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(回答先: 疑問多く理解得られず奇怪な裁判員制度、一刻も早い修正か廃止を(JANJAN) 投稿者 クマのプーさん 日時 2008 年 12 月 02 日 11:49:38)
http://www.book.janjan.jp/0811/0811252204/1.php
日本社会への危機感 『痴漢冤罪の恐怖』を読んで
海野隆2008/11/26
先日の朝日新聞に「携帯注意して痴漢呼ばわり」という読者の「声」が掲載されていました。「声」によると電車内で、声高に携帯電話で話し続ける20歳前後の若い女性を注意した年配の男性が、逆にその女性から「痴漢」と叫ばれ言い争いになったということで、暗然たる気持ちになったというものでした。
『痴漢冤罪の恐怖』を読み始める前に記事に出会い、私も「そう言えば……」という体験がないでもないことに気が付きました。だいぶ前になりますが東京出張の折、通勤電車のラッシュに遭遇しました。宿泊の荷物を持って身動きが出来ない状態の中で、出口に向かって中年女性の後ろに位置することになってしまいました。バッグを持つ手が女性のお尻に接触するような格好になり、どうしようもなかったとはいえ相手に嫌がられているような感じを受けました。幸い、直ぐに次の駅で位置を変えることが出来ましたので何事もありませんでした。
この本にも触れられている周防正行監督の映画「それでもボクはやっていない」を見てからは、二転三転する裁判の経過とその結末である判決の意外さに、主人公の絶望に思いを馳せるとともに自分にもいつでもあり得る恐ろしい現実を知りました。その後は混雑した電車に乗るときには必ず両手を吊り革に挙げるようにしました。
さてこの本、裁判官であった著者の論点の核心は、現状の裁判をめぐる検事、裁判官が置かれた法曹の現状から「痴漢冤罪」がいかにつくられるかという背景に迫り、さらに「痴漢冤罪」の危険性を通して「痴漢冤罪」だけではない日本の裁判の現状に警鐘を鳴らしています。そして国民に裁判に関心を持つことの重要性を訴えています。
そういう法曹の現状の中で、「痴漢冤罪」に遭わないように現実的に自ら身を守るにはどうしたらいいのか。「話せば分かる」という感覚を捨て去ること、忙しい駅員の「ここでは何だから」と駅の事務室に行かないこと、さらには現れた警察官に「ここでは何だから」と警察署に自分の意思で付いていかないということでしょうか。
でも、いざ「痴漢冤罪」の場面に出くわしてしまったら、そのような強い意思をもって対応できるかどうか、私は全く自信がありません。「冤罪」であればきっぱりとその場で否定し、行動予定を変えない、逃げるが勝ちなのだろうと思いつつ、本書にも書かれているようにとりあえず、周囲の好機の眼から逃れるように「話せば分かってもらえる」という事態に流されてしまうだろうと思います。その結果、痴漢冤罪で失うものとの比較考量で、有罪率99.9%の中に自ら入っていってしまうのだろうかと暗澹たる気持ちになります。
著者は「痴漢冤罪」が、現在の裁判が抱える構造的な問題であると指摘しています。まず、裁判官の「拘留却下が全国的に滅多にない」ということが象徴的です。検察官がした拘留申請を却下すると「後の手続きが大変」だからです。却下すると検察官は必ず準抗告という申し立てをします。準抗告は三人の裁判官が合議制で行い書記官など相当人数が残業をすることになり、却下した裁判官は定刻に帰ることは出来ても、周りの人はてんやわんやという状況になるようです。
無罪判決を出すということも、相当の勇気が要るようです。裁判官は独立し、誰にも口を挟むことが出来ないと信じられていますが時には干渉を受けるようです。
1969年、当時の札幌地裁所長が判決直前、担当裁判長に「一先輩のアドバイス」という私信を送ったことが大問題になりました。最高裁は、平賀所長の行為は「裁判官としての節度を超えるもので、裁判の独立と公正について国民の疑惑を招き、誠に遺憾である」「いやしくも係属中の事件に関し、裁判の干渉とみられるおそれのあるような言動はもとより、その疑いを招くような行動をすることも、厳に慎まなければならない」としました。
しかし、2007年2月21日には、宇都宮地方裁判所における民事審尋(当事者から事情を聞く)において、正規の裁判官3人がそろっているにもかかわらず、地裁所長が第4の裁判官として違法に出廷した事件がありました。裁判官の独立を規定した憲法76条3項違反の暴挙だということで問題は繰り返し起こっています。
また、同じ法曹人という枠内で、検察官が起訴した以上「推定有罪」となってしまう多数の裁判官の存在があり、その裏返しに厳密な証拠を比較考量せず安易に起訴する検察官の存在がある、としています。「実際の判決でも可能性があるから有罪などという判決を出している裁判官がいることを充分覚えておいてください」「出る所に出て」も真実は明らかになりません、冤罪は晴れませんと書かれると、何を信じたらいいんだという気持ちになります。
検察官の事情もあるようです。いまだに捜査官に「自白が証拠の王様」と言われつづけている現実があるようで、特に有力な証拠もない「痴漢冤罪」事件では、被害者の「やった」、被疑者の「やらない」という主張が、囚われの身になってしまったときの孤立無援、釈放されることの利害得失を比較考量することで取調べが進むうちに「自白」に転じてくることが良くあるようです。
そうした捜査段階の状況を充分にチェックし、見込み捜査に陥っていないかどうか、法と証拠に照らして犯罪が行われたのかどうかを慎重に見極めて起訴すべきかどうかを判断する役目を担っているにもかかわらず、検察官もまた警察官と同様に見込み捜査と被疑者の弁解を聞く姿勢を持たないということがあるようです。著者は、特に「痴漢冤罪」事件では「推定無罪」ではなく「推定有罪」原則が検察官にもあるという現実を知れといっています。
痴漢冤罪といわれる事件に共通して現れる人権への軽視は「捜査に当たる警察官、検察官、さらには裁判官の心の中に憲法を軽視する思想があるといわざるをえない」と著者は記しています。憲法に詳しく規定された基本的人権擁護の否定とも取れる元裁判官であった著者の思いは、日本社会の中にある憲法軽視、人権軽視、人権無視の風潮への危機感だと思われます。
法曹界で行われている大きな改革である、法科大学院による法曹人の多様化、裁判への国民参加が、裁判が直面する課題を解決する方向で行われることを望むばかりだが、3千人合格の見直しや国民への認知・理解が進まない裁判員制度など、改革が容易ではないこと、その方向性もいまだに大きな論議のもとにあることが分かります。
現代の日本社会は憲法の精神が根付かない社会となっています。同一労働・同一賃金などの原則は無いかの如しで、派遣労働者やパート労働者は景況の波で直ぐに首を切られ、寮に住んでいる者は住居まで失うということになっています。企業経営者は、首切りをまったくためらっている様子が伺えません。従業員を守るためにぎりぎりまで努力をする、私財まで放出しながら雇用を守る、などというのは遠い昔の美談になってしまっています。まじめに働いている働く人、一人ひとりの背後にある家族や生活はほとんど考慮されないようです。
マスコミもそれが当然のごとく、派遣労働者の首切りを報道しています。雇用を守られる少数の正社員や公務員、景況や企業の都合によって当然のように首を切られる多数の非正規労働者に日本社会は分断しつつあります。「ホテルのバーは安い」と公然と言い放ち疑問にも感じない首相を持つ、日本の現状は何かおかしいと思いつつ、読書後、そんなことも考えさせる本書でした。
コメント
ついでに、目にとまったので載せといたわ。
裁判官に検察から流れるカネはまだ健在やろう。
検察の調活が減らされたとはいえ、警察と併せての総額ではそう減ってない、警察からのキックバック方式で裏金は確保されているやろからな。
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