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(回答先: Fw: [000710] 悲しいお知らせです。 投稿者 秋吉悠加 日時 2008 年 4 月 24 日 12:59:08)
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この転載は違反かも知れないが、今日は特別に
雑談板のみにお許し頂きましょう。HP
http://www.creative.co.jp/m/mmm/より
第8章「回帰の旅の物語」1
2007-04-16
「気=超エネルギーの場」
ガンとは何か。この問いに答がなければ、ガンを治癒する道は見つからない。なぜガンができるのか。そのメカニズムやプロセスが分からなければ、ガンを消し去ることができない。現代医学はガンを細胞レベル、遺伝子レベル、分子レベルにまで追い込んで分析し、必死でガン細胞を殺したり、ガン遺伝子を修復する道を模索している。「ガンとは何か」に対する明解な解を持たぬまま、ガン治療に没頭しているのである。
これに対して千島学説では、ガン細胞は細胞レベルで見れば赤血球が病変してできたものであり、ガンは単なる局所的な病気ではない。それは血液の劣化や血流のよどみや乱れから発症し、そこには「気」もまた大きく関わっているとする。すなわち「気血の劣化」がガンを造り出し、「気血循環の停滞や乱れ」が病状を深刻化する。だから「気血の問題」を解決しなければ治癒はなく、ガンを治癒するためには「気血動の調和」が不可欠と千島学説は言う。
千島の時代は顕微鏡観察が基本であり、当時の顕微鏡で観察できるのはせいぜい血液レベルのものだった。が、1953年にDNAの二重らせん構造が発見され、その後分子生物学が急速に発達した。ヒトのゲノムの全塩基配列を解読するヒトゲノム計画が完了したのは2003年のこと。そしていま、ポストゲノムとしての「糖鎖の研究」が進んでいる。これは細胞間コミュニケーションの化学的メカニズムを解明しようとする営みである。
千島博士の研究は主に血液や細胞に向けられていたが、千島は実はさらにミクロの世界にも思いを巡らせていた。それが「気の研究」であり、千島は「気(意識・精神・心)と身体の関係」についても深く思索した。千島は「気」という言葉の中に、分子生物学の世界や、それよりもさらに内奥にある「超エネルギーの場」を直感していたのである。
気は、宇宙に遍在する物質や生命の根源的要素で、これを私は超エネルギーと呼ぶ。
現代物理学の物質とエネルギー概念は論理的矛盾を含んでいるので、私は物質とエネルギーを発生論、進化論的に考察し、超エネルギーの凝集→ エネルギー→ 素粒子→ 原子→ 分子と考える。(『血液と健康の知恵』)
千島が言う「気」とは「超エネルギー=宇宙に遍在する物質や生命の根源的要素」のことであり、それは「血」の背後にあって血や身体に決定的な影響を与えている。千島はガンを「血液病・全身病」と位置づけて「食」の重要性を語り、食べ物から血を作る腸をガン治癒の重要な「場」としているが、それと同時に「気」の重要性も指摘しているのだ。
実際、「気」が「病む」ことをもって「病気」と呼ぶ。気の乱れが身体に悪影響を及ぼして、さまざまな異常症状を引き起こす。ちなみに「病」を辞書で調べてみると、そこには「くせ、性癖、疲れ、欠点、悩む、心配する、固い、難しい、恨む、遺憾、はばかる、苦しめる、とがめる、憂える」等々の意味があり、それはエネルギーの自然な流れを阻害する現象を示唆している。要するに、エネルギーがスムーズに流れなくなることを「病気」と呼んでいるのだろう。一方「病気」のもう一つの文字「気」であるが、「病は気から」と言われるように、一般的には「気持ち・気分」など、精神や感情、心の状態を気と呼んでいる。しかし「気」にはさらに広い意味があり、辞書では次のような説明がなされている。
○空気、大気、気圧
