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アロウヘッド計画というのを聞いたことがあるだろうか?
映画ミストの中に導入されているキーワードなのであるが、ネット検索では「その映画」以外には広がりが見いだせないようなので、おそらくは「単なる思わせぶりキーワード」でしかないのだろうが、何か「元となった出来事があった」という気がする。
北京オリンピックの開会式ではハイテク技術の結晶として「迫る雨雲に会場上空に来る前に雨を降らせた」と言うことが行われたという。
人間文明の科学も天候を左右できるまでに発達したということである。
そんな事を考えて、一寸、思考遊びをしてみた。
運・不運というのは確かに存在する。
Kは子供の頃は「非常に運が良かった。」
合理主義者のKなので、自分でも信じられないのであるが、子供の頃の記憶において「当たり付きの自動販売機でジュースを買った時の当たる確率」と「当たり付きのアイスを買った時の当たる確率」には驚異的なものがあったと感じている。驚異的と言うより「外れた記憶がない」と言った方が妥当かもしれない。
多分であるが、最近では「当たる確率そのものがシステム的に低くされている」のだろうと思うが、最近では当たりジュースは30回買って1回くらいだろうと思うが、子供の頃は「10本のジュースを買うのには6本分のお金があれば良い」くらいの認識だったように記憶しているのである。
多分であるが、若干の記憶の間違いがあるのだろう。自動販売機では「コカコーラを中心に当たりが出たらもう一本」という機能がない機種が主流になったのも何時の頃からなのかもよく覚えていないのだが、当たったという記憶は残りやすく、外れた時には「当たり無しの販売機で買ったと思えば良い」くらいに考えて忘れてしまったのかもしれない。
しかし、それでも相当の確率で「当たってもう一本」をゲットしたという記憶が残っているのは確かである。
子供の頃に運が良かった反動なのか、大人になってからの不運はかなりのものがある。
ハッキリ言って「人一倍運がない」という気がする。
思うに「人の運」というのは総量が、ある程度決まっていてKの場合は「子供の頃に運を使い果たした」という気がする。
この仮説が正しいとすると「マーフィー計画」という計画が作成できる可能性がある。
「マーフィー」というのはマーフィーの法則のマーフィーである。K的には「可能性としてある不幸は必ず訪れる」と解釈しているが、正確には「失敗する余地があるなら、失敗する」というのが一般的解釈である法則である。
で、「マーフィー計画」であるが「人類の運が総量として一定であると仮定して、ある時期に不幸を集中して引き受けると言うことで、他の時は幸運である可能性が高まるのではないか?」というものである。
これを応用すると「他人に不幸を誘導することで、自分は幸福になる。」という可能性もあるし、不幸を故意に呼び寄せるのなら「覚悟と対策も可能」なので最小限の被害で乗り切れ、後は幸福という可能性などもあるわけである。
東海地震が結構前から心配されているような気もするが、地震を誘発して「先に起こす事が可能ならば、地震予知よりも確実に対策は実施できるし、一回起こしてしまえば確実に蓄積エネルギーは減少する」と考えられる。
でも、これで、人が死んだりすると「必ず責任問題に発展する」と予想される。
例え、それが「多くの人のために良かれと思って行われた事」であって、仮に自然発生した地震であった場合は「1000人死ぬ」ところが、人工的に誘発したので「10人の死亡で治まった」としても、自然なら「不幸」、人工地震ならば「人災との解釈からの損害賠償請求」が叫ばれることになるのだろう。
人の生命というものは、間違いなく大切なものであり、全ての生命は「可能性」を秘めている。
死刑廃止論も考える必要はあるのだろうがKは基本的に「犯罪抑止面」と「罪と罰の整合性」「被害者の心情」などから「死刑は存続すべき」と考えているが、場合によっては「死刑にされた囚人」が死刑にされなければ「人類的に有益となる思い付き」に気付く可能性もあるのである。
「コンプライアンス不況」という言葉を昨日耳にした。
何か「言い得て妙」だなと感心してしまった。
馬鹿な立法府の作る「法の方向性」によって、社会は住みにくく、暮らしにくいようになってしまった。
Kは以前から考えているが、基本的には「悪意があれば有罪」で十分のはずだろうと思っている。神ではない人間が「全ての状況を条文化するのは不可能」なので、条文規制は最小限で良いのである。
それを条文規制で「社会の規律を保持しようとする」から「全てが歪み、生活者は息苦しくなり、狡猾な者は条文の不備を突こうとする。」
そんな社会に適応できなくなった者は「破滅者」となり「自殺・無理心中・社会的破壊者」と化す。
これは、思考遊びでしかない訳であるが、やっぱり、政治の方向性が間違っているのだろうという結論になる。
庶民のワガママに迎合してはいけないが、庶民の声に耳を傾けるのは当たり前である。
今の政治家は、ワガママと声の区別が付かない輩ばかりなのである。