★阿修羅♪ > 雑談専用32 > 777.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
オリンピックの金メダル争いは「中国の圧勝」が決まったとのことである。
Kも「女子ソフトボールでは日本女子の活躍に魅入ってしまった。」ように、どうしても日本を応援してしまう訳であるが、オリンピックは国家の威信発動の場所ではなく、個人のスポーツの祭典なのだそうである。
なんでも、今回のオリンピックでは「かなりのメダリストが国籍の移籍をした移民」なのだそうである。例えば、卓球のメダリストは「中国生まれの移民が他の国の代表として出場してメダルの獲得した例が多い」のだそうである。
男子のマラソンの金メダルは「ケニア生まれの日本の高校を出たワンジル氏」が獲得したのは多くの人が承知していると思うし、女子のシンクロナイズドスイミングで中国にメダルの獲得の指導をしたのは日本の井村ヘッドコーチの功績もあると言われたりしている。
そこで、ちょっと考えていただきたいが「日本がメダル獲得競争に勝つだけならば、多くの金メダル候補者に日本国籍者になってもらう」という事を実践すれば実現可能となるだろう。
実際に、国体などでは有力選手を自県に引っ張るというような事もあるらしいが、それを世界というスケールにするだけである。大きな企業が「日本の威信を考えて、資金を捻出すれば多分可能だろう。」と思う。
高校駅伝などでは私立高校のランナーに結構多い比率で「外国人選手」も多く、日本の国技である相撲においても上位陣が「外国出身力士」によって占められているのが現実としての実態なのだから、オリンピックの表彰台に黄色人種たる日本人が立たなくても「国籍」が日本であれば「違和感を感じる人は差別的な思考の人」と言えるだろう。
しかし、おそらくであるが、オリンピックの日本代表者が「日本生まれではない国籍だけ日本人」ばかりになったとすると「オリンピックの視聴率はかなり低下をする。」のではないだろうか?
多分であるが、日本人が見たいのは「日本の民族としての同じの人種の人が活躍する」のを見て、日本民族の「血の優秀さ」の確認をしたい。というような感情もあるからであろう。簡単に言えば「黄色人種たる日本民族が活躍して優秀さを示すのを見れば、自分に流れている血の優秀さを確認できる」という事である。
何やら血液型がどうのこうのという本が多くなってきている気がする。コンビニに結構売っていたりする。確か、医学的には血液型による性格判断には、ほとんど根拠はないという事になっていた気がするが、なぜか「血」というものに拘る人は多い。
相続税法を全面改正すべきと主張しているKにとっては「血族への拘り」という「一種の宗教的観念は困ったちゃん」である訳であるが、まあ、先祖や両親を敬うの心は必要だろうとも思う。
Kとすれば「社会は安定させるべき」と思うが「国家は無くても良い」という思いもある。
「人間は一人では生きられない。」
これは、Kの主観の強弁ではなく、現実として集団生活をするようにできているのだろうと思う。
「俺は、一人で山の中でも生きられるよ」と言う人もいるかもしれないが、そんな人だって、生まれてすぐに「山に置き去りにされたら生きてはいられなかった。」だろうから、人間というのは集団生活をするようにできているのだろうと考えるわけである。
だから、集団生活の場である「社会」というのは安定させ、構成員全員の幸福を構築できるようにする必要はある。
しかし、その社会の単位は「国・国家」である必要はないのである。
まあ、Kは日本語という言語しか使いこなせないし、どのようにほざいたところで「黄色人種であり日本生まれの日本育ちである。」から、日本という国に帰属するしか生きられないので、日本を無理に潰してしまえとは主張はしないが、仮に日本という国がKに理不尽な犠牲を強いるという事があれば、Kは国という集団単位に、「それほどの拘りはないよ。」という反応を示すことになるだろう。
つまりは、オリンピックでメダルの獲得(=国威発揚策)をするために「税金を負担を増やすまでの必要はない」という考え方と言う事である。
本日で「終了する北京オリンピック」であるが、各国のメダルの獲得数などを気にするのではなく、スポーツの祭典として受け止められないのかと思ったりするが、それでも、やっぱり「日本の選手を応援してしまう」のが日本人である。