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(回答先: ”オバマ氏のルーツは「黒人のユダヤ人」”と報道される日が来るのかも…米国新大統領を巡って。(その1) 投稿者 新世紀人 日時 2008 年 4 月 30 日 17:09:36)
http://www.ngy1.1st.ne.jp/~ieg/ieg/inter/vol5-3/ikegami.htm
【復刻】イスラエルの歴史と性格 中東問題理解のために 池上和夫
【以下は、共産主義研究会「大道」14号1973.11.1からの復刻文書です。イスラエルによる暴虐・虐殺が野放しにされている現在、パレスチナ連帯の基礎的理解に役立つことを願ってデジタル化していただきました。ご参考になれば幸いです。 津村 洋】
【復刻】 中東戦争とパレスチナ問題 (無署名)
(1) はじめに―ユダヤ人とイスラエル
ユダヤ人が、或は「ユダヤ人」という概念が、欧州、ロシアなどキリスト教的社会で独特の意味を持ち続けてきたことは、日本でも広く知らかている.そして、「ユダヤ」という言葉が先ず連想させるものは、「祖国」を持たず各地で冷視されながら世界に分散している特殊な「民族」、流浪の民としてのユダヤ人であり、ナチによる六〇〇万のユダヤ人大量虐殺で頂点に達する苛酷なユダヤ人迫害の歴史であろう。
一九四八年のイスラエル建国を準備し指導したシオニストは、まさしく、こうした文脈の下にイスラエル建国の正当性を語ってゆく。
シオニズムとは、文字通りの意味は、旧約聖書の預言に基いて、ユダヤ人が受難の末にシオンの丘=パレスチナに帰りつくことを理想とする宗教的な思想である。この聖書の預言通り、世界に分散していたユダヤ人は、二千年を経て、「荒れはてた」パレステナの地に続々と帰還し、砂漢を緑に変え、新しい国家を建設した――これがシオニストの見解であり、イスラエルの主張である。
こうしたイスラエル国家の一種独特の、神秘的、宗教的様相は、イスラエルが−般の資本主義社会とは異質の共同社会であるとの印象を世界に与え、しばしば、階級社会を超越した社会主義的な存在であるといった受けとられ方をしている。イスラエルの「社会主義的」色彩を代表する集団農場キブツは、「もうーつの社会主義の実践」として、そのユートビア的性格が語られることも(六日戦争、.パレスチナ解放勢力の行動などで、その幻想が低減しつつあるとはいえ)珍らしいことではない。
周辺のアラブ数ヶ国、及びパレスチナ難民と鋭く対立している、この「メシアの再来の国」、「新しい社会主義の国」とは一体何ものなのか、――これは、中東問題理解の一つの鍵である。」
(2) シオニズムとイスラエル建国
<政治的シオニズムの形成>
前記のように、イスラエル間題はユダヤ人間題と係りを持っている。そして、ユダヤ人をめぐる問題は、彼等が世界に分散した紀元一世紀から、或は更にユダヤ教の成立から始まっているといえる。こうしたユダヤ人問題を全歴史渦程を通じて検討することは意味ないことではない。しかし、宗教的に表現されるユダヤ――非ユダヤの対立、ユダヤ人追害は、歴史貫通的な単一の根によって現在まで存続しているわけではない。
全ての社会現象と同様に、ユダヤ人問題は、各時代の社会体制にとって意味あるもあであったが故に、それぞれの時代に特有の意義を付与され存続・拡大砂せられてきたものである。
従って、ユダヤ人問題は、人民の内部対立は支配階級にとって有益であるという一般的な内容以上に根本的な要因に立ち入ろうとするならば、先ずその「起源」なり各時代の共通するものを探るのではなく、先ず、それが特定の時代にどのような社会的役割を担い、どのように再生産されているのかを、現実的な関連の中で見てゆかなければならないのである。
こうした意味で、イスラエル建国との関係に於いて我々が扱う必要があるのは、資本主義以前の階級社会の産物であるユダヤ人―非ユダヤ人の対立が、資本主義、特に帝国主義の時代に、どのような意味を与えられ、どのような勢力に利用されたのかという領域である。
一九世紀後半、世界には一千万を越えるユダヤ人が存在していた。
この時期に、西欧では、ブルジョア革命の波の中で、キリスト教を中心に行われてきたユダヤ人に対する追害は、法制上で姿を消し、ユダヤ人の同化はかなり進みつつあった。しかし他方、同時代に、ロシアではポグロム(ユダヤ人虐殺運動)が荒れ狂(ママ)い、景欧の反ユダヤ運動も相変わらず激しいものであった。
シオンの丘に帰る以外にユダヤ人にとって安住の地はないと考える宗教的な思想が存続し続けたことは根拠がないことではなかった。現在住んでいる国での同化、権利の拡大を追求るのではなく、「聖地」への帰還によってユダヤ人として受ける苦痛を克服しようと考えた部分は、東欧・ロシアのユダヤ人に集中していた。しかし、亡命先を米国や西欧とするのではなく、敢えて、パレスチナとするものは、東欧・ロシアに於ても少数派であった。
問題は、聖地帰還の願窒一般にあるのではなく、西欧を中心とするブルジョア等富裕層のユダヤ人が、この願望を政治的に利用しようと考えるところから始まるのである。彼等の手によって、シオンの丘にあこがれる宗教的、文学的シオニズム、或はせいぜい個人か小集団でパレスチナに移住する程度の非政治的シオニズムは、パレスチナにユダヤ人国家建設を目指す政治的シオニズムに一変させらる。
オーストリア系のユダヤ人ヘルツェルは、『ユダヤ国家』という著作を発表し、彼の指導下で、一八九七年バーゼルにおいて第一回シオニスト会議が開催された。
バーゼル会議では、公法で認められたユダヤ人の「民族的ホーム」なるものをパレスチナに建設することがシオニズムの目的であると規定し、その実現のために、ユダヤ人のパレスチナ入植の促進、各国における合法的シオニスト機構の設立によるユダヤ人の世界的結合の強化、政府の同意を得るための予備的交渉の開始、ユダヤ人の民族感情の強化、などの手段を行使することを決議している。
