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[始めに]
以前に私は「オバマ氏は汎用性の高い人物」と書いた事がある。そこで言いたかった事はオバマ氏を「黒人」として扱う事への疑問なのであった。
彼を黒人として扱うのは政治的テクニックからの要請である筈で、そこでは黒人を初めとする拡大化した米国内プアー層の支持を取り付けるためであり、オバマ氏自身は決してプアーな伝統的米国内黒人層から出てきた人物ではない。父親はケニアから米国へ留学していた人物であり、この父親もケニアの貧困層の人物であったとは考えられない。
それどころかオバマ氏は白人女性との間のハーフなのであり、白人エリート階級とのパイプも太いと考えられるのである。
それどころか、評判の大変に悪いブッシュ政権の真の大統領であると疑われているチェイニー副大統領とも実は血縁関係があると報じられもしたのである。
そこで私は「オバマ氏の背景」を独自に探る事にした。
背景として考えられる事柄を公開された情報から探し出して採り上げ、それにより彼が担わされようとしている事柄・任務を浮き彫りにしようとしたのである。
ところがこの作業は意外にも大変な大作業となってしまった。これは予期しない事であった。
そうなってしまった理由は、オバマ氏の背景は意外にも「大変に広くて深く根を張ったもの」であった事による。わたしは其れほどまでに大規模な根があるとは思ってはいなかった。
ある程度の論理的推理を準備していたのであるが、情報量には通じてはいなかったのだ。
当初の予定では「論理的帰結」を纏めて数ページ分として提出し、背景の情報を若干提出する程度で済ませたかったのであるが、しかし、私の多忙による簡潔化作業の遅延と発表すべき情報量の多さにより、その方法は断念し、幾つもの項目に分けて報告を提出し、最終的な彼への私見を添えて報告提出を終える計画である。
従って、終えるには若干の時間的経過を要する予定である。
以下、今後に論じる上で便宜的に建てた「項目」を紹介して置きたい。
実際にに論ずる時には以下の項目通りには論じないかもしれない。順番も表現も変わるかもしれない。しかし、項目そのもののテーマについては省かない積りである。
元々、このテーマに関心を持った切っ掛けは、「オバマ氏が持つ風貌」からであった。
私は彼の風貌を見て思ったのだった。
「おや? 彼は一般米国人の白人・黒人とは少し異なった人物だ。エチオピアのエチオピア正教徒やエチオピアのユダヤ人に似た風貌ではないか。品位がある」。
これはヒラリー・クリントン氏が白人エリ−ト層の人物でありながら、まことに米国人らしき風貌とは異なるものである。マケイン氏もヒラリー・クリントン氏もハッカビー氏も品位の上下はあれど米国人そのものである。
項目は大体、以下の通りである。
[ケニアの地とシオニズムとの深い関係]
[各地域の地理的近隣関係。エジプト・スーダン・エチオピア・ソマリア・ケニア・ウガンダ・タンザニアさらに紅海を挟んでイエメン・サウジアラビア・ヨルダン・イスラエル]
[エチオピアとソマリアのユダヤ人について。イスラエルと彼らの歴史的関係]
[シバの女王の統治地について。シバの女王とソロモン帝国の関係とは。]
[エチオピア正教徒が護ってきている『十戒』について」
[米国内で黒人に権利主張・拡大の代理的役割をさせるユダヤ人。典型例としてのTVドラマ「ルーツ」と「ホロコースト」のほぼ同時的公開]
[オバマ氏と今昔の米国エリート層との血縁関係について。実際には嘘でも本当でも構わないのでは?]
