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(回答先: 都会の貧困(5) 『独りじゃない』が支え【おかげさまで人が死にました…】(東京新聞) 投稿者 クマのプーさん 日時 2008 年 4 月 03 日 08:57:30)
▽都会の貧困(1) 仲間同士が支え合い
2008年3月30日
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/yui/news/080330.html
こもれび荘−きずなを断たれた人たちが集う、ささやかな居場所になっている=新宿区で
靴がところ狭しと並び、奥からにぎやかな笑い声が響く。東京・飯田橋駅近くの、民家や町工場が密集する下町の袋小路にある古びた一軒家。「こもれび荘」と名付けられた木造二階の家に週末、家族のきずなや仕事を失った人々が三々五々、寄り集う。
「ここに来ると同じ境遇の仲間がいて、自分を隠さなくてもいいんだよね」。心臓に持病があり、飲食店経営に失敗し路上生活を体験した中年男性が言う。「つい来ちゃうっていうか、生活の一部」。十五年間ごみ拾いで生活し「天涯孤独だった」というおじいさんが、ほっとつぶやく。
自立生活サポートセンター「もやい」は四年前から、ここで「カフェ」も営む。路上生活を脱し、アパートに入居してからも立ち寄ってもらおうと、自家焙煎(ばいせん)のコーヒーを百円、ランチを三百五十円で提供する。
「もやい」とは「舫(もやい)」。荒波を乗り越えるため、船同士を固く結び合わせること。設立の中心にいた三十八歳のもやい理事長、稲葉剛と同事務局長、湯浅誠は、弱者同士が支え合い貧困に立ち向かっていく意味合いを、その名前に込めた。
湾岸戦争(一九九一年)の反対運動に加わるなど、東大在学中から積極的に社会とのかかわりを求めた二人は、次第に路上生活者への支援に、その重心を移す。
大学院に進んだが就職もそっちのけとなり、十年が過ぎた。その間も、東京では高層ビルと路上生活の若者が増え続けた。気がつけば「派遣」があふれ不当なピンハネも横行。「構造改革」との掛け声の下、人間を使い捨てする時代に「こんなんでいいのか」。後には引けなくなった。
木の質感が温かなカフェの内装は、元大工の野宿経験者らが手掛けた。コーヒーを入れるのは、喫茶店の店長経験がある元路上生活者の「マスター」。ランチの調理は、アパート契約時にもやいで保証人になってもらった「パパさん」と呼ばれる男性が、「恩返しに」と腕を振るう。
一昨年夏、路上生活を覚悟した冨樫匡孝(まさたか)(29)は、いちるの望みをかけ恐る恐るこもれび荘を訪ねた。追い返されるんじゃないか、と怖かった。だが、事情を聴いたスタッフは「行くとこないなら泊まっていけばいいじゃん。いくら貸そうか」。胸が詰まり、涙がこみ上げた。
大学受験に失敗し、コンビニ、焼き鳥店の店員などを経験した。正社員の見通しもなく、一方的に安い値をつけられるだけの存在。両親は離婚し、帰る家はなく、「正社員にする」と誘われた会社で「クレジットカードで会社の運転資金を借りてくれ」と持ち掛けられた時、いいように利用される人生に絶望した。
「誰もが排除されることなく、安心して暮らせる社会をつくっていく」。もやいの活動指針には、そう書かれている。生活を立て直した後、冨樫も自分と同じ生活困窮者の役に立ちたいと、スタッフに加わった。
他人の相談に乗っても、一円の売り上げにもならない。だが、もやいでは自分と同じような仲間に希望を与えられる。「疲れ切った時、ほっとできる居場所が誰にも必要なんだと思う」。だから冨樫も訪ねてきた人に声を掛ける。「まあ、上がりなよ」と。 =文中敬称略
格差や競争があふれ、世知辛さばかりが募る二十一世紀の都会暮らし。とかく損得勘定が先に立つ世の中で、家族や地域のきずなを失い、路上に放り出される人たちもいる。だが、そこにも互いに結び合うことで、生きにくい時代を乗り越えようという挑戦がある。街の中に生まれた「結い」から、人の生きる意味を見つめ直したい。
▽都会の貧困(2) ならば保証人になる
2008年3月31日
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/yui/news/080331.html