「民族的ホーム」という言葉はヽヘルツェルの私記で明らかな通り、ユダヤ人国家建設の意図をカムフラージュするものでしかない。
但し、シオニズムとは言え、ヘルツェル自身は、建国の地としてのパレスチナの可能性は極めて乏しいと考え、アルゼンチン、キプロス、ウガンダなどを同時に候補地とし、列強政府と交渉を続けてゆく。この交渉において、ユダヤ人の民族的ホーム建設を承認して貰う見返りとしてヘルツェルが常に提示したもの――そしてシオニストが提示出来た唯一のものは、ユダヤ人民族的ホームが、被占領地域、後進地域の中で、帝国主義の忠実な「前哨基地」としてふるまい列強の財源をなすであろうとの約束であった。シオニズム運動が、大衆的な民族運動として形成されたものではなく、従って、大衆的な物質力を持っていないこと、そしてシオニスト指導部の大半が大資産家であったことを考えれば、交渉がこうした取引きになることは全く必然であった。
交渉の結果、英国政府はケニア領ウガンダを提案し、この案は−九〇三年のシオニスト会議で受諾され、「民族的ホーム」が現実化するかに見えたが、建設の地を、パレスチナとして宗教的心情に訴えない限り大量のユダヤ人移民獲得の可能性が少なく、ヘルツェル死後一九〇五年になると、逆にシオニスト会議がこの案を拒否するに至った。
シオニストは「民族的ホーム」建設の当面の展望を進んで失ったのである。だが、何故自らこうした行動に出たのか、――この経過は、政治的シオニズム運動形成過程の性格を堆定させる一つの手がかりである。
第一に注目すべき点は、シオニズム運動が、ユダヤ人追害・虐殺のさし追った問題を回避するための「必要悪」的な人道主義的運動であったというしばしば見られる見解からはシオニスト会議のこの行動は説明のされようがないということである。もし人道的見地を第一義的なものとする運動であれば、「避難場所」を選り好みする余裕などあるはずがないし、ユダヤ入植民者が少いとすれば、それは彼等が緊急の避難が必要な程には迫害を受けていなかったことを意味するだけであり、喜ぶべきことであっても、別に問題にすべきことではない。にもかかわらず、「民族的ホーム」の最初の可能性を、現実性のある対案がない状態で棄て去ったことは、彼等の狙いが別にあったことを示している。
第二に、一度パレスチナではない提案を受諾したということは、シオニズム運動が、純粋な、或は心情的な宗教的運動でもないことを暗示している。
シオニストにとっては、人道的宣伝も、宗教も、別の目的のための手段に過ぎなかった。
この時期、東欧から数百万のユダヤ人が追害を逃れるため流出しているが、その大半は西欧・米国等に向っており、パレスチナに向ったユダヤ人は、移動した部分の数十分の一に過ぎなかった。一○万程度の会員を持つシオニズム機構は、一千万を越えるユダヤ人の中で少数派であることを自覚させられていた。
シオエストにとって最も重大な問題がここにあった。彼等は、例え「民族的ホーム」建設に関して帝国王義政府と話をつけようとも、彼等が少数派である限りは、それで目的が達せられるわけではなかった。ツオニストは、迫害がある故に「ホーム」を建設しょうとしていたのではない。国家の建設、それも強大な国家の建設それ自体がシオニストの目的に他ならなかった。言葉を換えれば、比較的豊かな財力を持ち、国際的機構を備え、各国政府と取り引きを行い、いわば一種の「亡命政府」的な性格を帯びてきているシオエスト指導部は、自らを独自の支配階級、安定した支配階級として組織することを展望していたのである。その際、支配階級として強大な力を獲得するために何よりも必要なものが、シオニストの指導下にパレスチナに植民する大量のユダヤ人の存在に他ならなかった。
<英帝統治下のパレスチナ植民>
第一次世界大戦の開始は、シオニズム運動に有利な条件を形成した。
帝国主義列強の対立の教化は、シオニストの策謀の余地を増大させた。シオニストは、対立する双方の側、特に英、独に、帝国主義の「前哨基地」としての自己の売り込みを活発にしたが、真っ先にとびついたれが英国政府であった。
当時、英帝国主義は、ドイツ同盟国のオストマントルコ占領下にあるパレスチナを戦勝の際獲得する旨を、フランス、ロシアとの間で取り決めていた。その上で、一九一五年、英国は、マクマホン・フセイン協定によって、連合国戦勝の後にパレスチナを含むアラブの独立を認めるとの約束を行った。同様の独立の保障は一九一九年のファイサル・ワイズマン協定でも行っている。
しかし、独立の保障は英国の本意ではあり得なかった。
一九一七年、英国政府は「……パレスチナにおけるユダヤ人の民族的ホーム設設に好意を抱いており、この目的達成のため最善をつくす……」ことを骨子とするバルフォア宣言を発表した。この宣言が、アラブに独立を保障する前後の協定と矛盾するものであることは説明を要しない。帝国主義の常套手段である、英帝の最も得意とする「分割統治」が、これ以上にない露骨な形で行使されたのである。
言うまでもなく、独立の約束は、当時ドイツと抗争関係にあった英国が、ドイツの同盟国であるオットマントルコ占領下のパレスチナアラブ人民を、独立をエサに、オットマントルコに対する決起に導こうとするものであった。
他方、英国は、各国のユダヤ人を連合国側につけるために、又、米国の連合国側での参戦を促すためにも、シオニストへの譲歩の必要を感じていた。そして、シオニストが望むパレスチナ植民は、オットマントルコを撃退した後に強まることが予想されるアラブ解放連動に、帝国主義くさびを打ち込む効果が期待できた。ユダヤ対アラブという図式による反英闘争の矛先の回避、シオニストによるアラブ解放勢力の弾圧これが、矛盾する協定と宣言の中での英帝の狙いであった。