○天地間の自然現象、風雨、寒暑、天気
○雲気、水蒸気、かすみ
○元気、万物生成の原動力、心身の根源となる活動力
○ちから、いきおい、活気
○きだて、こころもち、心気
○うまれつき、もちまえ、気質
○におい、かおり
○宇宙の万物を生成する質量、理気の学
○いき、息をふきかける
○おもむき、ようす、感じ、気運。
これに対して千島博士は、「気」にさらに次のような説明を添えている。
○呼吸と生命 息することは生きることに通ずる。古代ギリシアのヒポクラテスはそれをプシケ(Psyche=呼吸)と呼び、インドのヨーガではプラナ(prana)、ギリシア語ではプノイマ(Pneuma)と呼んだ。いずれも「空気、呼吸」の意味。
○精神、心の状態 元気、勇気、気質、気性、意気、気力、気魂、気分、正気、狂気、陰気、陽気、平気、運気、英気、快気、士気、志気、才気等々。
○神、霊、精霊、神霊、悪霊、幽霊、もののけ、魂、活力等々。
○以上の意味は、東洋での「気」だけではなく、古代ギリシアのプシケ、プノイマ、古代インドのプラーナ、英語のスピリット(Spirit)、ドイツ語のガイスト(Geist)、フランス語のエスプリ(Esprit)などにもすべて含まれ、これは古代人が、大気を呼吸することは生命または神、霊、活力、魂につながると直感的にとらえていたものと考えられる。
英語で呼吸をRespiration というが、Re=再び、Spire=芽を出す、伸びる。すなわち、大気中から生命を再び体内に取り込む呼吸を意味するものと解してよい。
となると、「病は気から」という意味は、単に「心(気持ち)の状態が病気を引き起こす」といったものに留まらず、そこにはもっと深い意味が秘められていることにもなりそうだ。辞書によれば「気」を構成している二つの文字のうち、「气」はわきあがる上昇気流、雲気を意味し、「米」は米粒のように小さなものを意味しているというが、これはいわば「気=スパイラル」と「米=量子」をシンボライズしているかのようだ。千島学説では第8原理で「生命弁証法」を掲げ、「波動と螺旋運動」を生命現象のキーワードとしているが、そのことからしても「気」には非常に深い意味が込められているといえるだろう。
全身的な活動を失った人間
「気」の問題に入ると、とたんに非科学的なイメージが湧き、どこかうさん臭い世界に連れ込まれたような感じがする方も多いにちがいないが、東洋医学や古代医学ではこの「気血の調和」を健康の根本原則として位置づけてきた。単純化して示せば「気=呼吸法&エネルギーの流れ」「血=食養法」で、外部から体内にインプットする気と食を、病気治療の根本に据えてきたのである(食の概念には「水」も含まれる)。
しかし千島学説ではこれにさらに「動」を加えて、「気血動の調和」を健康の根本原則とした。「動」とは流動、脈動、血流、循環などを意味し、身体を動かすこと(運動)でそれを促進しなければならないとするのである。
なぜ千島が「気血の調和」に加えて「動」を強調したかといえば、現代人の生活スタイルではどうしても運動不足になってしまいがちだからだ。昔の人々は仕事や暮らしそのものが身体を動かすことにつながっていたが、いまは全身を動かすことが極度に少なくなっている。それが深呼吸をはばみ、体内の血流を滞らせる。要するに、いくら外部から気や食を取り入れた(インプット)としても、体内でうまく処理・活用(プロセッシング)できなければ、病的な症状や行動が現れて(アウトプット)しまうのだ。
どんな生命体であっても、いやコンピュータのプログラムでさえ、その基本になっているのは「インプット→ プロセッシング→ アウトプット」という流れである。つまり、外(環境)から自分が必要とするものを取り入れて、それを内部で上手に処理活用し、そして不要なもの、あるいは自分以外の存在が必要としているものを外に出す。この流れは「インプット→ プロセッシング→ アウトプット」と示すこともできるし、「テイク&ギブ」あるいは「受発信」と示すこともできる。どんな存在であっても、物質やエネルギーのやり取りと、情報の受発信をスムーズに行うことによって初めて存在、成長しうるのだ。
