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2008年08月25日
広田弘毅とその戦争責任
高速バスを乗り継いで徳島に久しぶりの講演に出かけた。
いまさら講演でもないが、平和について語れと請われれば、断りはしない。
残された人生で、私に出来る事があるとすれば、元外交官の経験から最後にたどり着いた結論を語る事だと私は覚悟をした。
日本は何があっても戦争をしてはいけない、戦争に加担してはいけない、日本が世界に誇る事ができるのは平和憲法である、それこそが最強の安全保障政策だ、と、一人でも多くの人たちに訴えていく事を心に決めた。
バスにゆられながら私は一冊の新書を読んだ。読みながら先輩外交官たちの苦悩と限界に深いため息をつかざるをえなかった。
最近発刊された中公新書の「広田弘毅 悲劇の宰相の実像」である。
服部龍二という若い学者の手になるこの新書は、国民必読の書である。
満州事変から太平洋戦争につらなる日本のあまりにも愚かな戦争がなぜ避ける事が出来なかったのか、その責任は誰にあるのか、責任者は等しく公正に処罰されたのか、そしてその事は戦争という過去の誤りを超えて、今日の日本の様々な権力の誤りにそのままつながっているのではないか。罰せられるべきものが正しく罰せられることなく生き延びている事までも、そっくりそのままではないのか。
その事を教えてくれる書である。書を閉じて深いため息をついた。
著者の服部氏と同様に、そして多くの日本人と同様に、私の広田弘毅に対するイメージは城山三郎の「落日燃ゆ」の中で描かれた感動的な広田である。
すなわち、A級戦犯としてただ一人文官で絞首刑となった悲劇の宰相であり、軍部に抵抗したにもかかわらず極刑の戦争責任を問われ、それでも超然と、黙してそれを受け入れて死んで言った高潔の人というイメージである。
しかし服部は、広田の人間的な魅力や、無類の家族思いであった広田に惹かれつつも、そして絞首台に踏み出す広田の姿を想定して心が沈む自分を認めながらも、膨大な史実を検証して心を鬼にしてこう断じる。
軍部に抵抗する姿勢が弱く、破局へと向かう時代に決然とした態度を示さなかった広田の責任は免れない、と。
たしかに広田は満州事変から2・26事件を経て日中戦争に突入し、そして太平洋戦争に至る決定的な時期に外相、首相をつとめた日本の指導者であった。その事の持つ意味は思い。
外交官としてのこの大先輩の置かれた困難な状況と、その中で尽くした努力に思いを馳せながらも、私もまた服部と同様に、広田の戦争責任を問わないわけにはいかない。戦争とはそれほど重いものなのだ。深刻なものなのだ。
問題は、その戦争の責任を等しく共有した指導者たちの多くが責任を免れたという事だ。
責任者が公平、正当に処罰されなかったということだ。
そして責任を免れた者たちが、戦後も何食わぬ顔をして日本を動かしてきたという無責任さである。
その事こそ問われなくてはならない。
そしてその事は今日の権力者の不正にそっくり当てはまる。
日本が正しい道を歩む事のできない最大の理由がそこにある。
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