★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK46 > 910.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
http://mytown.asahi.com/yamaguchi/news.php?k_id=36000360801310001
【岩国基地の軌跡〜出直し市長選を前に〜】
脅威と隣り合わせ70年
2008年01月31日
岩国市長選の告示が来月3日に迫った。最大の焦点は、米軍岩国基地への空母艦載機部隊の移転を市が受け入れるかどうかだ。だが、そもそもなぜ岩国に基地があるのか。住民とはどうかかわってきたのか。ちょうど70年にわたるその軌跡を改めて振り返りたい。
◆旧海軍が建設/終戦後に米軍
岩国基地を最初に造ったのは日本軍だった。
市が発行する「基地と岩国」によると、国家総動員法が成立した1938年、海軍は錦川河口の三角州地帯約123万平方メートルを強制的に買収、飛行場を開いた。宅地や耕地も含まれていた。
瀬戸内海に面する同市は温暖で、航空機の発着に影響する乱気流も起きにくい。郷土史を研究する広田信雄さん(81)は、海軍のパイロットが得意げに話したのを覚えている。「岩国の気象条件は世界で一番だ」
最初は練習隊の訓練場だったが、40年に岩国海軍航空隊が編成されると出撃地へと変容した。太平洋戦争の開始を告げた真珠湾攻撃にも、岩国から「零戦」が出撃した。
だが、米軍の攻撃目標にもされた。終戦前日の45年8月14日には基地と市街地が空襲を受け、駅や学校、郵便局、銀行などがことごとく破壊された。「岩国市史」によると全壊家屋543棟、半壊家屋343棟、被災者5911人、うち死者は517人を数えた。
広田さんは「とにかくめちゃくちゃだった。駅舎は影も形もなくなった」と振り返る。
◇
基地面積は終戦時、当初の4倍近くに膨らんでいた。日本が無条件降伏するとイギリスやオーストラリアなどの連合軍が駐留した。50年、朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)。米英軍の戦闘機や爆撃機が朝鮮半島に出撃していった。
新たな戦争は岩国に活況をもたらした。出撃を前に高ぶる兵士たちは、基地をとりまく歓楽街で派手に飲み回った。兵士相手の売春もはびこった。市内在住の80代の男性は「兵士の落とす金を蓄えた住民は、それを元手に家を建てて売春婦に貸していた」と回想する。
同年9月に市を直撃した台風で、岩国のシンボルである錦帯橋が流された。米軍が基地整備に使う砂利を錦川から大量に採ったのが一因だった。
◇
日本は米国と51年、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約を結んだ。岩国基地が現在に続く「在日米軍基地」になったのは翌52年だ。
52年から12年間は、民間航空会社が定期便や国際便を運航させる軍民共用空港となっていた。
ただ、燃料補給の中継地としての性格が濃く、利用者も限られていた。61年に広島空港(現・広島西空港)ができると乗客は激減。64年には定期便がストップした。翌65年、米軍が北ベトナムを爆撃してベトナム戦争が激化した。
米軍機の出撃が繰り返され、騒音被害が激しくなった。「岩国市史」は次のように書いている。
「基地のもたらす騒音被害は一般騒音とちがい、危機感や威圧感をともない……実害には(1)睡眠不足(2)疲労の加重(3)聴力の減退(4)会話の中断(5)ラジオ・テレビの聴取困難(6)電話の中断(7)農耕・漁労の阻害などがあり、特に乳幼児・病人におよぼす影響が大きい」
市は国に補償と被害緩和を要請。62年、防衛庁が岩国に自衛隊を移駐させる計画を発表すると、市と市議会は共同で反対運動を始めた。
日本軍が造った基地はアジアの人々に脅威を与える軍事拠点となった。米兵による婦女暴行や強盗事件、飛行機墜落事故なども多発した。住民の間に芽生えた「反基地」の意識は、全国的な反戦平和運動と重なって大きなうねりとなっていく。
■□基地を巡る主な出来事□■
1938年 日本海軍が飛行場の建設に着手
41年 基地から出撃して真珠湾攻撃、太平洋戦争に突入
45年 終戦に伴い米海兵隊が進駐、基地を接収
50年 朝鮮戦争が始まり米軍などが出撃。台風で錦帯橋流出
51年 サンフランシスコ講和条約、日米安保条約を締結
52年 在日米軍基地となる。民間の定期便運航開始
64年 定期便の運航がストップ
65年 米軍が北ベトナムを爆撃、基地はみたび出撃拠点に
▲このページのTOPへ HOME > 政治・選挙・NHK46掲示板
フォローアップ: