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(回答先: 赤狩り 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 投稿者 mei 日時 2008 年 7 月 21 日 23:35:23)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B8
レッドパージ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
レッドパージ(red purge)は、第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)に被占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)のマッカーサー総司令官の指令により、共産党員とシンパ(同調者)が公職追放された動きに関連して、その前後の期間に、公務員や民間企業において、日本共産党員とその支持者と判断された人びとが次々に退職させられた動きを指す。1万を超える人々が失職した。
[編集] 概要
太平洋戦争終結後、GHQ/SCAPは日本の民主化を推進し、日本共産党も初めて合法的に活動を始めたが、その結果、労働運動が激化し、また1949年に中華人民共和国が成立して、朝鮮半島も不穏な情勢になると、弾圧する方針に転じた。冷戦の勃発に伴う、いわゆる「逆コース」である。
1950年(昭和25)5月3日、マッカーサーは共産党の非合法化を示唆し、5月30日には皇居前広場において共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突(人民広場事件)、6月6日に徳田球一ほか共産党中央委員24人、及び機関紙「アカハタ」幹部といわれた人物を公職追放、アカハタを停刊処分にした。こうした流れのなかで、7月以降、GHQの勧告により、マスコミ(新聞・放送)、官公庁、企業などでも追放が行われていった。当時の共産党は内部分裂状態だったこともあり、組織的な抵抗もほとんどみられなかった。この間の6月25日には朝鮮戦争が勃発し、共産主義の脅威が公然と語られるようになった。
公職追放の指令それ自体はサンフランシスコ平和条約の発効とともに解除された。しかし、職場でレッドパージを受けた一般の労働者で復職できたものはほとんどおらず、またレッドパージを受けたことがわかると再就職先にも差し支える状態であったといわれる。
なお、1950年にはアメリカ本国でも共産主義者の追放(マッカーシズム)が行われたが、こちらは「レッドパージ」とは言わない。
[編集] 原因
GHQ/SCAPの民主化政策により、社会主義を背景にした労働運動が激化したが、これによって日本共産党の勢力が伸びていた。1949年1月の第24回衆議院議員総選挙では共産党が35議席を獲得した。そうしたなかで、1949年(昭和24)の下山事件、三鷹事件、松川事件という、いわゆる国鉄三大怪事件が、共産党と国鉄労働組合が仕組んだということにされ、共産党・共産主義者排斥を容認する風潮が作られた。
関連項目
公職追放
二・一ゼネスト
逆コース
東宝争議