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チベット人とはなにか?
チベット仏教とはなにか?
チベット国とはなにか?
* チベットの国としては吐蕃王朝(7世紀〜842年)とグシ・ハン王朝時代(1642年〜1724年)とが公式にみとまら認められているようだ。もっとも、吐蕃王朝は鮮卑系、グシ・ハン王朝はモンゴル系とかや。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88
チベットを建国した吐蕃王朝(7世紀〜842年)は、上述のチベット民族の分布領域を全て支配下におき、さらにはその東西南北の隣接地域に進出を果たしていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%90%E8%95%83%E7%8E%8B%E6%9C%9D
吐蕃王朝(とばんおうちょう)は7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにあった統一王国。唐では吐蕃と呼び、この名が14世紀中ごろまでチベットの呼び名として用いられた。吐蕃の王は自称としては姓をもたず、王家・王族の呼称も持たなかったため、日本では中国名である、「吐蕃」をもってこの王朝の名称とするのが一般的である。7世紀初めのソンツェン・ガンポによる統一以後、唐とは北東部では吐谷渾(とよくこん)、南東部では南詔、北方では西域の東西通商路の支配権を巡ってはげしく争った。唐王室より公主(皇族の女性)を迎え和平を結ぶことがあったが、唐とはたびたび和平と抗争を繰り返した。安史の乱以降は唐に対して軍事的優位を保ち、河西、隴右地区とシルクロードの大部分を支配するに至った。9世紀になるとティソン・デツェン王が仏教を国教とする方針をたて、やがて仏教指導者が国政を行うようになり、大蔵経の訳出などが実施された。822年には唐との間で、対等、平等の形式で国境画定と和平を定めた条約を締結した。その後ほどなく、国内で仏教をめぐって対立が起こり、また王位継承問題から南北に分裂、やがて滅亡した。
伝説では吐蕃王室は中国遼東地方より移住した鮮卑拓抜部出身の王家が起源とされ、ラサ南東のヤルルン部(チョンギェ地方)を起点として近隣諸部族を吸収し勢力を伸ばした。
630年、ナムリ・ソンツェン王が殺され、子のソンツェン・ガンポ王(在位630年〜650年)が即位する。
633年、ソンツェン・ガンポ王はスピ族を平定し、都をラサに定め、吐蕃王朝を開いた。
* チベット国は鮮卑の一派??
641年、唐王室の娘である文成公主を妃として迎える。王は文成公主が赭面(しゃめん:顔に赤土を塗る)の風習を嫌がったためこれを禁じるなど公主に対して丁重に扱った。文成公主は、唐から連れてきた工匠たちに小昭寺(ラモチェ)を建立させ、釈迦牟尼像を祀り、ティツィン王女(赤尊公主)の大昭寺(ジョカン寺、トゥルナン寺)建立を手伝った。この文成公主との結婚(唐では降嫁と呼んだ)により、唐との結びつきを強めた。さらに王は貴族の子弟を唐の都、長安へ留学させ、唐を参考にして吐蕃の軍事・行政制度を整えた。
* チベットの仏教は唐のお姫様がもたらした??