人間の身体も当然「インプット→ プロセッシング→ アウトプット」の営みをしている。空気を吸っては吐き、水や食べ物を飲食しては排出し、五感から情報を受信しては、自分なりに処理(判断)して再発信(自己表現)する。そこには明らかに「処理=プロセッシング」という営みがある。そしてその処理機能をうまく働かせてくれていたのが「全身を動かす」というものだった。この営みは、人類がいまのような身体を持ってから数百万年という長い期間にわたってやってきたもので、人類はその圧倒的に長い期間を狩猟採集者として動き、暮らしてきた。つまり、山野を歩きまわり、身体中の運動器をフルに使って食べ物をとる。そうすることで、人体内の生理的な処理システムはうまく機能した。全身的な動きが体内のプロセッシング機能を支えてきたのである。
ところが、そのように作られて機能してきた人間の身体は、農業の始まりとともに異変を起こすようになった。農業というのは一定の土地に定着し、毎年同じような労働を繰り返し、同じような食べ物に依存する生活スタイルである。そのとき「全身的な動き」は「筋肉の一部を酷使する労働」に変わり、食の多様性も失われて偏食化した。農業は人類史にあって最初に襲った大きな希望の波(アルビン・トフラー)ではあったが、人間の身体からすれば、それは「全身的な動き」を失わせ、病気を発症させることにもつながっていったのである。
予防医学の第一人者・小山内博医師も、『生活習慣病に克つ新常識』の中で、次のように述べている(一部リライト)。
人は自然の一部であり、人類は数十万年以上にわたって狩猟採集者として暮らしている間に、からだはそれに適応するように形成されました。ところが農耕生活への移行は全身的な活動の少ないくり返し動作の多いものとなり、血液循環の不全から循環器の問題が起こってきたし、腰痛や肩こりなどの運動器の障害も発生してきました。
また農耕社会では、支配と非支配の関係が生じて他人のために働かされることになり、双方ともに疾病が発生することになりました。まず、加齢とともに血圧の高い者が増加していきます。ヨーロッパでは、貴族の間から、喘息、関節リウマチ、糖尿病、痛風などの疾病がみられるようになりました。お産が困難になったのも貴族の夫人であり、日本でも大名の姫君たちからであったことを考えると、生活態様の変化は、確実に疾病の変化と結びついているものと考えられます。
二〇世紀になると働く人の生活様式が激変し、それが健康に大きな影響を及ぼすものとなりました。機械文明の進歩は生活にも及び、身体活動の機会はほとんど失われ、からだとの矛盾が際立っているのが今日の状況です。からだのほうの変化は少しずつであるのに対して、生活様態は数百年、ことに最近では十年もたてば大きく変わってしまいます。これでは、からだのほうがついていけません。
心の面でもからだと同じようなことがあって、めまぐるしい変化に対応することができず、そこから、がん、動脈硬化、心臓病のような生活習慣病が増大していくことになったのは、当然の成り行きと思われます。
日本で大人気の韓国のテレビドラマ「チャングムの誓い」でも、王宮での食や病気の様子がリアルに描き出されている。医女チャングムは、病気がちな王や王族に対して、体に良い食べ物を工夫し、外で歩くことを勧め、緊急時には鍼や足もみ、指圧などを施術することによって何度も救ってきた。そこには腸の問題や、権力争いでのストレスの問題も大きく浮上している。王宮の中での暮らしは、人間が体内機能をうまく働かせることができた原始的生活とは対極にあるものだけに、お産も含めて健康問題が噴出していたのである。