西欧の帝国主義にとって、東方侵略の要をなし、叉、インド洋に抜けるスエズ運河が存在するパレスチナ周辺は、極めて重要な戦略的意味を持つ地域であり、アラブ解放勢力の手に委ねることは、英帝にとっては絶対に容認できないものであった。パレスチナに入植するシオニスト指導下のユダヤ人は、そうしたパレスチナ地域において、まさしく「前哨基地」そのものを意味したのである。
一九二二年、国際連盟によって、英国によるパレスチナ委任統治が決定されるが、その際、バルフォア宣言の内容は、決議にそのままとり入れられていた。
こうして一九一八年から四七年まで、即ち英帝のパレスチナ支配(占領→委任統治)下で、イスラエル建国が公然と準備されるのである。シオニストはこの期間に、(1)パレスチナへのユダヤ人植民の拡大、(2)パレスチナの土地買いあさり、(3)パレスチナにおける独自の政治的・軍事的機構の建設、をおし進めた。英国は、少数者=シオニズム下のユダヤ人によって、多数者=パレスチナアラブ人を支配させるために、シオニストに対して積極的な援助を与えた。シオニスト機構は、パレスチナでは、英国委任統治政府と対等な程の力を獲得していた。
パレスチナの人口構成は、ユダヤ人の植民によって次のように変化する。
一八年、総人口は七〇万、うちユダヤ人五万、ユダヤ人比率八%
二二年、総人口は七五万、うちユダヤ人八万、ユダヤ人比率一二%
三一年、総人口は一〇〇万、ユダヤ人一七万、ユダヤ人比率一七%
四八年、総人口は二〇〇万、ユダヤ人六五万、ユダヤ人比率31%
この間にシオニストは委任統治政府によるアラブ人土地取り上げのための法案を利用し又、策術を駆使して土地の獲得に狂奔(ママ)した。四八年までに、パレスチナ全土の五・六七%がユダヤ人の手に獲得された。
ところで、この二種類の簡単な数値は、少くとも、シオニストの常套的な宣伝を反駁するに充分なものである。
第一に、パレスチナは、土地なき国民に与えられた国民なき土地であるという主張、ユダヤ人は、荒れ果てた砂漠を彼らの労働で緑に変え、新国家を創り上げたとの主張がデタラメだということである。パレスチナは人口密度に於ても、一九四八年に一七六人/一平方マイルであって、米、ソ連の数倍であり、低い方ではなかった。
第二に、パレスチナは、ユダヤ人が彼等の経済力によって買いとった国であるとの見解である。確かに、シオニストは、彼等の世界機構の財力を投入して大規模な土地購入を追求した。しかし、高額の条件の下でもパレスチナのアラブ人は土地を手離すことを嫌い、その結果が、六%弱というシオニストの土地獲得度合に現われている。
シオニストは、決して純経済的に、従って平和裡に、或は適法的に、パレスチナを買いとったわけではなかった。
一九一八年に、後のイスラエル国防軍の中核と夜るハガナ(防衛)と呼ばれる秘密の武装部隊が結成され、年々その組織を拡大し、軍隊としての形を整えていった。又、イレグン・ツパイ・レウミ、シュテルン・ギャングなどの極右的なテロ組織も活動を行っていた。シオニストは、英国の黙認の下で武器を密輸し、武装を行い、やがて英国の積極援助を受けるに至る。それに対して同時期に、パレスチナのアラブ人は、武器を所持していただけで少くないものが処刑され或は投獄されるといった状況にあった。
こうした暴力装置を背景に、シオニストによる土地買いあさりとその土地からのアラブ人の追放、或はアラブ人を一切雇用しない近代工業の持ちこみによるアラブ人経済の圧迫、アラブ人失業者の創出といったシオニストの排外主義的政策が強められた。
それに対し、アラブ人は散発的にシオニストと衝突したが、その闘いは、大地主層、商人資本家などによって排外主義的な方向に指導されることも少くなく、パレスチナ勤労大衆の大半を占める農民は、明確な路線と組織を確立する方向には充分進み得なかった。
しかし、パレスチナを含めて、アラブ総体としては、一九三三年、一九三六年の反乱・蜂起に向けて、次第に反英色が前面に押し出される方向に進んでいた。当時の反英反シオニズム思想の公的なスローガンは、独立、ユダヤ移民停止、土地譲与禁止(シオニストは獲得した土地のアラブ人への再譲与を禁じ、ユダヤ民族基金の借地契約には、アラブ人をその土地で雇用しない義務が明記され、違反者への経済的制裁が規定されていた。こうしたシオニストの方針の下では、アラブの要求を拝外主義と決めつけることは出来ない)
一九三六年、パレスチナの民族資本、地主層、宗教団体等を代表する政治結社教団体によってパレスチナアラブ高等委員会が結成され、反英反シオエズムのゼネストから武装蜂起に発展するが、こうした反英闘争の激化は、ユダヤ―アラブの対立を軸に遂行されてきた英帝の分割統治の機能が低下したことを意味するものであった。こうした事態に至っては、シオニストの排外主義が、逆に反英感情を刺激することにもなりかねない。
英帝のアラブ支配にとって、シオニストの意義は減退した。
英帝は、一九三九年、アラブを懐柔するために、ユダヤ人移民とユダヤ入の土地購入を制限する白書を提出した。
<国連決議とイスラエル建国>
英帝の保護下にあったパレスチナのシオニストの立場は悪化した。しかし他方で、シオニストにとって極めて有利な条件が形成されていた。ファシズムの台頭によるユダヤ移民の増大と、ナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺である。パレスチナ移民の増大は、又、世界恐慌で米・西欧の経済状態が悪化し、シオニストが何よりも恐れる米国への移民が滅少したことにもよっている。
移民の急増は、パレスチナにおけるシオニストの力量を強め、国家建設の現実性を高めつつあった。この事態は、更に英帝とシオニストの間の溝を深めることになった。
