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(回答先: 沖縄慰霊の日/過去と今を見つめるとき(神戸新聞) 投稿者 gataro 日時 2008 年 6 月 23 日 13:37:38)
http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20080623.html#no_1
社説(2008年6月23日朝刊)
[きょう「慰霊の日」]
バトンは私たちの手に
梅雨が明けた週末、糸満市摩文仁の「平和の礎」に足を運んだ。戦没者の名を刻んだ碑を前に、花を供え手を合わせる人の姿があちこちに見られた。
きょうは「慰霊の日」。戦後六十三年。命からがら戦火をくぐり抜けた人々にとって、肉親や学友を失った悲しみが薄まる歳月ではあるまい。暑い日差しの中で、碑を見つめ、いとおしむように名前をなぞる高齢者が目立った。
「礎」には二〇〇八年六月現在、県民が十四万九千百三十人、県外七万七千三十三人、米国一万四千九人、韓国三百六十四人など、合わせて二十四万七百三十四人の犠牲者の名が記されている。
一九九五年に完成後、毎年名前が刻まれており、今年も県内四十二人、県外七十二人など計百二十八人が追加刻銘された。六十年を超えてなお掘り起こされる事実は、戦争は決して終わることのない惨禍だ、と教えてくれる。
沖縄は昨年来、沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」に関する高校歴史教科書検定問題で揺れている。その中で、誰にも話したことのない忌まわしい記憶を、語り始めた体験者たちがいる。自らの体験と周りの証言を重ね合わせることで、初めて自分の記憶の本当の意味を知る人もいる。
教科書検定問題で、文部科学省は「集団自決」について、軍の関与を示す記述の復活は認めた。が、「軍の強制」という表現は、どの教科書にも盛り込まれなかった。
体験者たちが、絞り出すように語り始めた背景には、多くの人々の身を削るような証言を顧みない動きに対する怒りがある。
戦争体験者が語る一方で、戦争を知らない世代はどうだろう。沖縄戦に関する各資料館では、県外の学生が目立つのに比べ、県内の学生の姿は少ないと聞く。
戦争体験を「知る」ことは難しいことではないが、それを「自分のこととして受け止め、考える」には歴史に対する謙虚さと想像力が必要だ。
沖縄全戦没者追悼式では読谷小四年生の嘉納英佑君(10)が「世界を見つめる目」との題で平和の詩を朗読する。嘉納君は、普段から祖父母の体験談を聞き、親の話に耳を傾けてきた。肉親の痛みや苦しみに寄り添う中で、今の平和が掛け替えのないものだと知る。戦争がなくなり、皆が幸せになれるように「やさしい手とあたたかい心を持っていたい」と誓う。
戦争を知らない世代には日常生活の中で、絶えず戦争と平和について考える持続力も求められる。
宜野湾高校では「慰霊の日」を前に、女性史家の宮城晴美さんを招き講演会を開いた。三十代の教諭らは「戦争を知らない私たちが、言葉に重みを乗せて生徒に語るのは難しい。語り継いでいくためには学ぶしかない」と話す。
戦争体験者は年々、少なくなる。戦争体験のない戦後世代が、さらに年少の世代に対して沖縄戦を語る時代がすでに始まっている。学校のみならず、家庭や地域で戦争について考える環境づくりが欠かせない。体験者自身も気付かなかった新しい事実を掘り起こす努力を続けよう。
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