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(回答先: 考察者Kさん、返信ありがとうございます 投稿者 mei 日時 2008 年 7 月 26 日 00:34:24)
>meiさん どうもです。
>【私は単純に日の丸・君が代運動というのは平和活動だと思っていました。】
まあ、それほど単純なものではなく、非常に複雑怪奇な代物だろうと思っています。
運動には「平和運動」「市民運動」「労働運動」と色々な運動があるのですが、基本的には「あらゆる運動は、政治、思想、宗教集団の勢力拡大のために利用されてきた。」という側面を持っています。
いわゆる「ひのきみ運動」は社会・共産勢力によって「作り出された運動」の一つでしょう。
>【公務時間外に生徒を私的に呼び出すのも、問題がある気もします。最近は、色々と大変みたいですから。
自由参加、としても、先生に気に入られたいとか、成績の点を良くしてもらえるんじゃないかとか、なんかそういう可能性もあって、私は問題があると思います。
基本的に勧誘活動に関してはNGと思います。特に教師になったことで知り合った生徒や、教師の威光が影響を及ぼしかねない行動に関しては。】
なかなか良い考察ですね。
しかし、そうなると「勤務時間中の思想アピールは良いが、私的時間での勧誘は駄目」という意見なのかな?
それとも「赤の勧誘は自由」で「キリスト教の勧誘は制限されるべき」という考え方なのでしょうか?
もしかしたら、教師という職の影響力は大きいので「思想も信教の自由も制限される」べきかもしれません。
仮に、そうであるなら「君が代不起立教師」は「教師という職に適さない」という事になるでしょう。なぜなら、中立を保てない性格だからです。
人間というのは「多かれ少なかれ、思想的、信教的に偏りを有しています。」
日本という国では「個人の偏りは自由」ですが、他人に影響を与える場合には「制限」があると言えるでしょう。
結果的に「その評価は、個人の価値観」に任されるという事になるのですが、そこで重要なのは「好き・嫌い」というような感情に任せるのではなく、「論理考証」をした上で公平な目で判断するという「姿勢」だろうと思います。
「キリストという宗教は駄目で、左派的な思想ならば許される」というような判断基準は決して公平性は保たれていないでしょう。
>【オウム団体は解散させられても仕方ないかもしれません。が、解散したところで信仰心が失われるわけではないので、地下にもぐるだけかと思われます。】
この辺は、考え方の問題です。
元々は、犯罪に関与していない一般信者さんが弾圧を受けるのは正当か?という提起だったはずですが、論点がズレていますね。
「団体が解散させられても仕方がない」というのは「悪い事をした集団」については「集団としての弾圧(=罰)を受けるのは仕方がない」という意味であり、「解散という方法論しかないでしょう。」という主張をしている訳ではありません。
集団として「悪い事をした事が明白」であるのに「集団に残って、集団を維持しようとするのなら、集団の構成員としてのリスクを受けても仕方がない」という意味も含まれています。
>【そういう意味では、無理やり解散させるよりも、そのまま存続させるほうが監視はしやすいと思います。】
そのような選択肢も当然あるでしょうね。
その「監視」というのは「一種の弾圧行為」なのでしょうが、meiさんは「弾圧するのが正当」という意見でしたでしょうか?
>【それに、社会から排除されてしまえば、ますます他の価値観に触れる機会も失われ、仲間内で固まっていくことになります。
弾圧が、仲間の結束を強固にすることもあるかと。】
ここが、今回の主張のコアなのかな?
「君が代不起立の戦士は結束を固めていく」・・・
まあ、憑き物は落ちずに「益々頑固な狂信者になっていく」
確かに「その傾向はあるでしょう。」
でも、そうなると「教師を辞めていただく」以外の方法論がなくなっていくのでしょう。