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(回答先: Re: れんだいこのカンテラ時評368【「征韓論」考】 投稿者 こげぱん 日時 2008 年 2 月 16 日 22:34:32)
Re:れんだいこのカンテラ時評371 れんだいこ 2008/02/22 21:39
【芥川龍之介の真相認識論考】
西郷隆盛考を進めているうちにネット検索で「芥川龍之介 西郷隆盛」に出くわした。青空文庫がサイトアップしている。とても面白かったので転載した。「西郷隆盛考」(http: //www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/meijiishico/saigoco/saigoco.htm)の「
芥川龍之介の「西郷隆盛」考 」
(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/meijiishico/saigoco/akutagawanosaigomonogatarico.htm)
こういう場合、例によって著作権が煩い。いつからこんな風になってしまったのだろう。良いものを知らせるのに何の憚りがあろう。れんだいこはそう考えているので、良いものに出会うと、こうやって取り込むことにしている。
最近は、スナックがカラオケ装置置くのにも、リース料とは別にジャスラック料が要る時代になった。その代金は当然顧客に転化される。いつからそうなったんだと尋ねると、もう30年以上前からだと云う。れんだいこは、何を云うか、たかだか30年前からだろうが。今からでも遅くない、要らない時代に戻せ。
それは何も、著作者の権利を無視しようというのではない。著作者の権利は、出版社だとかレコード・CD製作社に対する規制としてなら近代的権利として認められもしようが、大衆的にこれを享受する場に、いちいちハウマッチなどと汚い手を出されるには及ばないと考えている。音楽著作者の権利は、我々が歌唱する事で逆に生かされるのであり、そこからヒットが生まれるのであり、音楽愛好者の裾野が広がるのであり、回りまわって潤うのであり、権利侵犯即料金請求というのは随分イカガワシイ話だと考えている。
しかしいけない。そういうれんだいこの考え方は野蛮だと云う。知的所有権を知らなさ過ぎると云う。しかしれんだいこは言い返す。手前たちの方がよほど野蛮だぜ。文化伝統醸成の法理を弁えぬ、いくら勉強してもすればするほど馬鹿になる手合いに過ぎぬ。知的所有権の中身を精査する能力が無く、ただ漠然と権利保護を云っているだけの強欲拝金商法に過ぎぬと。これが、情報閉塞の手段として意図的に仕掛けられているワナを知ろうとしない手前らは節穴でしかない。
もとへ。芥川の「西郷隆盛」より興味深い件を抜書きしておく。
或る老紳士が、汽車に乗り合わせた学生の本間君と自然に会話することとなり、専攻が史学科だと聞くと次のように云う。「ははあ、史学。君もドクタア・ジョンソンに軽蔑される一人ですね。ジョンソン曰く、歴史家は almanac-maker にすぎない」。学生が西南の役を卒業論文にしようとしているのを聞くと、次のように云う。「西南戦争ですか。それは面白い。僕も叔父があの時賊軍に加わって、討死をしたから、そんな興味で少しは事実の穿鑿(せんさく)をやって見た事がある。君はどう云う史料に従って、研究されるか、知らないが、あの戦争については随分誤伝が沢山あって、しかもその誤伝がまた立派に正確な史料で通っています。だから余程史料の取捨を慎しまないと、思いもよらない誤謬を犯すような事になる。君も第一に先ず、そこへ気をつけた方がよいでしょう」。
学生が、どこがどう違うのですかと尋ねると、老紳士は、「細かい事実の相違を挙げていては、際限がない。だから一番大きな誤伝を話しましょう。それは西郷隆盛が、城山の戦いでは死ななかったと云う事です」、「しかもあの時、城山で死ななかったばかりではない。西郷隆盛は今日までも生きています」と云う。
