぜかというと、あの戦争の時代、日本があれほど狂った国家にしてしまった最大のきっかけが、大学で学問の自由が失われてしまったことにあるという反省があったからなのである。
「学問の自由」とは何なのか、といえば、昔から基本的にあげられるのが、まず「教える自由」と「教わる自由」であり、「研究する自由」と「研究を発表する自由」である。しかし、それにとどまらず、そのような自由を保障する制度的基盤として、「大学の自治」が守られることが当然そこに含まれると考えられている。
「大学の自治とは、まず教授人事、研究者人事の自主的決定権と解されているが、それは同時に大学の財政的基盤を国が保障し(運営交付金を与えるなど)、その資金の使い道もまた自主的に決定できる権利を含む、と解するべきだ」というのが、石井名誉教授の見解である。
それはその通りだろう。そこまでいかないと、「学問の自由の実質的保障」にならないからである。
next: 大学人たちは抗議の意思を示せ
http://web.archive.org/web/20070624155417/http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/070522_tetsugaku/index5.html
大学人たちは抗議の意思を示せ
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最近、大学の経営に、経済財政諮問会議がさかんに口をはさむようになり、「運営交付金の競争的資金化」というような政策もその流れの中で経済界出身の委員から出てきたことらしい。そういう委員は憲法23条の生まれた所以とその持つ意味を本当に知っているのだろうか。
そして、そのような政策の延長上に生まれた、教養教育における「哲学」の消滅という事態が、日本国の知力の水準を下げ、日本の国力を衰弱させつつあるということを知っているのだろうか。
大学人たちは、このような事態の到来に対し、はっきり抗議の意思表示をすべきではないのか。
歴史が教えるところは、あの時代、学問の自由をどんどん失わせてしまった一つの大きな背景は、大学人たちが、無力感にとらわれて、プロテストの声をあげる人がほとんど皆無に近かったということにあるのではないのか。
いまの大学教授たちは、全共闘世代ではないか。全共闘世代が、自己の存立基盤が丸ごと掘りくずされようとしているときに、黙って座視したままでいるとは、ほとんど信じ難いことである。
立花 隆
評論家・ジャーナリスト。1940年5月28日長崎生まれ。1964年東大仏文科卒業。同年、文藝春秋社入社。1966年文藝春秋社退社、東大哲学科入学。フリーライターとして活動開始。1995-1998年東大先端研客員教授。1996-1998年東大教養学部非常勤講師。2005年10月 -2006年9月東大大学院総合文化研究科科学技術インタープリター養成プログラム特任教授。2006年10月より東京大学大学院情報学環の特任教授。 2007年4月より立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科特任教授。
著書は、「文明の逆説」「脳を鍛える」「宇宙からの帰還」「東大生はバカになったか」「脳死」「シベリア鎮魂歌―香月泰男の世界」「サル学の現在」「臨死体験」「田中角栄研究」「日本共産党研究」「思索紀行」ほか多数。近著に「滅びゆく国家」がある。講談社ノンフィクション賞、菊池寛賞、司馬遼太郎賞など受賞。
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