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昨日から、本日までの対話もしくは考察において
結局は、誰もみんな、Kも含めて、自分にとって「良い気持」になれる世界を作り、その世界に浸りたいだけではないかと見えてきた。
その浸りたい世界が、「自分が人から尊敬される世界」か、「自分が好き勝手出来る世界」か「自分が自己満足できる世界」か、想いは千差万別だろうが、いずれにしても、自分の思い描く「自分の宗教観もしくは倫理観など的に納得でき、満足したいだけ」なのだろう。
それに気付くことができれば、全ての世界は「偽善的であり、独善的であり、危険を含んでいる。」
結局は、試行錯誤の繰り返しの中で「支配者もしくは構築者の人間性・価値観の投影によって、自虐的になるか攻撃的になるか、マゾとサドの狭間で揺れるようなものだと思われる。」
つまり、どっちに転んでも、全ての創造社会は、主催者の主観自己満足の反映でしかないのだから、後は主催者をいかに民衆の最大公約数としての価値観を持ったものにするかであり、その主催者の価値観と、自分自身の価値観のスリ合わせと、折り合いの中で、自分の役割を見出すことが、自分にとっても、最大公約数と思われる人々にとっても「ベター」なことなのだろう。決してベストには達せない。
我を通しても、自分の理想の世界からは遠ざかる。どこまで行っても、我を通す先には「自己満足の欺瞞」が見透かされるだけであり、その先には最大公約数たる「自己満足の世界からの乖離が待っている。」
つまり、この矛盾を解消するためには「滅私」の先に「理想の社会を描き出す。(=最大公約数たる人の良い気持の社会を創造方法を考える)」
この方法においても、最終的には自分の考える最大公約数たる理想世界は主観によるものであって、現実の最大公約数の生きている人との乖離からは免れないのだろうが、出発点において、個人におけるベストは捨て、最大公約数という個人のベストを捨てた範囲におけるベターを選択するしかないのだから、「滅私」の度合いによって、主催者にとってもベターであることを「互いの不満の中に妥協してすり合わせるしかない」
Kは哲学は嫌いだ。
でも、参謀志望者とすると、実現可能な道を指し示せなければ失格だからなぁ〜