667年ガル・ドンツェンが死去すると、その子ガル・ティンディンが宰相の位を継ぎ国政を掌握した。 ガル・ティンディンは積極的に唐の西域に軍事行動を行い、
670年、唐の安西四鎮(クチャ、カラシャフル、ホータン、カシュガル)を攻め落としシルクロードを支配した。それに対して唐が10万の大軍を率いて攻めてきたが、ガル・ティンディンは40万の大軍を用いて、青海湖南の大非川にて唐に大勝利を収めた。
676年、マンソン・マンツェン王、逝去。ティ・ドゥーソン王が即位する。
678年、唐の中書令、李敬玄が18万の兵を率いて青海に攻めてきたが撃退する。
680年、唐と吐番の友好に尽力した文成公主が40年の滞在を経て吐蕃にて逝去。唐より使者が遣わされ弔意を表される。
692年、唐に安西四鎮を攻め取られる。
* 唐と覇を争っていた・・。
755年、ティデ・ツクツェン王逝去。その子ティソン・デツェン(742-797)が王位を継ぐが、実権は大臣マシャンチョンバチェらが掌握し、仏教を禁じた。さらに唐での安史の乱に乗じて唐西部の河西、隴右地区(現青海省東部および甘粛省)を占領し、南詔と連合し四川南部を攻略した。
761年、ティソン・デツェン王は仏教禁令を解き、インドから高僧を招いた。
763年10月、唐の長安を占領し、金城公主の甥、李承宏を帝位に据えるが、陣中に疫病が流行り、唐の反撃もあったため、半月後に長安から撤退した。・・
779年には吐蕃・南詔連合軍は20万の大軍をもって成都占領を目指したが、国力を回復していた唐軍に撃退された。
* 長安といえば、唐の首都ではないか・・。半年とはいえ、唐の首都を占領するほどの勢力であった。
* というか、中国の王朝と覇を争うということは、チベットが中国の一部であることを、逆に自認していることになる。
821年、長安に使節を送り、唐の大臣たちと和解の盟約を行う。
822年、唐より使節、劉元鼎がラサに到り、吐蕃の大臣たちと盟約を行い、翌年、ラサの大昭寺の前に唐蕃会盟碑が建てられる。
828年、ティツク・デツェン王の命により、チベット語に翻訳編纂された仏教経論の目録がサムイェ、パンタン等に保存される(チベット語訳仏教経典の収集整理のはじまり)。さらに、七戸の民で僧侶一人を養い、僧に不敬を働く者を厳罰に処す命令を下し、民衆の不満を引き起こす。
840年、吐蕃の支配層に内紛が発生する。
841年、ティツク・デツェン王が大臣ウェイダナジェンらに暗殺され、その兄ランダルマ王が即位する。
843年、ランダルマ王は仏教に反対する大臣ウェイダナジェンに扇動され廃仏令を下し、仏寺や仏像を封鎖破壊し、僧に還俗を迫り、反抗する高僧を殺害、経典や文物を焼却する。
846年、ランダルマ王が、仏教徒のラルン・ペルギ・ドルジェに暗殺される。その後、王の子ユンテンとウソンによる王位継承争いが勃発し南北に分裂する。この混乱時に安史の乱時に占領した河西、隴右各地を唐に奪回される。
851年、沙州(敦煌)で張議潮による民衆軍の反乱が起き吐蕃の駐留軍が追い出される。瓜州、沙州、伊州、粛州等十一州が唐に復帰し、唐が張議潮を帰義軍節度使に封じた。
869年 吐蕃の地方貴族と平民たちが、支配層に対する叛乱を起こした。
877年、吐蕃の叛乱勢力がロカのヤルルン渓谷を占領。チョンギェ地方の歴代王陵は荒らされ、王家の後裔は四散し、吐蕃王朝は滅亡した。
* 822年に唐との停戦協定が結ばれると、内紛が発生し、仏教徒との戦いが始まり、50年後に滅亡した。
* その後の877年−1642年の状況は不明だが、おそらく中国の王朝や群雄国家群のいずれかに組み込まれていたのだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%B7%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3%E7%8E%8B%E6%9C%9D
グーシ・ハーン王朝(-おうちょう)は
1642年に、西モンゴル・オイラト族のホショード部の指導者グーシ・ハーン(トゥルバイフ)がチベットに樹立した王朝。この王朝の支配者は代々の熱心なダライラマ信者であり、この王朝の成立により、チベット仏教界におけるダライラマの地位は劇的に向上し、宗派をこえた政治・宗教の最高権威としての地位が確立された。
18世紀初頭、ダライラマの継承者をめぐって王族内に激しい対立が生じ、ジュンガル部(1717年)、清朝(1718年、1719年 - 1721年)など外部勢力を導きいれての内紛を起こして衰え、
1723-24年、清朝の雍正帝に征服された。
* 「西モンゴル・オイラト族のホショード部の指導者グーシ・ハーン」というのは、元王朝(1271年 - 1368年)の流れなのだろうか?