農耕生活でさえ全身的な活動を阻害し、多くの疾病を発症させたのだから、いまの文明生活がどれくらい不自然なものになっているかは言うまでもない。特に近年の生活環境は全身活動とはおよそ縁遠いもので、ちなみに自分自身のことを考えても、仕事ではパソコンの前に長時間座りっぱなしで、それも同じ姿勢で座り続けていることが多い。しかも電磁波を浴びっぱなしだから、これでは体内のプロセッシング機能がおかしくなっても不思議ではない。また移動には車を使うことが多く、本格的に歩くことはほとんどせず、それに加えて仕事や人間関係などでのストレスがある。要するに現代人は全身的な活動をほとんど忘れ、たえずストレスにさらされているため、体内の諸々の機能がすっかり萎えてしまっている。千島はそれを憂い、「気血の調和」にもう一つ「動」を加えて「気血動の調和」としたのである。
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第8章「回帰の旅の物語」10
2007-04-16
ハイ(変性意識)状態へのトビラ
「Aフィールドにジャンプする」などというとこれまたオカルトめくが、心理学的に言えばこれは「変性意識状態(Alterd States of Consciousness)」になるということだ。つまり日常意識とは全く違う「世界や宇宙との一体感、全知全能感、強烈な幸福感」など、いわゆる「ハイな状態」が突然訪れることで、悟りの境地とか臨死体験などもその一種かもしれない。
ところで変性意識状態はなぜ起こるのか、この問いに科学的な解を示したのが「量子真空」である。そこには時空を超えてすべての情報が記録されているから、ハイな状態からそこにアクセス(共振・共鳴)さえすれば、誰もが何かを引き出せるのだ。
そして、この問題を研究していた者こそ『ナチュラル・マインド/ドラッグと意識に対する新しい見方』の著者、ワイル博士だった。ワイル博士は世界を旅して向精神植物と人々の関係を調査体験し、薬物の助けなしにハイになれる方法を研究した。そこに心と身体の相互作用の秘密と、健康や治療の問題を解くカギがあると考えたからであった。
ワイル博士はまずドラッグ研究から入って変性意識状態の研究を進めたが、ハイな状態は音楽、踊り、セックス、スポーツ、瞑想、催眠、宗教的な法悦などによっても体験することができる。そしてそこにジャンプが起き、奇跡的なガン治癒が起こったりもする。深刻なガンだったRさんもLSDトリップからガン完治に至ったし、似たようなことは実は意外と数多く起きている。実はぼく自身、弟の変性意識状態をしばらく観察したことがあった。
2004年3月のことだった。近くで長い間病気療養していた弟から電話が入り、「まもなく死ぬことになりそうだ」と言われてびっくりし、あわてて駆けつけてみたところ、弟は床に倒れ、悪寒で全身が震えていた。しかし意識は非常にクリアで、その表情には法悦感に満ちた穏やかさがあり、神々しくさえ見えた。そのときの弟との会話は忘れることができない。弟はあたかもいま見ているものを実況中継するかのようなリアルな表現で、生まれてきたことの意味や感謝を語りだし、さらに驚くほど深淵なことを多々話してくれたのである。
呼んだ救急車がやがて着き、病院で検査したところ「異常なし」と言われた。救急車の中では血圧が200を超えていたのに病院では普通の状態に戻っていた。心電図もCTスキャンも血液検査も異常なく、医師は「なぜ救急車で運んだのか」といぶかったほどだった。
あのときの弟は、突然襲った病的ショックでAフィールドにトリップしたのかもしれない。そしてハイな状態の中で驚くべきことを話し、その直後「死ぬほどの状態」から解放されたのだ。弟が語るリアルな言葉のそのすべてにぼくは合点がいった。それは決して朦朧状態で語った支離滅裂なものではなかった。ぼく自身は劇的な変性意識状態を体験したことはないが、弟のハイ状態に直接触れることにより、量子真空世界の神秘を垣間みたような気がした。