シオニストの言う民族的ホームが、実はユダヤ国家を日指すものであることを英国が気付いていなかったとは考えられないが、パレスチナの如何なる独立にも反対である英帝は、アラブ人か圧倒的多数を占める限りで、ユダヤ国家の創設はあり得ないと判断していたと思われる。パレスチナ独立は、アラブ人を多数派とする国にならざるを得ず、それはシオニストの理念に反するからである。だが、移民の増大はこの事態を一変させた。英帝のシオニストに対する警戒心か高まった。
その上、戦後に入ると、経済的対立が露わになった。大戦中の特需で生産力を数倍に伸ばし、ユダヤ人による経済支配を目指すパレスチナのユダヤ人経済は、終戦と共に再度拡する英国の経済進出と、特に消費材をめぐつて競合状態を激化させた。シオニストは、三九年の英国白書以来、英国委任統治政府に対するテロを強め、同時に、アメリカ帝国主義への接近をはかっていた。
パレスチナに於ける英帝は、極めて苦しい状況におかれることになった。アラブの反抗の増大に加えて、シオニストの反英テロが激化したに止まらず、パレスチナをめぐる英国とシオニストの軋轢の際には、世界中の世論が「受難の民」ユダヤ人の側についた。ナチによるユダヤ人の大量虐殺に衝撃を受けた世界は、ユダヤ人はパレスチナに安住の地が与えられるべきだとのシオニストの宣伝を、同情をもって素直に受け入れた。勿論、大半の者は、ナチの支配下で、ハンガリーのシオニスト指導部がナチと取り引きを行い、少数のユダヤ人を国外に不法出国させることと引き換えに、数十万のユダヤ人を強制収容所に送る手助けを行ったこと、この種の取り引きがナトチの下で行れかたのは一度に止まらないことなどは知る由もなかった。
パレスチナの混乱状態と国際的非難に困惑した英帝は、一九四七年、パレスチナ問題を国連に提出した。これは、パレスチナ或は世界の反英感情をそらした上で、同時に国連が何の決定も行えず、結局は英委任統治を再確認することを予測し、国連の「お墨付き」を得て現状維持を狙ったものであると考えられる。だが、かつては世界を制する力量を背景に効果を生んだ英帝の謀略技術も、英国の地位の相対的低下に伴い、その「神通力」を失っていた。
米帝がこの機会にとびつき、パレスチナのユダヤ人に圧倒的に有利なパレスチナ分割によるイスラエル独立のために異常な力を投入し、ソ連も米国と意見の一致をみた。この二大国の動向は決定的であった。
米帝は、既にサウジアラビアの石油を全て掌握し、クウェート、イラクなどに進出し、西欧帝国主義諸国(特に英・仏)、ソ連などと激しい経済抗争を行っていた。だが、未だに英・仏の影響力は中東に根強く、英帝と対立を深めたシオニストを抱きこむことは、中東進出にとって重大な意義があった。
他方、パレスチナアラブを無視した分割案に対するソ連の賛成は、国内二〜三〇〇万の未だ未解決のユダヤ人間題に直接規定された現実的な利害関係を、英国の占領よりは独立を、という一般論で意味付与したものであるが、そこでは、米帝の意図に対する対処がすっぽり抜けおちていた。
米帝は、当初分割案に反対した小国に対する国連期間中の露骨な脅迫を含めて、採決時には彼等を賛成にまわしてしまうという「奇跡」を演出して、分割案を可決させた。四七年の国連緊急総会の議事録には、この不可解な票の動きと、そうした事態に対する警告とが、事実の記録として残されている。――シオニストは、英帝と結合することで力を蓄積しながら、最終的には、世界的な支配力をもって台頭しっつある強大な帝国主義=米帝と結託することによって、一つの日標を達成したのである。
この分割案がシオニストのためのものであることは、その実体を見るだけで充分理解できる。
当時パレスチナには、約一三〇万のアラブ人と七〇万のユダヤ人が存在し、土地の配分は、前述のように、ユダヤ人が六%前後に過ぎなかった。
しかし、分割策は、土地の四三%がアラブ地域に、五六%がユダヤ地域に分割されるものであり、ユダヤ地域には灌漑地の八三%が含まれていた。又、アラブ工業施設の四〇%がユダヤ地域に編入された。ユダヤ側の所有する土地、工業施設は全てユダヤ地域に含まれ、彼等は何一つ失うものがなかった。
人口比では、ユダヤ地域がユダヤ人四九万、アラブ人四九万、アラブ地域がアラブ人七二万、ユダヤ人一○万、国際管理下のエルサレムが、アラブ人一〇万、ユダヤ人一○万である。即ち、ユダヤ人が半数程存在している地域はユダヤ地域に属するのに対し、アラブ人が圧倒的に多い地域に限ってアラブ地域とされたわけである。
パレスチナアラブ高等委員会は、この決定に反対し、抵抗を呼びかけた。双方のテロ活動が活発化し、四八年に入ると、アラブ全体をまき込む戦争状態に進展していった。
パレスチナ分割案が決議された一九四七年は、パレスチナ・アラブ地域の解放勢力が極めて低迷した状況にある時期であった。
一九三六年の蜂起は、英帝軍事力の数分の一を投入した弾圧によって圧され、パレスチナアラブ解放勢力の軍事的な機能は壊滅状態に陥った。その上、更に致命的な問題は、単に物量的な後退に止まらず、パレスチナアラブの解放闘争の未成熱によって、反英帝闘争の過程で解放勢力が親相軸国的なイヂオロギーに接近したことである。その結果彼等は、第二次大戦終了と共に、展望を喪失し、混迷をより強めざるを得なかった。
こうして、パレスチナ解放勢力が有効な対処をなし得ないうちに、一九四八年五月一四日、イスラエルは独立を宣言し、米国はこれを一〇分後に承認した。パレスチナ解放勢力の弱体の下で行われたこの第一次中東戦争は、パレスチナ人民にとって、英帝の占領・統治にも劣らない大きな悲劇をもたらす序幕であった。
ところで、この第一次中東戦争で、我々が看過してはならないいくつかの点がある。 第一に、ユダヤ勢力を攻撃したアラブ軍の背後に英帝国主義が存在していたことである。