* 1642年というは、 明(1368年 - 1644年)と清(1616年 - 1912年)とが併存していた明代最末期。その混乱の中で最独立を果たした。ということ。
* しかし、チベット人ではなく、モンゴル人の国家か・・、最初は鮮卑族の国家で、次がモンゴル族の国家・・。
1642年、中央チベットの覇者ツァントェ王の本拠地シガツェを一年間の攻城戦の後に陥落させると、占拠したサムドゥプツェ宮殿においてチベット諸侯をならべて「チベットの王」に即位するとともに、ダライラマ5世をシガツェに招いて、「チベット十三万戸」、すなわちヤルンツァンポ河流域を主とするチベットの中枢部を寄進、ここにダライ・ラマ政権が発足する。
* この国でダライ・ラマ信仰と国家との繋がりがでた。ダライ・ラマ派は国家主義との繋がりが強いと言えるかもしれない。中国政府がダライ・ラマ派を警戒するのは、そのような背景があったのか・・。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88
チベット亡命政府は、グシ・ハン(在位:1642年〜1654年)が征服地の全てを当時のダライ・ラマ5世に寄進したという立場をとり、グシ・ハンとその子孫によって統合された領域を、あるべきチベット国家の領域として主張している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88
清の滅亡後、再び独立国家となるが1950年に中国人民解放軍による侵攻を受け、チベットは軍事制圧された。
* このページの先頭には上のように「再び独立国家となる」と書いてあるのだが・・、後段では・・
1912年の清国の滅亡後、チベットのダライ・ラマ政権は完全な独立を模索し、
1913年にはモンゴルとの間で「チベット・モンゴル相互承認条約」を締結、2国が手を携えて漢人の共和政権である「中華民国」に対抗する姿勢をとった。モンゴルに対してはロシア、チベットに対してはイギリスがそれぞれ武器の供与、借款の提供を行うなど、外部の支援も得たが、イギリス・ロシアをふくめ、当時の帝国主義列強諸国の中には、モンゴルとチベットを「独立国」として承認する国は現れなかった。
チベットは、辛亥革命の報が伝わった1913年、ラサを占拠していた清国軍を激しい市街戦のすえ駆逐したが、それ以後も、中国国民党などの中華民国の歴代政権とは軍事的な緊張状態にあり、チベット側は、ガンデンポタンの実効支配領域の内部には、いかなる中国の機関も設置を認めなかった。しかし1940年、ダライ・ラマ14世の即位式典に列席した中国国民党の使節団は、式典のちも帰国せず、1948年に強制退去させられるまで、「中華民国蒙蔵委員会駐蔵辧事処」を名乗ってラサにとどまり続けた。
* 残念でした。イギリス・ロシアをふくめ、当時の帝国主義列強諸国の中には、モンゴルとチベットを「独立国」として承認する国は現れなかった。
* そのころブータンでは・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%B3
ブータンは、南アジアにある国。正式名称はブータン王国。インドと中国にはさまれている、世界唯一のチベット仏教を国教とする王国。
・・
17世紀に移住したチベットの高僧ガワン・ナムゲルが、現在の国土をまとめた。
・・
1616年: チベット仏教カギュ派ドゥク支派に内紛があり、チベットを逃れた同派の管長シャブドゥン・ガワン・ナムゲルがこの地の支持者に迎えられて建国。
1626年: イエズス会のポルトガル人神父、エステヴァン・カセラ、ヨハン・カプラルがヨーロッパ人として初めてブータン入国。
1864年: イギリス=ブータン戦争(ドゥアール戦争)勃発。
1865年: ドゥアール戦争に敗北し、イギリスとの間にシンチュラ条約を締結。イギリスからブータンに年5万ルピーが補助金として支払われることになる。
1907年: ワンチュク家(現王朝)が支配権を確立する。12月17日、ウゲン・ワンチュクが初代国王となる。
1910年: プナカ条約締結。1949年までイギリスの保護下に入る。
