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(回答先: 影の闇殿もこう追い詰められると辛いねー 投稿者 Ddog 日時 2008 年 6 月 20 日 03:19:56)
>西郷隆盛が守ろうとしたものは島津斉彬の遺訓であり、滅び行くエスタブリッシュメントとしての武士>的価値観であったと思う。
どこまで幼稚かつ無知なのかね? 西郷隆盛は政治家であり、何より維新の志士、つまり革命家だよ。 当然、守ろうとしたものは、その政治的信条であり、革命家としてのレーゾン・デートル=大義以外に在り得ないだろうし、「決起の理由」はそれが侵されたからーと見るべきだろう。
第一「島津斉彬の遺訓」って何の事だか、お前さん知っているのか?ww
当面の敵ロシアに対する、日本と清国と朝鮮の共同防衛構想ーこれが島津斉彬の「遺訓」とされているものだ。
そうして、この「遺訓」を受け継いで、西郷が目指したものこそ、無道の国(西洋)に対する共同防衛に立脚した、道義外交であったろう。 俗に「征韓論政変」と言われるものはその意味が180度異なっており、こうした視点に立ってのみその後の決起の理由も見えてくるのだ。
ーそれは、政権を去って以後、決起までの4年間に何が起こったのかを見れば一層明瞭になる。
対朝鮮国(江華島条約)-明治7年、対清国(征台の役)−明治9年
即ち、彼が目指した道義外交を時期尚早と否定し、葬り去ったやつらが、無道の国の真似をし、その後を追ってるーそう見えたであろう。 「政府に尋問のスジこれあり」とはこのことを指す。
勿論西郷軍の決起の意味がそこに在ったからこそ、西南戦争はシンボリックな意味を持つことになったのである。 どういうシンボルか? 革命政権から革命の大義及び革命色を一掃する、ということだ。
だからこそ、一掃された革命の大義は、宮崎滔天や頭山満等、西郷の遺志を継いだ者たちによって、「大アジア主義」として甦って来たのだ、但し今度は体制の思想ではなく、在野の思想及び運動として。
>薩英戦争を機に攘夷の旗印は捨てている
これでお前さん、政治(学)の基本にも無知なことがよく分る。w
幕府権力の政治的正統性(レジティマシィ)は征夷大将軍、即ち夷敵を力づくで征する処にある。
黒船以降の経緯がそれに致命傷を与え、残るは(権力を保障するのは)権威(朝廷)のお墨付きのみ。 薩長を遥かに上回る軍事力を持っていながら、あれほどアッケなく幕府が瓦解した理由はこのお墨付きを失ったことにある。 逆に、お墨付きを得て、武力で打倒した維新政府は、幕府の失権の理由である「夷敵を力づくで征する」能力とその処方箋を突きつけられているーということでもあるのだ。
「明六政変」に至る西郷隆盛の動きがその処方箋であったことは、この点からも覗えるのである。