このような話をするとますます怪し気な空気が濃厚になってくるから、ハイなジャンプの話はこれくらいにして、誰もができる「気の調整」の問題に入ろう。ガン治癒はRさんのような「劇的なハイジャンプ」をしなくても、瞑想や呼吸法などによって誰にももたらされるものだからだ。このことはすでにヨーガや気功、数々の呼吸法が詳しく教えてくれている。とにかく瞑想や呼吸を正すことによって、誰でも「気の調整」ができるのである。
こんな書き方をすると、ぼくが瞑想や呼吸法の達人と思うかもしれない。ところが実際は全く違っていて、瞑想や呼吸法には関心があるものの、実際にはまだ一度もまともにやったことがない。その理由はぼくが生来ものぐさで、型にはまったことをするのが大嫌いだからだ。これでは瞑想や呼吸法について語ったり勧めたりする資格はゼロだが、型破りではあっても、瞑想めいたものや呼吸法めいたものはときどきやっている。
たとえば、ただ漠然と空や木々を見ていたり、喫茶店や仕事場でぼんやり珈琲の香りだけを感じていたり、また何かに行き詰まったり嫌なことがあったときなどには、腹を決めてただひたすら忘却にひた走る。ぼくは忘却の天才であり、ぼんやり時間を過ごすことが特技でもある。それがある意味で「瞑想的」な世界の入口にいざなってくれるのかもしれない。
そんな状態にあるときに「何を考えてるの?」と妻はよく聞くが、ぼくは全く何も考えてはいない。聞かれて初めてハッと我に返ったりするくらいだ。余計なことは何も考えず、心配しても意味のないことはさっさと頭から吐き出してしまう。要するに実に無責任な話ではあるが「なるようになる」と考えているのである。
呼吸にしてもしかりで、自らの喘息を瞑想や呼吸法などで改善した妻からは、長い間ずっと「呼吸法のススメ」を呼びかけられてきた。たしかにそれは大切で、できれば呼吸法をマスターしたいという思いもあったが、呼吸は意識せずとも勝手に体がやってくれている。が、ただそれに任せるだけではやはりダメなんだろうと思ったのは比較的最近のことだった。そこでそのときからぼくはひどく単純な呼吸法を「開発」した。ものぐさなぼくでさえやれるのだから、これならきっと誰にでもできるにちがいない。
吸う営みを呼び込む…呼吸
呼吸法を「開発」したなどと言うと、誤解を与えてしまうかもしれない。それは「開発」というよりは、自分なりのささやかな「発見」にすぎないからだ。いや「発見」という表現ですらおこがましく、あるときハッと気づいたにすぎない。早い話「呼吸」という文字を思い出して「なるほど!」とひざを叩き、実際にそのとおりにやってみたところ、そこに興味深い現象が起きてきたのである。
ぼくが「ハッと思った」のは、呼吸は息を吸ったり吐いたりすることなのに、それを「吸吐」とか「吐吸」とは呼ばずに「呼吸」と表現していることだった。つまり「呼吸」とは「吸う」営みを「呼び込む」ことであって、息を吐けば勝手に空気が胸の中に入ってくるのである。そんなことは当たり前だが、ぼくはこの「呼び込む」という意味を改めて考えた。息は吸うのではなく呼び込むのだ。それには思いっきり息を吐き出しさえすればいい。苦しくなるほどまでにゆっくり息を吐き出して、もうこれ以上はダメというところまで息を止めていれば、黙っていても思いっきり空気が胸の中に呼び込まれる。そう思って実際に繰り返しやってみたところ、吸気ばかりかあくびや咳、ついには鼻水や涙まで呼び出されてきた。
ヨーガの呼吸法でも、吐くことが基本とされているようだ。
酒向医師が書いた本にも、次のように書かれている。
呼吸法の原則は、いつも呼吸に意識を向け、できるだけゆっくり胸と腹の両方を大きく動かして深呼吸することです。吐く息の呼気を意識してゆっくり完全に吐き切るまで行い、吸う息の吸気は自然に任せるのです。吐く息の呼気をしっかり行えば、吸気は自然に入ってくる状態になります。
ぼくが改めて発見するまでもなく、呼吸法の本を読んだらちゃんと書いてあった。しかしぼくは本の言葉から知識や情報を得たのではなく、「量子真空からのメッセージ」のごとくそれを一瞬悟った?のだった。この違いはかなり大きいのではないかと思う。というのも、それ以来気がついたときには、ときどきそのごとく「呼吸」するようになったからだ。
