★阿修羅♪ > 雑談専用34 > 951.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: ”正社員” 投稿者 東京音頭 日時 2009 年 1 月 07 日 01:34:12)
東京音頭さん、こんにちは。
>今からどのくらい前??正規で働く、つまり正社員になることを批判していた風潮がありました。
>フリーターを持ち上げるというのかな。会社の歯車にならずに、夢を持って自由に生きてゆくほうがいいんだ。という価値観が蔓延していましたよね。
自身の体験と記憶に照らし合せてみますと、多分それは1990年前後の、バブル末期の現象ではないかと想われます。バブルの潮流に乗ろうと企図するような優秀で野心家の学生が輩出されていたのも確かなことですが、その反面では当時“研修制度の充実”が志望動機の上位を占めていたことからも判るように、社会に出て働くことに過剰な不安を懐いていた学生が多かったのも事実です。つまり、また新たなるモラトリアムとして、或いはモラトリアムの延長としてそのような風潮が現出したのであり、バブル景気がそれ(第二新卒の採用等)を可能にしてもいたのです。
>たしかに生きがいを持って生きるって大切ですよね。ただ機械のように働けといってもいやになってしまいます。しかしだからといってすべての仕事が マスコミのいう、”クリエイティブ”なわけがないし、”毎日新しい人との出会い”であるわけがない。
“生きがい”それ自体が多様化或いは希薄化(矮小化)している傾向があると思っています。とりわけ生業の中にそれを見出そうとする心根を多くの人々が喪失してしまっているのではないでしょうか。原因としては仕事内容が細分化・画一化していることが挙げられますが、現代人が表層的な刺激に馴化されてしまったことも大きいと考えています。
>仕事それ自体に深い意味をもたせようと思うと、そういうことと関係のない仕事もあるわけでしょう。だから 仕事以外で 地域つくりなど、若者がたくさんで知恵を働かせて何か生み出せるような、自分たちが主体となって何かできるようなそんな社会作りがこれからは必要なのではないでしょうか。
>そして、人に感謝されることや、世の中に必要とされていることをやる ということに価値を置き、誇りをもてるような風潮にしていきたいと思います。
エリート主義に偏重することを望むものではありませんが、アッパー・ミドルが目覚めてミドル・アップを、そしてボトム・アップを図っていく必要があると考えています。教育においては教授法の開発や学習法の伝授がそれを補完することになるでしょう。例えば、科目別に習熟度の高い学生が習熟度の浅い学生の補習を担当するような学習システムによって、学生達は共同体における相互扶助のあり方を演習・体験することが可能です。
そうした内的な創発の積み重ねがあってこそ、“人に感謝されることや、世の中に必要とされていることをやる ということに価値を置き、誇りをもてるような風潮”が生成するのではないでしょうか。
>私の嫌いな言葉は、”個性”、”価値観の多様化””自分探し”です。経済界の要請で社会に下層階級をつくるために作られた実態のないスローガンだと思います。
日本の今日の社会状況において“個性”や“価値観の多様化”や“自分探し”という言葉が人々を思考停止に誘導せしめる催眠剤のような側面を有することは否定でき得ないでしょう。そして、人には何らかの“個性”や“価値”や“自分”が本源的に存在すると云った幻想が人々の心に宿ってしまったがためにその負の影響が顕著になっているのかも知れません。
おそらく、オーストラリアでの暮らしの中で“個性” の渦に巻かれ、“価値観の多様性” が醸し出す軋みに苛まれた体験から、東京音頭さんにとって“自分探し”どころではなくなってしまわれたのではないでしょうか。しかしながら、これら3つの言葉を極度に嫌悪することは、己を無化するあまりに却って一つの価値観(=画一性)に誘導されかねない、そんな危険性を孕むことにもなるのではと想われるのです。
ところで、小学校高学年の時のことですが、確かHRで採択された“個性の尊重”と云ったような標語が黒板の上に掲げられていたような記憶があります。1960年頃の生徒指導要領にそのような精神の形成を奨励する項目があったかどうか定かではありませんが、クラス担任のアドバイスにしたがったものではなく、生徒達が独自に決めたものであることは鮮明に憶えています。
当時は“個性”も“価値観の多様化”も“自分探し”もスローガンになることは希で、況してやメルクマールにはほど遠いものでしたが、今から想えば私にとっての“自分探し”はその頃に起動したのではないかと思い当たるところが多々あります。幸いなることに東京オリンピックの開催を4年後に控えた世の中には閉塞感と云ったものはなく、家庭的にも定まったレールが敷かれていたわけではなかったので、“自分とは何だろうか”と“個性”に纏わる自問を重ね合わせながら“自分探し”に勤しむことができたことや、そうしたプロセスの所産として“価値観の多様性”を自覚することにもなりました。
勿論、万人に当て嵌まるわけではないのですが、少なくとも自分には“自分探し”の周辺に発生する事物の一端を人々に伝えることくらいはできるのかも知れないと密かに思ったりしたものです。何れにしても、なるべく早い時期に試行を開始してみるに如かずであると考える次第です。
Auf Wiedersehen.