[オバマ氏が担わされるであろう課題・役割とは? 米国合衆国帝国の改編とパレスチナ・イスラエル問題の解消]
では先ず、ケニアに関して始めてゆきましょう。
[ケニアの地とシオニズムとの深い関係]
オバマ氏の亡くなった父親はケニア人でした。
このケニアとシオニズムとは実は歴史的に大変に深い関係を持っています。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fha200.html
(前略)
●パレスチナ問題は極めて深刻な状態である。
主にアシュケナジームのシオニストが中心的に動いて、パレチスナに強引にユダヤ国家を作ってしまったのだが、その時の彼らの主張が非常にまずかった。彼らは、自分たちは「血統的」に『旧約聖書』によってたつ敬虔な「選民」であると主張してしまったのだ。単なるユダヤ教を信仰する「ユダヤ教徒」ではなく、『旧約聖書』のユダヤ人と全く同一のユダヤ人としてふるまい、パレスチナに「祖国」を作る権利があると強く主張してしまったのだ。この主張は今でも続いている。
彼らのイスラエル建国によって、大量のパレスチナ人が追い出され、難民化し、殺されている。これは今でも続いている。全く悲しいことである。
●本来なら、ユダヤ国家の建設地はパレスチナ以外でもよかった。ユダヤ教を信仰する者同士が、周囲と争いを起こすことなく仲良く集まれる場所でよかったのだ。
事実、初期のシオニズム運動は「民なき土地に、土地なき民を」をスローガンにしていたのだ。シオニズム運動の父であるテオドール・ヘルツルは、パレスチナにユダヤ国家を建設することに難色を示し、その代わりにアフリカのウガンダ、あるいはマダガスカル島にユダヤ国家をつくろうと提案していたのである。
多くの先住民が住むパレスチナにユダヤ国家を作ったら、大きな問題が起きることぐらい誰でも予測のつくことであった。
入植候補地の東アフリカ(=ウガンダ案)。ヘルツルはパレスチナにかわる
代替入植地として「ケニヤ高地」を勧めるイギリスの提案を受け入れていた。
●しかし、東欧のシオニストたちは、自分たちのアイデンティティの拠り所として、ユダヤ国家建設の候補地は“約束の地”であるパレスチナでしかあり得ないと主張し、ヘルツルの提案に大反対した。更に東アフリカの「ウガンダ」が候補地として浮上し始めると、東欧のシオニストたちは猛反発し、「世界シオニスト機構」を脱退するとまで言い出した。
ユダヤ教に全く関心を持っていなかったヘルツルにとって、入植地がどこになろうと問題ではなかった。しかし、ナショナリズムに燃えていた東欧のシオニストのほとんどにとって、入植運動は、聖書の“選ばれた民”の膨張運動であって、アフリカなどは全く問題になり得なかったのである。そのため、「ウガンダ計画」に激怒したロシアのシオニストの一派が、ヘルツルの副官にあたるマクス・ノルダウを殺害しようとする一幕さえあった。
翌1904年7月、ヘルツルは突然、失意の中で死去した。わずか44歳であった。
結局、ヘルツルの死が早すぎたことが、パレスチナ入植を推進する東欧のシオニストにとっては幸いとなり、シオニズム運動の内部崩壊はかろうじて避けられたのであった。
テオドール・ヘルツル
“近代シオニズムの父”と呼ばれる。
「第1回シオニスト会議」を開催し、
「世界シオニスト機構」を設立した。
●今後も、彼らがパレスチナでシオニズム運動を続ける限り、彼らを「ニセユダヤ人」として批判する人は増えていくだろう。シオニズム運動が続く限り、「ユダヤ人」という定義は世界から厳しい目でにらまれ続けることになる。誰が本当のユダヤ人で、誰が非ユダヤ人なのか、イスラエル国内でも常に「ユダヤ人」の定義を巡って大きく揺れている。
※ このシオニズムが抱える深刻な問題については、当館6Fのシオニズムのページで具体的に考察しているので、そちらも参照して下さい。
(後略)
http://www.ngy1.1st.ne.jp/~ieg/ieg/inter/vol5-3/ikegami.htm
(前略)
オーストリア系のユダヤ人ヘルツェルは、『ユダヤ国家』という著作を発表し、彼の指導下で、一八九七年バーゼルにおいて第一回シオニスト会議が開催された。
バーゼル会議では、公法で認められたユダヤ人の「民族的ホーム」なるものをパレスチナに建設することがシオニズムの目的であると規定し、その実現のために、ユダヤ人のパレスチナ入植の促進、各国における合法的シオニスト機構の設立によるユダヤ人の世界的結合の強化、政府の同意を得るための予備的交渉の開始、ユダヤ人の民族感情の強化、などの手段を行使することを決議している。
「民族的ホーム」という言葉はヽヘルツェルの私記で明らかな通り、ユダヤ人国家建設の意図をカムフラージュするものでしかない。
但し、シオニズムとは言え、ヘルツェル自身は、建国の地としてのパレスチナの可能性は極めて乏しいと考え、アルゼンチン、キプロス、ウガンダなどを同時に候補地とし、列強政府と交渉を続けてゆく。この交渉において、ユダヤ人の民族的ホーム建設を承認して貰う見返りとしてヘルツェルが常に提示したもの――そしてシオニストが提示出来た唯一のものは、ユダヤ人民族的ホームが、被占領地域、後進地域の中で、帝国主義の忠実な「前哨基地」としてふるまい列強の財源をなすであろうとの約束であった。シオニズム運動が、大衆的な民族運動として形成されたものではなく、従って、大衆的な物質力を持っていないこと、そしてシオニスト指導部の大半が大資産家であったことを考えれば、交渉がこうした取引きになることは全く必然であった。