国連決事後も、パレスチナアラブ人がユダヤ人に対して総攻勢を行ったわけではない。 これは、アラブ人の総体的な弱体にも規定されているが、他方、アラブ人がさ程根強い反ユダヤ意識をもっていないことにもよるものであった。
元々、アラブでは、シオニストの大量移民以前は、欧州のキリスト教的社会と比戟し得るようなユダヤ人の人種差別は存在していなかった。東欧やブルジョア革命前の西欧と異り、ユダヤ人差別の法律が存在しなかったことは、その一つの反映と言える。
アラブ人の反ユダヤ感情は、英国統治下で煽られ、それは幾度かの衝突にまで進んだが、決定的な排外主義にまでは至らず、パレスチナの解放勢力の中には、パレスチナ問題の現実的解決の方策として、独立イスラエルと独立パレスチナアラブの併存という考えも存在していた。従って、分割決議に不満があるとはいえ、それを止むを得ないものとして消極的に受け入れ、英帝の支配よりは前進だと考える部分が少なくなかったのである。
だが、中東における失地回復を狙う英帝は、今度はアラブの背後につくことによって、パレスチナに混乱を持ち込み、委任統治に逆戻りさせる機会をつくろうと試た。こうした意図の下の「参戦」であるため、英国は、徹頭徹尾表に掛ることを避け、アラブ人の戦争に見せかけようとした。だが、英将校の指揮下でパレスチナ戦争に参加したアラブ人は、実にニ〇〇〇人に過ぎなかったのである。アラブ諸国共産党は、この戦争を英帝の謀略と把え、アラブ兵に対する戦闘拒否と反英闘争を呼びかけた。
又、シオニストも、当時は公然と英国の「陰謀」を非難していた。しかし、数年後には、イスラエル国民の反アラブ感情を高めるために、これがアラブ人民の攻撃であったと歴史をぬりかえるのである。
かくして、第一次中東戦争は、米帝と結託したイスラエルによる領土獲得、それに対する英帝の反抗という、帝国主義の領土再分割戦の様相を帯びたものであったにもかかわらず、それは、イスラエルに対するアラブの攻撃、或はユダヤとアラブの民族戦争として世界に宣伝されているのである。
第二に、この戦争の過程でトランスヨルダンが果たした役割りの問題である。
トランスヨルダンは、一九二八年、アラブの反英闘を緩和させる目的で英国が親英的なアブダラを立てて形式的に独立を与えたカイライ政権国家であるが、アブダラは、この戦争の只中で、イスラエル独立直前にシオニ
スト指導部と秘密交渉を行っている。後に暴露されたその内容は、国連分割案でアラブ地域として割り当てられたパレスチナアラブ地域を、独立させることなくイスラエルとヨルダンで分け合おうというものであった。交渉の数日後両国は戦闘状態に入るが、その停戦ラインは秘密交渉で準備されていた分割線と完全に一致していたと言われる。こうして、パレスチナは切り裂かれ、イスラエルとトランスヨルダン(パレスチナ併合以降ヨルダンに変更)に併合され、イスラエルは結局、国連決議の一・五倍の領土を獲得することになった。
第三に、デール・ヤシン村の虐殺に代表される、イスラエルによるアラブ人の扱いの問題である。
一般に、戦争なり大闘争の際、ある特定の残虐行為のみをとり出して強調することは危険を伴う。残虐性は戦争の階級的性格そのもののうちにあるのであって、従って、戦争の性格はその「全具体性」に於て把塗されなければならないからである。
しかし、デール・ヤシン村二五〇名の虐殺は、イスラエル国家、シオニズムの性格にかかわる重要な位置を占めている。
この虐殺は、イスラエルの極右テロ組織がアラブ人をパレスチナから逃亡させる目的を公言しつつ行ったものである。それに対し、当初イスラエル大衆は「残虐すぎる」として非難をあびせ、国防軍も、この戦争を通じて完全中立を保っていた村民の虐殺に批判的であった。
しかし、この虐殺の効果は劇的であり、それはシオニストの目的と完全に一致した、即ち、中立であっても攻撃されると知ったアラブ人は恐慌状態に陥り、イスラエル国外へ向けて逃亡を開始したのである。
前述の数値で示した知く、ユダヤ人地区のユダヤ人とアラブ人人口はほぼ同数であった。その上、人口の自然増加率はアラブ人が三倍程高い。更に後に触れるように、イスラエルは国土拡大を公然と追求しており、拡大に伴って大農のアラブ人をかかえこむことは避けられない。しかし、シオニストの目指すものは、ユダヤ人のみの国家、或はユダヤ人を圧倒的多数とする国家であって、そのためにはイスラエルのアラブ人を何らかの方法でイスラエル国内から消滅させる必要があった。
その結果、イスラエルは、この虐殺とその効果を積極的に把え、アラブ人の中に宣伝し、或は同様の事件を繰り返し、アラブ人の国外逃亡を促してゆくことになる。極右組織によって行われた行動は、直ちに、イスラエルの国家的政策として取り入れられたわけである。
こうして、約七五万人のアラブ人が難民として近隣諸国に事実上追放された。恐怖に煽られたに止まらず、イスラエル兵に脅迫され追いたてられながら国外に追放された難民の大半が、一切の財産をイスラエルに置いたままで移動しなければならなかったことはいうまでもない。
イスラエルは、難民が自ら進んで国境を出た、或はアラブの煽動によって国外逃亡したなどと宣伝しているが、自ら国外に出るものが着のみ着のままであるはずがなく、又、屋外逃亡がアラブの煽動によるものだとの証拠は否定されている。いずれにせよ、国連の要請を無視して難民の帰遭を基本的に許さないイスラエルが、「アラブ人の自由意志」について語る程厚顔無恥なことはない。
後に触れる「緊急法」忙よる強制的なアラブ人財産の没収を含めて、こうしてイスラエルユダヤ人の手にわたった資産の処理については、イスラエル国会で、常に秘密会として行われている。
米帝と結託しての、分割案の国連におけるスキャンダル的強行可決、混乱に乗じての軍事力と交渉による領土拡張処びパレスチナアラブ独立国の抹殺の成功、そして国内のアラブ人の虐殺と追放――これが、イスラエルの「輝かしき建国」の実体に他ならなかった。
