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カルト宗教とかの人たちの心理を私はこう理解しています。
傍から見ると、暗示にかかっているとか、洗脳されているとか
財産巻き上げられて、馬鹿ではないか、とおもいますよね。
本人たちにしてみれば、今まで自分の人生で体験したことのない、
「擬似的な」暖かさを感じているのではないでしょうか。
あるいは、子供の時の、親兄弟に囲まれた真綿に包まれた日々を思い起こしているのではないかしら。
自分で考えなくていいんだ。
自分の成功は、教祖様のおかげ、失敗は信仰心が薄いから、
与えられた理屈に乗ってればいいんだ、楽なもんだ。
つまり、自分たちが「いつまでも小学生でいられる」んだ、親があれこれ決めてくれる代わりに、教祖様が決めてくれる。
一種、ぬくもりに浸ってられる魅力があるのだ。
わたしには、彼らが、このぬくもりと自由を交換していると見えます。
自由を求めると、そのぬくもりから離れることになる。
教祖様の変わりに、親という言葉を代入してもいい。
いろいろな意味で不安定になる。蛇足だけど、自由のコインの裏面は責任です。
だから、不安が付きまとう。
ぬくもりと自由を交換しているとは、大人としての責任をとりたくない、だから自由はいらない、ということにならないだろうか。
漱石は、則天去私という言葉を使い、
仏教には、安心立命という言葉がある。
人は、みずからの「精神的格闘」の軌跡を残しながら、もし入れるとしたら、そうした不動な、静謐の精神的境地に入れるのだろう。近道はありません。
私自身は、「なるようにしかならない、でも何とかなるようにはなる」、と自分を励まし、
代々真宗系のためか、「他力」という言葉に惹かれます。
小学校の卒業式のとき、在校生や先生方の人垣の中、校門を出たことをおぼえている。僕はまた、「休み」の後、学校に来なければいけないのに、なぜこんなことするのかなあ、と不思議に思いました。
あの真綿に包まれたような時代に戻りたいと思う人がいても不思議はない。
経済的、精神的自由を享受する基盤として、職業的なスペシャリリティ持っておくといいのではないかな。
現在の新興宗教の発展は、日本の社会構造の仕組みとかかわりがあるけどそれは、省く。