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(回答先: 「控訴棄却判決は不当」植草被告が上告へ(JANJAN) 投稿者 JAXVN 日時 2008 年 4 月 18 日 06:05:07)
「植草事件の視点を国策捜査にシフトする段階だ
植草一秀さんには昨日の控訴審でも有罪判決が出た。控訴審判決は、植草氏が犯人であるという極めて強い予断に基づいた裁定を下した。検察側目撃者の証言には重大な誤りが含まれていることが明らかになり、根本的な疑いが多数あるにもかかわらず、裁判官はそれをまったく考慮せず、弁護側論拠を完全否定する結果となった。今までの一審公判を振り返ると、誰が考えてみても、検察側証人の矛盾や不確実性が際立っていることがわかるが、裁判官は検察側証言のみを有用として採択した。この裁判の重大な問題点は、この著しく偏頗な裁定感覚にある。まるで裁判所が検察の代行機関であるかのような印象がぬぐえないのだ。2004年の品川駅構内事件も、2006年の京急電車内事件も、通常裁判の様相を逸脱していることは間違いない。品川事件の裁判を担当した大熊一之裁判官は重大な争点を故意にスルーして有罪判決を下した。これによって植草さんは控訴を断念したのではなく控訴を拒絶したと語っている。つまり司法制度が機能していないことを彼は悟ったのである。今回の裁判にもまったくこれと同じ裁判様態が展開されている。ことがここまで明確になった以上、植草事件は国策捜査によって発生したできごとであり、その裁判は国策裁判となっていることはもはや疑いようのない事実である。
私は、ここに至って、ある一部の擁護派の姿勢に熾烈な怒りを持っている。それは彼らが法廷至上主義に拘泥して、法廷内証言のみで擁護論理を構築し、司法側がそれをまったく受け付けないという現実を突きつけられているにもかかわらず、延々と同じことばかり繰り返している不毛さに対してである。彼らが植草さんと関わりなく自主的に擁護する分には、勝手なのであるが、公判が進捗する重要な局面でいろいろと見当違いの助言や愚かな讒言を植草さんに与えており、それが国策捜査を世間に流布すべき重大な時点を逸した感がある。そのために全体として擁護派が向かうベクトルは不毛の通常冤罪論に傾いてしまった。これら不毛の擁護論は、最初から事件の基底に横たわる「国家の罠」という本質を見逃しており、初期から重箱の隅を突っつくような同じことばかりを延々と繰り返している。まるでハツカネズミの車回しだ。
彼らが最初に考慮すべきだったのは、植草さんが身を捨てて小泉政権の間違いを弾劾に近い形で訴えた事実である。品川事件も、京急事件も、因果論的な本質は「そこにこそ」あることを彼らは当初から気付いていない。裁判所までが国策捜査の片棒を担いでいるなら、通常冤罪論でどう戦ってみても勝ち目はない。やるべきことは世論喚起だけである。第一、通常冤罪論で植草氏の三度にわたる摘発の連続性をどうやって合理的に説明できるのだ。冤罪が8年の間に偶然3回発生したという論理よりも、マスコミが大々的に流布した病的性癖説の方がはるかに説得力を持つではないか。つまり、罠に嵌められたという仮説を最初から構築しない限り、植草さん救出の突破口は存在しないのだ。植草さんはそんな破廉恥なことはしませんと感情的にわめいたところで、通常冤罪論は病的性癖説を凌駕できないことになる。つまり法廷内証言至上主義の立場を貫く擁護派の狭隘な論理は、裁判官の不均衡裁定の理由をまったく説明できないのだ。それは植草事件の背景が、通常冤罪をはるかに超えた、国策的な政治レベルの問題に起因しているからだ。つまり小泉政権が国策トレンドを転換しようとしたきわめて重要な時点で、植草さんはマクロレベルでこの政権の誤導性を暴き、的確に批判した。これによって彼は買弁勢力に嵌められたのである。この観点からしか三度の連続性の十字架を払拭することはできないのだ。だからこそ、この部分にまったく触れない擁護派は無力なのである。
検察側証言の矛盾はすでに検証されつくした感がある。検察側証人はあらかじめ仕立てられた証言者だから、検証すればまだいろいろと矛盾点は出てくるだろう。そのこと自体は重要であり、続けるべきだろう。しかし、すでに問題の位相はそこにはなく、巨大な真相に目を投じるべき時点なのだ。通常冤罪を敷衍して国策捜査に目を移す時点が到来している。検察側証言者は逮捕者の一人を「私服の男性」と表現した。このキーワードは国策捜査による偽装事件を演出したスタッフ(複数)が電車内に潜んでいたことを強く示唆する。つまり、被害者も、目撃者も、逮捕者も、ある共同の謀議を企て、互いに連携してそれを実行した可能性を疑うべきである。事件検証の作業仮説をこのように組み立てれば、検察側証人のつじつまの合わない多くの不合理な証言が精彩を放ってくるのだ。