(3)イスラエルの実態と帝国主義
<イスラエルの実態>
イスラエルは、七一年度の国民総生産が五五億ドル程の国家である。これは、日本の約五〇分の一であり、エジプト、夕イ、フィリピン等がそわぞれ約六〇億ドルで大旨同規模であり、南ベトナムの三二億ドルをやや上回る数値である。その他中東では、イラクが二二億ドル(六九)、イランが八二億ドル(六八)程であり、イスラエルの経済は量的規模としては決して大きいものとは言えない。しかし、一人当たりの国民所得になると、一四〇〇ドルで、日本の一九〇〇ドルをやや下回る程度であり、エジプト(ニ○○)、イラン(二五二)、南朝鮮(ニ一九)、タイ(一五八)、南ベトナム(一五九)といった後進諸国と比べると飛躍的に高い。中東ではクウェートが四〇六八という米国に迫る数値を示しているが、これは石油産出によるもので、イスラエルの場合は、ダイヤ研磨、綿業、食品加工、そして急速に伸びている軍需産業(特に組立て)など工業が重要な位置を占めている。鉱工業が占める割合は三二%であり、これは中東諸国の一〇%台に比べて高い(西独五三%、日本三八%)。農業は一一%であり農業人口は一八%程である。
七一年度の輸出は九億ドル、輸入は一八憶ドルで、約九億ドルの赤字がある。この赤字額は、貿易赤字で騒いでいた米国の同年の赤字額の約一○分の一であるが、米国のGNP規模がイスラエルの約二〇〇倍あることを前提に考慮しなければならない。又、こうした
単純な類比が問題を伴うことを承知の上で、GNPに対する貿易赤字の比率を日本に当てはめてみると、約一〇兆円の赤字となり、年間予算に匹敵する程の額になるのである。
イスラエルは、常に近代国家を自称している。議会は全国比例代表制で選出された議員で構成され、議会が大統領を選出する。現在は、社会民主主義を唱えるマパイ党(イスラエル労働党――社会主義イン夕―加盟)が第一党の位置を占めている。こうして、政治形態は、一応近代的な共和制を装っている。 しかし、ブルジョア共和制としての形式の点からのみ見ても、イスラエルは既にその異常さを現わしている。第一に憲法が存在していないことである。これは国内のアラブ人の地位にとって重要な意味を持っている。第二に、領土は規定しているが国境を規定していないことである。これも偶然なのではなく、独立宣言に際して、初代首相ペン・クリオンが「領土を主張し国境を決定しない」よう指摘し、国境の規定が意図的に宣言からはずされたのである。無制限の領土拡張の意図をこれ程公然と示している「近代国家」も珍らしい。
こうしたイスラエルにとって、米国との特殊に緊密な関係は重要な意味を持っている。 前述のように、イスラエルは貿易収支で膨大な赤字を出していながら、総合収支では黒字を示している。これは米帝を中心とした巨大な「援助」によるものに他ならない。
イスラエルに対する資金流入は、借款、民間投資と共に、シオニスト機構を通じた民間寄付金も大きい額にのぼっている。一九七二年には、こうして約一八億ドルを獲得しているが、その大半は米国からのものである。
米帝の対イスラエル経済援助は南ベトナムに次ぐものであり、国民一人当たりの政府援助・民間寄付に於ては南ベトナムを遙かに上回ることからも、その膨大さを知ることが出来る。しかも、イスラエルは六七年まで西独から九億ドルの賠債金を受けとっているが、これは、ナチスの犯罪に対する償いという公式見解とは異り、ドイツの対米戦時負債を米国が免除するかわりに、その分が西独からイスラエルに与えられるという方式をとった事実上の米帝による対イスラエル援助なのである。イスラエルの「建国」後数年の存続、西欧に迫る国民所得の実現は、米帝を抜きにしては全く考えることも出来ないものであった。
軍事的には、六八年スカイホーク四八機、六八年ファントム五〇機と最新鋭機を引きわたしており、年間五億ドルの軍事援助を行っている。フルプライト米上院議員の指摘によれば、NATOやSEATOにも提供していない高性能の軍用機、ミサイル、電子工学施設がイスラエルに提供されているとしている。
その他、イスラエルに無制限の軍事援助を与える権限が大統領に認められたこと(一九七〇年)、イスラエルの国防省クラスが直ちに大統領に接見出来るなど、他国にない待遇がイスラエルに対して行わわている。
こうした特別の関係は、一体何によるものなのか。
しばしば米国内数百万のユダヤ人の圧力が要因としてあげられる。確かにそれは一因ではあるが、しかし根本的なものではない。例えば、五六年の第二次中東戦争(スエズ戦争)の際、中東での英・仏の支配力排除に重点を置く米帝は、領土拡大と中立政策・親民族解放運動のナセル・エジプト打倒という直接の利害で英・仏と行動を共にしたイスラエルと対立し、イスラエル軍をシナイ半島から撤退させる主役となった。即ち、米帝のイスラエル支持は、国内ユダヤ人の存在による固定不変のものではなく、利害が一致する限りで為されるものであり、そして、その利害は、第二次大戦後、前記のような一時的背反を除けば、極めて緊密に一致しているのである。
米帝国王義のブルジョアジーとイスラエルの基本的路線が一致したときに限って、シオニストは米支配機構に喰い込み圧力をかける条件を獲得できるし、そうした両国の利害の一致の際には、両国の関係は、イスラエルの別動隊が米国内に侵透しているだけに、相剰的に強まり入り組むのである。だが、その逆ではない。基本路線・利害の喰い違いがあれば、米ブルジョアジ―は、シオニストの圧力がどんなであろうと、その弾圧に傾注することは明らかだからである。