* 要するにイギリスはチベット人の領域を支配下に置こうとしていたらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88
第二次世界大戦中は、連合国の主要国となり日本と対峙した中華民国の協力により、イギリス領インドから移ってきたイギリス軍によってギャンツェ、ラサやカム地方各地に通信基地が建設された。これらの基地は中華人民共和国の人民解放軍によるチベットの武力占領まで、イギリス軍の無線技師によって運営されていた。
* チベットはイギリスにとっての軍事的要衝(軍事通信の要衝)であったのだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88
中国共産党が、チベット社会とはじめて接触をもち、なにがしかの行政機構を樹立したのは、1934年-1936年にかけて行った長征の途上においてである。
この時期、中国共産党は、当時中国大陸を支配していた中華民国の国民政府が同党に対する攻勢を強めたのに対し、各地の「革命根拠地」を放棄して合流、新天地を求めて移動し、最終的には陜西省の延安に拠点を据えたが、この途上、カム地方(西康省)の東部に割拠し、しばらくの間この地を拠点として行政機構や軍事組織の再編に取り組んだ時期があった。
この時、中国共産党は、占拠した町々のチベット人たちに「波巴政府」(「波巴」はチベット語「bod pa(チベット人)」の音写)を樹立させ、1935年、これらの代表を集めて「波巴依得巴全国大会」を開催させ(波巴依得巴 = bod pa'i sde pa は「チベット人の政権」の意)、これらのチベット人政権を統合して「波巴人民共和国」および「波巴人民共和国中央政府」を発足させた。この「人民共和国」は、実際にはカム地方東部の人々のみで組織されたものであったが、国号や「全国大会」の呼称からも明らかなように、チベット人全体の「民主自治邦」として設立されたものであった。
中華人民共和国の建国初期、それまで国民政府の支配下に置かれていたチベット人居住地域にはいくつかの「蔵族自治区」が設けられた。とくに1950年、カム地方のディチュ河以東の地に設立された「西康省蔵族自治区」は、一省の全域をチベット人の「自治区」と位置づけるものであった。
* 連邦国家の一部としてのチベット政府の誕生。
* 前段で、「中国国民党の使節団は、式典のちも帰国せず、1948年に強制退去させられるまで、「中華民国蒙蔵委員会駐蔵辧事処」を名乗ってラサにとどまり続けた」とあるから、国民党の支配から中国共産党の替わった、ということだね。
第二次世界大戦中は、連合国の主要国となり日本と対峙した中華民国の協力により、イギリス領インドから移ってきたイギリス軍によってギャンツェ、ラサやカム地方各地に通信基地が建設された。これらの基地は中華人民共和国の人民解放軍によるチベットの武力占領まで、イギリス軍の無線技師によって運営されていた。
* 国民党の支配→イギリス軍の支配→中国共産党の支配、と言うべきか・・。
しかし、1949年に国共内戦に勝利して中華人民共和国を建国し、無宗教の社会主義国家を樹立した中国共産党は、「チベットは中国の一部分」とする中国歴代政権の主張を踏襲し、いよいよチベット全土の「侵略」を目指して1950年に中国人民解放軍による軍事行動を発動しチベットを軍事制圧した。その後、中国共産党政府はチベット国民に対する非常に残忍な弾圧や虐殺を繰り返し行なう事でチベットを抑圧支配し続けており、さらに漢人の移民を故意に実行し現在ではチベットにおける漢人とチベット人の人口比率は逆転していると言われている。
* wikipediaにしてはやけに主観的な書き方だな。明治期におけるアイヌ支配より残忍なのか? イスラエルによるパレスチナ人支配よりも抑圧的なのか?
* 漢人とチベット人の人口比率は逆転していると言われている、というのは重要な問題だろう。北海道におけるアイヌと日本人との人口比率は逆転している。
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* ということなので、ここで終了。