考えてみたら、ぼくが呼吸法にやや抵抗を感じていた理由は、そこにポーズを作ったり、あえてそのための時間を作らなければならないと思っていたからだったように思う。つまり、かなりの覚悟をしなければなかなか継続してできるものではない。それがしんどく思えたし、そこに窮屈さを感じていた。しかしふと思い立ったときにただ息をしっかりと吐き出しさえすれば、深い吸気が呼び込まれるばかりか、勝手にあくびや咳、涙、鼻水まで出てくる。それは運転しながらもできたし、また歩きながらでも、ふとんやソファに横たわっているときでも、仕事をしながらでもできる。その気軽さ自由さがぼくには実に都合良かった。
吐き出すことの重要さは、スーザン・オズボーンさんからも教えられていた。スーザンさんは長野オリンピックとパラリンピックで歌った歌手であり、日本の歌を天使のような美しい歌声で世界に紹介しておられる。そのスーザンさんに対談の仕事やボイスセミナー、コンサートなどで何度かお会いしたが、たえず強調したのは「吐く」ことのその深い意味だった。
6時間たっぷりと行われるボイスセミナーは、まずみんなで「ため息」を吐き出すことから始まる。鼻から大きく息を吸って「はぁ〜〜」と少し声を出しながらゆっくりと吐き出し、これをみんなで自由に繰り返す。するとそれぞれの呼吸のリズムが幾重にも重なりあい、「ため息による壮大な大コーラス」、あるいは「読経」のように響き渡っていく。そこに素晴らしい響き合いのうねりが高まっていくのである。スーザンさんは言う。
「息を完全に吐き出しさえすれば、自然に空気が入ってくるものなのよ。吐き出す、つまりまずギブし、差し出せば、意識しなくても必要なものすべてが入ってくる」と…。
6時間、無我の境地で繰り返しため息を吐き出し続けていると、響き合い混じり合うみんなの声の中から自分の本当の声に出会えたり、心理的な奇蹟めいたものを感じたりもする。スーザンさんがみんなと作り出すその時空は、まさに量子真空に通じる瞑想の世界のようであり、そこでは各自にいくつかのハイなジャンプが起こっていたのかもしれなかった。
そうした感動的でハイな時空体験は大勢の中でしかできないが、吸気を呼び込む営みは、いつでもどこででもできる。とはいっても、それをあまり自分に義務づけたり、儀式化したりしないほうがいいかもしれない。ふと思い立ち、やってみたくなったときにやればいい。少なくてもぼくの場合はそのようである。
「回帰の旅」のマップ=千島学説
本章では「気」について考えてみたが、以上のように「気」はいまや量子真空との関係から「科学的」に理解できるようになった。量子真空は宇宙、自然、人間、意識などあらゆるものを生み出す潜象態で、そこにはすべてが記憶されている。だから「ハイ」になってそこにアクセスさえすれば、さまざまな情報やパワーと共鳴共振できるし、コヒーレントな光で劇的なプラシーボ反応を引き出すこともできる。ときどき耳にする「奇跡的な治癒」もまた「気」の世界のドラマと言えよう。しかしそれは誰もがいつでもできるものではないだけに、「気の調整」という面から考えれば、呼吸法や瞑想、イメージ療法などが、やはり最も確実な「治癒へのアプローチ」と言えるだろう。そしてその「気」は「血」にも強く影響し、ガンがみるみる治癒してしまうことも起こりうる。ガンの背後には「気血の問題」が深く潜んでいるだけに、「気血の調和」なくしてガンの治癒は不可能と言えよう。
人間には、原初から「ビー・フルートフル!」のメッセージがチャージされていて、誰にも本来コヒーレントな光が宿っているのだ。だからそれを呼び戻しさえすればガン治癒も可能だ。要するに、原初に回帰すればいい。そしてその「回帰の旅」を案内してくれる確かなマップが「千島学説」なのである。
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