両国の利害の一致の内容は、一般的には、親帝国主義イスラエルの中東における存在そのものであるといえる。米国は、石油権益をめぐる争奪戦の過程で英・仏を圧倒しつつ、イラン、ヨルダン、サウジアラビアなどの保守的支配階級との総合を強めてきたが、それらの保守的・反動的支配階級の地位は、確固たる資本主義の基盤の上にあるものではなく、国内的に不安定で、しばしば進歩的勢力の.突き上げで動揺をみせるし、又、米帝との結合自体も必ずしも強固なものではあり得ない。
その上、戦後、アラブ連合を中心に、いわゆる「民族社会主義」の高揚があり、ソ連の影響力が強まっている。こうした中東で、ほほ全国民が、民族解放闘争に敵対する帝国主義の尖兵そのものであるイスラエルの存在は、米帝にとって、これ以上にない安上がりで効果的な「前哨基地」である。イスラエルはアラブの諸国家と対立しつつも、しかし又、アラブの反動的支配層との取り引きの可能性にしばしば利益を見出しており、中東の民族解放運動、反帝闘争抑圧は、米帝と全く同様に重要な課題になっている。又、イスラエルは、膨大な資本輸入を行いをがらも、他方でアメリカに対し経済進出を行いつつあり、常に、民族解放闘争の弾圧を援助し、或は直接手を貸している。アルジェリア独立連動への敵対と反革命軍への武器援助、コンゴの反ルムンバ運動への援助と軍事訓練用将校の配属、チャド民族解放戦線掃討のための軍事顧問団の派遣、エチオピア政府軍の訓練によるエリトリア解放戦線弾圧の援助、ポルトガル植民地の民族解放闘争への敵対とポルトガルへの武器援助、等、建設以来のイスラエルの反革命的進出は枚挙にいとまがない。そして、イスラエルの性格を象徴的に示す一例としては、南アフリカ共和国、ロ―デシアという極端な人種差別国――日常的に黒人の処刑が行われ、世界のブルジョアジーも、ボイコットという非難のポ―ズをとらざるを得なかった極反動政府な支持し、他国のブルジョアジーのようにこっそりとではなく、公然とボイコット運動を無視し、最も積極的な貿易取り引きを行っていることがあげられる。
反共・反動でありさえすれば公然と支持し支援してゆくこの国外政策は、まさしく米帝のそれとうり二つであり、世界の庸兵=米帝のミニチュアとでも言うべき様相を呈している。
こうしたイスラエルが、国内に対してだけは民主的、或は社会主義的であるなどという事は、到底想定し得ないものである。
イスラエルの社会状況を特徴づける第一のものは、国内のアラブ人に対する熾烈な人種差別である。
一九六六年までは、イスラエルのアラブ人は、ユダヤ人の政府とは別の法律を持つ軍事政府によって支配されていた。この法律は、緊急法と言われるが、軍司令官の一存によって、特定地域の居住禁止、国内旅行の届出強制、理由の明示が必要ない無制限の拘置、国外追放、財産没収、帰国禁止、家屋没収・破壊、外出禁止、特定地域の閉鎖、が出来るという驚くペき「法律」である。しばしばシオニストは、アラブ人に投票権があることを誇示するが、投票に対する軍隊の直接の圧力・恫喝は別にしても、アラブ人が「選んだ」政府と別の政府と法律が彼等を支配している中では何の意味があるだろうか。
一九六六年以後、軍事政府は形式上廃止されたが、緊急法は存続しており、アラブ人を好き勝手に抑圧し、土地没収を行っている。例えば、「閉鎖地域」は、イスラエル軍が自由に設定出来るのだが、その境界線が一般に明らかにされず、にもかかわらず、境界線内に踏み込んだ(或はそこから出た)アラブ人が罰せられる、といった事が「近代国家」の中で行われでいるのである。ユダヤ人大衆は、この法律の存在を殆んど知らされていないといわれているが、このようをものがあるのでは、憲法が作りにくいのも無理ないことだと言えるであろう。
こうした「法」の下で、アラブ人はしばしば一村落から追放され、しかも追放地域がこれみよがしに航空爆撃などで破壊されたまま使用されないことも珍らしくない。こうした暴挙は、デール・ヤシン村虐殺以来一貫しているアラブ人の国外追放を催進させる政策から来るものであり、第三次中東戦争に際しても、恐怖を与えるための一村落外出者全員の虐穀、戦後に国内に帰還しようとする避難民の長期にわたる渡河者皆殺しなどが繰り返されている。
だが、その上に こうした人種差別は、対アラブ人に止まるものではない。
西欧系ユダヤ人と東洋系ユダヤ人の間にも厳然たる差別があり、生活水準、生活環境の格差は大きく、政府・財界等の主要な位麿は西欧系ユダヤ人の独占下におかれているのである。失業者の九〇%は東洋系ユダヤ人であり、過半数を占める東洋系ユダヤ人は、国会議席一二〇のうち一七を占めるに過ぎない。支配層を為す西欧系ユダヤ人は、明らかに西欧系ユダヤによる国家を目指しており、移民の獲得を一貫して熱望する政府が、東洋系ユダヤ人の入国を拒否する事件まで起っている。こうした事態に対して、東洋系ユダヤ人の反逆は繰り返され、その過程で、米国人組織の名称を使った「ブラック・パンサ―」という組織が形成され、数千規模のデモが督官と激しく衝突するまでに至っている。
これが、世界で迫害を受けている全てのユダヤ人にとっての「約束された安息の地」の実体なのである。
シオニストがアウシエビツツから学んだものは、人種差別の愚かさ、大量虐殺の悲惨さではなく、人種差別のやり方であり、大量虐殺の方法とその目先の効果の大きさであった。
<イスラエルの『社会主義的』性格>
「我々は自身で我々の将来を決めなければならない。……誰がこの権利を我々から奪うのか、この普遍的な権利を、そして同時に社会主義とマルクス主義の公然たる原則を」 これは、イスラエルの第一党マパイ党の政治局員であり国会議員であるドプ・パルニ―ルの発言の断片である。
冒頭触れたように、イスラエルはしばしば社会主義的な国と見られている。米帝には無条件に反対する欧州の左派的部分がイスラエルに共感をよせる一つの理由はそれである。 従って、その「社会主義的」要素の検討を行うことが必要である。