交渉の結果、英国政府はケニア領ウガンダを提案し、この案は−九〇三年のシオニスト会議で受諾され、「民族的ホーム」が現実化するかに見えたが、建設の地を、パレスチナとして宗教的心情に訴えない限り大量のユダヤ人移民獲得の可能性が少なく、ヘルツェル死後一九〇五年になると、逆にシオニスト会議がこの案を拒否するに至った。
シオニストは「民族的ホーム」建設の当面の展望を進んで失ったのである。だが、何故自らこうした行動に出たのか、――この経過は、政治的シオニズム運動形成過程の性格を堆定させる一つの手がかりである。
第一に注目すべき点は、シオニズム運動が、ユダヤ人追害・虐殺のさし追った問題を回避するための「必要悪」的な人道主義的運動であったというしばしば見られる見解からはシオニスト会議のこの行動は説明のされようがないということである。もし人道的見地を第一義的なものとする運動であれば、「避難場所」を選り好みする余裕などあるはずがないし、ユダヤ入植民者が少いとすれば、それは彼等が緊急の避難が必要な程には迫害を受けていなかったことを意味するだけであり、喜ぶべきことであっても、別に問題にすべきことではない。にもかかわらず、「民族的ホーム」の最初の可能性を、現実性のある対案がない状態で棄て去ったことは、彼等の狙いが別にあったことを示している。
http://www.africanewsletter.com/PDF/africanewslettervol03no01.pdf#search='ケニアのユダヤ人'
「ウガンダ(ケニア)」でのユダヤ人国家建設計画──シオニズムの進路を決めた論争 鶴見太郎
(前略)
発端は、ヘルツルがこの会議で、イギリス政府が提供する事になった東アフリカ領の一部に、暫定的であるにせよユダヤ人の避難所を建設する案を提示した事にあった。ちなみに、当時においても後年においてもこの地は「ウガンダ」と呼ばれる事が非常に多いが、実際にはケニアである。
(中略)
いつか現れるメシアによってパレスチナに導かれるというメシア思想を中心の一つに置いていた伝統的ユダヤ教にとって、人間の判断でパレスチナに帰還し、さらには国家を建設する事など許されるものではなく、こうしたメシア思想に抵触しない東アフリカへの入植は都合がよかったのである。つまり、伝統色の強いユダヤ人の方がパレスチナを避け、それに対してパレスチナ派の中心となったのは知識や思考回路の点ではよほど西欧ユダヤ人に近い「世俗派」だった。要するに、「ウガンダ論争」は一般的な説明とは別の次元がかかわっていたのである。
(中略)
シオニズム全体がパレスチナやヘブライ語などの「ユダヤ的なもの」(ただし、伝統的なそれとは異なる「近代的な」)をドグマ化する方向にシフトしていったのは「ウガンダ論争」以降である。
http://www.arsvi.com/0i/2ken200802.htm#0206
オバマ氏祖母、当選祈る「大統領になりケニアに平和を」
2008年02月06日17時30分
米大統領選候補指名争いの山場「スーパーチューズデー」の行方を、ケニア西部コゲロ村の住民も注目している。勢いを増すオバマ上院議員(民主)のルーツの村だからだ。ケニアでは昨年末の大統領選後に民族衝突が激化しており、オバマ氏の祖母サラさん(86)は「孫が大統領になったらケニアの平和も助けてくれるはず」とラジオに聴き入っている。
ケニア西部キスムから車で西へ1時間半。のどかなコゲロ村に、祖母サラさんらが暮らす実家がある。サラさんは5日朝、日本製ラジオから流れる米国発のニュースに熱心に耳を傾けていた。
「順調な結果を祈っているよ。孫は読書好きで平和好き。大統領に一番向いている。この前も、ケニアの心配をして電話をくれたんだ」
82年に事故死したオバマ氏の父親は、コゲロ村で生まれ育ったルオ族。米国人女性と結婚し、ハワイでオバマ氏が生まれた。オバマ氏が06年8月に村に「帰省」した時はケニア人、ルオ族として大歓迎を受けた。
近所の中学はオバマ氏が米上院議員になったのを機に、校名を「オバマ上院議員コゲロ中学校」に変えた。校長は「彼はルオの誇りだ」。
ケニアでは大統領は最大勢力キクユ族とカレンジン族が占め、2番目に大きいルオ族からはまだ出ていない。大統領輩出はルオ族の悲願だ。
昨年末の大統領選ではルオ族のオディンガ候補に期待がかかったが、キクユ族の現職キバキ氏に惜敗。その無念さが、その後の民族対立の一因となった。
http://sankei.jp.msn.com/world/america/080109/amr0801090923001-n1.htm
ケニアの野党指導者「オバマ氏は親類」
2008.1.9 09:23
【ロンドン=木村正人】ケニア大統領選で敗れた最大野党オレンジ民主運動(ODM)のオディンガ氏(62)は8日、複数の英メディアに「米大統領選の民主党有力候補、オバマ氏とは親類だ」などと語った。オバマ氏の父親はケニア出身で、オディンガ氏と同じ有力民族ルオの出身。
オディンガ氏は英BBC放送に「オバマ氏の父親は自分の母方のおじに当たる」と語った。オバマ氏は米ニューハンプシャー州での予備選を控えた7日、電話でオディンガ氏と会談。オバマ氏はケニアの混乱に憂慮を示し、「キバキ大統領にも電話をかける」と話し合いによる解決を促す考えを示したという。
オバマ氏が2歳のとき両親が離婚。父親はケニアに帰国し、1982年に交通事故で死亡した。オバマ氏は縁戚関係についてコメントしていない。
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