もやいを支える稲葉剛さん(左)と湯浅誠さん=新宿区で
車のボンネットの上や公園のベンチ、喫茶店−。どこでも頼まれればその場で応じた。「ここにサインすればいいんだね」。二〇〇一年初夏。稲葉剛(38)と湯浅誠(38)は、アパート入居契約書の連帯保証人欄に自分の名前を書き続けた。
依頼人は路上生活者。当時、東京都が始めた自立支援事業では、一時宿泊施設で半年を過ぎても仕事と住居を見つけられなければ、また路上に戻るしかなかった。「不動産屋を何十軒も回ったのに部屋を貸してくれない」「保証人がいないと駄目だって」。施設に入った元路上生活者と支援者の話し合いの場は、悲痛な声であふれ返った。
稲葉らが付き添い、福祉事務所に掛け合った。「保証人を行政で何とかして」。「私的な契約ですから」と職員。しゃくし定規な答えに業を煮やし、「おれたちが保証人になる」と二人が支援仲間に打ち明けると、一斉に反対された。「ホームレスへの保証人提供なんて一年でつぶれる」
「いざとなったら自己破産すればいい」と保証人を引き受け始めると、家賃を滞納したまま行方をくらます人や、風呂の水を止め忘れ、部屋を水浸しにする人も出た。大家からトラブルの連絡を受け、飛んでいって頭を下げる。寝付けない夜もあった。
だが、沈みがちな心を奮い立たせてくれる記憶が、湯浅にはあった。
七十代のその男性は、五十年以上勤めた魚卸会社の業績が悪化し「一番年上だから」と辞めさせられた。身寄りもなく、貯金も尽き路上をさまよった。湯浅が保証人になり一緒にアパートに行った日、男性は部屋の真ん中に座り、しみじみとつぶやいた。「もう一度、屋根のある部屋に住めるとは思わなかった」
その夜、男性が布団の中で一人声を上げて泣いた、と後で聞いた。「やってて良かったなあ」。思い出すたび、やりがいを取り戻した。二人が保証人を買って出てから半年ほどたったある日。「あなたたちの取り組みに、心を動かされた。協力したい」。事務所に電話がかかってきた。
報道をきっかけに、全国から資金援助の申し出が殺到。事務所からの転送で稲葉の携帯電話は一日中鳴り続け、電池が切れた。コンビニに電池を買いに走る途中、熱いものがこみあげてきた。「世の中の善意が、おれたちの現場とつながったんだ」
あれから七年。稲葉、湯浅が二人だけで始めた保証人の提供で、これまでに千三百世帯が「屋根のある暮らし」に戻っている。 =文中敬称略
<保証人提供> 当初は稲葉、湯浅2人だけだったが、その後「保証人バンク」をつくり、有志が登録して連帯保証人になる制度に。最大で10人ほどが登録していたが、「もやい」がNPO法人化後の2006年からは、法人として連帯保証人になっている。
▽都会の貧困(3) 名前持つ人間なのに
2008年4月1日
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/yui/news/080401.html
集まった野宿者に呼びかける稲葉剛さん=新宿区で
「新宿太郎さんのことね」。看護師が口にした呼び名に、稲葉剛(38)は耳を疑った。
約十年前、親しくしていた路上生活の男性が救急車で運ばれたと聞き、病院に見舞いに行った。意識がもうろうとし身元を説明できない男性に、病院がつけた名前が「新宿太郎」。「○○さんというんですよ」。稲葉が説明し、やっと男性に本名が戻った。
帰りのエレベーターで耳に入った看護師同士の世間話。「この間の新宿太郎さん、退院したわね」「この間の太郎さんは亡くなったわよ」。この病院には「江戸川太郎」も「台東太郎」もいたという。別の病院には「新宿百六十七郎」も。新宿で百六十七番目の身元不明者という意味だった。
孤立したまま路上生活を送る人が、名前を失い人生を終えていく。人と人との絆(きずな)を断たれた極限の姿。「寂しすぎるよ」。胸が苦しくなった。
稲葉は被爆二世。母は原爆投下後の広島に戻って放射線を浴びた。一発の爆弾で、十数万人もの人が、誰かも判別できないまま殺された。「(人が焼ける)においが残ってる」。母がポツリと漏らした言葉が、耳から離れない。
何度も繰り返される若者の路上生活者襲撃事件。「ホームレスなら誰でもよかった」。加害者たちが決まって言うせりふに「相手を名前を持った一人の人間だと見ていない」と、腸(はらわた)が煮えくり返る。