学生は可笑しさを堪えながら、それは暴論だとして史実を説き聞かせた。老紳士は次のように云う。「なるほど、ある仮定の上に立って云えば、君の説は正しいでしょう。そうしてその仮定と云うのは、今君が挙げた加治木常樹の城山籠城調査筆記とか、市来四郎日記とか云うものの記事を、間違のない事実だとする事です。だからそう云う史料は始めから否定している僕にとっては、せっかくの君の名論も、徹頭徹尾ノンセンスと云うよりほかはない」。
老紳士は、「僕はあらゆる弁護を超越した、確かな実証を持っている。君はそれを何だと思いますか」と尋ね、学生が返事に窮していると、「それは西郷隆盛が僕と一しょに、今この汽車に乗っていると云う事です」と云う。学生は堪りかね、会わせてくださいと云い、老紳士が案内する。学生が見たものは、子供の時から見慣れている西郷隆盛の居眠りしている顔であった。
老紳士は云う。「君は今現に、南洲先生を眼のあたりに見ながら、しかもなお史料を信じたがっている」、「しかし、一体君の信じたがっている史料とは何か、それからまず考えて見給え。城山戦死説はしばらく問題外にしても、およそ歴史上の判断を下すに足るほど、正確な史料などと云うものは、どこにだってありはしないです。誰でもある事実の記録をするには自然と自分でディテエルの取捨選択をしながら、書いてゆく。これはしないつもりでも、事実としてするのだから仕方がない。と云う意味は、それだけもう客観的の事実から遠ざかると云う事です。そうでしょう。だから一見当てになりそうで、実ははなはだ当にならない。ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話なぞは、よくこの間の消息を語っている。あれは君も知っているでしょう。実際我々には目前の事さえわからない」。
老紳士は、西郷の死体があったとしても替え玉ということも考えられる。そういうところから異説が生まれる。つまり何事も断定し過ぎるのは考えものだ、真理に対する態度を正しく保たねばならないと諭す。「遺憾ながら、西南戦争当時、官軍を指揮した諸将軍は、これほど周密な思慮を欠いていた。そこで歴史までも『かも知れぬ』を『である』に置き換えてしまったのです」。
学生は苦し紛れに、世の中にそんなに似ている人が果たしているでせうかと問う。老紳士はかっかっかっとのどを鳴らしながら大笑いして、「いますよ。今見てきた西郷どんがそうです。彼は実は医者で私の友人です」。
老紳士は最後に云う。「僕はピルロンの弟子で沢山だ。我々は何も知らない、いやそう云う我々自身の事さえも知らない。まして西郷隆盛の生死をやです。だから、僕は歴史を書くにしても、嘘のない歴史なぞを書こうとは思わない。ただいかにもありそうな、美しい歴史さえ書ければ、それで満足する。僕は若い時に、小説家になろうと思った事があった。なったらやっぱり、そう云う小説を書いていたでしょう。あるいはその方が今よりよかったかも知れない。とにかく僕はスケプティックで沢山だ。君はそう思わないですか」。
以上の語りである。れんだいこは面白かった。
ついでに、芥川名作「藪の中」も読んでみた。最初に検非違使(けびいし)が登場し、或る男の死体状況を語る。山陰の藪の中に死骸があったことを証言する。仰向けに倒れて居り、胸もとに突き傷があったと云う。
この証言を廻る三つの告白が披露され、どの告白が正しいのか分からなくなる。それぞれがもっともらしく、聞けば聞くほど真相は藪の中ということになる。関心がお有りの方は芥川の名文にとくとご堪能あれ。
問題は、事実や真実を読み取るのはそれほど難しいということになろう。我々は、いとも容易く正義や悪を決めたり、罪や罰を下したり、検証抜きの非難ごうごうの愚を慎まねばならないと云う事になろう。逆に言えば、確定した事実については責任を発生させることが必要と云う事にもなろう。
今我々がやっている事は逆ばかりで、事実確認抜きの非難先行であり、かといって的を射た責任問い詰めは無い。冤罪に無痛のまま権力犯罪に手を貸し、悪を裁かない。小さな悪は懲らしめられ、大きな悪には向かわない。とか何とかいろいろ考えさせられよう。
2008.2.22日 れんだいこ拝