一方、裁判所レベルに立ち戻れば、問題とすべきは裁判官と検察の明らかな癒着にある。裁判官が弁護側の合理的な検証や証拠をまったく採用しないという一方通行の「裁定感覚」を問題とすべきだ。長期にわたる「人質司法」(=代用監獄)と言い、裁判官のあからさまな完全検察寄りと言い、日本は法治国家の体を為していない。したがって、我々は植草裁判に対して法治国家のあり方そのものを問うべき段階に来ている。ネオリベラリズムの行き着く先として、日本の統治体制は夜警国家へと変貌しようとしている。この絶対的な徴候が、年金制度崩壊の兆しであり、棄民的な後期高齢者医療制度の施行である。弱者の切り捨て社会である。夜警国家とは新自由主義の極相的国家である。これは言い換えれば、権力中枢の言うがままに動く警察・検察の横暴が野放しにされる恐怖社会を示す。こにおいて、警察、検察、裁判所が一体化した場合、法の正義は雲散霧消し、個人や弱い立場にある企業は助からない。冤罪や濡れ衣が横行する野蛮な暗黒世界に向かう。
テレビ、大新聞などは、クロスオーナーシップにがんじがらめにされ、権力中枢の走狗に成り下がっている今日、本物の公益的情報が出てくると思うほうが間違っている。巨大メディアは権力中枢の意向に沿って世論誘導を行なう。この点で、零細出版社である鹿砦社の弾圧事件を思い起こして欲しい。パチンコ機器製造メーカー「アルゼ」の巨悪を糾弾した鹿砦社社長・松岡利康さんは、ほとんど植草さんと同じ位相で国家権力の狙い撃ちに遭っている。裁判経過も弁護側が主張する憲法第21条要件を完全に無視するという横暴ぶりだ。横暴という意味は、弁護側の主張を完全に破棄するという、裁判官の徹底的な不均衡裁定感覚のことだ。すでに、一審、控訴審ともに植草裁判はこの不均衡裁定を行なわれている。この現象を法廷至上主義で解読できるわけがない。これを突破する方図は国策捜査の視点にシフトすることだ。
つまり、植草事件の本質とは権力中枢による弾圧なのである。今の日本はネオリベ的発想による翼賛体制に移行しつつある。これが戦前の翼賛体制よりも悪質なのは、この趨勢が米系国際金融資本の圧力で行われているという厳然たる事実だ。同じ翼賛でも自生的と他生的な差異があり、他生的な統制社会の方がはるかにたちがよくない。植草さんが、たとえば自民党清和研究会のような買弁勢力に狙われたのではないかという視点も重要である。小泉政権下の官邸主導勢力にはあまりにもきな臭い匂いが漂っていた。証拠がないことを言う事は益がないと馬鹿の一つ覚えで言っている傲慢な自称擁護派もいるが、植草さんを魂レベルで救出する方法は、彼が国策のターゲットになったという道理を、法廷外から強く言い続けることしかないと思う。しかも、植草さんの国策捜査を考えることは、日本にとって正しい政策とは何かを国民が真剣に考えることでもあるのだ。
今の趨勢は一部の特権階級が大多数の国民を奴隷化して使役し、それを搾取するネオリベ一辺倒に切り替えられている。そういう動きの究極相には超格差社会が待ち受けているのだ。そうなったら、暴動が起きない限り国家体制は後戻りできなくなる。一部の権力者と、国際金融資本のために恣意的に国家権力が発動され、弱い立場の者が狙い打ちされる社会が常態化する。それが限りなく警察国家に近い夜警国家なのである。植草さんと鹿砦社の松岡さんの事例は日本が夜警国家に向かっていることを強く暗示している。」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/04/post_4565.html
関連
【植草一秀ブログ】刑事事件控訴審判決に対する記者会見配布コメント
http://www.asyura2.com/08/senkyo49/msg/311.html
投稿者 クマのプーさん 日時 2008 年 4 月 16 日 18:20:26: twUjz/PjYItws
今回の控訴審に関する植草氏のコメントには、はっきりと「私の裁判、報道に対して、大きな力が加えられていると考えざるをえません。」という文言があります。植草氏としても、もはやこの「大きな力」に触れないわけにはいかなかった、という事ではないでしょうか。
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