中学や高校からホームレス問題についての講演依頼が来ると、稲葉はいつも「もやい」の常連になった路上生活経験者に同行してもらう。「皆、なりたくてホームレスになったんじゃないんだよ。ちょっとした拍子に、身動きとれなくなっちゃったんだ」。名前を明かして目の前で語る体験談を、生徒らはいつも食い入るように聞く。
「私はお酒で失敗しちゃってねえ」。正直すぎる告白にハラハラする時もあるが「率直に話してくれて、親近感がわいた」「一人一人に、人生があることが分かった」。生徒たちの反応に、ほっとする。
路上生活中に稲葉に声を掛けられ、救われた青年が打ち明けた。「職場では『派遣さん』としか呼んでもらえなくて。今は、名前を呼んでもらえるのが一番うれしい」。人は互いの名を呼び合うところから、つながりが生まれる。それが「当たり前になっていない」社会の怖さを、稲葉は訴える。 =文中敬称略
<ホームレス襲撃事件> 1983年に横浜市で、中学生ら10人が路上生活者を次々と襲い、3人が死亡。この事件をきっかけに全国でも同様の被害が続発し、社会問題化した。2006年には愛知県岡崎市で、中学生を含む集団が11件の襲撃事件を起こし、女性が死亡している。
▽都会の貧困(4) 身も心も削った“棟梁”
2008年4月2日
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/yui/news/080402.html
一緒につくった「もやい」の一室で“棟梁”との仕事を思い出す湯浅誠事務局長=新宿区で
もやいの事務局長、湯浅誠(38)は彼を「棟梁(とうりょう)」と呼んだ。
路上生活者らの社会復帰を図る「便利屋・あうん」で、畳の部屋をフローリングに替える仕事を請け負ったが、それができる職人がいない悩みを彼に打ち明けた。まだ五十代で、「大工なんかをやってた」と話す彼。「わし、できるで」。普段は生気を失っている目が「本気」だった。以前、彼が路上生活をしながら五十万円蓄えた、と人から聞き、堅物ぶりに妙に感心したことを思い出した。
一カ月後、大工用の作業服に身を包んだ男性は、湯浅と一緒に改装工事の現場にいた。腕が確かかどうか半信半疑だったが、不安はすぐに消えた。職人肌の仕事ぶり。別人のような姿を見た驚きを、「初めて父親の職場をのぞいた子供のような気持ちだった」と湯浅は振り返る。
車に道具を積み、都内や隣県に足を運ぶ日々が始まった。二人で現場に四、五日泊まり込むことも。「棟梁」は、早朝六時から仕事を始め、深夜零時まで黙々と作業をする。湯浅も当初は、感心しきりだった。
しかし、ほとんど休みも入れず、何かに取りつかれたような打ち込み方に不安を感じ始めた。「棟梁さあ、もうちょっと働き方をコントロールしなきゃ」。忠告にも「ああ」という短い返事がくるだけ。徐々に食欲をなくし、ついには体調を崩して入院。退院後は再びしゃにむに仕事をする、という繰り返しだった。本人もむちゃを承知で続けていたようだった。身に染み付いた習慣を変えられなかったのだ。
「棟梁」は本職の大工ではなかった。小さな仕事の請負や日雇い労働を長年続け、建築現場で見よう見まねで覚えた技術だった。「こいつは使える」と思わせなければ次の仕事をもらえず、稼ぎに響く。素早い仕事ぶりも、むちゃな働き方も、すべては「明日の糧」を得るためだった。
湯浅に時折「もう辞めたい」と漏らした「棟梁」は入退院を繰り返した末、生活保護を受け入れた。ろうそくの火が消える直前のような、湯浅との一年半だった。「日雇い労働者って、毎日就職して、毎日失業する。そうしているうちに、身も心も削っていくんですね」。生活保護の相談を受ける、こもれび荘一階の場所。「そこの棚も棟梁がつくったんですよ」。懐かしそうに視線を向けた湯浅は、つぶやくように言った。 =文中敬称略
<あうん> 正式名称は「アジア・ワーカーズ・ネットワーク」。「自ら仕事をつくりホームレス問題を解決する」目的で2002年スタート。元路上生活者らによる家のリフォーム、リサイクル家電販売、引っ越し作業などを事業化。湯浅は03年に参加し現在代表理事。
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