イスラエルの最大の特徴としてしばしばあげられる集団農場キプツ(協同組合)は、生産手段のキプツによる共有、賃金ではなく必要に応じた物による支給、私的所有の禁止、直接民主制、共同託児施設による子供の養育、医療・災害・老後の完全保障、など、極めて社会主義的な形態をとり入れている。キプツの数は現在二五〇程であり、一キプツの平均は四〇〇人程であるが、上下幅は大きい。キプツに属する者は全人口の三・三%程である。各キブツは一政党の下に属しており、キプツの運営資金等は、それぞれ二〇%程ずつ政府、銀行、ユダヤ機関、キプツ連合・ヒスタドル―トから支給さわている。
こうしたキプツの実体は、その社会的=階級的性格を充分物語っていると言えるだろう。 キプツは、イスラエル建国時に既に現在の過半数が建設されているが、その大半は、英占領下のバレスチナ大量植民時代に形成されたものである。キプツの共同体的性格は、植民・開拓というその発生の根拠に基いている。そして、特にその共同性を特徴づけるものは、アラブ人と対決するための軍事的な要塞としての性格である。植民がアラブ人を追放しつつ行われた以上、ユダヤ人は、対アラブの利害の下に軍事的にも経済的にも結束して開拓を行う必要があった。こうした基盤の上に、後に触れる社会主義的イデオロギ―が加味されて、コルホ―ズや人民公社まがいの形式が実現したのである。従って、キプツは、その社会主義的形態にもかかわらず、対アラブ排外主義であり、シオニズムの拡張主義の支持勢力である。もし、キプツがその形態において社会主義に類似していることから、その階級的性格までをも社会主義的、或はプロレタリア的なもの、それに近いものとするのであれば、資本主義国における共同生活の一例――軍隊生活も、叉、相対的に社会主義的なものとしなければならないだろう。しかし、キプツが、プルジョアジーの国家権力に保護された共同社会である以上、それは排外的植民・開拓が順調に進む一時期にのみ開花し得る形態に過ぎない。それ故に、キプツは当初の理念にそって共産社会に発展しているのではなく、量的にも先細りし、又、私有財産領域の拡大、外部労働者の雇用の増大など、当初原則の逸脱が自立ってきている。
同様に、労働者階級の組織として宣伝されているのが、一〇○万の会員を擁するヒスタドルート(イスラエル労働総同盟)であるが、与党マパイ党の指導下にあり、イスラエルの生産のニ○%を自ら行い、又、政府と合同で二一%の生産を行っているこの組級は、労働者の独立した組織ではなく、資本としての、或は公共企業経営者としての性格を濃厚に持っており、しばしばストの鎮圧を行っているのも不思議ではない。又、ヒスタドルートはアラブ人を参加させているとその「民主制」が主張されるが、この組級は−九二〇年に創設されて以来、アラブ人を排除し続け、一九五九年、主要機関をシオニストが固めて以後、アラブ人の加盟を認めたに過ぎない。現在アラブ人加盟者は四万程である。
こうして、ヒスタドルートも、シオニズム或はイスラエル政府と一身同体であることが明らかになるのである。
だが、シオニストは更にいくつかの「進歩的」側面を強調する。(1)土地および地上資源の九〇%までが国有、(2)農業が九〇%まで社会主義的な共同組合組織に加入、(3)その経済の半分以上が私企業ではなく、公営企業に属している――等。
だが、キプツも含めて、こうした形態がそのまま社会主義的であることを承認することは、ファシズムの「社会主義的」性格を語ることと同じ意味を持っている。しかし、資本の収奪を行わない「共同組合国家」は、公共部門が独占資本の危険を引き受け、活動条件を整え、販売事務を行っているに過ぎない純粋の資本主義国家に他ならない。
ところで、こうした社会主義的紛飾の氾濫は、シオニスト左翼が果たした独特の役割りとかかわっている。
ユダヤ人は土地と切り離さかた過去も含め、非勤労階層が多く、いわゆる逆ビラミッド型の構成をなしていた。しかしユダヤ人ブルジョアジーが自ら支配階級となるためには、ユダヤ人のプロレタリア―トを獲得する必要があった。植民・開墾、そして階級社会建設に不可欠な勤労大衆の創出に重大な役割りを果たしたのが、シオニスト内「マルクス主義者」である。彼等は、労働者階級を成熟させるとの意味付与の下に、ユダヤ人小ブルジョアに勤労を進め、資本主義的搾取の基盤を形成した。シオニスト左派にあっては、資本主義の発展が社会主義への発展と同義に把握されていたのである。
シオニスト左派はしばしば次のように「自問」する。―出来れば、我々は、パレスチナに植民する際、英帝と真向から対決し、アラブ解放闘争の先頭に立つべきではなかったのか。しかし、ユダヤ人が生命の危険から逃れられる避難場所を確実に獲得するためには、一地域の獲保、そのための帝国王義の若干の利用も止むを碍ないものであった。もし、解放闘争の先頭に立てば、ユダヤ植民はより難かしくなり、ユダヤ人追害による犠牲の増大は避けられなかった。…………
だが、残念ながら、帝国主義世界に於て、絶対の安全などというものは元々あり碍ない。帝国主義と生命を賭して闘っている後進国人民を先預とする労御者人民を前にして、シオニスト左派が示すこの口実は、確かに苛酷なユダヤ人迫害を背常にしているとはいえ、自分勝手な排外主義的論理である。
そして、こうした日和見主義は、今や、三〇〇万のイスラエル国民を帝国主義の安上がりの尖兵として反動的な戦争の渦中に叩き込み、アラブ人と東洋系ユダヤ人を差別支配の下におき、全ユダヤ人アラブ人を秘密警察の監視下に縛りつけているのである。
シオニストの被害者は、パレスチナ人民のみならず、イスラエル国民全体であり、イスラエル国内でシオニズムに対決しているユダヤ人は、今のところ極少のマルクス・レ―ニン主義者の組織に限られている。
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